05 夏緒さん

 ハルキさんとの話が一段落すると、店内の古時計が開店のを告げる五時のチャイムを鳴らした。

 同時に、来店を告げる鐘の音も重なった。


「あれ、まだ開店の準備できていない? それにビートルズなんて珍しいな」

 

 この“夜間飛行”のもう一人の従業員である夏緒さんがやってきて、不思議そうに言った。


「夏緒君、悪いけど今日は先にハルちゃんを送って行ってあげてくれないか? 開店の準備は今から僕がやろう」

「ん……わかりました」

 

 ハルキさんが言うと、察しのいい夏緒さんは直ぐにハルキさんの考えを読み取って外へ出た。


「ハルキさん……私、今日何もしてません」

「僕と話をした。僕は楽しかったよ」

「でも、それじゃあ――」

「そんな気持ちで演奏しても……今日はスイングできない。それじゃあここで演奏する意味がない。人生には嫌でもプレイをしなければならない瞬間というものはあるけれど、それは今じゃない。今日は早くお家に帰って、自分の音に耳をすませてみなさい」

「わかりました」

 

 私はしゅんとなって返事した。


「でも、一人で帰れます。外はまだ明るいし――」

「今日言うべき言葉があるとき、それを明日に先延ばしにしてはいけない。そういう言葉は臆病になってしまい、明後日になっても明々後日になっても喉の奥から出て来れなくなってしまうからね」

 

 ハルキさんは、私の全てを見透かしたような瞳でそう言った。

 その穏やかな顔の隅々に刻まれた深い皺が大樹の年輪のように見えて、とたんに目の前のおじいさんがとても大きな人に、とても遠い人に感じられた。

 

 私がどれだけ手を伸ばしても届かない、そんな人に。

 ハルキさんは私の背中を押すように、お店に入り口まで見送ってくれた。


「今日は、ごめんなさい。私……しっかり考えてみます」

 

 私はぺこりと頭を下げて、“夜間飛行”を後にした。

 少しだけ泣きそうだった。

 お店を出ると、夏緒さんが待っていてくれた。

 

 夏緒さん。

 

“夜間飛行”の従業員で、演奏家で、作曲家で、絵描きで、大学院で建築を学んでいて、それでいて何をしているのか分からない、不思議な人。

 小柄で痩身なんだけど、近くにいるととても大きく感じられる年上の異性。

 私にギターの弾きかたを教えてくれた人。

 

 そして、この喫茶店“夜間飛行”の扉を開くきっかけをくれた人。


「途中まで送って行くよ。荷物かして」

 

 夏緒さんはいつものように私の荷物を受け取ろうと手を出した。

“夜間飛行”の帰り道を夏緒さんに送ってもらい、丘の下までのわずかな距離を二人で歩くのが、私たちの習慣になっている。

 いつもならそれは特別なことで、私は毎回スイングする胸の鼓動を抑え込んで、少しでも長く夏緒さんと一緒に帰り道を歩けるようにゆっくりと歩幅を刻むのに、今日はそんな気分じゃなかった。


「いいです。自分でもてます」

 

 私は可愛げなく言ってすたすたと歩き始めた。

 子供っぽいことをしているって分かっていたけど、気持ちのほうが先走っていた。

 夏緒さんは少し驚いたように目を見開いた。

 そして無言で私の隣に並んでくれた。

 

 私は気づかれないように横目でちらと夏緒さんを眺めた。

 少し長めの黒い髪の毛を風と遊ばせて、濃い青色のジーンズのポケットに手を入れている。白い無地のTシャツに薄手の黒のカーディガンを羽織ったシンプルな装いなのに、私の目にはまるでファッション誌の中から飛び出してきたみたいに見えた。

 

 私よりも十も歳の離れた男性の横顔は、とても特別に見えた。

 夏緒さんは私に本当の年齢を教えてくれない。

 他にもたくさん教えてくれないことがあるけれど、その中でも年齢はトップシークレットだった。ただ“干支は一周していない”と言っていたので、私は勝手に十くらい歳が離れていると思っている。

 そんな、今はどうでもいいことは思いつくのに、私はこの気まずい雰囲気をどう壊したらいいのか分からずにいた。

 

