本来ならば、考え得る限り最悪の目覚めだったはずだった。

 必要なことばかり記憶から抜け落ちてゆくというのに、メモを取らずともあの体験だけははっきりと覚えている。戸原一佐の最期は、小型バンの後席で血まみれになった状態か、あるいは湿った腐葉土の上に無残にも横たわって、というものが似つかわしかったはずだ。

 だが意外なことに、柔らかい感触が背中を支えている。痛む首を動かすと、ベッドのコイルがぎいと鳴いて、瞬く間に自分を現実世界へと揺り戻してくれる。


「いき……てる……?」


 発声して自ら確認する。まだ眠たい瞼をこすろうとしてすぐさま違和感に気づき、視界に両手を掲げてみる。未だにあのプラスティックの手錠が掛けられたままなのだ。


「ああ、それでも生きてる……とりあえず」


 そこまで生々しい現実に戻されてしまっても困惑するしかないが、自分自身があの状況下の延長線上にまだ取り残されているのを、両腕を束縛する二つの黒い輪っかがひしひしと実感させてくれる。全身がまだ痛むが、とりあえず手足は動かせるのも把握する。

 カーテン越しに差し込むほのかな日差し。まだ早朝だろうか。軋む首を無理に動かして周囲を窺うと、どうやらここは祖父の廃マンション、あの三〇二号室のようだ。何より、未だに積み上げられた状態の段ボール箱が、それを厭にでも訴えかけてくる。背にするのは、よくよく見てみればやたらと大きなベッド。ダブルどころかキングサイズだ。こんなもの、部屋に持ち込んだ覚えがない。

 そうして実感を取り戻すにつれ、一佐の視界の片隅に、寧ろ一番最初に気づいておくべきだった異物が映り込んでいるのをようやく認識した。

 コー。ホー。吸気と呼気。ダクトか何かの器官を介して、大気中の空気を機械的に濾過して肺へと送り込み、内外に循環させている。

 コー。ホー。赤黒い全身ボディースーツに幾何学模様、フルフェイスのアンノウンが、一佐のちょうど足元あたりに、尊大さと威圧感とを纏い、足を組んで腰かけている。

 コー。ホー。禍々しいヘルメットの奥底から吐き出される、冥府からの吐息。

 だが、いい加減そのあたりで、ようやく悪ふざけめいた何かだと一佐も理解した。


「あの……さ、それ、そのまんま暗黒卿のサンプリングじゃない」


 無駄に高精度のコスチュームプレイか何かだった。つまり目の前のそいつの正体は単なる普通の地球人だった、などという結末が恐るべき早さで緊急浮上し、


「まったく、びっくりさせないでよ。本気でエイリアンか何かだと……こっちは死ぬかと思ったのに。ほんと冗談じゃないよ……」


 一佐を昨夜から苛み続けた恐怖感と緊張感とを、瞬く間に萎えさせてしまった。


『――――――――――ええ、死んでもらってはこちらが困ります、トバル・イッサ』


 喋った。急に。――――――――胸元に掛けられていた毛布が。


「――――――――――――――は?」


 甲高く、そして子供のような甘ったるい声色。確かにさっき胸の上で声を上げ、微振動した。それに何故か一佐の名前を知っている。

 途端、全身が総毛立った。毛布と思われた白い布の塊が勝手にもぞもぞと蠢き始め、螺旋に寄り集まってうねり、幾層に束ねられて、その形を瞬く間に球状へと変える。

 そんなマジックめいた一部始終を目撃させられた傍で、呼応するかのようにアンノウンがヘルメットへと両手をかけた。

 ごとり、と留め金が外れる鈍い音がして、圧力の抜けるようなノイズがそれに重なる。その手つきや仕草は、人間狩りを好むエイリアンが登場する古いホラー映画のワンシーンをあまりに彷彿とさせ、未知の金属で組み上げられた鉄兜の奥から覗き出るのは、ひょっとして爬虫類似のグロテスクな怪物顔ではないかと、一佐は戦慄し生唾を飲み込んだ。

