第27話 パンツと辞書
――永井さんが、表札には何も書かれていない部屋の呼び鈴を押す。
ビィーと鈍い機械音が響くと、伊吹以外の顔に緊張が走るのがわかる。
そして、ゆっくりとドアが開く……。
しまった、こちら側からではドアが邪魔して相手が見えない。
「貴方が柳沢さんですの?」と永井さんが敵意丸出しのニュアンスで質問を投げかける。
見えない敵は沈黙を守っているようだ、逃亡に備えてこちら側の通路を、僕と優奈さんで塞いでおく。
「『イステの歌』、返していただけるかしら?」両手を腰に当てた、永井さんの堂々とした声が響くと、ようやく心細そうな男性の声が聞こえてくる。
「俺、柳沢じゃないよ。最近そういう言いがかり多くて困ってるんだよ、ネットか何かで晒されてるみたいで、じゃ」
ガチャ。
扉は再び閉ざされてしまった。
永井さんは肩をプルプルと震わせている。
「マッシュルームさんだったよ! あの人だったよっ!」とドアを指さしながらピョンピョンと飛び跳ね、ガンガンと
これは失敗だった、他にやり方はいくらでもあっただろう、例えばイステの歌を売りに来たと言えばどうだったか? けれども、相手に警戒感を与えてしまった今、もはや通用しないかもしれない。
しかし、伊吹の言うことが正しければ、相手が狂信者の類であることは明白だろうか?
そんなことを考えていると、ある考えが頭をよぎる。
【
そもそも、この依頼を受けたのは丁字先生が伊吹を犯人だと思い込み、内々に処理をしようとしたからではなかったか?
真犯人と思しき人物を特定した
あとは……警察に頼めばいいのでは? と。
「あの、永井さん警察に連絡しませんか?」
「はぁぁぁ? 警察ぅぅぅ!?」
永井さんの警察嫌いは知っている、事件が公になると狂信者が増えるとかなんとか、しかし今の段階では、ただの窃盗事件じゃないの?
「はい、警察に……」
「姉様、私も警察に言うのがいいと思います」と優奈さんが同意してくれた。
永井さんは何かを察したのか眉毛を吊り上げ、大きな声でこう言った。
「警察に通報いたしましょう」
しかし、誰も電話を掛けようとしない、永井さんに至ってはドアに耳を付けて聞き耳をしている。
【
空気を読めなかった僕が電話を掛けようとすると、優奈さんがそれを制止した。
「優奈さん、悪いのですが裏を見てきてくださいませんか?」と永井さんが小声で指示を出すと優奈さんは静かに階段を下りていく。
そんな時だった、耳を付けていた永井さんを吹っ飛ばすかのようにドアが開き、中から人影が飛び出してくる。
「ガゥ!」永井さんの情けない声の中、その人影は鉄柵に手をかけ、飛び降りようとする。
「つかまえるのだっ!」
永井さんに代わり、指示を出した夢子ちゃんに従い体が動く。
【
【
僕が飛び降りるのを阻止せんと抱き付こうとしたのを、スルッとかわしたそれは、夢子ちゃんに片肩にかけていたリュックを奪われまいとこちらを振り返った。
「古堂先輩?」僕がそう訊ねた時には、女性陣全員で取り押さえられた後だった。
1人の女性が4人の女性に捻じ伏せられている、開けっ放しになったドアから中を覗くと誰かがいそうな気配はない……。
「いたたた、離してょ」声は先輩に似ているが、どことなく可愛らしい感じがする。
「先輩ですか?」と僕が聞くと。
「古堂蘭だょ、離して痛ぃ」と返ってくるも、永井さんあたりは余計に力強く締め付けるのだった。
「うぐぅ」
「古堂がここにいるはずありませんわ」
「どっどうしてょ、ここわたしの家だょ」
自分が自分であることの証明は難しい、神話的現象が絡んでくると顔や声ですら証明にはならない。
「先輩は今日、学校に行きましたか?」僕がそう訊ねると。
「いったょ、入学式の在校生代表挨拶もしたょ、学校が終わってすぐに家に帰って来たょ」
「先ほど、この部屋から男性が出てきたんですが?」
「お兄ちゃんだょ、今はお風呂に入ってるょ」
辻褄はあっているように思われる、風呂を覗くわけにもいかない……。
そんな会話をしていると、夢子ちゃんがバレないように先輩のリュックに、いつも大切そうに持っているラテン語の辞書を入れているのが見えた……。
