第3話 「お互いどうかと思う」

 再び自室に戻りぼおっと考え事をしていたら、もう太陽が頂点を越えて傾きかけていた。どれほど時間が経っただろう。四時から夏期講習に行かなくちゃいけない。こんな気持ちのまま?


 迷っていたんだ。


 ここにいても何も判らない、僕の知る情報とテレビが伝える情報は全く別のもので、今の僕にそのギャップを埋めるだけの知識も知恵もない。それにこの感情の不快感はどうすればいい。


 もともとクラスの委員なんてやる柄じゃないんだ。人の先頭を切って行くような性格じゃない。ただ、皆が曖昧になんとなく面倒だから避けるような気持ちは好きじゃない、誰かがやればいいと依存するような考え方は嫌いだ。


 だから、誰も手を挙げないから僕がやったんだ、それだけだ。誰かがやらなきゃ何時まで経っても決め事の会は終わらないんだから、合理的に考えても可能性のある人間が決断さえすればいいことだったんだ。


 やっても構わないよって人間がその手を上げればいいことだった。感謝されたい? 違うよな。“誰もやらないからやった” “僕しか手を挙げないから僕に決まった”そういう理由が欲しかったんだよ。


 僕は去年の林間学校の際に買った大き目のザックを押入れから探し出し、家にある水や食糧をかき集め、電池や懐中電灯、着替え、毛布、携帯電話、そして忘れちゃいけない携帯電話の充電器、キャンプ用の道具一式を詰め込んだ。テントも考えたがさすがに入りきらなかった。


 両親はまだ戻らない。僕が何をしようとしているのかって? きっと両親はわからないだろう。僕だけが知っている事実はこの電話にしか流れてこなかったのだから。


 準備の間、何度も何度も自問した。何をやってるんだって、どうするつもりなんだって。でも答えを先送りにして考えないように努めた。


 どれを、なにを信じるべきか、いや、そんな崇高なものでもない。冒険? 好奇心? 自己満足? 何もなければそれでいい。もし何かあった時、僕は後悔するのかもしれない。見捨てた、見て見ぬふりをした、知らないふりをしたと。


 あるいは映画やドラマの主人公の行動をトレースしているだけのことかもしれない、自分がヒーローになって戦地へ、彼女の安否を気遣って危険を冒し飛び込んでゆく。


 無責任に自分には関係がないと言いたくない。やれる可能性があるから、僕しか知らないから、僕が行く。


 いや、それも口実で、ただこの部屋で、この街で、平凡に平和に夏期講習に追われながら過ごすことから逃げたいのかもしれない。もし、この戦争が真実ならば、僕らが受験生であることに意味なんてあるのか? 来春、学校がある保証なんてないじゃないか。


 荷造りの準備だけでゆうに一時間はかかり、汗だくになった。Tシャツを着替え、愛用の軍物のアウトレットで買ったカーキ色のフィールドパンツをはき、靴は大事を考えて父からもらった山歩き用の丈夫な革のブーツを選んだ。


 ザックを背負って框に腰をおろして靴ヒモを締める僕が玄関の姿見に映る。誰がどこからどうみても「キャンプかね?」と問われるようないでたちだ。


 立ち上がり、一瞬玄関のノブを握りドアを開くことをためらった。このドアを開いたとき、両親と鉢合わせたら、僕はなんと言えばいいのだろうか。ちょっと出かけてくる? そんな大きな荷物を持ってこんな時間から何処へ行くって言うんだ。北岸市まで友達の安否を確かめに行く? 制止されるに決まってる。


 おおきなザックで背後の廊下はふさがれて首を傾けただけでは家の中は見えなかった。ふと、もう二度と戻れないのではないかという予感もよぎった。だから身をよじり誰もいないのに後ろを振り返りたくなった。


 ゆっくりと狭い玄関で体を回して廊下の方を振り向いた。


 その瞬間背後で甲高い音が土間を打つ。玄関右手の靴箱の上にあった小さな鉢植えを背中のザックで引っ掛けて落としたのだ。びくりとしたせいでまた背中に汗が吹き出た。不快感にやれやれと心がつぶやいた。


 おかげで僕は半身を廊下のほうにむける事が出来たのだが、それは何も変わらない静かな夏の午後の薄暗い廊下と、その奥のダイニングキッチン。締りの悪い蛇口が、水を張った洗い桶にしずくを一滴落としたのが見えたような気がしただけだった。


 僕を見送る人はいない、勝手に出てゆくくせにと苦笑いもしてみた。両親に対してなにか書置きしないのか、そうも考えたが、まだそこまでの気持ちにはなれなかった。すぐに戻ってきたらかっこ悪いじゃないか。


 僕は戦地へ向かう、戦地へ向かう旅に出る、センチメンタルジャーニーって言葉どっかで聞いた事あるな。どういう意味なんだろう。


 ドアノブに手をかけて扉を大きく開いた。


 玄関から廊下にかけて中に停滞していた湿っぽい空気が入れ替わり、同時にまぶしい昼の光が眼球を照らし、目を細める。やわらかな風は汗でにじんだ僕の首筋を冷却した。重いザックを背負いながら割れた花瓶と散らばる土を片付ける余裕はなかった。


 しかし、そこに植わっていた一輪の花は玄関のドアの隅に少量の土を根にはらませて横たわっている。鉢を失った花はいずれすぐに枯れてしまうだろう、足元をすくわれ糧をとる場所を奪われて生きてはいけないだろう。それを今奪ったのは僕だ。


 僕は一寸考えてその場でしゃがみ、そっとその名も知らない花をとりあげて、根を優しく両掌でかばいながら右膝でドアを押して静かに閉めた。


 今にも壊れそうな一輪の花を携えながら、僕は駅へと向かう道の上にいた。午後三時の太陽はまつげをチラチラと照らした。この花、どうしよう。その辺の公園に植えてやろうか?


