千龍の郷と朱の帝国
観月
千龍の郷
北の砦とアユの里
1
大木に遮られ、日のさしこまぬ地表。あたりは湿った緑の匂いに包まれていた。ごつごつとした岩の上には苔が生している。簡易な貫頭衣にそでを通し、むき出しの少女らしい細い足に履いた草鞋で、苔を踏みしめながら歩く。
「ね、ねえ山吹?」
心細くなって、朝霧は目の前の背中に声をかけた。
こちらを振り向いた山吹は少し眉根を寄せて立てた人差し指を唇に当てている。
山吹の背中には山吹自身が作った矢筒に入った矢が揺れていた。左手には、これも山吹が作った弓を握っており、腰に巻いた帯には石斧とナイフを挟み込んでいた。
山吹は今まさに臨戦態勢にあった。
朝霧は、山吹と一緒に狩に出たものの、申し訳程度に腰の帯に石斧を挟み込んでいるだけだ。
山吹と朝霧は双子だった。二人が生まれた日の朝に、父親は朝霧の中に浮かぶ黄色い山吹の花が可憐だったからと、先に生まれた妹を朝霧、後に生まれた姉には山吹と命名した。双子であったから、もともとはよく似た顔立ちをしている。だが、幼いころに重い病にかかり、引きこもりがちになってしまった朝霧をおいて、山吹は里の中でも一番活発で、男勝りな女の子になっていた。それが、二人の外見にもいくばくかの影響を与え、基本的な作りは似ているものの、二人を見まちがえるものはまずいない。
里の子どもたちにとって、森の中での狩は遊びのひとつだった。男勝りな山吹は、狩の腕も集落の男の子に引けを取らなかったが、体の弱かった朝霧は、生まれて十一年間というもの狩りに出たことはなかった。
そんな朝霧を山吹は初めて狩に誘った。
その話を聞いた兄の真昼が、二人を森に連れて行ってくれることとなった。しかし、出かける直前に山吹と真昼が大喧嘩を始め、真昼はさっさと男友達と狩りに出かけてしまった。
兄に置いてきぼりにされ、今日の狩は取りやめになるかも知れないと朝霧は考えた。残念に思いながらもどこかほっとしていた。
だが、その考えは甘かった。
山吹は、そんなことくらいであきらめるような女の子ではなかったのだ。
「真昼のけち! すっごい獲物を持って帰って驚かせてやるんだから」
そういうと、狩へ行く準備をちゃくちゃくと始める。
「朝霧。私が連れて行ってあげるから大丈夫よ」
満面の笑顔で言い放った山吹に、朝霧は笑顔を返しながらも、腹の底がきりりと痛んだのだった。
目の前の山吹の背に緊張が走り、物思いにふけっていた朝霧はハッとして立ち止まる。
森は先ほどよりも静けさを増しているような気がした。気が付けば、朝霧は茂みの先に向けて、弓を引き絞っている。小さな茂みの向こうに獲物がいるらしい。
朝霧も、気配を消そうと息を殺す。
だがどうにも静かすぎると感じた。嫌な感覚が胃の底から沸き起こり、胸を焼く。
朝霧はハッとして周囲を見回した。
「山吹! 射てはダメ!」
朝霧が叫んだとほぼ同時に山吹は弓を射ていた。
ヒュッ、ルルルル。
矢が風を切った。獲物のウサギをかすめたが、朝霧の叫びに手元が狂ったのか、致命傷を負わせることはなく、ウサギはぴょんぴょんと走って逃げて行く。
「あ!」
山吹は悔しそうに叫ぶと、後ろを振り返った。
「なんなの? 朝霧」
朝霧は周囲に目を配りながら「シッ」と息を吐く。
狩りに夢中になっていた山吹も、朝霧の様子に小首を傾げ周囲を見回した。
「まさか……」
山吹の顔色が見る間に褪せていく。
「精霊の森!」
二人が顔を見合わせた瞬間、音もなく静寂に包まれていた森が一変した。
ざわり。
周囲から、何かがうごめきだす気配が立ち上る。
矢をつがえようとする山吹の弓を朝霧は掴んで取り上げ、力任せにへし折り投げ捨てた。
「射てはだめよ! 精霊様がお怒りになる」
