第十三歩 ディンバー死す!?



 どこにもいない。

 いや、見つからないだけで、どこかにはいるはずだ。

 キールは掘の脇を走り、目についた引き込み水路の入り口を覗き込む。

 水流は早く、黒い穴に吸い込まれていく。

 ジルはちゃんと伝えられただろうか。いや、きっと大丈夫だ。あれでいて案外しっかりしているのだ。

 キールは自分にそう言い聞かせ、上着を脱ぐと力任せに引き裂いて手近な柵に結びつけ、ザブリと水に飛び込んだ。

「早く見つけてやんねぇと。吸い込まれたら……」

 あの時、ディンバーはキールの手をつかもうとしていた。少なくとも落ちた時にはまだ意識があったはずだ。ディンバーだったらどんな行動を採るだろうかと考えた。

「そうだな……助かる方法を……っ……そうだ。あいつ」

 ディンバーを襲ったやつも、ディンバーが川に落ちるのを見たはずだ。あの時はディンバーだけを見ていたから、奴がその後どんな動きをしたかを見ていない。



「ディンバー公子を、物理的に消し去るのが私の仕事です」



その様子を思い出し、ぐっと何かがせりあがってきた。恐怖だと気付きたくなくて、一度目をつぶってから、また開き、ディンバーの姿を探す。その時、慌てた様子で走っていく男たちを目にした。追いかけて、一人を捕まえると、すぐにキールの方が腕を掴まれる。

「見つかったらしい。今から行くから、お前も来い」

 その言い方に、心臓を鷲掴みされたような痛みを覚えた。

 そんな言い方をしないでくれ。そんな切羽詰まった顔をしないでくれ。そんな、そんな、悲壮な顔をしないでくれ。きっとまだ、ディンバーは生きている。

 だって、まだ日は落ちてなくて、さっきまで夕日を見ながら一緒に歩いていたんだから。

 だから。

 キールは自分の喉がおかしな音を立てるのに気づいた。

「行くぞ。覚悟だけはしとけ。でも、希望は捨てるな」



 着いたのは南側の、山裾に近い大きな引き込みのある水路だった。暗渠と呼ぶらしい。

 中に入ると途端に空気が冷えた。外気が入り込まない部分を加工して、人工的に食物貯蔵庫を作る技術があるというのは聞いたことがあったが、ここもかつてはそのように利用されていたのだろう。水路の両側には人が数人歩けるくらいの幅で通路が確保されている。

誰かがキールに上着を貸してくれ、茫然と前を向いたままそれを受け取ったが、袖を通すこともなく、握りしめたまま歩を進めた。

気は急くが、先へ進みたくないとも思える。

どんどんと気温が下がり、吐く息が白く変わってもちっとも寒くなかった。

動かない左腕も、どうやら蹴りをかわしたつもりでも引きちぎられていた耳も、感覚を失ったかのように痛みを感じない。

自分がちゃんと地面を踏みしめているのかすらわからなくなって、何度も転びそうになる。

 入口からの光が届かなくなるあたりでは、既に数人の男たちが両脇から何かを水に投げ込んでいた。

 あわててそのそばへと走っていく。

水面に何かが見えるあたりで、キールは地面に膝をついた。

何か獣が唸っているような声がする。

やけに近いその声を止めたくて、自分の喉を押さえたが、泣き声に似たその音は一向にやまなかった。

 暗い水の中、ぽかりと浮かんでいるのは白っぽくて丸い布のようなものだ。その下にはうっすらと白い塊があるように見える。

 輪郭をたどれば、白いシャツの袖が、薄い緑色のズボンがわずかに水面下に見える。さらに奥に沈み込んだその先にある、日に焼けてぱさついた金色の髪と、長い割に意外と俊敏に動く足がやけにはっきりと見えた気がした。

 そう、暗い色の水の中、陽の光も当たらない冷えた水の中、背中のあたりだけを水面に出すようにして、人が、ディンバーが浮いていた。

「あ……あ……嫌だ、嫌だ……い、いや、だ」

 キールを無視して、男たちが水面に縄を渡し、それに捕まるようにして数人が水へと入っていく。誰かが白い塊に手を伸ばし、引っ張って岸の方へと向かってくるが、その間も白い塊は、力なくされるがままだ。

 数人がかりで通路に引き上げられ、誰かがディンバーの首のあたりに手をやってから首を振った。

「動いてない。息をしていない」

「あ……あ、あ……」

「キール!! 邪魔だ!! 助ける気が無いならどいてろ!!」

 乱暴に押しのけられ、戸板を敷いた荷台がすぐ脇を通り過ぎる。その先を目で追うと、ワッツが横たわるディンバーの上に跨り、何度も胸のあたりを両手で押し込んでいるのが見えた。