 喉の奥で言葉が臆病になり迷子になっていた。


「ハルちゃん、ハルキさんに何か言われた?」

 

 夏緒さんがまるでタイミングを見計らっていたかのように尋ねた。

 私は足を止めて夏緒をさんを見上げた。

 下り坂の途中だった。丘の下には鉄道が走り、遠くには都会の街並みがが見える。丘の斜面に植えられた青い葉をつけた木々が、心地良い夏の風に揺れていた。


「どうして……あんなこと言うの?」

「あんなこと?」

 

 私の震える声を聞いた夏緒さんが、一瞬何のことだろうと表情に疑問符を浮かべた。そして直ぐに何かに思い至ったように意地の悪そうな笑みを浮かべて、溜息を吐いた。


「やれやれ。あのジジイめ。デリケートな話題だからよく考えて言葉を選んだ方がいいって忠告しておいたのに」


「夏緒さんが言ったんでしょう? 私が“夜間飛行”に来ないほうがいいって。それに、ハルキさんをジジイって呼ばないで」

 

 私の険のある声音に年上の異性は苦笑いを浮かべた。


「やれやれ、ずいぶん悪意のある受け取り方をして。いちおうハルちゃんのためを思って言ったことなのに」

「ぜんぜん私のためを思ってない。私から大切な場所を奪おうとしたくせに」

「大げさだなあ。いや、ハルちゃんくらいの年ごろだと些細なことが大げさに感じるのは分かるけど」

「子ども扱いしないで」

「子供のくせに?」

 

 夏緒さんは意地悪く言って笑った。

 この人は時々底意地悪くなる。そして自分の意地の悪さを楽しむという悪癖をもっている。

 私は阿修羅の如く怒っていたけど、その怒りをどうしていいのか分からずに、ただ夏緒さんを置き去りにして歩き出した。


「ちょっと待って。べつに僕は、ハルちゃんから“夜間飛行”を遠ざけようとしたわけじゃない。ただハルちゃんにとって“夜間飛行”が、現実から目を背けるための逃避場所になっているんだとしたら、それは健全なことじゃなって言いたいんだよ」

 

 その言葉が今日一番に私の胸を抉った。

 ついさっき、“言葉を選んだ方がいい”なんて言っていた本人が、一番切れ味のいい言葉を投げつけた。

 私は思わず立ち止まってしまった。


「ハル、音楽なんてしょせん遊びだよ」

 

 ときおり、夏緒さんは私の名前を呼び捨てにする。

 呼び捨てにされるのは嬉しいはずのなのに、今は胸が張り裂けそうなほどに悲しかった。


「どんなに必死になっても、こんなもので飯が食べれるわけじゃない。だったら少しでも将来の役にたつ可能性のある受験に励んだ方が、ハルの人生は有意義になるかもしれないだろ?」

「そんなんじゃ……私の人生は有意義にならないよ」


 私は叫ぶように言った。


「何で……そんなこと言うの? 私にギターを教えてくれたのは、私に音楽の楽しさを思い出させてくれたのは夏緒さんなのに、どうして……それを私から奪おうとするの? 私のこと嫌いになっちゃったの?」

 

 私が今にも泣きそうになっていると、夏緒さんは困ったように頭をかいた。


「少し意地悪が過ぎたかな? それに……そんなふうにストレートに来られると、こっちも率直にならざる得ない」

 

 夏緒さんは私直ぐそばにやってきた。

 そして、私の肩にそっと手を置いた。

 それだけで私の心臓は跳ね上がった。

 あいかわらず調子のいい自分が少しだけ嫌になった。


「僕が言いたいのは、ハルのことが嫌いになったわけじゃなくて、ハルが少しばかり僕たちの世界に染まりすぎているんじゃいかってことだよ」

「私が……染まりすぎている?」

「ああ。ハルと“夜間飛行”で出会って、それからずっと“夜間飛行”で顔を合わせてきた。喫茶店の手伝いをしながら僕にギターを教わり、ハルキさんにサックスを教わる。ときどき僕やハルキさんの友人に混じってセッションをしたりする。それはなかなか得難い体験かもしれないけど、ハルは僕たちの世界に、大人の世界に片足を踏み入れている。そしてその世界は、あまりほめられるような世界じゃない」

