22 きらきら星

 私はグランド・ピアノの前に立っていた。

 黒いピアノの表面をそっと撫で、ゆっくりと鍵盤蓋を開いて指で鍵盤を叩いてみる。

幾つかの和音を奏でる。

 私は椅子に腰を下ろして、今度はペダルを使いながら簡単なメロディを演奏する。

 ピアノの音は悪くなかった。

 

 小学六年生のあの日以来、私は初めてこのグランド・ピアノを演奏する。

 私の指先は少しだけ震えていた。

 今の自分の演奏を知るのが怖かった。

 

 目を瞑ってハルキさんの言葉を思い出した。



“奏でなければ音は響かない。演奏しなければスイングはない”。

“人生はなんどだってスイングする”。



 私は目を瞑ったまま、暗譜で思いだせる限りの曲を全力で演奏した。

 ショパン、リスト、ベートーヴェン、モーツァルト、ラフマニノフ。

 どれも必死で練習した曲ばかりだった。

 

 私は三歳の頃からピアノを習いはじめた。

 ピアノをはじめたのは母の勧めだった。幼い頃の私は、内気で人見知りの激しい女の子だった。小さい頃から家に籠ってばかりで外に遊びに出て行きたがらず、家の中の絵本を読んだり絵を描いたりするのが大好きな女の子だった。

 

 私は、母がピアノを弾くととても喜んだという。母のピアノはとても上手だった。音楽大学時代にピアノ科を専攻していたその腕前は、子供を産んでからも色褪せなかった。

 そんなピアノを弾く母の姿に憧れた私は、“私も弾きたーい”と何度もせがんだという。母はピアノ講師をしている大学時代の友人に連絡して、私にピアノを習わせてくれた。私は母にピアノをならいたかったんだけど、共働きの母が私のピアノの練習につきっきりなれるわけもなく、私はしぶしぶと母の友人にピアノを習うことを了承した。

 

 初めのレッスンは母と一緒だった。そのうち母は、私をピアノのレッスン場につれて行くと、私を一人残して仕事に向うようになり、私はその度に泣きながら母を探したという。泣き虫だった私は、ピアノを習いに行っているのか涙を流しに行っているのか分からない程泣いた。しかし、そんな私もしばらくピアノのレッスンに通う頃には、母の友人であり、私のピアノの先生に慣れるようになり、ピアノのレッスンに励むようになった。

 

 いつの間にか私は、毎日ピアノを練習するようになった。

 母が言うには、私はなにかに取りつかれたようにピアノを練習したという。

 

 ピアノの先生はとても優しかった。

 練習の度に私を褒めてくれた。私は次から次に新しい曲を練習した。そしてピアノの先生はぐんぐんと上達する私のピアノに驚いて、どんどん曲の難易度を上げてくれた。

 

 母とピアノの先生は声を揃えて言ってくれた。


「ハルは将来ピアニストね」

「ハルちゃんは将来ピアニストになれるわね」

 

 私は将来、ピアニストになるんだと思った。

 疑うことなくその甘く淡い目標を目指して、私はピアノを演奏し続けた。

まるで夜空に浮かぶ月に手を伸ばして、いつかその月に手が届くんだと思うほどに。

 

 私は目をつぶったままピアノを弾き続けていた。

 思い出はピアノ・ソナタの調べに乗って流れていく。

 

 小学六年生の時、ピアノの先生が“そろそろ大きなコンクールにも出てみましょうか”と提案してくれた。それまで小さなコンクールにしか出たことがなかった私は、その提案によろこんだ。

 

 私はそのコンクールで“きらきら星変奏曲”を演奏したとい言った。先生の反応はあまり良くなかったけれど、私は長い時間をかけて練習してきたこの曲の演奏に自信があったし、何よりも私がこの曲を演奏したいって気持ちが強かった。


“きらきら星変奏曲”。


 変奏曲とは、一つの主題をいくつにも分けて変奏する曲。この“きらきら星変奏曲”なら、一つの主題と十二の変奏で全体が構成されている。つまり同じ構成の曲を十三の弾きかたに分けて演奏する。“きらきら星変奏曲”は楽譜を見た限りの難易度はそれほど高くない。譜面をさらうこと自体は難しくないけれど、全体を通して演奏するのがとても難しい曲と言われ、ただ演奏するだけでは音楽にならないとも言われている。曲自体はとても単調であるため、全体の構成や表現まで考えて演奏しなければならない。

 

 そのためコンクール向きの曲とはとても言えない。

 だけど私は自分が演奏する“きらきら星変奏曲”に自信があった。この曲をコンクールで演奏すれば、きっとたくさんの人が耳を傾けてくれるって自身があった。たくさんの人たちに私の演奏が響くと確信さえしていた。

 

 だけど、そんな私の甘く淡い期待は粉々に砕け散った。

 はじめて出場した大きなコンクールは、私が思っていたような演奏の場じゃなかった。

 私の演奏が本当に子供のままごとに聞こえるような、そんな熱気のある真剣な場だった。

 

 私よりも年下の女の子が演奏したショパンも、同い年の男の子が演奏したバッハも、年上の人が演奏したラフマニノフも、その演奏の全てが私の演奏なんかよりも何倍も上手く、そして素晴らしかった。