 ――――だが。


「………………お……」


 白金とも青白ともつかない不可思議な色彩をした髪の長い幾房が、押し込められたヘルメットの奥から自由を得て、陽光を照り返しながら散り散りに宙にたなびいてゆく。重そうなヘルメットは脱ぎ捨てられず首で固定され、ボディースーツと一体型で作られているのがわかる。


「……………………………………お……んなの……子?」


 ヘルメットを脱ぎ捨てたアンノウンの素顔は、まさに少女のそれだった。

 胸がないから男か、さもなければヒューマノイド型の怪物だというのは、勝手な思い込みだったのかもしれない。絵に描いたような美少女。それも、まごうことなき人間の、である。年の頃、十代前半あたりだろうか。自分よりも若いというより幼い顔つきだが、身長はそんな雰囲気に反して、座っている限りでも意外と高く見える。

 少女はその恐ろしく整った造形の顔に何ら表情をたたえず、葡萄色に似た瞳でじっとこちらを見据えている。様子を窺っているのか、淡い紅のさした唇も固く閉じられたままで、先ほど突然喋り始めた謎の毛布とは真逆に、彼女自身は何も言葉を発さない。

 その様を眺めた瞬間、前言撤回したい衝動が内に湧き起こってきた。少女のあまりの精巧さに、人工的につくられた模造物にすら見えてきてしまい、思わずゾッとさせられたからだ。頬に、瞼に、顎にあるべきはずの筋肉が存在しないかのよう。先ほどから瞬きも一切せず、仮面の表情でただこちらを睨めつけている。


「あの、これ……」


 一佐は〈彼女〉にどう接したらよいのかわからず、両腕の手錠を掲げ意思表示してみた。まだ足元にいる毛布は何故か日本語を話したが、少女は言葉すら通じているのか怪しい。


「できれば、外してもらえると、ありがたいの……だけ……ど!?」


 わななく舌を押さえつけ必死に吐き出した台詞も、しかし最後まで言い切れなかった。

 額に、銃口が突きつけられている。


「あの、撃たないで……下さい」


 拳銃を右手で握りしめたアンノウンの少女は、ずっと感情の抜け落ちた冷たい目つきを変えず、命乞いしろとこちらに訴えかけるかのよう。


「そ、それ……君、どこからそんなものを?」


 その拳銃には見覚えがあった。種類の細かい違いなど知ったものではないが、確かあの大柄な男が一佐に向けたものに似ている。では、あの場で彼女が拾ってきたのだろうか。

 球状に形を変えたあと未だに一佐の膝上で丸まった状態だった元・毛布が、


『さすがにそーいう悪ふざけはやめましょう、ししょー。武器を降ろしてくださいまーし』


 アンノウンの少女に何かお願いらしきひょうきんな口調で訴えかけると、再び何度か身をよじらせ、自身を圧縮させ、さながらなしの帽子のような形状に化ける。と、一体何をどうやったのか一佐の手錠に自身を巻きつけて噛み千切ったあと、表皮の一部を翼よろしく羽ばたかせ、少女の頭に乗っかった。

 かちゃり。少女が引き金を引いた。唐突に、何の予告もなく、一寸の躊躇いも見せず、見下すような冷たい目線を上から一佐に浴びせる構図で。

 かちゃり、かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。セミオートの連射で撃ち続ける。何度も、何度も。“ぼく”の頭蓋が吹っ飛んで、脳漿をべったりと壁目がけぶちまけたあとだ。力なく崩れ落ちるのは一秒後。そんな未来視から来る恐怖心が、一佐の呼吸を止める。