 どのくらい経ってるんだ。

 体温が低すぎる

 息をしろ。

 もう、目が動かない。

 息をしろ。

 これだけ経ってたら、もう。

 冷たくなってるよ


「息をしろ! くそっ……落ちてから、どのくらい経ってるんだ!」

 遠くに聞こえていた声が、急にはっきりと耳に届いた。

 どのくらい。

「あ……半刻は経ってない。それに、落ちた時には……意識があったんだ」

 声は裏返り、震えていたが、ワッツには聞こえたようだった。あごの先で呼ばれる。

「落ちた時は、意識が、あった?」

 胸を押しこむ動きに合わせて、ワッツの声はとぎれとぎれになる。その動作の度にディンバーの身体も揺れ動いていた。瞳は虚空を見つめたまま、何も映してはいない。水が瞳の上に膜をつくっていても、厭うこともないのだ。

「あった。俺の手を、つかもうとした」

「って、ことはだ。ここに、流れ着いた、時には、まだ、意識が、あったかも、知れない」

 キールはワッツを見た。

「ここは、気温が、低いから、もしかしたら」

 ワッツの身体からは湯気が立っていた。

「お、俺が、代わるよ……」

「いや、それより、顎をそらして、やってくれ。空気が、通らないと」

 キールはガクガクと頷いて、ディンバーの頭を押さえ、首の下に手を入れた。動きにくい左手を台にするように差し入れると、ディンバーの顎がのけぞり、その首もとにくっきりと手形が見える。

 橋の上で、首もとを抑えられるようにして欄干を超えた長身。

 あの時、止めていたら。

 もう少し、自分の身体が大きくて、もう少し腕っ節が強ければ。

 キールは開いた方の手でディンバーの瞼を下ろした。

「くそっ」

 ワッツが一瞬動作を止める。

「……くそっ、仕方ないか」

 そう言って、また胸を押す。一度、二度。そして


 ゴキリ


鈍い音がディンバーの身体を通してキールに伝わる。

 その音が何であるかに、すぐに思い至った。ディンバーの骨が折れたのだ。

「ワッツ!?」

「胸の骨が折れた。背に腹は代えられねぇよ。後で謝るから」

 ワッツはさらに胸を押し込む。

 後で、と言った。ということは、ワッツはディンバーが助かると思っているのだ。

 そうだ、どうして自分が真っ先にそう信じなかったのだろう。

 自分の感情に打ちのめされた。

 誰よりも、自分が信じてなかったのだ。

「ワッツ。俺の家に運ぼう。すぐそこだし、荷台のまま行ける」

「……よし。じゃぁ、みんな、俺が、合図を、したら、こいつを、荷台へ、乗せてくれ。俺も、乗って、行くから」

 それを聞いて、男たちが一斉にディンバーの周りに集まった。

「行くぞ、せーのっ」

 男たちは手際良くディンバーの身体を荷台に乗せ、ワッツはその上に飛び乗って胸を押し続けた。荷台はものすごい勢いで走りだす。すぐにキールの家に着くと、ディンバーは戸板ごと床に下ろされた。

 一瞬驚いた母はすぐに表情を引き締めると、メイとジルに何かを言いつけ、外へと出した。すぐに近所の人たちが手に布や水等を持って集まり始める。

「とりあえず、湯を沸かそう。それから清潔な布を持ってきて」

「みんな、籠の中にお金を入れて。薬と包帯を買いに行くわ」

 あちこちから声がして、たくさんの人がキールの家に出たり入ったりする。

 あっという間にディンバーは服を脱がされ、冷たい水を布でぬぐわれ、首の下には丸めた布が差し込まれた。

「だれか、ザハさん呼びに行ってるか」

「いや、街の医者のほうがいいだろう。俺が呼びに行って」

「ま、待ってください」

 転がるように、一人の男が入ってきた。

「あんた!」

 キールは思わず駆け寄った。肩を借りて入ってきたのは、ロクだ。腕はもはやちぎれかけており。頭からは血を流している。顎のあたりは変形しているようで、呼吸とともに唾液とも血ともつかないものが滴り落ちる。

