慈愛の一片 2
まずは、自分が置かれた状況を確かめるのが先決。
サユはファイスから距離を取るようにして寝台を降りた。足許がふらついたが、なんとか踏みとどまる。あらためて部屋のなかを見回すと、質素な
「ここは、どこ? まさか……砂界?」
「いや。君たちの言う、扉のさきにある道のような場所だと考えたらいい。だから精霊もいない。当然、君の使精も入ってこられない」
逃げ場も助けもないと認識させるような内容だからか。意外にも、ファイスは正体を明かすまえと同じく丁寧な答えをくれた。
「あの月魄と魄魔の女はどうしたの? なぜ、私は無事でいるの?」
「女も月魄も僕が殺しておいたよ。口にした言葉には責任を持つ。言っただろう? 君を護るって。そんなことより、お腹は空いていないかい? 簡単なものなら用意できるよ」
ファイスの返答に、サユは言葉を失う。心のどこかに彼を信じたい気持ちがあったのかもしれない。けれど、命を奪った話と食事の話を横並びに口にされると、あとには不快感しか残らなかった。
「——食べてくれるわけ、ないか」
落胆した面持ちで伏せられた黒瞳には、やはり感情の変化は見られない。
「あなたの恋人ではなかったの?」
「恋人? 彼女が? まさか、まだ君は、魄魔である僕を受け入れられずにいるのかい?」
「少なくとも彼女は、あなたの知り合いではあったのでしょう?」
「そうだね。彼女は実際、僕に対して好意を抱いていたよ。だけど僕は違う。遊びでつき合うのに、魄魔ほど都合のいい相手はいないだろう? 面倒になったら後腐れなく消せるからね」
頼んでもいないのに、ファイスは徹底的にこちらを幻滅させてくれる。
「結局、あの女に手をかけた理由は、あなた自身の都合だったというわけね。そうやってあなたは、いったい何人の命を奪ってきたの」
「僕の過去に興味があるのなら、一年前の事件の真相も教えようか」
「もう充分……。あなたがどんな男なのか、よく解った」
嫌悪の滲み溢れたサユの返答に、ふっとファイスが
「さっきからなにを探しているんだい? 君の短剣なら一階に置いてある。好きに取りに行くといい。帰りたいのなら玄関を出て、そのさきにある小道に沿っていけば、あの泉に戻れる」
いま一番必要としていた情報に、サユはファイスへと視線を戻す。
実際、目を合わせるのも厭だという態度を取りながら部屋のなかを盗み見ていたし、武器になりそうなものを求めつつ逃げ道を探ってもいた。それだけに、明け透けに話すファイスの意図が掴めず、その真偽を疑い取るべき行動を決めかねる。
そんなサユの迷いを察したのか、ファイスは続ける。
「僕には、君の命を奪うだけの理由がない。逆に、君にもないだろう?」
「魄魔相手に、理由なんて必要ないわ」
「なら、剣を手に戻ってくればいい」
ファイスは軽く首を捻り、扉のさきを示した。
どう考えようと道は限られている。なによりこうしていても状況は変わらない。動くことを選択したサユは、部屋を出るためファイスのいるほうへと一歩を踏み出した。
「ほかに、なにか訊きたいことは?」
無言で横を通りすぎようとすると、ファイスから問われた。
「魄魔に訊きたいことなど、なにもないわ。返ってきた答えが真実かどうか疑わしいもの」
サユはファイスの目をまっすぐに見た。
だが、ファイスはかすかに笑みを浮かべると、目を伏せ視線を逸らしてしまった。
「それもそうだね」
独りごちるように呟いたその姿に、サユは落胆する。
自分は彼に、魄魔であることを否定して欲しかったのだろうか。そもそもなぜ、偽りの姿で居続けてくれなかったのか。
討つべき相手に抱いた感情に戸惑いながら、サユは階下へと向かった。
階段を下りたさきは居間のようだった。
絨毯の敷かれた暖炉まえには長椅子が置かれ、窓ぎわには食卓と四脚の椅子もある。二階にある調度品と同じく華美な装飾は見られず、素朴で生活感の窺える部屋だった。
サユは階段わきの飾り戸棚の上に目を留める。胸の高さほどの位置にある天板には、無造作にサユの短剣が置かれていた。
短剣に関しては嘘はなかったようだ。だからだろうか。より複雑な心境にサユは陥る。
考えてみれば、魄魔の女にひと太刀も浴びせられず意識を失ったのに、命があるのは彼に救われた証拠ではないか。それは、どれほど都合のいい考えなのだろう。女を殺したという言葉自体、嘘かもしれないのに。
サユは自嘲するしかなかった。短剣を手にするも、ファイスのいる二階へと戻れるだけの気概が持てず、足は意に反し、外に繋がっているであろう扉へと進路を取っていた。
逃げるように扉を押し開け、建物から出て周囲を見回す。
「どうして……」
サユは知らず声を漏らしていた。ファイスの言葉に嘘があったわけではない。本当にここは緑界とは違うのだと、あらためて実感していた。
二階建ての、どちらかといえば質素な家。それ自体はランカース公領でもよく目にする木組みに石材を使った造りで、取り立てて挙げる要素はない。サユが驚きを見せたのは、家を取り囲む情景にだった。精霊の息吹をまったく感じないのに。ささやかな庭には初夏のごとく庭木の若葉が瑞々しく茂り、四季折々の花たちが季節を無視し、いっせいに咲き乱れていた。
赤い八重の花を咲かせた蔓薔薇の絡む門を、サユは信じられない面持ちでくぐる。そこで立ち止まると、ついさきほど自ら閉じた扉を振り返った。
だが、扉が開く気配はなく、サユは未練を断ち切るようにその場をあとにした。
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