篠原愛子

昨日の夜、突然、私は彼から別れを告げられた。

まだ付き合ってたった3ヶ月しか経って居なかったけど、私のショックは相当だった。

その理由は、5年間付き合った元彼を振ってまで、付き合い始めた彼だったからだ。


正直、元彼とはもう、自分の中では終わっていた。

付き合い始めて3年目の春、彼に逆プロポーズをしたのに、経済力が無いため、もう少し待ってくれと言われたのだ。そのあたりから、私の中で何かが急に冷めて行った。私としては、経済力なんか無くたって、共働きすればなんとかなると思っていたのだ。彼とのデートも、ほぼ彼の自宅で、マンネリ化していた。

私は、ああ、もう彼を愛していないのだなと感じたのだ。それからは、友人と夜遊びするほうが楽しくなり、彼との約束はおざなりになり、友人の知り合いの今の彼と出会ったのだ。


言葉巧みな彼の会話と、見た目が好みだったので、私は一目で恋に落ちた。

そうなってくると、もう元彼とのデートは苦痛でしかなくなり、悩みに悩んだ結果、私は元彼に別れを告げたのだ。

呼び出した喫茶店で泣かれたのには参った。周りの人が奇異な目でジロジロ見てきた。

「お願いだから、泣かないで。」と懇願した。


元彼とは同じ職場だったので、本当にやり辛かった。同僚からは何故別れたんだと責められた。

元彼がいろいろ相談して回ったらしい。もうそうなってくると、自分だけが悪者になったようで、ますます元彼に対して心が離れるばかりだった。


紆余曲折あって、今の彼と付き合い始めたというのに、私を奪うと満足したのか、どんどん彼の態度が冷たくなって行った。今度は、私が追う番だった。その時になって初めて、元彼の気持ちが痛いほどわかった。

離れていくものを、つなぎとめたい焦燥感。

でも、自分の経験上、離れていく者を追っても仕方が無いことがわかっていたので、私は素直に別れを受け入れたのだ。元彼と、元さやにおさまるという選択肢も考えた。私が振られたことを知ると、元彼はもう一度やり直そうと言って来た。だが、一度離れた気持ちは元には戻らないのだ。


しばらくは、どうして良いか、途方にくれた。私ももう若くない。25だ。自分の人生設計では、もう結婚しているはずの歳だった。結婚したい。でも、この歳ではすでにお局様の域に入ろうとしている。

ある程度の妥協は必要かな。


休日、一人で何をするでもなく、暇を持て余していたので、久しぶりに古本屋へ向かった。学生の頃は本を読むことが好きで古本屋に入り浸っていた。入ると懐かしい匂いがしてきた。落ち着く。私はあてもなく、本を物色した。適当に本棚を流していると、私の目にふとある本の題名が飛び込んできた。


「篠原愛子」

なにこれ。私と同姓同名じゃない。

しかも、本の題名。私は作者を見た。

「神保京香」

聞いたことも無い作家の名前だわ。

本の題名が「篠原愛子」で作者名が「神保京香」。

変なの。両方が名前の本だなんて。

私は、ページをパラパラとめくった。

私は驚いて言葉を失った。

うそ、これ全部、私のことじゃない。


生まれた時からの生い立ちが、とうとうと綴られていた。

私は慌てて、本をたたむと、周りを見た。

自意識過剰かもしれないけど、まず、ストーカー説を考えたのだ。

でも、おかしい。

私自身や、家族でしか知りえないことがかなり緻密に書き込まれているのだ。

私は、慌てて、その本を閉じ、レジに持って行き、清算した。


心臓が言いようのない不安に満たされて、体から今にも零れ落ちそうだ。

誰がこんな手の込んだ嫌がらせを?

元彼のことも考えたがそんなことをするような人ではないし、元彼にすら、話していない自分のことが書いてあるので、まずその説は却下した。


私は自分の部屋に篭ると、鍵をかけ、震える手で、本屋の袋をあけ、ページをめくった。

生い立ちだけではなかった。

自分に起こった事柄に対しての、その時の心情まで綴られていた。

もちろん、元彼に対しての心情の変化や自分の考えなど、全てがそこに綴られていたのだ。


「気持ち悪い。」

私はそう呟くと、すぐにパソコンを立ち上げた。

「神保京香」

検索窓にそう打ち込むと、数件のヒットがあった。

だが、それは他愛も無い個人ブログで、この本とは全く関係がないようだ。

もちろん、そんな作家も検索にはヒットしなかった。

私は巻末にあるであろう、出版社を調べようと、最後のページをめくった。

だが、そこには出版社名も、刊行日も記されてはいなかった。

まったくの手がかりなし。

あまりの不気味さに捨ててしまおうかと思った。

だけど、この本を誰の目にも触れさせたくない。

燃やしてしまうのは?

