第13話
「……そ、そんな馬鹿な」
呟いたときにはスイートルームのベッドにいた。
最後に目にした光景が信じられなかった。
この現象が発生したことよりも、あの猪去の姿の方が、私には信じられなかった。
幅広い知識で私を導いてくれた人が、目を離した隙に死んでいた。
さっきまで優しいまなざしをしていた人が、次の瞬間、死体になっていた。
私の鼻には最後に嗅いだ感覚がまだ残っている。
これは、そう。私にだけは確実に分かるあの香り、
――死の香りだ。
怪我でもなくどっきりでもなく疑うまでもなく、猪去は確実に死んでいた。見えたのは一瞬だったが、私は猪去の顔を覚えるつもりでドアを開けた。だからまぶたに焼きついている。猪去の死に様は消えようもないほどはっきりと焼きついている。
刺殺、だった……。
よりにもよって、私が星定男を殺したときと同じ、刺殺だった。
ソファーは血にまみれていた。身体には無数の傷口が生じていた。表情は苦悶に満ちていた。
あれは……私だ。私が招いたんだ。猪去が死んだのは私のせいだ。私が星定男を殺したから。だから今度は猪去が殺される羽目になったんだ。
違う、と誰かが言っている。
違う違う違うと、何度も誰かが言っている。
言葉は私の口から発せられていた。私の口が何度も否定の言葉を告げていた。
それでも私の心は否定しない。
猪去を殺したのは……私だ。
考えが深みにはまってゆく。感情が抑え気味になる。追い詰められれば追い詰められるほど、頭のどこかがクリアになる。
結局私は濁った水でしか生きられない魚なのだ。どうしようもない人間なのだ。次はなにをやるべきか考えるために、私はいちいち自分を傷つけずにはいられない人間なのだ。
――七時。
そう、七時だった。
星定男を殺さなくなってから、私はいろんなことをやってきた。しかし、なにをしても繰り返しは止まらなかった。
繰り返しは七時に始まり、二十四時間後の七時に終わる。
七時。それは猪去が殺されたのと同じ時刻でもある。
この一致は偶然の一致?
猪去といろんな話をした。タイムスリップについての話をした。やけにSFチックで、分かるような分からないような話もされた。
でももしかしたらあんなに難しい話なんて必要なくて、
ルール3.繰り返しには目的がある
やはり私に対する命令だったのではないか?
猪去が七時に死亡するのを止める。それがこの繰り返しの目的なのでは?
いままで無駄に過ごしてきた時間。留置所で過ごした夜。路地裏で過ごした夜。スイートルームで過ごした夜。あの自分のことしか考えていなかったときだって、実は毎日猪去は七時に殺されていたのではないか?
本当に繰り返しが終わるかなんて私には分からない。
それでも、やるべきことは見つかった。なによりも最初に取りかからないといけない問題が見つかった。
私は猪去の殺人を阻止しよう。時間も機会も無限にある。犯人だって絶対分かる。
今度は、救う。
私が猪去を助けてみせる。
レストランへ向かい、前日の行動をなぞった。大量の不味い食事と、けだるい雰囲気。私は自分の思考をおくびにも出さず、表情だけで猪去の行動を操った。
表情の制御に必要なのは、はっきりとした目標だ。
なにをすればこの繰り返しを抜け出せるか分からない。行動に自信がないときには、表情を制御しようとしてもどこかで必ず手綱が緩む。
演技するためには、脳が自分の心を騙しきらなくてはいけない。完璧に自分を騙すためには、なにがなんでも騙そうとする脳となにがなんでも騙されようとする心。一つの肉体に分裂した二人の自分が必要だった。この一件矛盾と考えられる状況を可能にするのが、はっきりとした目標なのだ。目標はかすがいとなって、離れようとする脳と心を無理矢理一身につなぎ止める。
前までは、星定男の殺害が目標になってくれた。
そしていまは、猪去の救助が目標になっている。
私は前日の行動をトレースする。夜になって、猪去と二人きりになる。部屋の曲がり方、ウォーキングクローゼットの覗き方、熊の剥製への驚き方なども完全に同じ動きを繰り返して、六時を迎える。
前回はトイレに行ったがために殺された。今回の私は七時まで猪去から視線をそらさないでおく。すると、
――視界が暗転する。
私は七時にスイートルームのベッドで目を覚ました。
前回の猪去は七時の時点では死ななかった。私の見ている前で猪去は微笑み、そのまま視界が暗転して、気がついたら自室に戻っていた。
私には仮定を積み重ねることしかできない。
新しく知ったことから、条件を深める。さながら理系の実験室のように、一つデータを検証しては仮説を立てる。仮説の正しさを確認するため、新しく実験を行う。膨大な時間をかけて、検証をただひたすらに繰り返す。
猪去は必ずしもこの二十四時間で死んでいるわけではないようだ。しかし、それでもタイムスリップは行われた。となると、タイムスリップが行われる基準は、猪去の生死自体ではない。
例えば、猪去の死が確定した瞬間と考えるのはどうだろうか?
