第二編「星の霜は夢見て」《紅坂永久 編》
第一章
第二編 第一章 ①
夏の始まりを感じる蒸し暑い日だった。
梅雨の真っ直中だとは信じられない程に快晴で、日の日射しは強烈に世界を
夕方になるとオレンジジュースを零したような空が広がり、暖かな太陽が沈む。
夜には久しぶりに現れた月が、これまでの不在を詫びるかのように悠然と輝いていた。
月を見上げて、貴方は虫の調べに耳を傾ける。すると、断続的なリズムを刻んで、足音が微かに聞こえてきた。
足音の方、あえか荘の門の下から一人の少女が姿を見せる。
彼女は
「あ! 先輩!!」
彼女は貴方を認めると、尻尾をぶんぶんと振り出して、こちらに駆けだしてきた。
今朝、というか、毎日顔を合わせているのに、数時間ぶりに顔を合わせただけでそこまで嬉しそうにされると、悪い気はしない。
貴方は彼女に応じて、意識的に左手を挙げた。
「ニャー先輩、バイトお疲れ」
瞼を薄めて、一直線に走ってくる。
勢いよく近づいてくる。
近づいてくる。
近づいて――
ちょっと待て。
このままだとぶつか――
「んな!?」
貴方は奇声を上げた。
どうしてかといえば、彼女がぶつかってきたからだ。
否、抱きついてきたと言った方が正しいか。
「はあ!? なんだなんだ、どうしたニャー先輩!?」
突然の奇行に貴方は慌てふためいた。
おかしい、自分と彼女はそんな関係ではないはずだ。人目がない場所とはいえ、抱き合うような親密さは持ち合わせていなかったはず。彼女の奇抜な発言には慣れてきたが、まさか奇行にまで走るようになったのか。いや、どちらかと言えば、そこら辺は常識人として節度をもって行動して――
貴方は思考を一瞬途切れさせる。
彼女の健康的な柔らかさが――主に胸の感触に気づいたからだ。
(不潔ですわね)
「うるせえよ!!」
ブラジャーって結構固い……とかそういうのはどうでもいい、と貴方は頭を振って、
「ちょっと、ニャー先輩、ホントにどうした!?」
叫ぶように言うと、貴方の胸に顔を埋めていた彼女が、ようやく顔を上げた。
「お兄ちゃん!」
そこにいたのはニャー先輩ではなく、仁愛だった。あえか荘から漏れる明かりを受けて、彼女の瞳が紫色に輝いた。
「…………おう」
貴方は数秒遅れて返事をする。
これはニャー先輩の体質、体質による人格だった。
この子はニャー先輩を守るため、危険に応じて出てきて、危機に対処するのだ。
……今、そんな危険な状態だっただろうか?
「どうした、仁愛。急に出てきて」
「お兄ちゃんが見えたから、出てきちゃったの」
えへへ、とニャー先輩と全く同じようにくったくなく笑う。また、彼女と同じようにちぎれるんじゃないかと思えるくらいにぶんぶんと尻尾を振った。
「俺が見えたからってなあ……ニャー先輩、困るだろ。そんな急に出てきたら」
仁愛が出てきている間は、ニャー先輩は気を失っている(ようなもの)。しかも、仁愛が出てくる時はニャー先輩の意志ではなく、仁愛自身の意志によるもの。ニャー先輩にとっては、突然、気を失うに等しい。
だから、貴方は彼女をたしなめたのだが、
「昨日ね、ニャーちゃんとお手紙してね、そしたらね、いつでも出てきていいですよー、って言ってくれたの」
「……そっか」
貴方は息をついた。
ニャー先輩なら、言いそうなこと。
自分の体質に人格があると知れば、彼女なら自由にさせそうだ。
それにしても……
「お兄ちゃん、大好き!」
……ここまで好かれていたっけ?
(よかったですわね。告白されましたわよ)
「子供相手に何言ってんだよ、リズ」
見ての通り、仁愛の精神年齢は幼い。
だけど、当然ながら身体はニャー先輩のものであり、女性的な魅力が溢れていた。
「あ、あのさ、仁愛。悪いんだけど、ちょっと離れてくれるか?」
「え……?」
仁愛が言葉を失った。
代わりに涙が生まれる。
「お兄ちゃん、私のこと嫌いなの?」
「ま、まさか。嫌いじゃねえよ」
「じゃあ、好き?」
「なんだその極端な答えは……」
困った、どう答えたらいいのか。
「好きじゃないの……?」
「……ああ、好きだよ」
「えへへ! じゃあ、いいよね!」
腕に絡みつくようにして、仁愛が身体を寄せて来る。
貴方は負けた。
彼女の涙に。
というか、子供の理論に勝てそうになかった。
貴方は深く溜息をつく。
(よかったじゃありませんの。役得ですわよ、役得)
「そんな気になれるかよ、アホ」
貴方は悪態をついた。
今、ニャー先輩に意識はない。
そんな彼女の身体にこうやって触っている――触られているのだが――と、眠った子に悪さをしているようで非常にニャー先輩に申し訳ない。
それ以上に、気が気じゃなかった。
(相変わらず、ウブですわね)
恥ずかしいのか、貴方は私の言葉を無視して、彼女と一緒に母屋に足を向けた。玄関の扉を開くと、
視線を上げれば、そこには小さな銀髪の少女。銀髪の上には犬のような三角錐状の耳が立ち、長い髪の間からふさふさとしたこれまた銀色に輝く尻尾が見える。
小学生に見えるが、実際は高校生の彼女。
あえか荘の店子(仮)だ。
「
彼女は表情を変えぬまま、いつもの澄ました顔で低く言った。
「君たち、いつの間にそのような関係になったのだ」
「あ……」
貴方は傍らの仁愛を見下ろす。
腕に身体全体でしがみついて、笑顔で頬をすり寄せていた。
「いや、いやいやいや」
「……ふんっ。私には関係ないことだったな」
永久はそっぽを向いて歩き出そうとする。
このまま、彼女を誤解させてはまずい。
聡明な彼女のことだから、あとでも話せばすぐに理解してくれるだろうが、このまま蒼猫にでも告げ口されたら、蒼猫に自分が怒られる気がする。理不尽だが、恐らくその未来は確実だ。だから――
彼女を呼び止めた。
誰が?
仁愛がである。
「お姉ちゃんだ!!」
「うむ……ん!?」
永久が振り向いて目を少しだけ見開くと同時、仁愛が彼女に飛び込んだ。そして、小さな永久にはそれを止める術がなかった。留める力だってありはしない。
二人は一緒になって倒れ込み、あまり掃除の行き届いていない広間に埃が舞った。
埃の舞う中、仁愛は永久の胸に頬をすり寄せて、尻尾をぶんぶんと振り続ける。
永久は仰向けに天井を見つめ、
「……一体、この子はどこのどいつだ」
呆れたように、ぼそっと呟いた。
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