「街の、医者には、伝えないでください。いま、屋敷に、アケが行ってます。すぐに、すぐに医者が来ますから」

 ロクも床に座らされ、顔を血を拭ってもらう。

 次いで慌ただしく入ってきたのは、青年会の連中だった。その中から先刻やってきた無口な男が歩み出る。

「話は聞いた。この地域で白い影を見た場合には取り押さえる。……確かに、その男がディンバー公子なんだな」

 ロクが頷く。どうやら先に青年会に話を通していたらしい。

「戒厳令を敷く。このことは見知らぬ奴には言わないように。包帯やら薬やらはこちらで用意した。ザハは……来たか」

 すぐに青年会のメンバーに連れられたザハがやってきた。

 横たわるディンバーの首に手を当て、瞼をこじ開けて近くのランタンを取り上げると瞳の前にかざす。

「……どのくらい、この状況だ?」

「落ちたのは半刻前くらいで、見つけてからは四部刻も経ってない」

「よし、湯は沸いてるな。布を煮てこっちに持ってきてくれ。青年会の兄さん方はありったけの消毒アルコールを持ってきて、そっちのあんちゃんの消毒と、こっちに二瓶よこせ。キール!」

 呼ばれて直ぐにザハの下に膝をつく。

「右手は動くな。だったら、顎を抑えてろ。どうも、喉を潰されてるみたいで、気道が心もとない」

「つぶされてるって、欄干で首に手を押し当てられてたからか!?」

「いや、そうじゃないだろう。跡が一か所強く残ってるが、他のよりも強い力だ。おそらくはそのあと、流れ着いた後で、この部分を何か固いものでつぶされたんだ。暗渠で見つかったと言ってたが、その時にはまだ息があったはずだ」

「……でも、つぶ、つぶされたって……」

 脳裏にはあのつま先が浮かんだ

「いいか。喉には気道ってのがある。そこが塞がれてるなら、その手前で空気を送ってやるしか……ないんだ!」

 そう言ってザハはのどの下のあたりにとがったガラスの管のようなものを差し込んだ。勢いよく血が管を伝って飛び散る。

「ざ、ザハ!!」

「大丈夫だ。ワッツ、押し続けてろ」

 すぐに血は止まり、その代わりにぴゅーぴゅーと音が漏れてきた。

 次いでディンバーの口からは泡のようなものが漏れてくる。ザハが口をこじ開けて、布を巻いた指で、口の中を拭う。

「キール、その管から息を吹き込め」

「吹き込めって……」

「それ以上刺さらないように気をつけて、息を吹き込め。肺を膨らましてやるんだ」

 わからないままに、キールは管に顔を近づけた。血で汚れた管だが、それよりもこの管をこれ以上刺さらないようにというのが恐ろしい。

「キール!」

 名を呼ばれ、意を決して吹き込んだ。

 ディンバーの胸が、息を吸い込んだときのように膨れる。口を離すと、ワッツが胸を押し込んだ。そのリズムにわせるように、管からも空気が漏れていく。

 ザハの指示に従って何度か、息を吹き込む。

「よし、だいぶ回ってきたか……」

ザハは受け取った熱い布をディンバーの脇の下や股の間に挟み、布で身体を覆う。

「呼吸はうまくできてないが、なんとか血は巡ってる。ワッツはそのまま続けてろ。代われるやつは代わってやってくれ。おい、そっちはどうだ」

 ザハは立ち上がると、入口の方を振り返った。

「完全に落ちちまった。何やっても起きねぇよ!」

「ちょっと待ってろ。今行く」

 不意にガクガクとディンバーの頭が動いた。全身を痙攣させて、口から泡を吹く。

「ざ、ザハ!!」

「口の中のもん、とってやれ。身体が動くのは生きようとしてる証拠だ。ビビるな!」

 その声に反応したのは、いつの間にか戻ってきていたジルだった。小さな手が口の中に差し入れられ、何度も口の中にたまったものを取り出す。その姿にどこか心が落ち着いた。

「ジル。ありがとう……助かったよ」

「大丈夫だよ、兄ちゃん。俺、見てたもん。橋から落ちる時、ディッツ笑ってたもん」

 目に涙をためたまま、それでも泣き出さない。

「笑ってた。大丈夫だって笑ってくれた。ディッツが、俺らを橋から落としてくれた。二度も、二度も守ってくれたんだ。今度は、俺が守ってやるんだ。助けてやるんだ。俺は、ディッツの友達だから。兄ちゃんも、そうでしょ」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で笑う弟に、キールは小さく笑う。

「ああ。……さっさと、こっちに戻してやんねぇと」

 ディンバーが大きくのけぞったのと、遠くから足音が聞こえたのはその時だった。

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