第30話

 いつか、ナルセがそうしてくれたように、クロガネはナルセにコーヒーを淹れてやり、テーブルの上に置く。そして二人はそのテーブルを挟んで向かい合い、イスに腰掛けていた。じっと黙っている二人の間で、真っ黒いコーヒーの表面がゆらぎ、白い湯気が漂う。耐えがたくなるような沈黙に、クロガネは何か切りだそうかと考え、戸惑い、そして結局黙る。ナルセは、嫌に落ち着いた顔をして、じっと、静かにゆらぐコーヒーの表面を見つめていた。昔と、全く変わらない顔をしている、とクロガネは思う。髪に少し白いものが混じっていたが、老けた様子はなく、この研究所から去った時と同じで、ナルセはまるで昔のままだった。


 「久しぶりだな」


 やっと、ナルセが口を開く。その顔には、相変わらずの、独特の人懐っこい笑みを浮かべている。その笑顔を見ても、クロガネは全くリラックスできない、むしろ、何かに怯えたように、手を震わせて、コーヒーカップを握りしめていた。


 「……私に、復讐しに来たのか?」


 クロガネの言葉に、ナルセは驚いたように、片方の眉をピクリと動かした。


 「復讐?」


 「私が昔、君のアイデアを盗んで、結果的に君をこの研究所から追い出すような形になってしまったということに対する、復讐だ」


 ナルセは小さくうなずいて、笑う。まるでクロガネの心配など、何でもないことなのだと示すかのように。


 「僕はそんなこと、これっぽっちも考えたことはない。研究所を去ったのも、自分の意志だ」


 「しかし、私が君のアイデアを盗んだことはどうだ? それは許されることじゃない」


 「それは、結局遅かれ早かれ誰かがやっていたことだ。僕の研究を、君の《機械》のような兵器の開発に利用するのは、当然の帰結になってしまうことだったからね」


 「……それが親しい友だちの裏切りによって行われたとしても?」


 ナルセの顔に、かすかなかげりが見えた。確かに、それはどれほど達観した人間であっても、到底受け入れられるようなことではないはずだった。


 「驚いたのは事実さ、正直、なぜ君がそんなことをしたのか分からなかった」


 「あの時は、完全に狂気に取りつかれていた。今も、その狂気の中にいることに変わりはないが、だが、すまないことをしたとは思っている」


 クロガネは、半ば頭をさげるかのようにして、深くうなだれてしまった。


 「いや、いいんだ。僕は別に、謝って欲しいとは思ってない。今、君に求めるのはただ一つのことだけさ」


 顔を上げ、クロガネはナルセを見る。そして何も言わず、次の言葉を乞うようにしていた。


 「終わらせよう、復讐を。僕のじゃない、君の復讐を」


 ナルセの言葉に、クロガネは驚いて目を見開く。なぜ、ナルセが復讐のことを知っているのだ? その疑問に打たれ、ナルセをじっと見たまま動かない。


 「最初は、君がなぜ僕のアイデアを盗んでまであんな兵器を作ったのかが分からなかった。それ以上に、あの死神だ。誰もが謎の生命体だとかいうふうに考えていたけど、僕には、あれが《機械》と全く同種の理論を応用した兵器だということがすぐに分かった。君は、まるで全てを自作自演の世界の中へ巻き込んでいくかのように、死神を大量に増殖させ、《機械》を操る虚無を抱えた少年たちを戦場に送り込んでいった」


 「そうか、君には分かっていたのか。しかし、それならなぜ、それを阻止しようとしなかったんだ?」


 「その手段が、僕には見つけられなかったからさ。君は、やはり天才的に優秀な科学者だった。虚無を抱えた少年の、脳と体を使って虚無を保存しプログラム化することで、自動的に発生する虚無により駆動する死神を生み出した。そして、その死神と少年たちを戦わせ続けることで、そこに集まる虚無を無限に増幅させていくサイクルを生み出してしまった。だから、《機械》と死神の理論を知っている僕にも、それを止めようがなかったのさ。一度全てをそのサイクルの中へ投げ込んでしまえば、もはや誰にも止めることはできない。後は徐々に増幅しながら、全てを巻き込んでいくだけさ。何もかもが、その空虚な中心へと吸い込まれていく」


 「その通りだ。もはや、私自身にも、それを止めることなどできなくなってしまっていた」


 クロガネは、全てを見透かされ、まるで安堵したように笑いを漏らす。だが、一つの疑問がぬぐえてはいなかった。


 「しかし、なぜ――」


 「なぜ、僕が復讐のことを知っているのか聞きたいのかい?」


 クロガネはうなずく。いくらナルセが明晰な頭脳の持ち主とはいえ、そんなことを推測できるはずはないのだ。


 「ハルミ君だよ」


 「ハルミ?」


 「そう、ハルミ君は、病気で自分の自我が消滅してしまう直前に、僕に全てを託したのさ。《機械》と死神の秘密を知っていたのは、僕と君だけじゃない。ハルミ君もそうなんだ」


 「君が、ハルミに話したのか?」


 「いや、違う。ハルミ君は、僕や君をはるかにしのぐ天才少年だった。自力でたどり着いたんだね、その結論に。もちろん、僕らの研究内容をある程度知っていたというのもあるんだけど。そして、それだけじゃない、ハルミ君は、自分の出生の秘密もまた、あらゆる方法で調べ上げ、真実を知ってしまっていたんだ」


