悩み②
「それより、どうして俺がここにいるってわかったんだよ」
「ああ、これこれ」
怪訝な顔の雪輝に、千鶴は拾ったワッペンを差し出した。
「部屋に行ったらドアの前にこれが落ちてたか、もしかしてと思って来てみたんだ」
雪輝は自分の道着を見下ろし、ようやく上腕部分についているはずのワッペンがないことに気付いたようだった。「わざわざ悪かったな」とワッペンを受け取る。
「でさ! さっきの形、いつ習ったんだよ! 見たことないけど、あれって櫻林館流?」
「いや。櫻林館流は軍事向けに改良された新しい流派だが、今のは日本時代から続く伝統的な流派のものだ」
「へーぇ。習ってたのか?」
「少しだけな」
雪輝が櫻林館に来る以前のことを話すことをあまりないので、少し得した気分になった。
「じゃあさ、あれってどんな意味があるんだ?」
「あれ?」
千鶴はレモンコーヒーを道場の隅に置くと、両手の親指と人差し指同士をくっつけて輪を作り、天井にすっと手のひらを突き上げた。「これ!」と言って振り向くと、雪輝が「ああ」と答えた。
「一説によると、両手で作ったその輪は太陽を表しているらしい。精神統一とか呼吸を整えたりする所作だろうな」
「じゃあ、やっぱり空を見上げてたんだな」
「まあな。そもそと
「おお! 『空を観る』か!」
「お前、空ってだけで食いついてるだろ」
雪輝がエスプレッソに口をつけながら呆れた視線を送ってくるが、千鶴は気にせず両手で作った輪の奥をもう一度見上げた。
「観空大か……」
小さな輪の中から見上げる空を大きく広げるように、千鶴は腕を伸ばしたまま下におろした。
太陽の光あふれる空が頭上に広がったイメージのまま、腰を落として手刀受けを左右連続で繰り出した。
その後も雪輝がやったように技を続け、呼吸を意識しながら何十手にもわたる技の一つひとつに集中した。
形の終盤、足を踏ん張り、交差させた両腕を掲げて受け身をとる。そして床を思い切り蹴り上げると二段跳び蹴りを決めた。着地して気合いを放つと、ゆっくりと姿勢を戻し礼まで終える、ぱっと雪輝に振り返った。
「こんな感じ?」
雪輝は目を丸くしていたが、すぐに怪訝な顔で眉根を寄せると言った。
「なんだ、お前も知ってたんじゃないか」
「いや、観空大は見るのもやるのも初めてだよ」
「じゃあどうしていきなり完璧にできるんだよ」
「さっき雪輝の見てたし」
「それだけでいきなりできるわけないだろ!」
正直に答えただけなのに思い切りつっこまれ、千鶴は困って頭をかいた。
「だってすごい綺麗な形で、見てるだけでも体の動かし方とかうまくイメージできたから……」
「……おい、まさか本当に初見で覚えたっていうのかよ」
半信半疑の雪輝に千鶴は「見様見真似ってやつだけど」と軽く頷いた。
「ほら、俺さ、昔から陽介の家で踊り習ってたからこういうの覚えるの得意なんだ」
疑いの眼差しで千鶴を睨みつけていた雪輝だったが、ひとつため息をつくと肩を落とした。
「ったく、どこまでお気楽な脳みそしてんだよ。自覚がないなんてめでたいやつだな」
「え? 何の話?」
「黙れ! 知りたいなら少しは自分で考えてみろ!」
鋭い目でひと睨みされ、千鶴は言葉を飲んだ。
雪輝は不機嫌にそっぽを向いてエスプレッソに口をつける。
雪輝の様子は少しおかしい。そうでなくてはこんな時間に形の稽古などしないだろう。
道着を練習のたびに洗濯したがる雪輝は、空手の授業がある日にしか道着を使うような自主練はしない。
そして今日は空手の授業はなかった。
それに最近、やたらと一人で図書室に行くことが多い。
「雪輝、何かあったのか?」
千鶴の問いに、雪輝は「何かってなんだよ」と不機嫌に聞き返してくる。
「だって最近よく一人でどこか行くだろ?」
「大抵は図書室だよ」
「なんでわざわざ図書室に行くんだよ。図書室のデータベースにアクセスすれば、自分の部屋からでも蔵書のデジタルデータが読めるだろ?」
「紙の本じゃないと読んだ気がしないんだよ」
「それに今日は顔色も悪い」
