Lost Pilgrim

片栗粉

名も無き騎士

血を流したような赤い花が一面に咲き誇る。


その鮮やかな花弁がふわりと風にたゆたい、赤い雨を降らせた。


その中に水色のドレス姿の少女が、風の中に白金の長い髪を靡かせて佇んでいる。


だが、少女の顔だけがよく見えない。明らかにこちらを向いているのに。


はらはらと温い雫が頬を伝って、初めて自分が涙を流しているのだと知った。



何故、私は泣いているのだ。


滲んだ視界が彼女の顔をかき消し、見ることができない。


涙は泉のように湧き


言葉にならない慟哭が響くのみ。


何故だ。


ああ。済まない。許してくれ。


*******


ぬるま湯に浸かっていた意識が、ゆるゆると浮かび上がり水面に顔を出した。


どれだけ眠っていたのだろうか。随分と懐かしい夢を見ていた気がする。胸を掻き乱すような、哀しく、狂おしい夢だ。だが、その中身はおぼろげで、明確には思い出せない。


「……此処は……?」


冷たい砂利の上に長い時間横たわっていたのか、酷く身体が怠い。辺りを見渡すと、一面に薄く靄がかかっていて、空は今にも泣きだしそうな鉛色の雲に覆われている。


直ぐ目の前にはその曇り空を鏡映しにした陰鬱な色の河が流れていた。


対岸は真っ白な霧の中に隠れていて、どのくらい川幅があるのかすらわからない。


私は何をしていた?それを思い出そうとしても、深い霧の中に迷い込んだように思考が迷走する。


「私は……誰だ?」


体を起こせば、ガシャリと重い金属の擦れ合う音が響く。手のひらを見る。分厚く、使い込まれた革手袋に、傷だらけの手甲。身体を触れば硬い鋼の感触しかしない。


「鎧……?」


重い体を引きずり、そばにあった水たまりを覗く。そこには、鎧兜姿の騎士が映っていた。恐る恐る顔を覆う兜を脱ぐ。現れたその顔は、短く刈られた金髪に、冬の晴天のような蒼い眼。所々生えた無精髭が男らしい精悍な印象を与える。自分の顔だというのに見知らぬ者のようにしか感じない。


「私は、騎士なのか?」


見れば鎧の至る所に傷やへこみが目立っていた。艶やかだったであろう銀の鎧は、煤や傷にまみれ見る影もない。


よろよろと立ち上がり、河の方を見る。鉛色の河はかなり流れが速く、このまま入ればひとたまりもなさそうだ。試しに手を入れてみたが、凍える程に冷たい。


「どこかに、船はないのだろうか。」


周りには人家、いや、人の姿すらない。川の流れる音と、頬を撫でる冷たい風が否応なしに孤独感を煽る。


鈍色のグリーブに守られた脚で、砂利を踏みしめながら歩き出す。


何故だか前も来たような気がしてならなかった。


「おおい。おおい。」


遠くで、声が聞こえた。嗄れた老人の声だ。


とりあえず、声の方へ向かって歩き出す。何者かもわからないが、こんな陰鬱な場所で一人きりだと気が狂ってしまいそうだった。


しばらく歩くと、小さな渡し船が見えた。傍には粗末な身なりの小柄な老人がこちらに向かって手を振っている。


「ようやく来たか。遅かったな。このまま行っちまおうかと思ったぞ。」


老人は真っ白な長い髪と髭に覆われて、目も口も分からない。こちらの方を向いているのだから見えているのだろうが。


渡し舟は船縁が朽ちていて、今にも沈みそうな代物だ。舳先には真鍮のランタンが釣り下がり、ぼんやりと黄色い光が霧の中を照らしていた。


「……そなたが、船頭か?」


老人はそれに答えずに、いかにも面倒臭そうに溜息をついた。


「あんた、記憶がないのか。マンドレイクの涙を使ったな。あれはほぼ全ての傷を癒すが、頭がイカれちまう。記憶だけで済んでよかったな。」



装備は預かってるぞ。と言うと老人は小舟に積まれていた剣と盾を指した。


マンドレイクの涙?何のことだ?