七時の時点で、猪去が殺される道と殺されない道とに運命が分かれる。
前回、猪去は生きていた。じゃあ猪去はもう完全に殺されないのかというと、そうではない。このままでは百パーセント死んでしまう道を、七時の時点で歩き始めたと考えられる。
この猪去の歩く道を変えさせるのが私の使命なのだ。
二十四時間で、猪去の死ぬ運命を回避させる。そのためには、二十四時間猪去を見守っているだけでは足りない。私が繰り返す二十四時間以内は守れても、それ以降に猪去が殺されてしまうのなら、なんの解決にもなっていない。
猪去を殺す犯人。私はそいつを突き止めなくてはいけない。
社会は変えられなくとも、個人の運命なら変えられる……。
猪去は刺殺されていた。私のいない瞬間を縫って、猪去は刺殺されていた。となると遠距離から殺害できる、自動式の罠とは考えにくい。
おそらく、犯人は直接猪去を殺している。
前もって訪問者の予定があったのなら、猪去は私にも教えてくれていたはずだ。具体的に誰がまでは言わなくとも、人が来ることになっているぐらいは伝えたはずだ。しかし、猪去はなにも言わなかった。つまり、犯人は事前にアポを取っていた人物とは考えにくい。
殺人者はふらりと猪去の部屋に現れて、猪去を殺害して去った。
だったら容疑者が絞れる。エレベーターの鍵を持っている人間だ。犯人はその中にいる。
そして鍵は四つしかない。
猪去自身の持つ鍵、二人の秘書の持つ鍵、警備室にある鍵の合計四つ。
猪去は簡単にコピーできる鍵ではないと言った。コピーのできない鍵。ならば犯人は、この四つのいずれかの鍵を使ってフロアを上がったはずだ。
いったい誰が怪しいか……。
ふと思い浮かんだのは、疑り深い目で私を睨む、痩せぎすの不健康そうな男だった。いつも朝食の席で弁護士と連絡が取れたと言って現れる秘書の一人。
――諏訪だ。
諏訪が犯人と考える根拠はない。しかし諏訪を犯人にすると、当てはまる部分がある。
例えば、猪去が殺された部屋はエレベーターと直結していた。開いたのは普通の扉ではなくて、エレベーターの扉なのだ。普通の扉なら、中の住人に気がつかれないようにこっそり開けることができるだろう。しかし、エレベーターの扉で猪去に気がつかれないよう侵入するのは不可能だ。
つまり、猪去は犯人が部屋に来たことに気がついていた。
重要なのはここからだ。
突然やって来た訪問者を見ても、猪去は大声を張り上げなかったのだ。
それは、なぜか?
答えは顔見知りだったからだ。普段からいきなり部屋に来る人物でもあったからだ。
警備室の従業員がアポを取らずに来るとは考えづらい。春子とは一日だけしか一緒にいなかった。それでもあの仕事に真面目で快活な春子が猪去を殺すとは、私にはとても思えない。
確実な犯人とまでは断言できずとも、最も疑わしいのは諏訪だろう。
私は諏訪と接触する必要があった。
「なんだい、あんたまた来たのかい」
レッスンスタジオを訪れると、衣装係がぞんざいに言った。口調とは裏腹に、追い出したいわけではなさそうだった。
衣装係はぐっと身をかがめて私の腕をつねった。
「まだ焼けてないね。時間があるうちに焼け癖をつけておきな」
「ちょっと訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
衣装係は首の骨を鳴らした。
「前置きなんていいから、早くお言い。あたしはそんなに暇じゃないんだからね」
「春子さんの連絡先って分かります?」
諏訪と対峙する前に、可能な限り情報を集めておきたかった。上司の猪去より、立場を同じくする春子からの方が生きた情報が得られる。そこまで考えたとき、私はこの日一度も春子を見ていないことに気がついた。
「ハルちゃんならカジノにいるだろう」
「それが見かけなくて。昨日お世話になったからお礼に食事に誘いたいんですけど」
「昨日の今日でかい?」衣装係はじろじろと私を見る。「……どうも怪しいね。同じ従業員なんだ。会社に連絡すればいいだけの話じゃないか」
猪去から直接訊かなかったのは、春子に連絡が行くのを恐れてだった。私は従業員としての諏訪の人柄を知りたいわけではない。プライベートの諏訪の人柄を知りたいのだ。間に猪去が絡んでしまえば、壁が生じる。あのですます口調の春子ではなく、みんなのお姉さん然としていた春子と私は会話したかった。
「私用で会うのにですか?」
「マナーの問題かね?」
「はい。マナーの問題です」
衣装係の視線を受けると、つい身体がこわばってしまう。私はにこりと笑って衣装係の気をそらそうとする。
衣装係は私が笑ったことで、かえって気に入らなそうに鼻を鳴らした。
「ま、あんたがなに考えてようとどうでもいいけどね。昼は会うの難しいよ。会えるとしたら夜だね。二十一時。駅前のバーに行きな。大抵はあそこにいるよ」
「すみません。ありがとうございます」
二十一時、か。まだかなり時間がある。たとえ無駄に終わるとしても、空いている時間で街のいろんなところを訪れてみるか。それがどれほど少なくとも、情報を増やせば行動の幅が広がる。
そう考えてレッスンスタジオを出ようとした私を、衣装係が暗い声で呼び止めた。
「一つ、忠告させてもらうよ」
「忠告、ですか?」
「ハルちゃんはね、そりゃしっかりした子さ。客の気持ちも従業員の気持ちも考えてる。なにがカジノのためになるか、そのために必要なものはなにか。将来のヴィジョンを持っている。でもね、もしもあんたがハルちゃんを好きなら、つき合うのは仕事上だけにしておきな」
「……はあ」
「誰だって人に言えない部分を持ってるって話だよ。あんただって、そうだろうに」
衣装係の台詞に耳を痛くしながら、私はレッスンスタジオを出た。
半日近く街をうろつき廻ってから、私は駅前に立った。
駅近くにもかかわらず、人の通らない道路がある。
頭上でライトが一つだけ点っている。ライトは見覚えのある自転車を照らす。
それは春子が引きずっていたあの自転車だった。
この辺のはずと首を動かすと、小さな看板が目に入った。
看板隣のドアを開けると、ベルが鳴った。バーの中は、止まり木しかないスタイルで、小さくジャズが流れていた。