元々、本を大切に思っていたので、とてもそんな真似はできないし、だいいち、自分が燃やされるようで、あまり気分が良いものではない。私は、生い立ちから今までに目を通して、本の所存を保留にしたまま閉じて机の上に放置した。


相変わらず、私は長年付き合った彼を振って他の男と浮気した悪い女のような会社の位置づけに居づらさを覚えていた。誰もそんなことを言いはしないのだけど、皆、振られたほうに対して同情的になるようだ。

私の気持ちなんて、ぜんぜんわからないくせに。

こんな会社辞めたい。

でも、この歳になって雇ってくれる会社なんて、そうそう無いよね。


最近ずっと塞ぎこんでいたので、学生時代の友人から、合コンの誘いが来た時には彼女が救世主に見えた。

そして、その場で意気投合した男性とメールアドレスを交換することができたのだ。

私はつくづく単純な女だなと自分で思った。それくらいのことで、気分が晴れるなんて。


本の事などすっかり忘れていた私の視線の端に、机の端っこに追いやられるように置かれたそれが映った。

すっかり忘れていた。処分しなくては。

そう思い、もう一度、間違いではないのだろうかと、確認する意味と期待をこめて、ページをめくってみた。

私はすぐに違和感に気付いた。

ページが増えている。

本を開かなかった、数日間のことが克明に記載されているのだ。

私は一つの可能性を考えた。これはもしかしたら、私が二重人格で、私自身が無意識のうちにこれを書いているのではないだろうかと。しかし、本は手書きではなく、打ち出されたもので、しかも製本されているのだ。

あり得ない。


そこで、私はある実験を試みたのだ。

パソコンを開くと、ワードを開き、かたかたと文字を入力していった。

「合コンでメールアドレスを交換した、愛子は、その男性から猛烈にアプローチされ、付き合うようになった。」

願いをこめてそう入力して、プリントアウトして、その本の一番巻末に挟み込んだ。

自分でも稚拙な真似だと思ったが、明日になれば、一人で笑い飛ばしてゴミ箱に捨ててしまえば良いだけの話だ。


 あくる日、彼からメールが入った。

「今日、会えないかな?」

私は期待に胸が高鳴った。やった!

すぐにメールを返すのも、なんだか待ってたみたいで恥ずかしいので、しばらくして、今気付いた、みたいな振りをしてOKの返事をした。


私が約束の店に着くと、すでに彼が待っており、立ち上がって私をエスコートしてくれた。その店で、彼から猛烈にアプローチされ、付き合ってほしいと言われた。内心、大喜びだったのだけど、ここはポーカーフェイスをきめ、まだ会ったばかりでお互いよくわからないので、とりあえずお友達から、と彼に告げた。それでも、彼は喜んで、次はいつ会えるかと、私にせっついてきたのだ。


彼に車で自宅まで送ってもらい、その日はそれで別れた。

最初から自分を安売りしては、長続きしない。それが私の持論だった。


部屋に入ってからは、自然と口角があがり、思わずガッツポーズをした。

なんだか、あの日入力した通りになったわ。私は、まだ机に鎮座している、その本を手に取った。

あれ?挟んだはずのA4紙がない。

もしやと思い、私は、その本の巻末を見た。

すると、私があの日入力した通りの文章がそこに記載されていた。

そして、実際に、その入力した文章の通りに、事が運んだのだ。


私は言いようの無い興奮を覚えた。

もしかして、私の思い描く通りの人生が送れるのかも。

私は急いで、またパソコンを立ち上げた。


私は毎日、毎日、「篠原愛子」の本を更新した。

面白いように、その通りの人生が送れた。


デスノートならぬ、幸せブックだ。

そして、明日は、いよいよ、彼との結婚式だ。

これからも私は幸せを描くわ。

思いのままに人生を操れるって最高。


彼はトントン拍子に出世させるわ。

数年後にはマイホームが欲しいわね。

子供も一男一女に恵まれて、彼はついに社長にまで昇りつめるのよ。

私は社長夫人で何一つ不自由なく暮らすの。

夢はどんどん膨らんで行く。


「はーい、そこまでー。」

上から女性とも男性ともわからない声が聞こえてきた。

私は空を仰ぐ。

天から声が降るなんてこと、あり得ないよね。

空から大きな目が二つ覗いた。


「きゃあっ!」

あまりのことに、私は驚いて腰が抜けてその場にしりもちをついた。


「もう十分あなたは幸せを満喫したでしょ?そろそろ交代の時間だよ。」

その声は私にそう告げた。

「な、なんのこと?」

私は震える声で恐る恐るたずねた。

目が少し三日月になった。笑ったのか。


「あのね、あなたはもうこの本の中の人なの。気付かなかった?」

「どういう意味?」

「あなたの実態はもう、この本の中にしかないってことよ。」

「嘘!そんなの信じない!」

ふう、と大きな溜息が空を揺らした。


「あのね、人の幸せなんて、誰も望んでいないのよ。物語なんて、幸せになってしまえばそこで終わりなの。たとえばシンデレラだって、幸せに暮らしましたとさ。おしまい。でしょ?ではどのように具体的に幸せになるのかなんて、興味ないのよ。」

意味がわからない。何を言ってるの?


「じゃあ、そう言うことで。」

大きな手が空から迫って来たかと思うと、徐々に青空が閉じられて行く。

まるで本のページが閉じられるように。

ちょっと待って。私の人生はこれからなのよ。

そんな、酷いよ!



ーーーーーーーーーーーー


田中恵子は、古本屋である本に目を奪われていた。

田中恵子は平凡な主婦。日々家事に追われ、子供の世話に追われ、自分の存在の意味を見失っていた。

「田中恵子」

作者は「篠原愛子」。

自分と同性同名の題名の本の背表紙に指をかけ、ページをめくった。

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