7:蓮水理乃と十一人の恋人(後)

 理乃の四度目の部分記憶喪失発症に当たって、ここでひとつの方針転換がなされた。


 これまでのように、いたずらに理乃に過去の思い出を押し付けるのを、止めることにしたのだ。


 理乃は結局、どんなに彼女が忘れた出来事に相当する思い出話を聞かせたり写真を見せたりしてみても、ここまで何ひとつ過去の記憶を取り戻していない。

 そこで、今後はあえて光平先輩の話や、俺がかつて理乃の恋人だったこと、小学校時代の昔話などは教え聞かせたりせず、「現状の彼女を肯定する」ことを第一にして、三ヶ月間の経過を見てみようということになったのである。


 もちろん、積極的に理乃の記憶回復をうながさないとは言っても、蓮水家には亡くなった光平先輩の痕跡が沢山溢れている。仏壇の遺影を見れば、それが兄だと思い出せなかったとしても、自分の記憶から姿を消した親族が過去に誰か居たのかもしれない、と理乃が思い至る可能性は大いにあるだろう。

 それに、理乃はごく短い女子高生活で、出会った人物のことは何ひとつ覚えていられなかったけれども、そこに自分が通っていた時期があるという事実は、現在でも覚えている。

 その事実にはもちろん、彼女の脳が記憶改ざんするだけでは埋めきれない、何らかの矛盾が生じるかもしれない。


 それらについて尋ねられることがあったなら、その際に改めて、彼女の身近にいる人間が疑問を払拭できる範囲でだけ、簡単に答えてやることにした。

 そこは彼女自身の、自然の流れに任せた方がいいのかもしれない、ということだ。


 俺自身のことも、こちらから「俺はおまえの元恋人だ」と主張することは止めることにした。

 今はただ、「小中学校からの知り合い」でいい。


 これも理乃の方から、なぜ「ただの小中学校からの知り合い」が、自分をこんなに親身に気に掛けるのかと問われたら――

 そのときは「前々から理乃のことが好きだったから」と、いっそ気負わず告白してしまおうと考えた。


 よくよく考えてみれば、これまで俺の告白は理乃にとって相当に重かったのではないか。

 現状の理乃とすれば、俺との恋人同士だった頃の記憶など、本当にあったのかどうかもわからない、おぼろげなものだ。

 それを必死に思い出せと迫られ、思い出せるまではどんなに長い間待たされてもかまわない(いや、持久戦を辞さないという本心は今も変わらないのだが)と言われたら、理乃の性格からしても罪悪感が募るだけだったのかもしれない。実際、それらしい心情を吐露されたこともあった。

 だとしたら、俺という存在が、彼女の記憶を取り戻すためにと思ってしていた言動で、実はむしろ彼女のストレスになっていたことになるのだ。

 空回りどころの話ではない。


 やがて悲しいかな、その憶測を裏付けるような出来事が起きてしまう。



 俺の五度目の告白は、四度目の部分記憶喪失を経験したあとの理乃に、ふたつ返事で受け入れられて、彼女と再び恋人同士になることができたのだ。


 ただし、かつてのように「初めてカレーの味を褒めてくれた幼馴染」としてではなく、理乃が受け入れたのは「小中学校からの知り合いだった日渡透弥」としての俺だ。


 ここは、きちんと整理しておかねばならない。

 過去に恋人だった俺も、今恋人になれた俺も、俺自身にとっては同一人物なのだが、部分記憶喪失を何度も発症し、過去の一部を忘却している理乃にとっては、それぞれ別の人物なのだ。


 だから、五度目の告白で理乃と交際することになった俺は、彼女にとって二人目の恋人だ。


 これが当初、俺にとっていささか複雑な心境だったことは、ご想像頂けるだろうか。

 一応、理乃の脳内には「誰だったかはわからないけど、過去に交際していた幼馴染が一人いた」という曖昧な記憶だけは、残っているのである。

 理乃と恋人同士に戻れることは嬉しい反面、俺は今回別人として彼女に接近し、別人として告白した。

 それが思っていたよりあっさり受け入れられて、理乃には過去の俺に対する未練などといったものはそれほどなかったのだろうか――と、そんな狭量なことを考え、俺はちょっとションボリしてしまったのだった。

 まあ、みっともない話だが、これも蓮水理乃というカレーライス製作者に、すっかり心の領土を征服されてしまった男の弱みということで、どうぞご容赦願いたい。


 たった今述べた話と同じ内容で、逆説を弄するように聞こえてしまうかもしれないが、理乃はあくまで自分が過去に幼馴染と交際していた時期があったらしくて、それが一人目の恋人だ――という記憶しか、見方を変えると現在持ち合わせていない。

 一人目の恋人の詳しい人物像は、忘れてしまっているのだ。

 だとしたら、そんな過去の思い出もおぼろげな幼馴染など、今の理乃にとってはおそらく、執着するに足る存在ではないだろう。

 亡くなった故人を偲ぶためにもそうだと言ったが、過去の恋人に未練を抱くためにも、やはり相応の過去の記憶が必要になるというわけだ。


 そうした前提に立って、目の前にいる他の異性をそれなりに好意的に見ており、相手の方から「ずっと前から好きだった」と告げられたら、まあ普通は無下にないがしろにはするまい。


     ○  ○  ○


 そんなわけで、俺は久々に理乃との恋人関係を構築できることになった。


 ……とはいえ、これも結局は三ヶ月限定の話だったのだが。

 ああ、厳密に言えば、俺が理乃に五度目の告白をして、彼女の二人目の恋人になった日は、四度目の部分記憶喪失から一ヶ月ほど経過したあとだったので、正式に交際できた期間は正味二ヶ月弱といったところだったろうか?


 理乃は律儀に想定していた期日が来ると、プラスマイナス一週間程度の誤差で、その後も三ヶ月周期を維持して部分記憶喪失を繰り返していくのだった。



 そして、俺はその都度、理乃に告白して、新しい恋人になった。


 理乃も周期が来るたび、俺に対する認識を相変わらず、「小中学校からの知り合い」という位置づけに巻き戻した。


 しかし、周期ごと恋人に戻ることが可能になってから、理乃は部分記憶喪失を発症しても、以後も覚え続けていられた、あるいは上書きして持ち越せる種類の記憶はかなり増えたと思う。


 例えばデートでどこへ出掛けたとか、このプレゼントはいつ貰ったとか――

 今までは、俺が関わった記憶はすべて三ヶ月周期のたびに消去デリートされていたのに、恋人同士として経験した出来事については、忘れていないことが多くなった。

 その「恋人が誰だったのか」については、やはり覚えていてくれないのが悔しいが。


 尚、恋人同士でいる期間中に、二人でデジカメに写真を撮ったりすることはよくある。

 だが、写真は次の三ヶ月周期が始まったら、以後の理乃には決して見せたりしないということを、俺は自分にルールとして課していた。

 それをすると、過去の思い出話を押し付けていた以前までの方法と同じことになる。

 理乃はその周期で俺の告白を受け入れてくれず、恋人になれなくなる可能性が高い気がするからだ。

 理乃が部分記憶喪失を発症したら、勿体もったい無いがそのたびにデジカメの画像は削除するしかなかった。


 また、注目しておきたいのは、交際経験のある恋人の人数についてだ。

 理乃は、「初カレは十五歳のときに付き合った幼馴染」に始まって、二人目、三人目、四人目……と、相手から告白され、それを自分が受け入れて恋人同士に発展した異性の人数については、記憶を上書きして覚えていくことができたのである。


 一方、過去に交際していて、部分記憶喪失のたびに忘れ去っていった恋人たち――つまり、同一人物でありながら、それぞれ別人と彼女に知覚されているところの俺――との関係を、理乃はどれも自然消滅したか、相手から振られて終わったものだと、思い込んでいるらしい。


 もちろん、そうした恋愛を(彼女の認識上は)一定の短期間に何度も繰り返しているわけだから、理乃は周期を重ねるごと徐々に複雑な心境に迷い込んでいるように見えた。それもまた、無理からぬことだろう。

 恋人同士になれれば、理乃の失われない種類の記憶を増やすことができる。

 しかし、記憶が増えるほど、理乃が恋人を失う悲しみもまた増すのだから。

 これは複雑な二律背反だった。


 ゆえに理乃は、相手から迫られさえすれば、常にすべての告白を受け入れたわけではない。

 八度目の告白で五人目の恋人ができたあたりから、はっきりかなり悩みはじめていた。


 ついに俺の告白が十度目になると、


「私って、過去二年半のあいだに、六度も恋人と破局してるんだよ。そんな私が、透弥くんを幸せにしてあげられると、思えないよ」


 理乃はそう言って、悲しそうに微笑んだりするようになったのだ。


 俺はそれでも食い下がり、俺が理乃に幸せにしてもらいたいわけじゃない、俺が理乃のことを幸せにしたいんだ――とか何とか、思い返すだけでも恥ずかしいセリフを並べ立てて、たしかそのときは必死で彼女に七人目の恋人にしてもらった。


 十一度目の告白では、さらにハードルが上がる。

 俺は、久々に三ヶ月周期の間に理乃と恋人同士に成り損ねて、理乃の八人目の恋人になれたのは、十二度目の告白のときだった。


 十三度目の告白では、ここまで理乃のそばに居続けてきた様々な経験を生かし、二ヶ月かかったもののなんとか九人目の恋人になれた。


 だが、十四度目の告白は、理乃に受け入れられて十人目の恋人になれたものの、次回なされるべき十五度目の告白に大きな宿題を残した。

 俺が理乃の十人目の恋人になったのは、三ヶ月周期の時間制限タイムリミットで、二ヶ月と半月以上が経過した時点だったのだ。

 このとき、俺は理乃と一週間そこそこしか恋人同士で居られずに、彼女は部分記憶喪失の症状を再発した。

 まずいことに、これを理乃の脳は「自分は十人目の恋人から、十日も経たずに捨てられた」と事実改ざんして彼女に認識させたらしかった。

 この脳細胞の悪意としか思えない誤情報は、理乃を酷く悲しませ、また落ち込ませた。


 俺の十五度目の告白は、結果として失敗し、その三ヶ月周期のあいだでは理乃の傷心を癒し切ることはできずに終わった。

 またすぐに男性から捨てられるのが怖いとおびえる理乃に、俺は即座に掛けてやれる適当な言葉を、持ち合わせていなかったのである。

 昔聞いた覚えがある、「世の中には、ただ時間だけが救うことのできるものがある」というのは、いったい誰の至言だっただろうか。



 それでも、次の三ヶ月周期では、一ヶ月半経過したあたりで、俺はなんとか十六度目の告白を成功させ、理乃の十一人目の恋人になることができた。

 どんなにハードルが高く、何度やり直すことになっても、俺は理乃と一緒に居て、彼女が事故で負った後遺症を取り除くまで、トライアンドエラーを止めるわけにはいかないのだ。


 自分の恋人が俺こと日渡透弥であること、新しく知り合った人物の顔や名前、亡くなった光平先輩に関わること、そして小学校時代に俺が初めて理乃のカレーライスを褒めたときの思い出など……


 やはり依然として、理乃は三ヶ月周期が来るたびにそれらを忘れてしまうのだが。



     ○  ○  ○



 とにかく、こうして――


 蓮水理乃は、たった四年間で、十一人の恋人と交際することになった。


 十五歳のときに初めて幼馴染と恋人になってから、理乃は異性に通算十六回告白された。

 理乃はこの四年間、いつだってモテモテだった。


 十一人だけど、本当はたった一人だけの、俺こと日渡透弥にモテ続けていたんだ。



 そして、俺にとっても、今一緒に居る蓮水理乃は、二人目の恋人だ。


 最初に出会った蓮水理乃は、幼馴染で、ちょっぴりブラコン気味の、俺とずっと両想いだった女の子。


 部分記憶喪失を発症するようになってからの二人目の蓮水理乃は、背丈も、さらさらの髪も、控えめな性格もそのまま同じだったけれど。

 しかし俺はやっぱり、今の彼女はまだ本当の自分を取り戻していない、もう一人の別人だと思っている。


 少なくとも、理乃がいつか、最初に出会った頃の記憶を取り戻すと信じている以上は。




 果たして現在、理乃と俺は、それぞれがすべて同一人物でありながら、その事実を無意識に忘れていたり、意識的に区別して考えたりしつつ……


 十一番目と二番目の恋人として、恋愛し付き合っている。



 その秘密が手作り兵器カレーライスにあったことは、もはやご存知の通りだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る