「…………あーあ、やっぱなー。こいつは弾丸が装填されておらん。最初っからだー」


 少女が初めて声を発した。見た目の印象よりも幾分低く、場に張り詰めていたはずの緊迫感をあらかた素っ飛ばすほどの腑抜けた声色で、一佐は思わず面喰らってしまった。

 少女は心底呆れ果てたといった、これまた初めて感情の込められた表情をこちらに見せると、突きつけていた拳銃を下げ枕脇に置いて、


「――まんまと一杯喰わされましたね、ちきゅうじーん?」


 地球人、などとのたまった。


「まんまと一杯って……。ち、地球人? 何が、どういう、こと、なの?」


 いや、今このシチュエーションで最初に聞くべき事柄は、そんなどうでもいいことではないはずだ。にもかかわらず、脊椎反射的な疑問が口をついて出てしまう。


「んんー、まあ簡単なことです」


 少女は天に向け立てた人差し指を、実に地球人類的にジェスチャーすると、


「キミというニンゲンはタマなしのチャカで今まで散々連中に脅されまくってた、っていう間抜けなオチだったんですよ。おわかり、ドジっこ地球人?」


 嘲笑を含んだ笑みをこぼすと、ベッドの上の少女は、なんと一佐に直接またがった。


「まあ、間抜けなのはこのあたしとて同じなんですけどねー。あーあ、てっきりキミがあの連中にブチ殺されてしまうものかと、早合点して飛び出してきてしまいましたわ。ちくしょー、初っ端から計画書き換えだわ、ほんと困るなあ……」


 言いながら、本当にイライラと髪をかきむしり始める。密着したまま揺さぶられる互いの下腹部同士。未知との遭遇。触れ合う部分に妙な悪寒が走るが、ほのかな熱の甘美さを感じ取って徐々に平静を取り戻す自分もいる。少女はごつい出で立ちに反して妙に軽く、果たして何でできているのか見当もつかない。


「あの――――――ねえ、君、その」


「……はい、何かしら?」


「その……だから、君って、要するに、何なの?」


 ようやくして根源的な質問を相手にぶつけられた。それを耳にしたアンノウンの少女は、きょとんとした目をして、四つん這いにしていた上体を起こす。今頃になって思い出してしまった。よくよく観察してみると、やはりこの少女には乳房らしきものがない。赤黒色バーガンティのボディースーツ越しの胸板はなけなしの起伏をなすのみ。太股あたりまで届く長髪や顔つきを忘れてしまえばたぶん性別不明、少年にだって見えないこともない。くびれた腰つきやお尻のあたりの丸みが極めて女性的なんて短絡的に分類してしまうが、そもそも彼女らには性差なんて概念すらないという姿勢で対話に挑むべきなのかもしれない。


「エイリアン? 宇宙人、なの? ほら、UFOみたいなので飛んできたし。ね?」


 意味不明に核心を突いた台詞を吐きながらも、脳裏では更に低俗なことに意識を傾けながら彼女の肢体を眺め見ていて、

 遅れて一佐は、今まで気づかなかった少女の特徴をようやくその目で認識した。彼女の背中か尻のあたりから、黒色のチューブのようなものが生えていたのだ。彼女が地球上で活動するのに必要な何らかの装備か、さもなければ尻尾にも見える身体的部位。


「あの、宇宙人って言うか、例えばへびつかい座星人とか、そーいう感じのやつ」


 何年か前の軽いトラウマが、随分と間抜けな響きを伴って。


「ん? え、ええ、そうね、キミら視点だとそういうので大体正解かな。だけど、さすがに宇宙人じゃあまりに広義すぎるじゃない?」


 生えた黒いチューブが蛇のようにうねると、突然一佐の右腿に巻きついた。


「――――――わ、うわっ!?」


 チューブは身体を共有する少女の意思を体現するかのごとく一佐の四肢に巻きつき、絞めた皮膚の上をゆっくりと這い回り始めた。それは、一佐に押しつけられたままの少女の太股と同じ生暖かさで、生物の尾にしては異様に長く、その先端には――

 まさにエイリアンに相応のグロテスクな造形をした、獰猛な顎が牙を剥いていた。


「まあ、どうせこれで最後なのだから、礼儀として一応名乗っておきます、地球人」


 最後だから。それが合図のように、巻きついた蛇の牙が突然一佐の喉頸にかじりついた。抵抗できず、何ら身構えることなく、喉を醜く鳴らすのみ。悲鳴すら出なかった。


「あたしの名はアーチルデット=エムエニルエートス・ルシオン。ある使命のもとに、キミたち地球人を監視する目的で、星間連盟の中央議会よりこの惑星に派遣されてきました。あらためて初めまして、地球人の少年。お互い記念すべき第四種接近遭遇ファーストコンタクトね?」