 クロガネは脱力してしまう。ハルミが真実を知っていたということを聞かされ、動揺を隠しきれなかった。


 「……ということは、ハルミはそれを君に話したのか」


 「そうだね、君の秘密に立ち入るつもりはなかったけど、ハルミ君は大切なことだからどうしても聞いてくれって」


 互いに、何と言って良いのか分からなくなり、気まずそうにコーヒーを飲んだり、イスに深く体をあずけ、考え込んだりする。


 「君は、私が狂っていると思うかい?」


  ぽつりと、クロガネが切り出す。うつむいたまま、ナルセに目を合わせようとはせず。


 「そうだね。やりすぎだと思ってる。人間を虐殺する動機としては、あまりに小さいことだ。でも、一方で、個人の体験としては、あまりに大きい」


 クロガネはうなずいて、かすかに自嘲の笑いを漏らした。


 「……最初は、ここまでのことをしようとは思ってなかった。東京ヘブンズゲイトの住人たちを、全て殺してしまえれば、それで良かったんだ。だが、死神の能力は私の想像を超えていた、人間の虚無というのが、いかに深く、いかに強いかを、私は理解できていなかったのさ。予想を超えるスピードで死神は増殖し、東京ヘブンズゲイトを廃墟に変えると、すぐさま地上へと降り立ち始めた。慌てて《機械》を量産し、虚無を抱える少年たちを募ったが、もはや有効な手立てとは言えず、そこに生まれたのは死神と少年たちの均衡状態だ。そして私は、このまま死神にゆだねて人間に死をもたらすのか、それを阻止するのか、その葛藤の中で、この戦いを見ていた。しかし私にできたのは、結局その結果を受け入れることだけだ。ここに生まれた憎悪と虚無は、もはや私個人のレベルをはるかに超えてしまった」


 「もう、充分に復讐は果たしたと思っているわけだね」


 「確かに充分だ。しかし同時に、私は東京ヘブンズゲイトの住人たちだけでなく、人間という生き物の本性を憎んでいる。どうしようもない生き物だよ、だから、それが滅びるところを見たいという欲望が、胸の奥でくすぶっているのも事実だ」


 「ハルミ君は、君を止めたがってた」


 「……そうだろうな。あの子は、ユキに似て平和主義者だった。そして君の精神も受け継いでいた。優れた科学技術が、狂った兵器の開発に利用されることに、絶対に反対していたからな」


 「それだけじゃない。ハルミ君は、君自身のためにも、それを止めさせるべきだと思ってたんだ。ハルミ君は、単に君のしていることに反対していたわけじゃない。君の憎悪を理解しようとしていた、そして、理解した上で、それを止めさせようと考えていたのさ」


 「それが、ハルミがわざわざ私とユキの過去を知ろうとしていた理由か」


 「もちろん、自分が知りたかったというのもあるだろう。自我が消えてしまう病気を抱えて、自分が自分でいられなくなる前に、自分がどんなふうに生まれてきたのか知りたかったんだろうね」


 「不幸な子だ。なぜ、あの子がこんな目に会わなければならなかったんだ。誰よりも頭が良く、誰よりも優しい子だった。それが、私の子供として生まれてしまったばかりに……。あの子は、私とユキの、残酷な過去を知ってしまったのか。きっと、ひどい痛みだったことだろう」


 歯がゆそうに、クロガネは唇をかみしめていた。クロガネは、自分が研究に没頭すると同時にユキの思い出ばかりに取りつかれて、ハルミのために何もしてやれなかったという後悔の念があった。自分にとって何よりも大切だった二人を、ユキを、ハルミを、自分は少しも幸せにしてやることができなかった、その思いが今も、クロガネの胸を締めつけている。


 そのクロガネの様子を見つめながら、ナルセはひと口、コーヒーを飲んで天井を仰ぐ。若い頃、この研究所で、クロガネとハルミと一緒に過ごした思い出、それは、ナルセにとってはとても楽しい記憶として残っていた。だが、その時にはすでに、クロガネの心はひどい運命の暴力によって引き裂かれ、ぼろぼろになっていたのだ。


 「ハルミ君が知っていたのは、君の妹が自分の母親だったということ、そして、彼女が自殺してしまったということだけだよ。実際に何があったのかということまでは、結局つきとめられないままだった」


 「……そうか」


 ため息をついて、クロガネはうなだれる。そして、すでに冷めてしまったコーヒーの表面の、真っ暗なゆらぎを見つめながら、魂が抜けたようにぼうっとしていた。やがて、何かため込んだものをゆっくり吐き出そうと準備をするかのように、そのコーヒーを飲み干し、唇をしめらせ、顔を上げる。しかし、そのうつろな目は、決してナルセを見てはいなかった。


 「ユキは、とても不幸な死に方をしてしまった。東京ヘブンズゲイトの住人たちが手を下したわけではない、だが、彼らの人間的本性のようなものが、彼女を追いつめてしまった。その意味でとりわけ許しがたいのは私の両親だ。しかし、彼らとて、別にユキが死ねばいいと考えていたわけではない。本当にユキを殺したのは人間だ。人間という、どうしようもない生き物だ」




 クロガネの声は弱々しく、ほとんどナルセの耳にまで届かず二人の間に漂い落ちてしまう。まるで、干からびた言葉の断片が、ぽろぽろとはがれ、まだ残っているナルセのコーヒーのまっ暗い闇の中へと吸い込まれていくかのようだった。

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