胸の前で拳を握りしめて朝霧は言った。山吹はその朝霧の手首をひったくるように掴むと、全速力で走り出していた。
精霊の住む森で、ヒトが殺生を行うことを禁ずる。
遠い昔にヒトと精霊との間で結ばれた約束だ。精霊との約束をたがえず、精霊にしたがって生きていくことで、急峻な山岳地帯にすむ千龍の郷の人間は、精霊の守りを与えられているのだ。
千龍の郷に生まれた者たちは皆、幼いころからそう教えられて生きている。
幼い少女は狩に夢中になるあまり、森の変化に気付かず、精霊の森に足を踏み入れていたのだった。
はあ、はあ、はあ、
風のように過ぎ去っていく景色の中で、お互いの息遣いだけがこだまする。
小さく突き出した岩につまづき、朝霧がバランスを崩すと、二人一緒に倒れ込んだ。二人は荒い息で周囲を見回す。
しん。
森の中は物音一つしない。
大きく息を吐き出し、もう一度耳を澄ませる。
山吹の耳が遠くから迫るたくさんの生き物の動きを拾った。朝霧の研ぎ澄まされた感覚が、森の奥から近づく無数の気配を感じた。
「走って!」
弾かれたように身を起こし、もたつく朝霧を助けながら山吹が叫ぶ。
「こっち」
気配の薄い方へ向けて走り出す。
さわさわさわさわ。たたたたたたたた。ずずずずずずず。
さまざまな気配がそれまで静かだった森をゆらし始める。
二人は恐怖に追い立てられながら、暗い森の中をひた走った。
朝霧は後ろを振り返った。
「ひっ」
迫る光景に喉が音を立てた。
今まで見たことも無いほどの百足やハンミョウ、シデムシといった虫たちが地面を覆いながら流れるように近づいてきているのだ。その後ろにはイタチやタヌキ、ウサギといった小動物たちの影も見え始める。
「速く!」
山吹が振り返りながら言った。朝霧は走りながら視線を前方に向ける。
「山吹! 危ない」
叫んだ時は遅かった。
遅れた朝霧を心配して後ろを振り返っていた山吹は、地面がその先で途切れているのに気付かなかったのだ。
きゃーあーあーあーぁーぁー。
鋭い悲鳴が響き渡り。山吹の姿は消えた。
朝霧は崖の際に立つ大木にしがみつく。惰性で体ががけ下に飛んでいきそうになるのを何とかこらえた。
「山吹……やま、ぶき」
汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら、大木にしがみつき震えた。怖くて崖下を覗くことができない。
朝霧はぶるぶると震えたまま、静かに後ろを振り返った。
背後には、朝霧を取り囲むように生き物の輪ができていた。
虫たちがびっしりと地面を覆い、その先にウサギやイタチ、タヌキに狐といった小動物。奥の方には鹿や猪、猿に熊……。
それらの動物たちが、静かに朝霧を取り囲んでいる。
朝霧の足がかくかくと震えて、大木を抱きながらずるずると腰が抜けていった。
その時、森の奥からもやもやとした靄が流れ出し、獣たちと朝霧のいる空間を覆っていく。靄の奥から光がさす。霞が光を反射する。
次第にその光はまとまり、形を成した。
朝霧は瞬きも忘れてその光景に見入っていた。
光はまとまり、美しい
すっかり実態を持った美しい人形が、朝霧の目の前に存在していた。
「そなた、名は?」
まるで頭の中でキラキラと反射するような声だった。
「あさぎり」
目の前の美しい男を見つめながら朝霧は答えた。男を見て美しいと思ったことはこれまでなかったのだが、目の前の美しい人は確かに男なのだと思われた。
「朝霧、お前には私の姿も、声も聞こえるのだね?」
ああ、精霊様だ。
朝霧は理解した。
こくりと頷きながら、朝霧は静かに意識を失っていった。
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