第36話

 ふと目が覚めた。

 寝ぼけ眼というぼんやりした感じではなく、パッと、シャキッと僕は一気に眠りから抜け出した。


 辺りは真っ暗だ。

 ちょっとだけ昼寝、というつもりで横になったのが、どうやら熟睡してしまったようだ。


 疲れが出たのだろう。

 昨日、入学試験が終わって、それまで日に日に緊張が高まり僕の身体の中で極限近くまで張り詰めていたものが一気に弛緩した感じだった。

 昨夜は晩ごはんを食べると瞼が重くて仕方なくなり、風呂にも入らず布団にもぐりこんだ。

 そのまま昼前まで一度も起きず、朝なのか昼なのか分からないごはんを食べて、それからまたちょっとだけ横になりたくなってベッドへ。

 その「ちょっとだけ」が全然ちょっとにはならなかったみたいだ。


 少し自分の身体が怖い。

 どれだけでも眠れることが驚きだったし、こんなにも疲れることができることも新たな発見だった。


 今何時だろう、と身体を布団に残したまま手を勉強机に伸ばす。

 暗がりのまま机上にあるはずの携帯電話を探ったら、突然その携帯電話が僕の指の先で光り出し着信音を鳴らした。


 僕が起きるのを待っていたのか、はたまたこの電話を取るために急に目が覚めたのか。

 どちらにせよこの計ったようなタイミングで掛かってきた電話に、僕は何故か背筋が凍るような悪寒がして身体を強張らせた。

 この電話で僕は人生における重大なことを告げられるような理屈抜きの予感があった。


 ストラップに指を引っ掛けて手繰り寄せた携帯電話の画面は佐伯を表示していた。


 昨日終わった入学試験の様子を探りにきたのかな、と思った。

 昨日の今日で話すことと言ったらそれが普通だ。

 しかし、僕は心のどこかでそれを否定していた。

 これまで僕から掛けることはあっても、佐伯から電話が掛かってきたためしがない。

 佐伯がくれるのは業務連絡のような味気ない文字の羅列のメールだけだ。


「光太郎」


 僕の名前を呼ぶ電話越しの佐伯の声はじっとり熱っぽかった。

 そして明らかに憂いを示していた。

 もしかしたら佐伯は泣いているのかもしれないと感じた。


 僕は一気に布団をはねのけ、ガバッと身体を起こした。

 冬の寒気を感じている余裕はなかった。

 無駄のない動きで部屋の電気を点け、時計に目をやる。

 六時三十分。

 昼寝が過ぎて朝になっているってことはいくらなんでもないから夕方だろう。


「どうした?」


 何か相当良くないことがあったことを僕は確信していた。

 佐伯が試験の出来が悪かったぐらいのことで僕に泣きついてくることはない。


 僕は上下ともジャージを着て寝ていた。

 いざとなったらこのままコートを羽織って自転車に乗ろう。

 僕はベッドの下に脱ぎ捨てていた靴下を履き、卓上にあった自転車の鍵を握りしめた。


「光太郎。病院に来て」


 鼻水をすする音がする。

 嗚咽をこらえるような息づかいが聞こえる。


「分かった。今からすぐに行くよ」


 僕は即座にコートに袖を通した。

 携帯電話を耳に当てながら小走りに玄関に向かう。


 母さんに何かあったのだろうか、と思った。

 佐伯が柳田から母さんの体調の急変を聞き、僕に電話を掛けてくれたのか。

 だったら父さんにもすぐに連絡しなければならない。


 しかし、佐伯から伝わってくる雰囲気は、そうではないと言っていた。

 母さんの容体を告げるにしてはあまりに佐伯の口調が大人しい。


「待ってる」


 もうそれ以上は何も喋ることができない、という感じで電話は唐突に切れた。

 具体的な内容は何一つ聞き出せなかった。


 外は寒かった。

 北風が強く、すぐに鼻や耳が痛くなってきそうだった。

 しかし、寒いだの痛いだの言っていられるような状況ではなかった。


 佐伯が泣きながら僕を待っている。


 余計なことは考えず僕はいきなりトップスピードで自転車を漕いだ。

 母さんが脳梗塞で倒れて柳田と病院に駆け付けたときと同じぐらいの速度を出して、空に掛かるオリオン座を見つめながら夜の帳の中を駆け抜けた。


 駆け込んだ病院の入り口で壁に背をもたらせて僕を待ちうけていたのは柳田だった。

 自動ドアをこじ開けるように入った僕の姿を見つけると、一つ頷いて重々しい足取りで僕に近寄ってきた。


「松波陽平君を知っているね」


 柳田の口調は事務的だった。