「お部屋確認してもいいですか?」
「いそいでるのっ はなしてっ!」
「本当に先輩なんですか?」
「古堂蘭っ!」
「じゃ僕の質問に答えてくださいっ!」
「これで最後にして、なにょもう!」
「今日のパンティは何色ですか!?」
一番手っ取り早く、学校にいた先輩との整合性をとれる質問だと思ったのだが、伊吹、優奈さん、永井さん、夢子ちゃん、全員の信じられないという顔が一斉にギロリとこちらを向く。
あの伊吹でさえ、僕を軽蔑の眼差しで見詰めてくるのだ。
「あっ」
そして、その一瞬の隙に古堂先輩は質問に答えることなく、柵を乗り越え2階から飛び降り、走り去ってしまった。
飛び降りた時、見えたパンティの色は純白だった。
「変態」優奈さんの一言が耳に痛い。
「エロガキぃ」永井さんの怒りが胸に突き刺さる。
「むきぃ」と伊吹の拗ねた声が唯一の癒しに聞こえた。
――はぁ~、僕だけがなんとか気を取り直し、部屋の中に声をかける。
どうやら誰もいないようだ、まぁ純白だったしね、いやぁ~他人にあそこまで完璧に変身できる魔法があるなら僕も習得してみたい。
玄関まで立ち入り、家の中を覗いてみると、どうやら家財道具の一切もないようだ、人の住んでいる気配すらない。
【
ただ、部屋の中や先ほど先輩もどきが捕まっていた場所には、あの図書館にこぼれていた黒い粉が散乱しているのが見える。消し炭のような黒い粉だった。
「ここには、もう何もないようですね」と真剣な顔つきで言ってみるのだが、返って来た答えは。
「最低」
「クソガキぃ」
「ぶぅぶぅ」
だった。
「これからどうしますか? 警察に行きます?」それでも心の中の葛藤を耐えきり提案する。
「馬鹿」
「キモガキぃ」
「ばぅばぅ」
あ~伊吹のわけのわからない擬声語だけが救いです。
「すいませんでした……」と素直に謝ってみた。
「仕方ありませんわね、思春期ですものね、一度戻って作戦を立て直すといたしましょう」と嫌味ったらしく、永井さんがスカートの裾を払いながら立ち上がる。
「はい、姉様」と僕を睨む優奈さんがそれに続いた。
伊吹は黒い粉を指ですくって、こすり合わせて何かを確かめている。
あれ、そう言えば、夢子ちゃんは何をしてるんだ? と外に出ると壁際に座り込んで本を読んでいた。
「夢子ちゃん、その本どうしたの?」
夢子ちゃんの辞書は、あの先輩が持って行ってしまったはずだが……。
「もらったのだ」と足をパタパタさせ、楽しそうに本を読んでいる。
永井さんが覗き込み、ラテン語で書かれた題名を読み上げた、『イステの歌』。
しかも、彼女の脇にはもう一冊、英語で書かれた『イステの歌』が存在していた。
「もっ、もらったの?」
「もらったのだ」
後から聞いた話によると、夢子ちゃんはリュックから本を抜きとり、代わりに自分の辞書を入れたらしい。
彼女の「もらう」にはおそらく奪うという意味もあるのだろうか? 流石お金持ちの子である、人から
「これで、解決ですわね」
しかしその通りだ、夢子ちゃんのおかげで、今からこの黒い粉を追跡したり、偽物の『イステの歌』を用意して敵をおびき寄せるルートは無くなってしまった。
そんなイベントもとから無かったのかもしれないが、夢子ちゃんのファインプレーであることは確かだった。
――すでに日が落ちた夕暮れ、帰りの車の中、僕がなぜパンティの色を質問したのか、説明をしているうちに店に到着してしまった。
僕の話に聞く耳を持たない彼女たちに、説得の
永井さんは英語で書かれた本の方を、
ラテン語の方が図書館の本で、英語で書かれた方が永井さんのものであることは車内で聞かされている。
『学会きっての門外不出の魔道書ですわ、今夜中に写本してしまいましょう、フフフ』と伊吹と夢子ちゃんと3人で、何やら怪しい相談をしていたのを、先輩に伝えるべきか? そんなことを考えているうちに先輩はフラッと駆け出す。
両手で大切そうに本を
桜の花びら舞い散る中、走り去るパンティは純白に輝いているのだった……。
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