 途端、一佐は意識が朦朧とし始めた。彼女の長ったらしい台詞も頭に入ってこない。


「あー、しまった、もう聞こえてないかな? まあ安心なさい、忘れちゃうだけよ。今までのこと、ぜーんぶね?」


 噛まれた痛みは最初だけ。色んなものが麻痺して、何も感じない。うまく感じられない。


「あとこちらの都合でキミの記憶を一部操作させてもらうから、あしからず」


 未だに食らいついて離そうとしない蛇の牙は、一佐の体内に異物の分泌と注入、吸収の循環処理を続けている。目眩。揺らいで狂う重力。瞼の自由が思い通りにきかない。


「原住民――さすがに命まで奪――、本来の我々の意思――ないから――――――――」


 それは麻酔か、それとも毒か。


「――あとキミ――悪いけど、――このマンショ――あたしが借り――わ――――――」


 どくりと脈動する蛇のチューブ。それ越しに、“ぼく”と彼女、互いの鼓動がリンクする。痛みは。傷口は。血は出ているのか。全てが暗く混濁してくる。

 眠い。


「――――じゃあね、バイバイ」


            ◆


 ――――――――――――――――――――。


 風を捉えて耳がぼうと音を立てた。

 眠い。じっとりと汗ばんだ肩に、シャツが張りついてちょっと着心地が悪い。

 むせっかえるようなにおいを放つ夏の大気を、群青の空に頂くぼくたち。

 眠たい目をこする。湿った土のこびりついた指先。遊び慣れた指先。

 草が深緑になびき、天井がざわめく。木陰。青々と萌ゆる切り絵細工の重なりが木漏れ日を梳いて、麦わら帽子の横顔を隠す淡いヴェールとなる。

 つんと覗く長い睫毛。ああ、こっちを向いた。こそばゆい。直視できず、目を背けてしまう。白磁器ポーセリンのように美しい肌、白く透きとおるワンピース。淡い色をした髪のあの子。

 思い出補正ちゃん。

 大体、こんなまばゆいばかりの世界の下にふたり、日に全く焼けていないの一つとっても不思議だった。ぼくよりも少しだけ高い背丈のあの子は実に幻想の産物で、だからそっぽを向いたぼくが気がかりで、シャツの袖をしきりに引いてくる。願望から生まれたあの子に実存はなく、いつか傍にいてくれた別の誰かのうわべを覆う表象、ただのまぼろしでしかないのだと知っている。

 暖かな映像。ただ宝物のように、瞼の裏っかわで揺らめき続けている。


 ――――――――――――――――――――。


 あの子が反射的に肩を震わせた。我を思い出したかのように、凪いだままだった風が突然枝葉を撫でつけて、呼応するようにあの子が立ち上がる。

 あの子はぼくの手を引くと木立の傘から飛び出して、ふたり一緒に、遠く広がる街並みを見下ろす。

 そのあとを継ぐように、が遠鳴りを始めた。

 大きな、とても大きな音。サイレンの長吹鳴。

 それが誰に何を訴えかけるためのものなのか知らなかった。防災警報なのか、あるいは防空警報なのか。TV番組や映画の該当シーンでもまるで聞いた覚えのない不気味な音色、酷い耳触りの未知なる警告。とても怖くて、ふたりの胸騒ぎを助長する。

 街並みの方から立上り始めたモーターサイレンの低い唸り声は、ひとつ、またひとつ、いつしか十の併奏を超えて、懐郷めくイメージで彩られていたはずのこの光景を塗りたくったあまりの恐怖に、耐え切れずぼくは両耳を塞いだ。