男にしては髭の長いバーテンが、顔を上げる。
土浦を訪れる人はみなカジノが目的だ。飲みたくなった人は、カジノ内のバーカウンターを使う。
だからだろう。客は一人しかいなかった。
「春子さん」
声を掛けると、春子が頭を動かした。
「誰かと思ったら、天田さんじゃない。どうしたの?」
「えへへ。春子さんに会いたくて来ちゃいました」
バーテンにビールを注文し、私は春子の隣に腰掛けた。
「よくここが分かったわね」
「スタジオの人に教えてもらいましたー」
私は置かれたビールに口をつけた。
胃を温めながら、しばらく春子と他愛ない話を交わす。会話の合間に、本題への切り込み方を探った。仕事の話をし、猪去の話をし、そこから諏訪の話へとつなげる。
「どういう方なんですか? その、もう一人の秘書さんは……」
「そうねえ。私と正反対の人よ」
「というと、相性が悪い?」
春子は笑う。その笑いにアルコール分が含まれている。
「どうかしら。意見は合わないけど、仕事はしやすいのよね」
「お互いに足りないところを補えてる的な?」
「そういう面もあるかな。例えば、私、特定の人に嫌われやすくて……」
「えーそうですか? 春子さんは誰からも挨拶されてて、愛されてる感じしましたけどー」
「多数の人とはね。でもね、全員からなんとも思われていない人間にはなれるけど、全員から好かれる人間になるのは不可能だと思うの。私を嫌う人は、まあひねくれてるっていうか、笑顔で話しかけると嫌な顔する人ってたまにいるじゃない。こいつ笑ってればなんでも許してもらえると思ってんだろ、って考える人が。悪意を基本に人格を構成しているみたいな感じ? 私にとって本当に相性が悪い人って、そういう人なんだよね。でね、諏訪君はそういうひねくれた人と仲よくなれちゃうの」
「それは諏訪さんも悪意を基本にしているから、ですか?」
春子が頬を膨らました。「会ったことのない人を悪く言わないの」
……怒られた。
「諏訪君は笑顔がへったくそなのよね。こいつ本当に楽しんでんのか? みたいな。つまらなそうとか嫌そうとか、そういうのとは違うの。これは義理の笑顔ですってのを、彼は隠そうとしない。そういう裏しかなさそうなところが悪意ある人には受けるのよ。笑顔って普通はあなたに敵意を持っていませんよって、言い換えると、私はあなたの味方ですよって伝えるのが役割じゃない。でも諏訪君はへったくそな笑顔を浮かべることで、自分が味方だってことを効果的に伝えるんだ」
「じゃあ諏訪さんは誤解されやすいだけで本当はいい人なんですか?」
それだと困ったことになる。
春子はけだるげに手を振った。「ないない。だって彼、命令するの大好きだもん」
「……はあ」
「人が自分の思い通りに動かないとキレるの。意図を説明してお願いすればやってくれるのに、命令だけするもんだから、いっつも反発食らってる。命令自体は効率的なんだけどねえ。人の感情を計算するのが嫌いなのよね」
「最近流行のコミュニケーションを軽視した自称できる人?」
「んー」春子は頭の後ろで両手を組む。「……そういうのでもないな。諏訪君は人の感情を計算するのが嫌いなんであって、苦手なわけでは決してない。人はこう言えば動いてくれるってのを私以上に理解してるのに、実行する気がそもそもないんだよね」
「やっかいな人ですね」
「はい、そこ。悪く言わない。つまり、彼は自信があるの。自分の思ってる通りにみんなが動けば、世の中はもっとよくなる。そういう絶対の自信が彼にはある。彼にとって人の考える能力は邪魔でさ。彼が欲しいのは命令を忠実に実行するロボットなのよ。わざと言葉を尽くさないことで、相手がロボットかそうでない人間かを見極めてる節がある」
春子から聞く諏訪のイメージはあまりよくない。何度か否定はされたものの、悪い人間と考えても問題なく思えた。
二十二時過ぎに春子と別れて、この日は終わった。
七時。スイートルームのベッドに戻った私は、適当に時間を見計らってエレベーターに乗った。三十九階に着いてもVIP用レストランには入らず、エレベーターの周辺にいた。
猪去に報告し終えた諏訪がエレベーターのボタンを押したところで、私は彼に近づいた。
「……あの、諏訪さんですか?」
私たちはここで初めて会ったんだと、強く意識して話しかける。
諏訪は凍死したキリギリスを見る目で私を見る。
「そうだけど、あんたは?」
「今度ショーガールとして働くことになった天田と言います」
「……ああ、城野が言ってた女か。あんた、借金あんだろ?」
いきなりなにを言うんだ、この人は?
「じゃねえとショーガールなんてやらねぇだろ」
……あまりの台詞に呆然とする。意味が分かると、目の前の男をぶん殴りたくなった。しかし私は一応抑えた。前もって春子に聞いていた人物像を呼び出し、どう対応すべきか考えた。
「……はぁ。あの、……分かります?」
言ってみて、今度は自分をぶん殴りたくなった。
私がショーガールをしているのは、ダンスが好きだったからだし、中でも官能的なダンスが一番自分に向いていると思ったからだ。
それでも効果はあったようで、諏訪は春子の言うへったくそな笑みを浮かべた。
「あんまり客と親しくなるなよ。ホテルの品位が落ちるからな」
「あー、やっぱダメですか」と言いつつ、頭では諏訪を殺すところをイメージしていた。
「どうしてもってなら俺に言いな。数年経てば富豪の仲間入りを果たしてるし。出世払いってヤツさ」
ようやくエレベーターがやって来る。諏訪が入り、扉が閉まってから、私は肺の空気を怒りと共に吐きだした。
……心証は最悪だった。
初対面で数分しか会話できず、諏訪の方にも話をつなげるつもりがない。こんな状況で欲しい情報を得るのは至難の業だ。
話さなければよかった。
そう思う反面、それでも話してよかったとも私は思った。
不快なやりとりの中、気になったのは最後の台詞だった。
数年経てば富豪の仲間入りを果たしてる。
普通に考えれば、出世して給料が増えるという意味だ。しかし、そこに私の持つ情報、七時に猪去が死ぬことを当てはめる。すると、この台詞は別の意味を持つ。
猪去の遺産はどう管理されている?