男は何が何だか分からず、困惑するだけだった。


「あんたの装備は此処にある。確かめてくれ。」

「……ああ。」


言われるままに、船底に転がされていた剣と盾を手に取る。刀身は何の変哲もない鋼の直剣だ。


柄に巻いている布はボロボロだったが、握ってみれば何年も使い込んでいるかのように不思議と手に馴染んだ。


左手で盾を持つ。黒銀の八角形の盾の真ん中には、漆黒の石が埋め込まれており、それを守るかのように炎を纏った二匹の黒い馬が描かれていた。


ずっしりとした盾と剣、尚且つ鎧を纏っているのに、己の身体はその重さに負けることなく、滑らかに動く。相当鍛えられた剣士だったのだろうか。


「渡し賃は1オボロスだ。」


有無を言わさぬ口調に、男は戸惑った。金などもっているのだろうか。


まごついている男をよそに、老人はさっさと男の左腰に付けていた小さな革袋をひったくって中から歪んだ銅貨を一枚取り出すと、男に無造作に投げ渡した。


呆気にとられながら老人を見やる。


「乗るのか、乗らんのか。乗るなら早くしろ。」


老人はさっさと櫂を手にして舟を出す準備をしている。男は老人の無礼な態度に憤ることも無く、素直に従った。何故だかこの河を渡らなければならないと感じたのだ。


狭い船の中央に腰を下ろすと、ぎしりと船体を軋ませながら老人が船を出した。灰色の川辺が遠ざかり、霧の中に消えようとしていた。


「この船は何処へ行くんだ?」


「モボスの門だ。正確にはその手前の灰の河原だが。」


老人がぶっきらぼうに告げる。だが、そんな場所は聞いたことはない。いや、知っていたのかもしれないが、今の状態では同じことだ。


困惑したように老人を見ていると、根負けしたのか、その痩せた肩を竦めた。


「対岸に着いたら、【茨の修道院】にいるシビールという修道女に会え。どうすればいいか教えてくれる。」


シビール。明確な目的ができた。彼女に会えば何かわかるのかもしれない。


それきり、老人は口を開くことも無く、無言で舟を漕ぎ続けた。男も舳先に垂れたランタンのぼんやりとした灯りを黙って見つめていた。


――どうして。


夢に見た、真っ赤な花の絨毯の中に佇んでいた少女は誰だったのか。

何故、そんなに哀しげな声で私に問うのだ。



対岸は、何もない川辺と打って変わって、灰色の小山が見渡す限り畝となり隆起していた。灰色の空と河と山は、見るものを不安にさせるような異様な雰囲気を醸し出している。


「着いたぞ。この道をまっすぐに行け。そうすればシビールの居る≪茨の修道院≫だ。」


船を降りると、老人は何も言わずに舟を出した。ぎいぎいと霧の中へ消えていく小舟を見送ると、男は歩き出した。


曲がりくねる道をひたすら歩き続ける。山の至る所に立っている朽ち果てた木々が墓標のように見えた。


「なんと暗い場所だ。こんな所がこの世にあるものなのか。」


だが、その言葉に反して男の足は前に進み続ける。何故進まなければならぬのか、男にもわからない。そうしなければならない何かが、男の胸の内にじくじくと燻っているのだ。


*******


立ち枯れた木々の間を黙々と歩き続ける。


ふと、気になって立ち止まった。


「……鳥の声すらしないとは。」


生き物の気配すらしないのだ。しん、と静まり返る枯れた森の中、耳をすますが、己の鎧が軋む音以外何の音も声もしない。


「此処は、地獄か。」


「いいえ。ここはリムブスの森。」


ぎくりと男が動きを止め、声の方へ顔を向けた。その先には、いつの間に現れたのか、全身をすっぽり覆う灰色のローブを着た子供が佇んでいた。子供だと思ったのは、男の腰にも満たない背丈だったからだ。