「そんな、私にはとっても素敵な世界に見えるのに」

「なかなか居心地がいい世界ではあるけれど、今はその居心地の良さを問題にしてるんだ」

 

 夏緒さんは真っ直ぐ私を見つめて、ものすごく真剣な表情で言葉を続ける。


「ハルキさんは気のいい人だけど、世間のことなんか何も分からない。もしもハルが受験に失敗したら“夜間飛行”で働けばいいなんて言うだろう。“夜間飛行”に来る客や、演奏家だって、世間知らずで音楽さえあれば生きていけるって思っているような人ばっかりだ。付き合う上では気楽でいいけれど、教師にするような人たちじゃない。そしてハルは、そんな“夜間飛行”の雰囲気に染まりすぎてる」

「それじゃあ……ダメなの?」

 

 私が縋るように尋ねると夏緒さんは再び溜息を吐いた。

 今度は重々しく。


「はぁ、こんなつまらいことを言ってる自分にうんざりするよ。やれやれだな。それに、自分でも納得していない言葉をで相手を納得させようなんて、土台無理な話だ。後は自分で決めればいいよ」

 

 夏緒さんは降参と両手を上げた。


「じゃあ私、これからも“夜間飛行”に通っていい? もちろん受験勉強はちゃんとします」

 

 私はわがままが認められた子供のようによろこんだ。

少し無理矢理にだけど、笑顔をつくって見せた。


「オーケー。そもそも僕は、最初からハルを“夜間飛行”から遠ざけようなんてつもりじゃなかっんだ」

「私のことを心配してくれたんだもんね? 夏緒さん、ありがとう」

 

 私は笑みを浮かべて言った。

 夏緒さんは手におえないと言った感じで顔を横に振った。


「ねぇ……夏緒さんは将来何になるの?」

 

 少し調子を取り戻してげんきんになった私は、歩幅をいつものようにゆっくりとさせて夏緒さんに尋ねた。


「やっぱり大学で勉強している建築士になるの? それとも音楽を続けていくの? 絵も上手だから絵描きにもなれるね」

「さぁ、どれも中途半端だしな。それにこれだって思うものもないし……そのどれでもないものになるかもね」

「えー、夏緒さんにはたくさん才能があるのに。ぜんぜん中途半端じゃないよ」

「僕に才能なんてないよ。それなりに見栄えよくこなせているってだけ」

 

 私にはその言葉が信じられなかった。

 

 夏緒さんが設計して模型にして見せてくれた建築物はどれもとても素敵で、私が将来住んでみたい建物ランキングの上位を独占している。それに、ギターの演奏だってとても上手。いろいろなバンドから声をかけられていて、実際に色々なバンドにヘルプで演奏したりしている。作曲だってできる。インターネットの動画サイトで公開している夏緒さんが作曲した楽曲は、大勢のリスナーに聴かれている。インターネットで人気の楽曲を集めたコンピレーション・アルバムにだって参加したことがある。絵だってうまく描ける。


「まぁ、さっきは音楽なんて遊びで飯が食えるわけじゃない、なんて言ったけど……あれは僕の本心ってわけじゃない。まぁ、ある意味では真実っていうか事実ではあるけどね」

 

 その言葉を聞いて、私は嬉しくなってくすくすと笑ってしまった。


「知ってます。夏緒さんが素直じゃなくて意地悪な人だってことぐらい。それに私のことを心配してくれてることも」

「言うねぇ、子供のくせに」

 

 夏緒さんも楽しそうに笑った。

 

 私は知っている。

 この年上の異性が音楽をとても楽しんでいることを。音楽だけじゃなくたくさんのことをスイングさせていることを。

 

 夏緒さんはグルーブ感の塊のような人だ。

一緒にいるだけで私の心をグルーブさせて、スイングさせてくれる人。

 たまに意地悪なことを言って私をいじめるけど、そんなところも終わってみれば素敵な思い出の一部になる。

 

 私はこの人に恋をしているんだと思う。

 


 出会った、あの瞬間から。

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