親族はいない。猪去はそう言っていた。剥製に何百万とかけるお金を持つ猪去だ。その遺産総額は馬鹿にならないはず……。
となると、死んだあと、資産は誰に行く?
遠い血縁をたどる? どこかへ寄付する? それとも、誰か親しい人間に渡す?
日が落ちる。
二十一時になってから、私はもう一度春子に会いに行った。
「今日諏訪さんと話したんですよー」
他に客のいないバーで春子と話す。春子は顎で続きを促す。
「もう最低な人でした。ああ、この世にあんな人がいるなんて!」
「諏訪君は初対面の相手ほど試すからね。ちなみになんて言われたの?」
「借金があるんだろって。でないとショーガールになんてならないだろって」
春子が名前の長いカクテルを頼んだ。
「……酷いねえ。まあ客あしらいの練習と思うしかないかな」
「むしろ犬に噛まれる練習って感じです」
「あはは」春子が置かれたカクテルを飲む。「でもね、ショーガールとして働く限り、お客様の中には同じことを思ってる人だって必ずいるわ。下着に近い格好で踊るんだから、誘えば寝るだろう。金を払えば言うことを聞くだろう。なんてったって、俺は男でこいつは女なんだから。そういうスタンスのお客様は絶対にいる。特に勝って気が強くなってるお客様なんかはね。多分、諏訪君はそういう人が来たときに、天田さんがどう反応するかを試したんじゃないかしら?」
「試すタイミングってものもありますよ。出会い頭いきなりですよ、いきなり!」
「逆に、いきなりだから試せたとは考えられない? 自分がどういう人間か知られていない段階で言う。これって、実際にぶしつけなお客様から声をかけられる状況により近いよ」
「例え春子さんがなんと言おうと、こればっかりは認められないです! しかもやたらと金持ちアピールしてきたし!」
「金持ち? 諏訪君が?」春子は怪訝な表情を浮かべる。
「数年経てば富豪の仲間入りを果たしてるからどうのこうのって」
「数年経てば、ねえ。……あれはやっぱり諏訪君だったのかしら?」
春子は声を抑えて言った。
「なんですか、春子さんまでその含みのある物言いは? 内緒のことですか? 教えてくれないと暴き立てちゃいますよ」
「これ、結構冗談じゃ済まない話なのよね」
と言いつつも、春子は教えてくれそうだった。
私は上手く春子をなだめすかして、話させる。
「……まあそこまで言うのなら。でも、絶対私を信じて、ここだけの話にしてね」
「します、します!」
「天田さんは子供の頃にお釣りをごまかしたことってある?」
「ないですよー。うちの親、厳しかったですもん」
「私はあるんだけど」そう聞いてちょっと驚く。「いえ、子供の頃の話よ。ほんと私がお小遣いももらえなかったほど小さかった頃の話。ほんとよ」
「そんなに必死にならなくても、分かりますって」
「ええと、なんの話だっけ。そうそう。お釣りの話だ。あの、私ね、千円札もらって、ネギ買ってきてーって言われるじゃない。そしたらまずは近所のスーパーに行ってネギの値段を調べるの。その次に一時間ぐらい歩く遠くのスーパーに行ってきてネギを買うの。遠くのスーパーの方がいつも安かったからね。で、その差額でお菓子買って、食べながら帰ってたのね」
「それはまた随分努力的な子供ですね」
「……無理矢理いい解釈されてる。
二百円のものが百八十円とかで売られてるだけだから、金額としては二十円ぐらいよ。でも確率にすると十パーセント。十パーセントって大人になると馬鹿にできないのよね。百億円かかるプロジェクトの十パーセントをごまかしたら十億円が浮くわけだから」
「浮いたんですか?」
「噂の域は出ないけど、どうも経理を詳しく調べたら浮いてたみたいなの。当然、犯人は誰だーって話になったんだけど、これがはっきりしなかった。重役クラスじゃないとできない強引なごまかし方をされてたわけ。査問委員会まで開かれたのに、誰も怪しい人物はいない。そこで、最後に注目されたのが諏訪君だった……」
「ん? でも諏訪さんってただの秘書ですよね。だったら、疑われるのはその補佐されている側、猪去さんじゃないですか?」
春子は首を振る。
「猪去さんは忙しいから、結構秘書に任せてたのよね。当時は書類を読まずにハンコを押すこともたまにあって。あ、いまはそんなことないからね。さすがに査問委員会で懲りて、隅から隅まで確認するようになったから」