「石の道を行きますか。それとも棘の道を行きますか?」


ローブ姿の子供は、高い声でそう言った。子供特有のその声は、何だかクリームに砂を入れたようにざらざらと耳障りに聞こえ、男は眉をしかめた。


子供の後ろには枯れた藪が鬱蒼としていて、とても通れそうにない。だが、その子供の左右には、分かれ道が伸びている。


男は目の前の子供に向かって問いかけた。


「《茨の修道院》にはどちらの道を行けばいいのだ?」


子供は俯いたまま、両手を広げてからかうように身体をゆすった。


「どちらでも。道は全てつながっている。どちらを選ぶか貴方次第。」


何が楽しいのか、この灰色の景色にはそぐわぬ声音でくすくすと笑いながら歌いあげると、子供は両手をパタパタと振った。


「さあ、どちら?」


男は黙り込んだ。棘の道と、石の道。どう考えても棘の道の方が険しそうだ。


「……石の道を。」


そういうと、子供は左の道を指さした。


「行けばもう戻れない。後悔しない?」


「……ああ。」


ムッとしながら男が返事をすると、子供はひひひ、と不気味に笑った。


「それじゃあ、進め。もうこちらは進めない。」


棘の道の入り口から明らかに風音ではない、何かが大量に這い回る気配がして、男は振り返った。


「なんと……。」


その入り口は、茨の蔦に光すら入らぬほどにびっしりと塞がれており、その向こうへ進むことは出来なくなっていた。


「そなた、一体……?」


そこで、男は違和感に気づいた。子供のローブが風にたなびいたのだが、全く動く気配すら感じない。

意を決して、男はフードに手を掛けた。


「なんだ、これは!?」


ローブの中にあったのは、朽ちた切り株だった。折れた枝が左右についており、丁度、人が両手を上げたようにも見える。


言いしれぬ不気味さを無理矢理押し殺し、男は石の道を進み始めた。



「これが、石の道か。どちらかといえば、岩の道だな。」


石の道は、ごろごろとした岩が至る所に転がっており、道とは名ばかりの荒れ地だった。かろうじて、道とわかるような所が切れ切れに伸びている。


自分の背丈ほどある岩をよけ、足元の拳大の石に忌々しさを感じながら、歩き続ける。


「……ん?」


どこからか視線を感じて振り返る。だが、あるのは石や岩ばかりで、人はもちろん、獣すらどこにもいない。


視線を戻したその時だった。



今にも拳を振り下ろそうとしている、灰色の歪な大男がそこに居た。


考える前に身体が動いていた。咄嗟に身を引くと、間髪入れずにその巨大な拳が振り下される。風圧とともにその下の岩が砕け散った。


たたらを踏みながら体勢を立て直すと、改めて『それ』を見上げた。男の背丈の2倍ほどあろうか、不器用な人間がノミと槌で岩を削ったような歪んだ人型に怖気が走った。

石臼を挽くような音を立てて太い脚が一歩を踏み出すのを見て、思わず後退った。


まるで、おとぎ話に出てくるような怪物がそこにはいた。


驚きと、恐怖が全身を支配した。


これはなんだ?こいつはなんなんだ?


混乱しながらも、すらりと剣を抜き、盾を構え、目の前の《岩の怪物》と対峙した。


こんな怪物に刃が届くのか、と男は震える手で切っ先をその巨体に向ける。


そうこうしているうちに《岩の怪物》は距離を詰めて来た。


男は、ままよ!とばかりにその剣を《岩の怪物》の腹めがけて振り下ろしたが、硬い石塊を叩く空しい音と痺れが手の中に響くだけだった。


「くそっ!」


すぐに《岩の怪物》から距離を取ろうとしたが、それは叶わなかった。


いきなり左脇腹から胸にかけてに衝撃が走った。暴れ牛が突っ込んできたのかと思うほどの衝撃に、どうすることも出来なかった。


後ろの岩に叩きつけられ、痛みで息すらままならない。震える手で鎧を触る。べこりとひしゃげた胴の感触に、自分が致命的な傷を負ったのだと気づいた。


ごぼりと喉の奥から鉄臭い塊があふれ出し、兜の中から滲み出た。

刺すような激痛が、胸の辺りを襲う。意識を失えば、二度と目覚める事は出来ないだろう。


ひゅうひゅうと、か細い呼吸だけで精いっぱいの身体に鞭打ち、取り落とした剣を拾おうと必死に腕を伸ばす。だが、無情にも、ごりごりという音が、一つだけでなく、無数に聞こえる。