 

 その日、私は知ったんだ。

 

 今まで自分がやってきたことが、単なるピアノのおままごとだったってことを。

 結局入賞もできなかった私は、家に帰る前から泣きじゃくり、そして部屋に閉じこもった。

 その日をきっかけにして私はピアノを弾かなくなった。

かたく閉じた扉に鍵をかけるように、私は鍵盤の蓋を閉めてしまった。

 そんな情けない私の姿を見て、母も先生も口を揃えて言ってくれた。


「ハル、べつにピアノのプロを目指さなくたってピアノをやめることないでしょ? またお母さんと一緒にたのしく弾きましょうよ」

「プロになれる子なんて一握りの子だから気にすることないよ。ハルちゃんの演奏は同い年の子と比べて十分うまいんだから、あのコンクールが特別だったってだけよ」

 

 その言葉に、私はなおさら傷ついた。

 たぶん二人ともとっくに気がついていたんだと思う。

 私がプロになれるような実力も才能もない子供で、ただお遊びでピアノを演奏してはしゃいでいる子供だってことに。

だから大きなコンサートに出場させてみて、私の実力を遠回しにでも知ってもらおうとしたのかもしれない。

 

 現実を見せてくれたんだ。

 楽しく演奏するだけじゃダメなんだって教えてくれたんだ。

 二人を恨む気持ちなんてこれっぽっちもなかった。怒りだってわいてこない。大きくなコンクールに出してくれたことを残酷な仕打ちだとも思わなかった。忙しい合間をぬって練習に付き合ってくれた母と、毎週真剣に指導してくれた先生には感謝している。

 

 でも、それでも私だけは信じていたんだ。

 私は将来かならずピアニストになるんだって。

 私だけは一切の疑いなくそう信じていたんだ。

 この道を真っ直ぐに歩いて行けば、かならずそこにたどり着くんだって。

 でも、違った。

 現実はそんなに甘い物じゃなかった。

 私は、ただ夜空に浮かぶ月に向かって手を伸ばしているだけだった。

 私はその事実に、その現実に向き合うことができなかった。

 

 だから、ピアノはやめた。


「きっと私……子供だったんだな。簡単にプロになることを諦めちゃった自分が許せなかったんだ」

 

 私はようやく決心を固めて、“きらきら星変奏曲”を演奏した。

 ひどい演奏だった。

 それはかろうじて譜面をさらっているというだけの、聞かせられるレベルにない、つまらない演奏だった。


“きらきら星変奏曲”だけじゃない。ショパンも、リストも、ベートーヴェンも、モーツァルトも、ラフマニノフも、ぜんぶひどい演奏だった。


「……あれ、おかしいな?」

 

 鍵盤が重い。指が回らない。テンポがずれる。リズムがキープできない。音が取れない。曲に置いて行かれる。そして、曲が壊れていく。まるで五線譜に閉じ込められて楽譜の中で溺れていくみたいだった。

 

 息苦しくてどれだけもがいても出口が見えない、そんな演奏だった。

星の光どころか、明かり一つ見えない暗い水の底に沈んで行くみたいだった。

 ほんと、最悪の演奏だった。


「あれ、おかしいな?」

 

 気がつけば私は演奏しながら泣いていた。


「こんなに下手くそになってるなんて……おかしいよ」

 

 大粒の涙が鍵盤を濡らしていく。


「だって吹奏楽部でもピアノの伴奏はしてたし、バンドでだってシンセサイザーを弾いてたのに」

 

 私は自分の演奏の中で迷子になっていた。

 楽譜の海の底でもがくこともできずに、ただただ沈んでいた。


「練習はサボってなかったはずなのに。“夜間飛行”でだって……アップライト・ピアノで、ハルキさんたちと一緒にセッションしてたのに。けっこう悪くない演奏だったはずなのに。そうだよ、たまにすごくスイングしてたのに。なのにどうして? どうしてこんなひどい……最悪の演奏なの?」

 

 私は目を開けた。

 演奏にもつれる自分の指を眺めたけど、鍵盤は涙で見えなかった。

 演奏はもうぐしゃぐしゃだった。

 私は演奏やめてさめざめと泣いた。

 

 もう十分だ。

 こんなひどい演奏は、もう十分だ。

 

 私は、今の自分と向き合うことができただろうか? ハルキさんに言われたように、自分の音に耳をすますことができただろうか? 今の自分を知って、逃げ出した後の自分を叱咤して、私は何か変わることができただろうか?

 

 そして私は、自分を許すことができただろうか?


「違う。そうじゃないんだ」

 

 私は首を横に振った。

 そんなことは考えなくていいんだ。

 大切なことは答えを見つけることじゃない。

 地に足をつけて前に進むことなんだ。

 そして演奏を続けることなんだ。

 

 人生をスイングさせるために私は演奏を続けなくちゃいけない。それがどんなにひどくてみっともない演奏だったとしても。

 演奏をやめちゃいけない。


「今までひとりぼっちにしてごめんね」

 

 私は涙で濡れた鍵盤を拭いて、グランドピアノをそっと撫でた。



「今日はありがとう。また弾きに来てもいいよね?」

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