確かに猪去は寝る間も惜しんで、朝の五時までメールをチェックしていた。あれはあれで、もう少し任せた方がいいと思ったが……。
「結局、猪去さんは諏訪君をかばったの。諏訪君は真面目で優秀な人間だって。不当な対価を嫌う人種だって熱弁を振るったのね。説得のかいあって、結局諏訪君が懲罰を受けることはなかった。でも猪去さんは諏訪君が疑われたこと自体ショックで。もっと自分がしっかり書類を読んでいれば、諏訪君が嫌な目を見ずに済んだはずだって反省した。それ以来、猪去さんは自分の睡眠時間を削ってでも書類に目をやるようになったってわけ」
「えー、結局犯人は分からずじまい?」
「っていうか、本当にお金が浮いていたかも分からずじまい」
「浮いたお金は十億?」
「その倍って噂」
「うひゃー」
と軽く驚いてみせながらも、私は考え続けている。
「じゃあ諏訪さんが言っていた数年経てばってのは……」
「外国の口座か、もしくは貴金属と交換して、使える時期を待っているとか」
私は春子と話すことで諏訪の背景を探った。そして、想像以上の金額が現れた。
二十億ものお金は人を殺す動機になり得る。
しかし、全部が全部私の願う通りに進んでいたわけではなかった。
別の問題が新しく顔を出している。
どれだけ金額がすごくとも、春子から聞いた通りの話では、諏訪が猪去を殺す動機にはならないのだ。
春子の話は不確かな噂でしかない。この不確かな噂を猪去が殺される動機にするには、まだなにかが足りない。あるいは、どこか事実との相違が生じているのかもしれない。
私は仮説を新たに立てる。
借金があるのか? と私に訊ねた諏訪自身が、実は借金を抱えていたとしたらどうだろう? 二十億あれば返せる借金だが、いきなり一括で支払われれば、真っ当なサラ金なら絶対に疑う。そこで疑われないよう猪去を殺害し、その遺産で借金を返せたことにする。
……どうも遠回りすぎる気がする。
私が私怨で殺したせいか、どこまでお金が人を殺す動機になるか、いまいち実感がない。
こういうのはどうだろう? いまになって猪去が当時の事件を調査した。その結果、当初の意に反して、諏訪が大金をだまし取った尻尾を掴んでしまう。焦った諏訪は、公表される前に猪去の殺害を決意する。
……待てよ。調査?
サイキ・グランド・ホテルには肌鰆喜一郎がいる。あの名探偵はバカンスと言っていたが、一度だけ「一日で終わるゴミ仕事」と口にした。
ゴミ仕事。それはこの調査のことではないか?
肌鰆喜一郎はどんな事件でも解決する。彼なら殺人事件だけでなく調査だってこなせる。
夜が明けて、私はスイートルームで目覚めた。
昼過ぎにスポーツ・ベッティングルームへ向かう。
芋洗刑事がいない分、朝食時より昼食時の方が話しやすいはずだ。
私はいつも通り空いている席に腰を下ろした。
「どうやら僕に話があるようだな」
いきなり言われて私は文字通り飛び上がった。腰が数センチ浮いたのだ。
このビリジアンセーターの青年はなんでも見透かす目を持っている。敵に回すと怖いが、味方に対しても怖い。それが肌鰆喜一郎の一族なのだ。
「……肌鰆さん、あなたは仕事で来ていますね?」
「僕の名前を誰かから訊いたか」
あなた本人からとは言えず、私は黙って頷いた。
「質問に答える義務はないが、頷いてくれた義理に対して応えよう。答えはノーだ」
「依頼人の守秘義務を守ってるわけですか?」
「どうも誤解があるようだ。僕が土浦にいるのは最初からまるっと完全に資金稼ぎのためなのだ。全ての人類の頂点に立つこの僕が、ギャンブル程度で負けるはずがないからな。カジノの存在する限り、僕が資金に困ることなど永遠にあり得ないのだ」
……すごい自信だ。
「はぐらかすのは止めましょう。私は人命を救うために……」
「それはそれは。ご立派ではないか」肌鰆喜一郎は最後まで言わせてくれない。「しかし僕にはどうでもよい。僕にとって大切なのは、面白いか面白くないかだ。人の命など、面白さの前には取るに足らないゴミ要素に過ぎん。だからくだらない前置きは止めたまえ。君の話は僕にとって面白いのかね?」
「あなたは諏訪さんを知っていますね?」
「知らん」
「総支配人の二人の秘書のうち、男性の方です」
「男の名などますます知らん。そもそもその総支配人すら知らん」
……本当に?