 余計な感情は排除しようという勤勉な医師らしい声だった。


「クラスメイトです」


 病院の中は暖房がきいていた。

 全速力で駆けてきた僕には暑いぐらいだった。

 しかし、温度のせいだけではないような息苦しさが僕と柳田との間にあった。


 柳田は一階の通路の奥へ僕を案内した。

 先へ進めば進むほど建物の中心から外れていくような人気のない場所だった。


「三時間ほど前に交通事故があった。自動車が歩道に乗り上げてきて人をはねたんだ」

「はい」

「恐らくドライバーの運転ミスだろう。車はスピードを緩めることなく歩道に突っ込んだらしい。酒気を帯びていた可能性もあり現在警察で取り調べが行われている」


 角を曲がる手前で柳田は立ち止まって僕を見つめた。「被害者は二人で、そのうちの一人が中学三年生だった。彼はもう一人の被害者の幼稚園児をかばってひかれたという目撃情報がある」


「それが……陽平、なんですか?」

「財布の中に学生証が入っていてね。同じ中学校で同じ学年だったから念のために杏奈に訊いてみたんだ。松波陽平君って知ってるかって」


 再び柳田は歩き出した。

 曲がった先の廊下の突き当たりに扉があり、その手前の長椅子に髪の長い女性が座っている。


「それで……」


 訊かなくても柳田の冷たい口調と何も示さない表情で全て分かっていた。

 しかし、僕は信頼する医師からその答えをはっきりと聞きたかった。「陽平は」


「即死だった」


 長椅子の女性がゆらりと顔を起こしてこちらを見た。


「佐伯……」

「光太郎」


 駆け寄ってきた佐伯はそのままの勢いで僕の胸に飛び込んできた。

 顔を埋め激しく泣きじゃくる。


「あたしが殺したんだ。マツはあたしが殺したんだよ!」

「佐伯、違うよ。それは違う」

「あたし、もう気にしてないって言ったんだよ。でも、心のどこかであたし、マツを許せてなかった。きっとそれがマツに伝わったんだ。だから、マツは死んだんだよ。あたしが殺したんだ。あたしが、あたしがぁ」


 拳で僕の胸や二の腕を佐伯が叩く。

 激しく、何度も何度も打擲する。


 僕は黙って殴られ続けた。

 一発一発に強い衝撃があったが、痛くはなかった。

 痛いという感覚が麻痺しているようだった。


 陽平が死んだ?


 それはあまりに突然過ぎて、どうにもすんなりとは受け容れられなかった。

 きっとこの時間でもうちの中学校かT学園のグラウンドに行けば黙々とシュート練習をする陽平の姿が見られるような気がしてならない。


「あたしだけ生きてられない。あたしも死ぬしかないよ」


 そう言って僕にしがみつく佐伯を柳田が力強く引き離した。


「簡単に死ぬなんて言うな」


 柳田は右手を振りぬいて佐伯の頬を張った。

 ピシッとガラスにひびが入るような音が廊下に響く。「死んだらそこで夢も終わりだろ。お前は絵を描くことをそんなに簡単に諦めるのか!」


 童顔の柳田が顔を朱に染め眉を吊り上げて怒りを露わにした。


 佐伯が左頬を手で押さえたまま「だって」と涙声で叫び、ゆっくりと床に膝をついて座り込んだ。


 静まり返った廊下を僕は再び歩き出した。

 佐伯の脇を通り過ぎ、突き当たりの扉を開いて中へ足を踏み入れる。


 線香のにおいが立ち込めていた。

 淡く煙が漂っていて、部屋全体が薄い膜に包まれているような、少し幻想的とも言える空間を作っていた。

 部屋の中央に小さなベッドがあり、その上にシーツを被せられた人の形をしたものが横たわっていた。

 顔にも白布が掛けられている。


 枕元の蝋燭の火が一瞬激しく燃え上がりすっと大人しくなった。


 その横たわっているものを見ても、それが陽平だとはピンとこなかった。

 仮に陽平だとしても死んでいるとは思えなかった。


 僕は一歩ずつゆっくり近づいた。

 どこかのタイミングで突然陽平が起き上がり「大成功」と書かれたプラカードを見せて「ドッキリでした」とにんまり笑うのではないかと思ったが、そんなことはなかった。

 僕がベッドの真横に来ても、それはピクリとも動かない。


 首元からジャージの襟が見えて、ハッと僕は胸を詰まらせた。

 急に涙が溢れてきて僕は思わず口に右の拳を強くあてがった。

 思い切り指を噛む。

 それでも声が漏れてしまう。


 そのジャージに見覚えがあった。

 先日陽平が家に謝りに来たときに着ていたものだ。

 