 この世界に不安の帳を降ろし、知覚する者たち全てに宣告を与える無限音階シェパードトーン

 逃げ出したくなって、ぼくは無我夢中であの子の手を握ろうとして。



「――――――――――な――――――きゃっ!?」



 フラッシュバックの果てに、確かにそんな短い悲鳴を聞いた。

 一佐の意識はまだ途絶えていなかった。横目に見ると、噛みついていたはずの蛇のあぎとが皮膚から離れ、いつの間にか自分の肩の辺りでのたうっている。太股を締めつけていた尻尾も緩み、規則的な脈打ちだけこちらに伝えてくる。

 直後、アーチルデットと名乗った少女が、びくんと弓反りにその肢体をしならせた。


「………………し………………しょ……」


 かすれた喉から途切れ途切れに吐き出される呼気。肺機能を持った器官を彼女も備えているのだとすれば、それが外に向け危機を訴えている。大きく見開かれた二つの瞳孔。涙腺からじわりこぼれ出た涙を溜めている。

 早回しのスローモーションで宙に散らばって舞う、長髪の青い房。鱗のテクスチャーを表層に宿す、メドゥーサの髪の毛。その繊細な一本一本が、入射光を得た光ファイバーの束にも似た輝きを点し、青白色から薄桃色へ、薄桃色から再び青白色へと色相を遷移させ、頭髪上を一種のスクリーンのように、鮮やかなグラデーションを繰り返し波打たせ始めた。

 やがてその光すら失われると、そのまま重力に絡め取られるかのように、くずおれた上体、彼女の頭部と胸とが一佐へと迫り、


「え……」


 力ない両腕が、背に遅れてマットレスに着地して跳ねる。

 少女の顔は一佐の胸に埋もれてしまった。目は驚愕の表情に見開かれたままで、息をしているのか、そもそも彼女が本来的に息をする構造になっているのかどうかもわからない。


「……しん……だ!?」


 帽子に姿を変えたもう一体の方も、勢いでフローリングに転がり落ちて、まるで脱ぎ捨てたシャツか何かのように崩れて動かなくなってしまった。

 果たして一体あの光景は何だったのだろう。エイリアンの毒素が見せた、悪ふざけにもほどがある悪夢なのか。それとも自分の奥底に眠っていたトラウマみたいなものが免疫機構のお化けとなって、宿主ともども不法侵入者に向け牙を剥いただけなのか。


            


 動かなくなってしまった少女の下から命からがら這い出ると、急に力が抜け、一佐は床にへたばり込んでしまった。

 一体何の巡り合わせでこんなことになったのだろう。ただアルバイトのために実家から引っ越してきただけなのに、銃を持った怪しい男たちに誘拐されて、今度はUFOに追い回されたかと思えば、宇宙人と名乗る謎の少女に襲われた挙げ句、危うく洗脳されかけた。

 このマンションには、悪人や宇宙人に狙われるほどの隠された秘密が? 脳裏をよぎるそんなくだらない発想を胸の内に押し込め、とにかく安全確保と、電話機を探す。警察でも家族でも、最悪バイト先の征次せいじ小晴こはるだっていい。黒服MIBか自衛隊の特殊処理班みたいなのは、自分には連絡先の見当もつきそうにないのだから。

 二人組に没収された携帯端末の行方を探り出すよりも早く、一佐の焦りを断ち切るために、ぐう、と腹が鳴った。思い出してみれば、昨晩から何も腹に入れていなかったのだ。

 床に転がったままだったポーチからリングメモを引っ張り出す。一佐の記していた記録は昨晩で途切れていた。文字の羅列をざっと確認するが、特に記憶と食い違ったりはしておらず、ただ安堵する。

 否、しまったと思った。この事件に巻き込まれたお陰で、昨晩のアルバイトを無断欠勤してたのに気づいてしまったからだ。

 こんな状況なのに、生命線である携帯端末は見当たらない。きっと着信履歴が大変な状態になっているに違いなかった。

 と、示し合わしたかのような音がもう一つ、長い余韻を伴いながら鳴り響いた。

 くぅぅ、と。

 それは、アーチルデット。動かなくなってしまった宇宙人の少女の腹からのものだった。

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