「面白くならないのなら、これ以上のサービスはないぞ」
そう言うと、肌鰆喜一郎は大音量でドナドナを歌い始めた。
スポーツ観戦にいそしんでいた人たちが、何事かとこちらを振り向く。私が注意をしても、肌鰆喜一郎はいっかな聞き入れてくれなかった。
私には、すごすごと部屋を出る選択肢しか残されていなかった。
仮説は間違っていたのだろうか。話した感触では、肌鰆喜一郎は本当にバカンスで来ているだけにも思えてしまう。
なにか、自分でもよく分からないなにかが、決定的に足りていない。
朝を迎え、VIP用レストランで猪去と話す。地震を予言し、客の行動を教え、猪去から直接聞いた本人自身の情報を伝えた。
夜になると私の部屋に猪去が来る。そして彼は私を抱きしめてくれる。私は猪去の部屋に行く。
前は猪去を助けるため、朝までずっと一緒にいた。
今回は、犯人と対峙するためにあえて猪去から離れるつもりでいた。時刻は七時前がいい。離れた時間が長すぎて猪去が殺されてしまっては意味がない。猪去が襲われた瞬間を素早く知り、駆けつけられるようにしたい。
猪去が仕事をしている間に、私はエレベーターに仕掛けを施した。紐に通した鈴を、扉の中央部に引っかけたのだ。紐の両端にはセロハンテープがついている。もし誰かがエレベーターを開ければ、中央からセロハンタープなり紐なりが切れて、鈴を鳴らす仕組みだった。
仕掛けを終えた私は、最上階フロアを一周した。
仕事部屋、娯楽室、寝室、コレクションルーム。どこもこの間と同じ様子だった。変わった動きはまだない。
仕事部屋まで戻り、オレンジジュースを入れてもらって、私は猪去と会話する。
「答えにくいことを訊いてもいいですか?」
ある程度談笑してから、私は話を切り出した。
「天田君の口から発せられることならなんでも聞くとも」
「じゃあ思い切って言います。猪去さんは消えたお金をどう考えてますか?」
「消えたお金? レストラン事件の話か?」
それは私にとっては遠い昨夜、逮捕者の出たVIP用レストランの話だ。
「違います。もっと巨額のお金です。噂によると二十億円ぐらいになるとか」
「……ああ、その話か」猪去が眉をしかめる。「私には分からないよ。見当もつかない」
「調査したんじゃないですか? そのために肌鰆喜一郎を呼んだ」
猪去は困った顔を浮かべる。「そうか。君は彼のことを知っているんだったね」
「猪去さんも知ってたんですよね。肌鰆喜一郎さんがなにをしている人なのか」
渋々といった態で猪去は頷く。「この国の上層部で彼を知らない人はいないよ。私は政治家のパーティーで彼と知り合ったんだ。彼をサイキ・グランド・ホテルまで呼ぶのには骨が折れた。なにしろ彼は、芋洗君以外の男のことは全然覚えようとしないのだから」
……なるほど。決して肌鰆喜一郎は全部が全部嘘をついていたわけではなかったのだ。あえて言うならば、私がアプローチの仕方を間違えていたのだ。
根拠の乏しいダメ元の指摘だった。それでも猪去が認めた以上はこちらのものだ。思いついた仮説を適度に調節し、絵を描く。
当然のように指摘した真相が間違えていても、次の日に訂正した真相を告げればよい。
やり直しはいくらでもきくのだから。
「猪去さんは、彼を呼んだ。それは二十億円の調査のためですね」
「……その通りだ」猪去が言い、ついに裏づけが取れた。
「肌鰆喜一郎は、いまはバカンスを楽しんでいるそうです。ということは彼はすでに真相を掴み、あなたに報告している。私にもその真相を教えてください。諏訪はいったいなにをしたんですか?」
「……諏訪君?」猪去が私をじっと見る。
「猪去さん。もうごまかすのは止めましょう。これは冗談ごとではないんです。このままだとあなたが殺されてしまう」
「……な、なんだって?」
言うべきか言わないべきか、私は最後まで迷っていた。しかし、結局は言わざるを得なかった。猪去がなにも知らないままでは、諏訪を近づかせてしまう。殺されたところで二十四時間戻るだけとは分かっていても、可能な限りあんな光景は見たくない。
時計を見る。七時まであと一時間だ。警戒心を持ってもらえれば、助けるのは簡単になる。諏訪が姿を現したからといって、易々と近づかせる真似はしなくなる。
「私は、殺されるのか……」
「そうです。私はそれを止めるためにここにいます。私にはどうしても肌鰆喜一郎の調査結果が必要なんです。諏訪はお金をどうしたんですか? なぜ猪去さんは殺されなくてはいけないんですか!」
「いや、だが……」
「猪去さん!」
猪去は目をぱちくりとさせて私を見た。
そしてゆっくりと口を開き、
「君の言っていることは調査結果と違う……」
「え?」
今度は私が驚く番だった。
「肌鰆君の調査結果では、お金を得たのは諏訪君ではない……」
「じゃ、じゃあ誰だって言うんです?」
猪去は口を開く。舌を動かし、喉を震わせる。喉から発せられた言葉は、鼓膜を震わせて、私の心を震わせる。
猪去は意を決したように、ゆっくりと言う。
「……ハルちゃん、だ」
な、なんて?
「お金をごまかしていたのはハルちゃんだった。当時の彼女は、個人ではとても支払いきれない量の借金を抱えていた」
「でも、あのしっかり者の春子さんなら、盗むより自己破産を選ぶでしょう」
「……それは違うんだよ、天田君。ハルちゃんの借金はギャンブルで作ったものだった。サイキ・グランド・ホテルではない、別のカジノで作った借金だった。ギャンブルでこしらえた借金は自己破産できないんだ。だからハルちゃんは私のハンコを勝手に使い、サインを偽造した。その金で借金を払い、完遂するとまたギャンブルに手を出して、借金をこしらえて、サインを偽造した。ハルちゃんは何度もそれを繰り返していた」
「そ、そんな……」
衣装係の台詞が脳裏に浮かぶ。
仕事以外では春子とはつき合うな。
衣装係はそう私に忠告した。
「私は、報告書を見るまでハルちゃんに借金があったことさえ知らなかった。重役のみんなも、査問委員会のみんなも、誰もが彼女を好きだった。私たちは誰もハルちゃんを疑わなかった。だから、疑われたのは諏訪君だけだったのだ」
笑顔で話しかけると嫌な顔する人とは相性が悪い。そう春子は言った。あの衣装係はまさにそのタイプだった。衣装係は、春子の性質を見破っていた。
「私はいまでも迷ってる。ハルちゃんにどこまで伝えるべきか。このまま仕事を続けさせるべきか、それとも辞めてもらうべきなのか」
……それが、動機?
猪去が殺された動機は、やっぱり口封じ?
