[3ー4]母親失格
目を開くと今度はちゃんと見慣れた天井が目に入った。身体の下に感じるのは寝具の柔らかな感触。決して土や草じゃない。
半身を起こしてあたりを見回した。光の射し具合から、どうやら午後を過ぎたらしい。
「……夢?」
ぼんやり呟く。声に出したら〝それしかないだろう〟って思った。当然だ、リューに会うなんて全然現実的じゃない。
それでも彼と話せたことはすごく嬉しくて、忘れたくなくて、僕はしばらくその喜びに浸っていた。心が温かくてふわふわする。
思う通りにやればいいとリューが言ってくれるなら、もう少し頑張ってみてもいいのかもしれない。見てるよと言ってくれた彼を信じて、彼が悲しむことのないように。
ベッドを降りようとついた手に硬い手触りのものが当たった。こんなところにあったんだとそれを静かに持ち上げる。これこそ夢だったらよかった。そう思う一方でリューとの思い出が汚されることも、まして消えることもないって思うことができた。だってリューならきっと「大したことじゃないよ」って笑い飛ばしてくれるよね。
ブックマーカーは戸棚の中の小物入れにしまった。それから部屋の扉の方に視線を向ける。まずはアンに謝ろう。アン、やっぱりセイルと一緒にいるのかな……セイルにはまだちゃんと謝れる自信がないな――。
カーテンがひらめく横を抜け、扉の鍵を開けた。部屋の外に顔を出した僕はそこに信じられないものを見た。
アンがいる。
どこから持ってきたのか脇に椅子を置いて、俯いたまま動かない。そうっと覗きこんでみればどうやらうたた寝しているようだった。いつからここにいたんだろう。わからない。けどここにいるってことはきっと僕が出てくるのを待ってたってことだ。だから椅子まで運んできて……。
『みんな、きみの味方だよ』
不意に言葉が蘇って胸が熱くなった。やっぱりリューの言ってたことは本当なんだ。
アンの名前を呼んだ。それでも起きないから何度か肩も叩いてみた。そのうちアンはぼうっと目を開けて、僕に気づいた途端にくしゃって泣きそうな顔になった。
「ウィル……!」
こんな顔は初めて見るかもしれない。そういえばずっと前にリューが「実は泣き虫なんだよ」って言ってたっけ。
「アン……さっきは、あの……」
ごめんなさい。その一言がどうしても出なかった。小さい子には優しくするって約束したのに。セイルを叩いたのだって正直悪かったと思う。でもブックマーカーのことを考えると素直に謝ることはまだできそうにない。
アンが立ち上がった。
「悪いことしたのはわかってるね?」
静かに問う声が降ってきて思わずきつく目をつむった。これは叩かれる。
けど幾ら待っても衝撃は来なくて、そろりと目を開けるとそのタイミングでアンの両手が僕の頬を挟んだ。押されたと思ったら引っ張られ、ちょっと強めにこね回される。……僕の顔はパン種でも粘土でもないぞ。
しばらくぐりぐりこねたあとアンの温かい手のひらは頬や目尻のあたりをさらさらなでて、それから僕の後ろに回された。気がついたら抱きしめられていた。
「ウィル……あんたを怒る資格はないんだよ、あたし。最近ちゃんと話を聞いてあげられてなかったよね。言われて初めて気づいて、あんたにすごく申し訳なくて」
「……うん。でも、大丈夫」
遠慮がちに覗きこんできたアンの顔には「本当に?」って書かれていた。僕は小さく笑って頷いた。
「夢にリューが出てきたんだ。リュー、いつも見てるよって言ってくれてさ……。僕の思う通りにやればいいって言うんだよ。だから、頑張れると思う」
アンは少し間を置いてから、一言「そう」と微笑んだ。アンの両手がゆっくり離れる。僕はまっすぐに顔を上げた。
「母さんのところに行ってくる」
* *
少しだけ開いた扉の隙間から覗くと母さんの姿はカウチソファにあった。片側の肘置きに両腕を重ね、しなだれるように座りこんでいる。いつものようにふたりの侍女がお世話をしていて、ひとりはお茶を勧めていた。でも僕とおんなじ色をした藍の目は床の一点を物憂げに見つめ、お茶には見向きもしない。
「まぁウィルトールさま!」
突如大きな声が上がって僕はぎくりとした。お盆を抱えた侍女が目を大きく見張っていた。それを合図に残りの視線も一斉にこちらを向く。僕と目が合った母さんはすぐに立ち上がったものの僕のところへは時間をかけてやってきた。おそるおそるといった感じで僕の頬に手を添えて、痛くなかったかってそればかり気にして。
はらはらと静かに涙を流す母さんの前に、僕は何も言うことができなかった。首を横に振るだけで精一杯。実際、一瞬の出来事だったから痛みなんて覚えてない。
「ウィルトール……きっと幻滅させてしまったわね。セイラルダにした仕打ちを叱っておきながらわたくしもあなたをぶってしまったのだもの……。アネッサは気にすることはないと言っていたけれど、やっぱり手を上げたのはよくないことだったわ。間違いだったの」
「……間違ってないよ。だって、」
「いいえわかってるわ。アネッサがわたくしをよく思ってないことだって知っているの。あの
「僕……母さんが駄目って思ったことないし、アンもそんなふうに思ってないと思う……」
小さな声で返してみたものの母さんの涙は止まらない。どうしよう、なんて言えばいいんだろう。こういうときリューだったらなんて言うのかな。考えてみたけどいい案は浮かんでこない。
「……そうだね。任せられない、とは思ってないよ」
いきなり割りこんできた声にビックリして振り向いた。
廊下にアンがいた。いつものように腕組みをして仁王立ちで立っている。柳眉を逆立てて、眼差しは強くまっすぐに母さんを射抜く。
「そりゃ面白くないよね、親でもないあたしがまた全部世話をしてるんだから。出しゃばって悪かったね。これからは義姉さんの好きにすればいい」
それだけ言ってアンはさっさと
「シアールトという村を知っている?」
「え……。シアー、ルト?」
突然の問いかけに目を瞬かせた。
シアールトはこのフォルトレストより西方に位置する村だと習った気がする。大きな湖に注ぎこむ細流の脇にある集落。温暖で、雪は降ることはあっても滅多に積もらないんだっけ。
「ずっと、考えていたのよ。セイラルダの身体のために、わたくしに何ができるかしらって。これから寒くなるけれど、暖かいシアールトならきっとセイラルダが寝込むことも減るのではないかと思うの。静かな地で伸び伸びと過ごせるのではないかしら……」
「セイルをそこに連れてくの? 母さんも一緒に住むってことだよね? セイルと母さんまでこの家を出ていっちゃったら、」
「あなたも行くのよ」
僕の両手は母さんのそれにしっかり握られていた。向かい合うように身体の向きを変えられ、真正面から見つめられた。その真剣な色を湛える瞳に僕は捕らえられてしまった。
「ウィルトール。一緒に来て、わたくしを助けてちょうだい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます