4:遠い日のカレーライス(前)

 蓮水理乃には、二歳年上の兄が居て、名前を光平こうへいと言った。


 蓮水光平先輩は、成績優秀、スポーツ万能の優等生を絵に描いたような少年で、妹の理乃にとっても文字通り自慢の兄だった。


 俺が光平先輩と知り合ったのは、小学校三年生時のことで、実のところ理乃より先だった。

 地元地域でサッカー少年団が開設され、俺はそこに「周囲の友達がはじめたから自分も何となく」という極めて受動的な理由で参加した。

 光平先輩の方はおそらく、俺などより遥かに自発的な意志を持ってその学外活動に加わってきていたのだと思う。少なくとも、光平先輩は(クラブチーム下部組織のセレクションを目指そうとか、さすがにそういうレベルではなかったと思うけど)いつも真面目に、また意欲的に少年団の練習をこなしていた。

 明るく前向きで、協調性があり公正な性格も手伝って、チームメイトの信頼を着実に築き、少年団を指導していたコーチから背番号十番のユニフォームを手渡されるまでも、ほとんど時間は掛からなかった。



 俺が光平先輩の妹の理乃と知り合うのは、それからさらに十ヶ月後のことで、小学校四年生に進級したとき、クラス替えでたまたま同じ四年三組になってからだ。

 蓮水理乃は、優等生で何かと話題の中心に居た兄とは対照的に、この頃から地味であまり目立たない、大人しい女の子だった。

 この地域周辺で、「蓮水」という苗字はそう多くない。

 俺をはじめとして、サッカー少年団でプレーしていたクラスメイトの何名かは、理乃が光平先輩の妹であると、すぐに気がついた。


 はっきり言うと、この頃の理乃はわりとブラコン気味だったように、俺は思う。

 まあ、それも致し方なし、だ。

 何しろ光平先輩は、周囲の男子児童全般から好かれ、人気者だったし、女子児童の一分からは身近なちょっとした憧れの先輩だった。

 俺は当時、光平先輩のキャラクターを、羨望というよりは、こんな漫画の中のヒーローみたいな男の子が、本当に現実に居るんだなあという感覚で見ていた部分があった。

 あの光平先輩が家の中でも自分の妹に優しくないはずなどなかっただろうし、そういう人物が身近に居て、一緒に生活している兄だったとしたら、それは仲が良いのは当然として、多少ブラコンになったとしても責められはすまい。


     ○  ○  ○


 俺と蓮水兄妹の関係にひとつの変化があったのは、サッカー少年団の対外試合が近付いたある日の放課後だった。

 光平先輩が俺を呼び出して、その日から自分の練習パートナーに指名したのだ。

 話を聞かされた直後はもちろん驚いたが、これは光平先輩がコーチと何度か話し合ってから俺になされた提案だったらしい。


 光平先輩によると、こうだ――

 対外試合に向けて、今後チーム全体のレベルアップを図りたい。

 そのためには、レギュラーメンバーの五~六年生が今まで以上に熱心に練習に取り込むことはもちろんだが、控え組の、特に四年生選手の実力底上げが必要だ。

 そこで、レギュラー選手は四年生の控え選手の中から、各々自分の練習パートナーを選んで一緒にメニューを消化することにした。ボールトスによるヘディングのような基礎練習から、実戦形式のワンツーパスなど、何かとパートナーを必要とするトレーニングは多い。

 あえてレギュラー選手の練習に控え選手を組ませることで、後者に多くを吸収させることができるのではないか、というのが狙いなのだった。

 もちろん、レギュラー組同士の連携を深めるための練習も重要だが、それと平行して新しい試みも取り入れていこうというのである。


 これにはたぶん、実際のところコーチの意向もそれなりに働いていたのだろうと思う。

 ジュニア世代の少年サッカーは、どんなに優秀なチームでも一年毎に六年生が卒業してゆく。

 なので、目先の試合を勝つために五~六年生を鍛えることは当然必要なのだが、翌年下の学年から新しい選手が出てきてくれないと、チームのレベルを維持することは不可能だからだ。


 それはさておき、俺が光平先輩にパートナーとして指名されたのは、断言するが決して潜在的な埋もれたサッカーセンスを評価されて、とかそんな少年漫画的な背景ではない。

 光平先輩は、当時明確な理由を説明したりしなかったが、きっと俺が一番中途半端に見えたからではないかと思う。

 四年生の選手は、チーム内では学年別に見て一番人数が少なく、その中でも俺は対外試合でベンチメンバーに滑り込めるかどうかという、当落線上に居るぐらいのポジションだった。

 練習態度も、一応コーチから指示されたメニューは一通り真面目に消化していたが、それ以上のことは自分から何もしようとはしない、その程度の選手だったと言えば適当だろうか。


 とにかく、他に見込みのありそうな四年生は何人もいたのに、あえて俺を練習パートナーに指名したのは、ある意味でとても光平先輩らしい判断だった。



 そんなわけで、その日から俺と光平先輩のトレーニングがはじまったのだが、一緒に練習メニューを消化し続けて、一週間ほど経過した頃のこと。

 チームの全体練習後も居残り練習を続ける光平先輩に付き合っていたところ、すでに陽も落ち暗くなったグラウンドに、控え目に歩み寄ってきた女の子の姿があった。

 光平先輩の妹・理乃が、なかなか帰宅しない兄を迎えに来たのだった。


 この日の蓮水家は、父親は仕事が忙しくて帰りが遅く、母親は町内会の会合で不在らしかった。

 一人で留守番をしているのが寂しくなり、理乃は自宅に鍵を掛けて、光平先輩の居るグラウンドまで来たのだと言った。

 妹にせがまれて、光平先輩はようやく練習を終えることにした。

 遅くまで付き合わせて悪かったと告げたあと、光平先輩はふと思い出したように、折角だからウチに晩飯を食べに来ないかと提案してきた。サッカーのことでも、まだ少し話し合いたいらしかった。

 俺は、家で母親が夕飯をすでに用意して待っているだろうとは思いつつ、光平先輩の自宅やプライベートにいかにも子供らしい興味が湧いて、ふたつ返事でその申し出を受けることにした。自分の家には、あとで電話を借りて連絡を入れさせてもらった。



 蓮水家は、グラウンドからそれほど遠くない場所にあって、子供の足で歩いても五分と掛からない距離だった。

 俺は、前を歩く蓮水兄妹の背中を見ながら付いて行った。そのあいだずっと、理乃が光平先輩の服の裾をきゅっと引いて離そうとしなかった有様が、妙に記憶に残っている。この頃から、それが理乃の癖だったのだ。


 蓮水家に到着してはじめてわかったのだが、この日の晩御飯を作ったのは他ならぬ理乃で、ダイニングテーブルに並べられたのは彼女のお手製カレーライスなのだった。


 光平先輩は、おそらく理乃がカレーを作っていることを知っていたのだと思う。

 そして、二人の両親がこの日不在であること、理乃がスポーツ少年である兄に自分の手料理をおかわりして山ほど食べさせたくて、ライスもルーも家族の人数分よりかなり多めに作っていることも、察していたのだろう。

 だから、俺という突然の来客があっても、カレーライスが足りなくなって困る、ということはなかったようだ。

 作りすぎていても余ったところで翌日に持ち越せるし、このあたりはカレーライスの優れた利点のひとつである。


 そして、俺は生まれて初めて、ここで自分の家庭やレストラン以外で作られたカレーライスというものを食べたのだった。

 それも、小学四年生のクラスメイトの女の子が作ったカレーライスをだ。


 感想から言うと、びっくりするほど美味かった。

 もちろん、子供の手で作られたものだったので、今にして思い出してみると、輪切りのニンジンは少し不恰好だったかもしれないし、たまねぎも充分に甘さや香りが引き立つまで炒められてはいなかったかもしれない。

 でも、そんなのは些細なことだ。少なくとも自分と同い年の小学生にも、大人が作るそれと同じように美味しく食べられるカレーライスを作れる女の子が身近に居たんだ、という事実で思わず感心させられた。

 それがクラスではいつも地味で、取り立てて目立つところもない理乃だったというところも、彼女には失礼ながら、かえって俺にとってインパクトが強かった。


「どうだ、理乃のカレーはけっこう美味いだろ」


 光平先輩は、笑って言った。


「はい。驚きました」


 俺は素直にうなずいてから、理乃の方を見て、


「はすみ――いや、理乃にこんな特技があるなんて、知らなかった。どうして黙ってたんだ?」


 どうしても何も、家庭科の調理実習でもない限り、学校でクラスメイトにカレーを作ってみせるチャンスなど根本的にないから当然なのだが、俺はそのときよっぽど理乃の特技に興奮していたのか、ついそんなことを彼女に問うた。

 一瞬、クラスで理乃を呼ぶときみたいに、苗字の方で言いかけ、それだと光平先輩も一緒に呼び捨てになることに気付いたので、改めて下の名前で言い直したのはご愛嬌というものだ。


 理乃は、顔を真っ赤にしながら、黙って自分でグラスに注いだ水を飲んでいた。


     ○  ○  ○


 この日以来、俺は居残り練習後にときどき蓮水家へ招かれて、光平先輩や理乃と夕食を共にする機会が増えた。何度か通ううち、理乃の小母さんとも面識が出来て、蓮水家の人たちと随分親密になった。

 俺が蓮水家にお邪魔したときのダイニングテーブルには、もちろんカレーライス以外の料理が並ぶこともあり、理乃が作ることも小母さんが作っていたこともあったのだが、それらすべてがことごとく美味だった。


 ただ、やはり俺は、初めて蓮水家で夕食を共にしたときのインパクトもあるのかもしれないし、小学生の未熟な味覚がその印象を殊更補強していたのかもしれないが、理乃の作るカレーライスこそ彼女の家で食べた料理の中では至高の味だと思っていた。

 俺が率直な感想を述べて褒めたときの、理乃のはにかんだ照れ顔の可愛らしさも忘れられない。


 今にして思えば俺はもう、このとき理乃のカレーライスで先制攻撃を受けていたのだろう。



 やがて、光平先輩が小学校を卒業する。

 光平先輩は中学校のサッカー部に所属するようになったが、地元のサッカー少年団からは引退してしまい、俺との居残り練習の機会もなくなってしまった。

 もっとも、光平先輩は自分たちの学年が卒業したあとも、後輩たちのチームの様子を見るために、時間に余裕があるときはたまに少年団の練習しているグラウンドに来ていた。

 そう、だいたい三ヶ月に一度ぐらいだった。

 つくづく、面倒見の良い人だったのだと思う。

 特に俺のことは、変わらず気に掛けていてくれたようだ。光平先輩は自分が視察に来た日の練習後には、やはり小学校時代と同じように、俺を蓮水家の夕食へ個人的に招待してくれた。


 俺は結局、サッカー少年団を卒業するまで、中途半端で大した選手にはなれなかった(小六のときには中盤の守備的ミッドフィルダーMFとしてスタメンで試合に出られるようになったが、それは単純に同学年の上級生選手が多くなかったからだろう)。

 それでも、練習パートナーだったというだけで、光平先輩と少しだけ年の違う親友のような関係を続けられたことは、とても嬉しかった。小中学生あたりの年齢で、自分と異なる学年の親しい友人知人を持つことは、わりと難しい。下手で才能のない人間でも、ないものはないなりに何事も続けてみるものだ。


 俺は小学校を卒業し、光平先輩と同じ中学校へ進学すると、そこでも迷わずサッカー部の門を叩いた。もちろん理乃も同じ中学校へ進んで、またそこで俺と彼女が一年C組のクラスメイトになったのは、出来すぎた話だが不思議な縁というほかにない。


 理乃は中学生になっても、相変わらず控えめで、兄とは対照的に華やかで目立つようなところのない女の子だった。クラスの女子グループの中でも、主に地味で大人しい子たちと仲が良かったようだ。たぶん、彼女自身もそうした自分の立ち位置を望んでいるのかもしれなかった。


 ただ、俺はこのときはもう理乃が自宅で、心から楽しげに料理をしている姿を何度も見ていたし、そのときの彼女がとんでもなく可愛らしいことも知っていた。きっと、それは俺や蓮水家の人々ぐらいしか知らない理乃の一面なのだ。

 そう考えると、なんだかもったいないような、しかしささやかな秘密を共有しているような、不思議な感覚になった。


 俺が学校で朝おはようと挨拶の声を掛けると、うつむき恥ずかしがりながらも、小声でおはようと返事する、中学のセーラー服に身を包んだ理乃。

 彼女を見ていると、妙なざわついた気持ちが募るばかりだった。



 それからまた一年経ち、光平先輩は中学を卒業して高校生になった。

 中学サッカーのOBになったあとも、サッカー少年団のときと同じように、やはり光平先輩はときどき中学校まで部の後輩の様子を眺めに来ていた。一応、建前上敷地の中には高校生は無断で入れないので、グラウンドの金網越しに見ていただけだったけれども。

 そして、練習後に時間の都合がつくときは、やはり俺を蓮水家の夕食に誘ってくれた。


 さて、小学生だった頃にしろ中学生だった頃にしろ、光平先輩と同じサッカー部でプレーしているあいだは、俺も蓮水家の夕食に呼ばれて、理乃の手作りカレーライスを食べる機会がそれだけ多かった。

 だが、光平先輩が卒業してOBになると当然その頻度は格段に減少する。

 具体的にいうと、やはりだいたい三ヶ月に一度ぐらいになる。



 理乃とは中学二年になってもクラスメイトで、毎日顔を合わせることができた。

 でも、彼女のカレーライスが三ヶ月に一度しか食べられないのは、やはりとても寂しかった。

 小学校五~六年生の二年間も同様だったのだが、中学二年生になって、俺はますます理乃のカレーが恋しくなっていた。


 この頃になって、俺はようやく明確に察したのだが、手作り兵器カレーライスの恐ろしさは、ただ食べた瞬間の破壊力だけではなかったのだ。

 複雑でコクとまろやかさの同居した味わいは、俺の精神をもはや麻薬のように蝕んでいたらしい。

 俺には、カレーが足りていなかった。

 当時の俺は気付いてしまったのだ、自分がいつの間にか理乃の手作りカレーなしではいられない人間になってしまっていたことに。

 あの、理乃を見ていると感じた、妙なざわついた気持ちも、すべてカレーのせいに違いない。



 カレーを作っているときにだけ理乃が見せた得意げな笑顔や、


 そのくせ褒められると赤くなってはにかんだあのときの理乃の姿や、


 ――ことごとく理乃と手作りカレーライスのことが、脳裏から離れなくなってしまっていた。



 自分がカレー中毒(といっても、理乃の作るカレー以外にはまるで食指が動かないのだが)になっているという症状を自覚してからというもの、俺と理乃とのあいだには、いよいよ本格的な武力衝突が展開されるようになった。

 具体的に言うと、毎朝教室で挨拶するたびに妙に意識したり、授業中に彼女が何をしているのか気になったり、そういえば昼の弁当も理乃が自分で作って持ってきているのだろうかとか、何かと余計なことに想いを巡らせるようになってしまった。


 身近な女の子が視界に入るたび、こんなに緊張感を持って警戒態勢に入るということ自体が、当時の俺にとっては初めての経験で、つまり十数年間生きてきた歴史で最初の戦争なのだった。

 下手に小学生の頃から相手の女の子と面識があったことも、良くない方向に影響を及ぼしていたかもしれない。

 とにかく、中学二年生からの一年もの期間、俺はなかなか明確な行動を起こせず、ただ毎日理乃に出会うと何やらフワフワと浮き足立っていた。反撃するにはちょっといいタイミングがあっても、踏ん切りを付け切れずにスゴスゴと前線から退却していたのも、思い返せば我ながら情けない。

 幼馴染というバリケードは、それ以上奥の地域に侵入するため踏み越えるには、かえって邪魔臭いものなのだった。


 だが、中学三年生になって、周囲から受験生と呼ばれ、自分が理乃と同じ学校の同じクラスに通うのも、この一年で最後になるかもしれないと考えるようになってから、ついに俺は決意を固めた。

 すなわち、彼女と一年に渡って繰り広げたこのカレー戦争に、幕を引くしかないと考えたのである。


 正直言って、本当はもう自分が理乃への気持ちに気付いたときからずっと、俺の敗北が決定的なのは明らかなのだった。

 ただ俺は、当時何しろそういう経験が初めてだったし、相手は課外活動で何かと世話になった先輩の妹で、繰り返すが小学校来の幼馴染だ。

 だから、結論を認めていても、その先にある人間関係とか、そういったものがどうなってしまうのかにまで想像が及ばなくて、それを知るのを恐れていたのだった。



 しかし、理乃が俺より二ヶ月だけ早い十五歳の誕生日を迎えるまで待って覚悟を決めると、正式に彼女に自分がこの戦争に敗北したことを宣言した。


 平たく言えば、俺は理乃が好きだと、告白したのである。


 理乃は俺の言葉を聞いたとき、ひどく驚いた様子で身体を雨に濡れた小動物みたいに震わせていたけれど、言葉で返事するよりも先に首肯してみせて、それから遅れて声を振り絞り、嬉しい、私も好きだよ、ありがとう、と三言みこと順に連ねて俺の申し出を受け入れてくれた。