 僕は嗚咽をこらえ切れず、涙で滲んだ目を掌で擦り、一気に顔の白布を摘みあげた。


 寝ているそれは確かに陽平にそっくりだった。

 しかしとても陽平だとは思えなかった。

 陽平の姿に似せたマネキンだと思った。


 象牙のような色の顔をしている。

 肌に張りはなく、うっすら口を開いている顔はどこか腑抜けたような感じがした。

 死体というものを見たことはないが、寝ているのとは明らかに違っていた。

 ここに陽平の魂はないということだけははっきりと言えた。


「陽平じゃない」


 僕はゆっくり白布を戻し「陽平じゃない、陽平じゃない」と繰り返しながらその場に蹲った。

 冷たい床に額を押し付け、こんなの陽平じゃないよ、と床を殴った。

 陽平は内側から輝きを放つ人間だった。

 ここに寝ている覇気のない陽平似のマネキンは僕に何も与えてはくれない。

 どこに行ったんだ、と僕は泣いた。

 本物の陽平はどこに行ってしまったんだ。


 どれだけ泣いて訊ねてもマネキンは何も応えてはくれなかった。


 陽平。

 お前がこの世に生まれてきた意味はどこにあったんだよ。

 ここで死ぬ意味は何なんだよ。

 お前の夢はどうなっちゃうんだよ。


 涙で濡れた床を僕は殴り続けた。

 少しずつ涙で水たまりができ、やがてその水たまりが朱色に染まっていく。

 僕はもう自分を抑えることができず、指から血を流しながら感情の赴くままに声を出して泣いた。


 どれぐらいの時間が流れただろう。

 やがて声を出し切り涙を流し切り、泣き疲れた僕は佐伯のことが気になって廊下に戻った。


 佐伯はまだ座り込んだままだった。

 柳田は頭を抱えるような格好で長椅子に腰を下ろしていた。


 廊下の向こうから何かがスーッと音もなく近寄ってくる気配があった。


 それは見覚えのあるパジャマ姿の女性だった。


「母さん?」


 母さんは脳梗塞の手術のあと、少しずつ病状を好転させていた。

 執刀した柳田も目を瞠るほどの回復ぶりで、徐々に起きていられる時間が延びてきている。

 昨日は五時間連続で起きていられた。

 急にスイッチが切れるように眠りに落ちるので、ベッド以外の場所では必ず誰かが付き添っている必要があるが、危篤状態まで陥り、半ば死を覚悟したことを思えば毎日が奇跡のような日々だ。


 淀みのない滑らかな動きで佐伯に近づく母さんの顔はいつもと違って見えた。

 少し垂れ気味の柔らかい印象を与える目尻が今は凛々しく上向いているようだった。

 まるで幽界から彷徨い出たように顔色は青ざめてはいるが、何歳も若返ったような艶のある肌をしていた。その表情は僕の良く知っているあいつを思い起こさせる。

 母さんは柳田の目の前で膝を下ろし、しゃくり上げながら泣きはらした目で見上げる佐伯を包み込むように抱きしめた。

 髪を撫で慈しむように佐伯の額に頬を寄せる。


「光太郎」


 母さんは小さく低い声で僕の名前を呼んだ。

 それは母さんの口から発せられたと言うよりは、僕の脳に直接語りかけられたように聞こえた。


「何?母さん」

「お前が生きている意味は何だ?」


 聞き覚えのある挑戦的な口調だった。

 そして、母さんが僕のことを「お前」と呼んだことは一度もない。


「意味?」


 それは陽平が好んで遣った言葉だ。

 陽平は何にでも意味を求めた。

 席順が前後になった意味。

 晴天が十日続いた意味。

 オリンピックが四年に一度である意味。

 僕がこの世に生きている意味。


 そこにいるのは母さんなのか。それとも陽平なのか。


 「佐伯」


 母さんは頬を離して佐伯の顔を見つめた。「佐伯。お前が泣く必要はどこにもないんだよ」


 にっこりと微笑んだその魅力的な表情はまさに陽平のものだった。

 内側から周囲を照らす穏やかな光を放っている。


「じゃあな。俺、行くわ。お前らは俺に夢の頂に立った時の景色を見せてくれよ」


 そう口走った次の瞬間母さんは白目を剥いて仰向けに倒れた。

 柳田が腕を差しのべなければ床に頭を打ち付けてしまうところだった。


 僕は慌てて母さんのもとに駆け寄る。


「今のは……」


 いくらその道の権威でも答えられるものではないことは分かっていた。


「医学でも解明できないことはたくさんある」


 柳田は眉間を曇らせ腕に母さんを抱きかかえて立ち上がった。

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