「……信じられない」
「決断のときが近づいている。昨夜のレストランの逮捕劇は見たのだろう? あの従業員どもが、誰の紹介で雇われたかは知っているかね?」
「誰って。普通は人事の……」少なくとも、私はそうだ。
「ハルちゃんだ。逮捕されたのはハルちゃんが連れてきた人材だったんだ。ハルちゃんの借金はまた膨らんでいる。しかし、いまは私が細かくチェックしているから経費をごまかせない。だから彼女は借金を軽くするために、借金取りの連中に言われるがまま、すねに傷のある人間をサイキ・グランド・ホテルに送り込んだのだ。ハルちゃんはあんなにいい子なのに、お金が絡むと人が変わったようにだらしなくなってしまう……」
猪去の苦悩が、私の心を押し潰す。私は息苦しくなって立ち上がる。
「……諏訪さんにしろ、春子さんにしろ、誰か来ても近づかせないでください」
そう呟くのがやっとだった。
私は急いでトイレに駆け込んだ。
胸に手を当てて呼吸する。
春子はどういうつもりで、私にあんな話を聞かせたのだろう。さも諏訪がやったかのように、自分の犯罪を告げたのだろう。あのとき見せた人懐っこい表情は、全部演技だったのだろうか。「私を信じて」と言いながら、嘘の情報を私にすり込ませようとしていたのか。
所詮、私は疑いやすい人物を疑っているだけだったのだ。犯人であればよいと思った人を犯人に仕立て上げているだけだった。その結果、身勝手に諏訪をおとしめて、今度は猪去を苦しめている。
こんなことで、本当に殺人を防げるのか?
気持ちを休めている暇はなかった。スマートフォンを開くと、すでに六時半を回っていた。
あと三十分足らずでこの日が終わる。これ以上長くトイレにいると、猪去の命は……。
私はトイレを出る。そして、
――猪去の刺殺死体を発見する。
「……早すぎる」
さっき見たばかりのスマートフォンを再び見る。六時三十五分だった。七時まではまだあと二十五分もある。この時計が遅れてるのかと、部屋の時計を見る。
時計が表しているのも、六時三十五分だった。
……鈴は?
死体から目をそらして、私はエレベーターに駆け寄った。屈み、そこにある仕掛けを確かめた。
扉で紐がピンと伸びている。その両端はセロハンテープでくっつけられている。私の仕掛けた紐の長さで、私の仕掛けたセロハンテープの長さだった。剥がれて一度つけ直した形跡もない。
鈴は落ちていなかった。
――違う。全部違ったんだ。
猪去が殺されなかった二回目の夜。あのとき私は中座せず、ずっと猪去と話をしていた。
もし犯人がエレベーターを上がってくるのなら、二回目のあのときも、一回目と同じ時刻に犯人はやって来たはずだ。なぜならこのフロアの窓は、外から覗けない構造だから。
内部の様子は外からでは分からない。だったら犯人は時間通りに来るしかなく、私のいる前でエレベーターの扉は開いたはずだ。私は訪問者の姿をこの目で見たはずだ。
しかし実際にはあの夜、エレベーターの扉は開かなかった……。
つまり、犯人はエレベーターで来たわけではなかったのだ。これがどういうことかというと、犯人はずっとこのフロアにいた。猪去が仕事をしている間も、私たちが二人で話している間も、犯人はこのフロアのどこかでずっと息を殺し、タイミングを見計らっていた。
犯人は確実に猪去を殺せるタイミングを待つ。そして私がいなくなる隙を狙って殺す。
……いや、待てよ。
私は恐ろしい事実に気がついた。
鈴は犯人の侵入を防ぐつもりで設置したものだった。しかし猪去が殺害されたいまは、これが別の意味を持つ。
鈴が落ちていないということは、つまり、
――猪去を殺した犯人は、まだ、ここにいる。
私は部屋を見渡した。こんなときに限って、キャリーバッグに出刃包丁を入れっぱなしにしていた。あれさえあれば私は誰よりも強く戦えるのに。
……最悪、私が犯人に殺されても七時に戻るだけのはずだ。
いまは他殺ならタイムスリップしないだなんて考えてはいなかった。星定男に殺されるならともかく、諏訪にしろ春子にしろ、その辺の人間に殺されただけでこの繰り返しが終わるなら、自殺したときに終われたはずだ。
警戒してタイムアップが来るより、素早く動いて殺される方が、犯人の姿を見られるだけ次につながる。
私は物怖じせずに動くと決めた。
まずはフロアをしらみつぶしにする。
仕事部屋のキッチンの下、娯楽室の本棚の間、寝室のウォーキングクローゼットの中、そしてコレクションルーム……。
人が入れそうなところは全部見た。しかし誰もいなかった。ランダムに部屋を入ったり出たりしても誰もいない。
もう逃げてしまったのかとエレベーターに駆け寄ったが、鈴は変わらずそこにある。
時計を見る。六時五十五分。
私にはあと五分も時間は残されていなかった。
どこを探せばいい。どこに犯人がいる? どうすれば先に進められる?
私はフロアをもう一度回った。ちゃんと見ていない部屋が一部屋ある。それはコレクションルームだ。なぜならあそこだけは隠れる場所がないからだ。
ドアを開けると、熊の剥製が両腕を上げて、私に襲いかかろうとしていた。
その爪が振り下ろされるのが先か、それとも七時になるのが先か……。
――熊?
私はもう一度、熊を見た。
天井まで届く熊の剥製。その高さは三メートルほど。剥製は背丈があって、横幅も広い。
『あれは入れるのも大変だった。防腐処理を施しているとはいえ、剥製は本来ならケースに入れなくてはいけなくてね』
……ここに飾られている剥製はどれもケースに入っていない。
熊の剥製。
そうか。そうだったんだ! 熊の剥製だ。ここには人が隠れられるスペースがある。誰にも気がつかれず、じっと待つことが可能なスペースがある!