「気のせいだろ! しつこいな!」
どう尋ねても、雪輝は自分から話すつもりはなさそうだった。
しばし悩んだ末、千鶴は意を決することにした。
「雪輝ってさ、もしかして……」
エスプレッソに口をつけていた雪輝は、いい加減にしろとでも言いたげさらに不機嫌に顔を歪める。
だが千鶴は言葉を続けた。
「もしかして、莉々亜のこと好きだったりする?」
そして雪輝は勢いよくエスプレッソを噴いた。
「なな、なんだ急に!」
「あ。その慌てようはやっぱり――」
「勝手に決めつけるな!」
「えー。だって一気に顔赤くなったし」
「お前がいきなりそんな見当違いなこと聞くからびっくりしたんだろうが!」
「ふぅーん。じゃあそういうことにしといてもいいけど……」
「『じゃあ』ってなんだよ! 変な妥協しやがって、お前完全に疑ってるだろ!」
「だってさぁ」
千鶴はレモンコーヒーを手に取ると、ストローをくわえて少しだけすすってから言った。
「成り行きで莉々亜と二人で出かけることになっちゃったし……。もしそうだったら、ものすごく悪いことしたなぁって……」
「はぁ? そんなこと気にしてたのかよ」
「じゃあ……雪輝は莉々亜のことどう思ってるんだよ」
雪輝の目がすっと鋭くなった。
「好きなわけないだろ。いい加減にしろよ」
しつこすぎたのか、本気で怒らせてしまったかもしれない。
千鶴は気まずくなって口をつぐんだが、意外にも雪輝は「陽介の予想は大当たりだな」と、いつもの呆れ顔に戻って肩をすくめた。
「千鶴、そう言うお前が莉々亜のこと好きなんだろ。俺のことなんて気にしてどうするんだよ」
千鶴はしばし絶句のまま硬直した後、とぼけたそぶりを見せようとしたがうまくできず、結局は恐る恐る聞き返していた。
「や……やっぱり、わかる?」
「バレバレだっつーの」
呆れを全面に露呈してくる雪輝に、千鶴は「だって!」と叫んだ。
「あんなにかわいくて明るくていい子なんだから当たり前だろおおおぉぉ!」
千鶴は全力で叫ぶと、頭を抱えてしゃがみこんだ。
「連休に莉々亜と二人で出かけるなんて、俺はどうしたらいいんだあああぁぁ!」
「誘ったのはお前だろ」
「俺は雪輝も陽介も誘っただろ! 二人きりにさせたのは誰だよ!」
「陽介だ。俺じゃない」
「あ。うん、そうだな、その通りだ……」
勢いを挫かれた千鶴は再びうな垂れ、悶々と胸中をめぐる悩みを垂れ流した。
「だって天体観測の約束なんてしちゃったんだぞ。もしもさ、もしもだよ。もしも万が一のことがあったら、俺どうしたらいいの!」
「おいおい、健全な星の観察はどこにいったんだよ」
「だから、そういうことじゃないって!」
精一杯否定する千鶴の前に、雪輝はやれやれといった様子で腰を下ろした。
話を聞いてくれる気になったらしい。その雪輝に、千鶴は必死に説明した。
「そうじゃなくてさ、ほら、雰囲気ってあるじゃん! いつもと違う雰囲気だと突然シリアスな話が始まっちゃったりさ! それで気まずくなったりしたらどうしようって……!」
「じゃあその雰囲気に乗っかってさっさと告白でもして付き合えよ。莉々亜もお前のことが好きなんだろうし」
「えっ! そっ! ……そうなの?」
「そうだろ。お前本当に鈍感だな。でなきゃ二人で行くなんて言わないだろ」
雪輝は当たり前のように言うが、千鶴には信じられなかった。いや、信じたくなかった。
「もし本当にそうだったら……苦しすぎて辛すぎる」
ぽつりとそうこぼした千鶴に、雪輝は「は?」と聞き返してきた。
「嬉しくないのか?」
「そりゃあ嬉しいけど……。でも俺は莉々亜に告白なんてしないし、万が一告白されたとしても丁重に断るよ」
千鶴は手元のプラスチックカップを傾けた。底に沈んだレモンがわずかに揺れる。
「なんでだよ」
目を丸くする雪輝に、千鶴は悔しいけれども率直に言った。
「だって俺、赤色人種だから」
それに雪輝は何も言わなかった。
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