第79話

思えば、宮下さんとペアだった研修期間は楽しいことの方が多かったが、12月以降は帰宅すれば愚痴っていた。

「前は楽しい楽しいって言ってたくせに。」

と、蘭が何回か呆れたようにつぶやいた台詞が耳に残っている。

反抗期ゆえか、私に対して基本的に敵対的言動が多い娘は、同情の欠片も見せなかった。腰と右腕の慢性的な痛みや肉体疲労より、精神的苦痛の方が明らかに私を疲弊させた。


暖冬とはいえ、近畿地方でも雪が舞い始めて、12月17日、スタッドレスタイヤに履き替えた。幼少時代に比べたら、緯度が変わったかのように降雪量は減ったが、それでも3月いっぱいを目処にスタッドレスにしないと不安だ。

その翌日が、予約済みの心療内科定期診察だった。毎月通うし、この市に心療内科専門医は一人のみらしく、予約していないととんでもなく長く待たねばならない。台北でもそうだった。精神科は、まず患者と医師との対話、カウンセリングが主要な治療かつ癒しになる。一人当たりの診察時間は他のどの科より長くなりがちなのではないだろうか。

さて、17日主治医に語った内容をよく覚えている。レジ担当時の重圧が如何ほどか。プラマイ0で終われなかった時の〝私が犯人感〟、恐怖感、失望感、午後8時ミスが確定するであろう不安感、翌日出勤する際のドッと沈んだ気持ち、案の定ミスが確定し、再度蛇に睨まれ、休憩時間を削って書く連絡ノートへの嫌悪感。書き終えた《対策と警告文》に異議を申し立てられる惨敗感。大好きな書籍に囲まれて働く喜びで、心身共のペナルテイを跳ね除けられるであろう期待を胸に応募した職…… 無知だった自分を嘲笑するしかなかった。


「それな、レジの機械換えたら済むことちゃうん? 今あるやろ、お客さんから預かったお金突っ込んだら、機械が勝手に計算して、ジャラジャラお釣が出て来るやつ。」

石井先生はいつものように飄々と、いたずらっ子みたいな笑顔で言いのけた。

ー そうだ。ホントにその通りじゃないか! ー

背筋に電光が走った。そうじゃないか。その種のレジはどんどん普及している。そこに勤務している人たちは、私たちアノ書店のスタッフが日々背負っている緊張と重責とまーったく無関係な安楽の地にいるわけだ。まさに天と地、雲泥の差ではないか! 私はなんて徒労に満ちた理不尽な時間を送っているのだろう……


しかし、主治医にどんなに共鳴し、彼の意見が的を得たものであっても、現実は空しく、あの旧式レジが引退する兆しはなかった。。

その師走の半ばくらいからだった。本当に書店に行くのが実に嫌になってきた。嫌、と言えば語弊がある。怖くなってきた。年が明けて、1月13日から依頼されている中国人技能実習生のための日本語講師の仕事 ーそれまでは、趣味と実益を兼ねた本職に誇りを持ち、やる気満々でいたー にさえ

〝行きたくない。本屋も日本語講習にも行きたくない。何もしないで隠れていたい。冬眠してしまいたい!〟と幾度も繰り返し考えるようになって行った。

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