 少しあとになるが、実は理乃も俺のことを小学生の頃から気に掛けてくれていた事実を、彼女に知らされた。

 それで、理乃は俺が蓮水家の夕食にお邪魔するときは、特に腕によりをかけてカレーライスを調理していたのだという。

 学校では地味で目立たない理乃が、家族以外の人間に料理スキルの高さを褒められたのは、俺が小学校四年生のときに蓮水家でカレーライスを食べたのが初めてだったらしい。


 それ見ろ、俺はそのときから、もうとっくに理乃の術中にめられて、手作り兵器カレーライスの格好の餌食えじきになっていたというわけである。


 料理上手な女の子は、つくづく敵に回すものではない。


     ○  ○  ○


 後日、俺と理乃は揃って二人で、光平先輩に恋人同士として交際を始めた旨を報告した。

 まだお互い中学生で結婚するわけでもあるまいし、報告するまでもないかもしれなかったが、そもそも俺と理乃が親密になるきっかけを作ってくれたのが光平先輩である。

 俺は、理乃のカレーライスの前に屈服させられ、今更失うものもない思いだったし、敗軍の将官にも自分が信じて戦ったものに対する矜持きょうじはある。


 光平先輩を前に話したとき、俺はちょっと声が上ずっていたかもしれなかったし、理乃は終始恥ずかしそうにうつむいていたが、耳の先まで赤くなっていたのは隠し切れなかった。

 一方の光平先輩は、なんだか最初からすべてを把握していたみたいに笑顔で俺たちの話を聞いていた。むしろ付き合い始めるまで長かったなあというニュアンスの感想を漏らしつつ、おめでとうと祝福してくれた。


 最後に一言だけ、


「理乃のこと、泣かすなよ」


 と、定型句を付け加えるのは忘れなかったけれども。


 それはもちろん、俺だって望むところだった。



 理乃と付き合い始めて、俺はすっかり彼女の支配下におかれてしまったわけだが、それによってカレーライスを食べる機会については、幸いにして不自由することがなくなった。

 蓮水家にお邪魔してご馳走になるだけでなく、都合のつく日は彼女の方から俺の家へやってきてカレーライスを作ってくれたりするようにもなった。


 善良な君主に支配された封建社会では、農民はただ指示通りに働いているだけで豊かな生活を送ることができるので、民主主義社会より平和になるという話を聞いたことがある。

 理乃の手作りカレーライスを食べながら、この頃の俺は料理上手な女の子に支配される農民そのものだったので、その社会学的な命題には心底納得だ。


 俺も理乃も、互いにあまり積極的ではない性格なので、交際開始からさらに三ヶ月ほども期間を要してしまったが、この頃ファーストキスというやつも経験した。

 きっと、人によっては付き合い始めたその日に済ませるケースも多いだろうし、イマドキ中学生が三ヶ月も交際してたら、もっと深い関係に進展している場合がほとんどなのかもしれない。

 だけど、俺にとって理乃は大切なカレーライス製作者で、何かのイベントにかこつけたり、その場の勢いだけで迫ったりして、最初のキスを軽んじたい相手ではなかったのだ。

 その当時の俺の、いかにも中学生の初心うぶな男子らしい発想と、笑いものにしてもらってもかまわない。

 少なくとも、今現在の俺にとっては、いい笑い話になっている。

 

 ただ、これだけは俺のみならず理乃の名誉のためにもハッキリお断りしておきたい。

 初めてのキスは、決してカレー味ではなかったと。



 ……そんな、とても平穏で、何ひとつ不安のない日々が続いていた。

 安っぽい言い方をすれば、俺と理乃の未来に横たわる道は長く、どこまでも続いていて、その将来はずっと明るく照らされているように見えた。



 だから、このときから理乃が十九歳の現在に至るまでのあいだに、十一人もの恋人を作ることになるとは、まったく想像もしていなかったんだ。

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