私は剥製に手を伸ばした。硬い皮の奥に、強い弾力が感じられた。これ以上触れていると、熊の爪で私の身体が引き裂かれる気さえした。
私はコレクションルームを見渡した。そして部屋の隅に飾られていた、民族的な槍を手に取った。
槍は観賞用のお土産ではなく、本物だった。いますぐライオン狩りに行けるほど刃は綺麗に磨かれている。これなら凶器に申し分ない。
私は槍を水平に構える。手に力がこもる。
私は久しぶりに人を殺す感覚に酔いしれた。
狙うのは、しゃがんでいても立っていても絶対に当たる箇所……。
熊の中心よりやや下の……、
ヘソだ。
「死……ッ!」
叫んだところで、私の身体が転がった。
槍は熊を貫通した。四角い柱に刃が当たって、甲高い音が鳴った。バランスを崩して、私は隙だらけになった。
慌てて体勢を整える。
……しかし、熊は襲いかかってこなかった。
おそるおそる槍を引き抜く。
どこにも血はついていなかった。
視線を転じると、白いものが熊の傷口から飛び出ているのが見えた。
「……発泡ウレタンだ」
剥製の他の箇所も滅多差しにする。しかし、どこを刺しても手応えはない。槍はただ発泡ウレタンを貫通するだけだった。
……熊ではないのか?
制限時間が迫っている。
私は馬の剥製に向かった。
馬の足は細すぎる。人は隠れられない気がするが、お構いなしに私は馬の剥製を滅多差しにした。
……違う。
中に入っているのはただの発泡ウレタンだった。
となるとあとはもう鹿だ。鹿しかない。
私は鹿の剥製に槍を向けた。立派な角にガードされないよう、槍を注意深く突き刺す。
……これも、違う?
熊や馬と同じように、鹿の剥製から飛び出たのもただの発泡ウレタンだった。
これで、無事な剥製はコンドルだけになってしまった。
コンドルは羽を広げると三メートルもある。
しかしコンドルは薄い。人が隠れられるスペースはない。
コンドルは違う。明らかに違う。
私は槍を捨てて、コンドルに触れた。詳しくは分からないが、他の剥製と似た感触だった。押せば弾力となってその分戻ってくる。中身が他の剥製同様、発泡ウレタンなのは間違いなかった。少なくとも小人が入っていないのは確実だ。
隠れ場所は剥製じゃない……。
諦めて他の部屋の探索に戻ろうとしたとき、私はうっかりコンドルの片翼に指を引っかけてしまった。
剥製が倒れる。そう思ったが、コンドルの翼はゆっくりと動き、そしてぎこちなく元の位置に戻っていった。
それは不自然な動きだった。中に発泡ウレタンが入っているだけなら、こんな動きはしないはずだ。まるでゼンマイ仕掛けのように、コンドルの翼はぎこちなかった。
『……コンドルはね、南米では様々な国旗に描かれているぐらい特別な鳥なんだよ。なによりも優雅に雄々しく飛ぶ。私が見に行ったときは、コンドルは一度だけしか羽ばたかなかった。しかし、そのたった一度の羽ばたきで、コンドルは長く美しく飛んでいた。南アメリカの伝承では、神の住まう地域に連れて行ってくれるのがコンドルなのだそうだ。だから私はコンドルの剥製がどうしても欲しかったのだ』
私はコンドルの翼、片方だけでなく、今度は両翼に手を伸ばした。
そしてその翼を、一回羽ばたかせた。
ギギギとかすかに音が鳴る。音はコンドルとは違うところから発せられていた。コンドルの剥製のさらに奥、四角形の柱から音は鳴っていた。
なんでもなかった柱に切れ込みが入る。切れ込みは私の厭う傷口だった。傷口が音を立てて広がる。それは扉となり、入り口となる。
柱の奥から出てきたのは、下へと続く階段だった。
VIP用レストランと展望台があるのは三十九階だ。
猪去は自室を最上階だと言っていた。一方、春子はこのビルは四十階建てだと言っていた。それゆえに私は、猪去の部屋は四十階にあるのだと思っていた。
しかし普通のホテルに十三階はないのだ。つまり猪去の部屋は四十一階にある。
こここそが、唯一四十階に行ける階段なのだ。
私は慎重にコンドルの剥製を避けて、柱の奥の階段に足を載せた。
その瞬間、明かりがついた。
私は驚いて一歩下がった。
自動的に感知する明かりだった。これによって私が階段に入ったことは、殺人犯に気づかれたはずだ。
……でも、怖がっている時間はない。
私は階段を降りていった。
柱の中の階段は、丸くカーブがかかっていた。急な襲撃にいち早く気づけるよう、私は極力外側を歩いて視界を確保した。右手は壁につけ、左手は胸の前でガードする。
いきなりナイフで刺されても、相手の顔を見る余裕ぐらいは作ってみせる。
階段が終わる。靴が平べったいフロアを叩く。
大きなフロアが広がっていた。そこは上の四部屋を全て合わせたよりも大きな一つの部屋だった。
この隠しフロアは、広い一方で視界を隠すものも多かった。たくさん積まれた障害物のせいで、奥まで見通すことができない。人が隠れられるスペースが十分にある。
障害物は全て同じものだった。棚でもなければベッドでもない。クローゼットでもなければ土産物でもないもの。
コンドルの羽ばたき。アンデス山脈でコンドルが羽ばたくとき、連れて行かれる場所は黄金の眠るエル・ドラド。
そこに積まれていたのはまさしく全て黄金だった。
それも、ただの黄金ではなかった。
私はそこに積まれたものを一冊手に取った。そしてその表紙を見た。
裸の女性が、四つん這いになって力む写真……。並んでいるのは全部同じ系統の雑誌だった。
ここは、猪去のもう一つのコレクションルーム。
黄金は黄金でも、SM用語の黄金を集めた部屋だった。
私はスマートフォンを開いた。
ちょうど7時2分になったところだった……。
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