霞んだ視界で周りを見れば、周りの岩がぼこり、ぼこりと動き始めていた。


影が、横たわる男に被さる。

自らの頭めがけて振り下ろされようとしている拳を見たのを最期に、男はゆっくりと目を閉じた。


*******



「ああああ!」


この世の終わりかのような悲鳴を上げて、男は起き上がった。息を荒げて、兜を被った頭を狂ったように触る。


「なぜだ……。」


あれは夢だったのか。いや、違う。あの怪物に食らった一撃も、頭を兜ごと潰された感触も確かに残っている。あのおぞましい怪物は、一匹ではなかった。


「う…ぐ。」


そこまで思い出して、酷い嘔吐感がこみ上げて来た。たまらず兜を脱ぎ、背を丸めて道端を汚す。


吐いている間、己の身体に怪我すらない事に気づき、茫然とした。


なぜ、私は生きているのだ。


それだけが、頭の中を駆け巡っていた。


胃液を吐きつくし、よろよろと傍に置かれた剣と盾を手に取りながら立ち上がった。


すると、直ぐ下から、あの声がした。



「石の道を行きますか?それとも棘の道を行きますか?」


全身を覆い隠す灰色のローブ。子供のそれなのに、どこか不快感が拭えないその声。そう、ついさっき分かれ道で出会った子供だ。


「貴様、何者だ。」


男は敵意を剥き出しにして、子供を見下ろした。


「石の道を行きますか?それとも棘の道を行きますか?」


だが、子供は全く同じことしか喋らない。男は苛ついたように舌打ちすると、ついに声を荒げた。


「答えろ!」


「迷える羊はただ進むのみ。そして己を見極めろ。」


「何を言っている!」


「何故お前はここにいる。それを思い出せ。」


子供の抑揚のない声が、男の頭の中にこびりつき離れない。


–––––どうして。


今にも消えてしまいそうな、あの水色の少女の声が聞こえた気がした。


男は、眩暈でも起こしたかのように膝をついた。ぜえぜえと、荒い呼吸と激しい心臓の鼓動がうるさいほどに耳に響く。


あの少女は誰なんだ。なぜ私をそんな悲しい眼で見るのだ。


思い出そうとすればするほど、それはするりと空気を掴んでいるかのように逃げてゆく。酷く虚しく、空虚な感情が男を支配した。


「今のお前は空っぽだ。だからお前は歩くのだ。全ては、ジュダスの環の中にある。」


あの耳障りな声が、男の耳に届いた。聞きなれない単語に顔を上げた。相変わらず不気味な姿で、からかうように鼻歌を歌っている。


「……ジュダスの環?そこに何があるのだ?」


「お前の全てだ。さあ、石の道と棘の道。どちらへいきますか?」


お前の全て。その言葉が何故か異様な魅力を放って聞こえた。酷く甘美な蜜に誘われる蝶のように、男はふらふらと棘の道の入口に立っていた。


《ジュダスの環》 そこへ行けば、全てが分かるのだろうか。


「棘の道を。」


「それでは、もうこちらは通れない。」


「判っている。」


先程と同じように、茨の蔦が這い回り、反対側の入口は塞がれた。男はもう驚きはしなかった。だが、その背中にあの無感情な子供の声が投げかけられた。


「棘の道はとっても暗い。光がお前の道を拓く。」


男はその言葉を怪訝な顔で聞いたが、問い返すことはしなかった。そうしたところで答えが返ってくるとは期待していなかったからだ。

そして、男はゆっくりと、棘の道へ足を踏み入れて行った。

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