 そう考えながら、どこかよさげな土の部分を探すが、アスファルトに張り巡らされた住宅地には掘れる地面というものがないことに気づかされる。


 不自然に花を両手に包みながらぼんやり駅に向かって歩いていると、案の定いつも犬を連れて自転車で散歩している近所の爺さんから「おお、キャンプでもいくのか?」とすれ違いざまに声をかけられた。僕は微笑んで目礼だけして彼をやり過ごす。


 いつもと変わらない住宅街だ、一人の子供が僕の横を走り去り、それを追いかける数人の子供。おもちゃの銃で撃ち合いをしている。ベランダで洗濯物を取り込む女性と目が合う。僕にはそれが奇人を見る好奇の目に思えた。


 鉄道のガードをくぐり、しばらく歩くとその先に商店街がある。この時間は買い物に来た主婦たちの自転車が右へ左へ交錯している。車が遠慮がちに通行しなければいけないような地元の雑多な商店街だ。


 僕は縦横無尽に駆ける自転車を避けるためできるだけ左に寄って歩く。必死の形相で両手にビニール袋を提げた中年の婦人が、すれちがいざまに僕の大きすぎるザックを迷惑そうに見た。いや、そう見られているような気がした。


 高校生ぐらいの青年達がまばらに自転車を歩道に置き談笑している。僕はその自転車の隙間を縫うように歩く。


「きだぁ!」


 突然どこからか呼ばれたような気がした。僕は再び背中のザックを何かにひっかけまいと気をつけながら振り返る。


 右や左を振り向いているとそこには同級生の山内美咲がいた。赤いエプロンをかけている。何で山内がここにいるんだ?


「やっぱり木田だ。なにそれ? そんな格好して今からキャンプでも行くの? それとも帰り?」いつもの調子で屈託なく話しかけてくる。


「山内こそ、ここで何してるの? そんなエプロンなんかしちゃって、家のおつかい?」僕は彼女の問いに満足に答えられる自信がなかったから、逆に彼女に質問で返した。


「あー、アルバイト、学校には秘密だよ? ほらここの花屋さん、私の親戚で内緒で夏の間だけ働かせてもらってるの。誰にも言っちゃ駄目よ」彼女が首をかしげて目線でちらりと指したのは、昔からある愛想のいいおばさんの花屋だった。母もよくここに来ているはずだ。


「へえ、初耳。しらなかったな」とはいえど、誰にも言っちゃダメって言っても、店頭に出ている限り誰かに見られてもおかしくないだろう。何言ってんだ。


 彼女は僕のその言葉を聴いたか聞かなかったか、僕の背後に回りしげしげと荷物を眺めながら言う。


「木田のうちはこの近くだったっけ? すごい荷物ね、どこいってたの?」僕は冗談めかしてもう一度はぐらかす。


「お互い受験生なのに、こんなことしてていいもんかと思うよ……あ、そうだ、この花」


「うん? ガーベラね? どうしたの、どっかからもって帰ってきたの?」


「え? わかるんだ?」僕は花の名をすっと答える山内に少し感心した。


「そりゃ花屋だもん。わかるわよぉ」彼女は少し考えてニヤリと笑って僕をみて言う。


「なになに、受験の願掛けか? 無駄無駄ぁ、あたしもう諦めたもん。なるようになる、ならなきゃこれよ」そういって彼女は胸を張って『フラワーヤマウチ』と書かれた真っ赤なエプロンを僕に見せた。


 彼女、山内美咲は僕とは今も同じクラスだが、一年生のときにも同じクラスだった、つまり奥田ともクラスメートだったわけだ。


 山内は奥田とは違い快活で明るく、クラスの中でもムードメーカーのような存在で、クラス全員を引張っていくリーダー的要素も持ち合わせていた。


 それだけに一部男子とのいさかいも絶えない。相手が誰であれ一歩も後に引かない強さがその眉に刻まれたような女子だった。


 女性には奥手だと自認する僕だが、彼女は僕の中では女性ではない。失礼ながらそういうことにさせてもらっている。


 僕は彼女のその強すぎる女性像にいささか敗北感を感じ、男としてなにか釈然と出来ないものを彼女に抱くことはあった。


 それに勝手な解釈だけど、なんだか花屋って言うと清楚、可憐みたいな、いかにも花を愛でる優しい女の子みたいな、そんな印象を受けるじゃないか。そこに山内がいる事がなんとなく不自然にも思えた。


「あ、そんなんして直に手に持って帰ってきてぇ! 何か入れものはなかったの? かわいそうじゃない。ちょっとまってて」


 わずかな土をはらんだ花の根を両手で包む僕を、勢いよくたしなめて店の奥へ向かおうとする山内だったが、僕は彼女を慌てて呼び止めた。


「いや、これあげるよ、山内に!」僕のその言葉に山内はやっぱり勢いよく振り向き怪訝な顔をして言った。


「あん? いいわよ、木田が自分で摘んできたんでしょ? 私は花屋よ? なにいってんの」その一寸威圧的な言葉に僕が言葉を失っていると、山内は店の奥から何かを手に持って戻ってきた。


「ホラ、貸して。ちゃんと鉢にいれて、土……これでいいでしょ。大事にしなよ、花だって生きてるんだから」山内は僕が持ってきたガーベラという花を丁寧に鉢に植えなおしてくれた。


 簡単な持ち帰り用のプラスチック製の鉢だったが、花は足りない何かを得たかのように見えた。山内はそれを優しい手つきで袋に入れて僕に手渡した。


 そのかすかに香る花の香りと優しげな手つきと、強いながらも言葉の端々に漏れ出す、緩やかな大人の女性のもつ残響音に一瞬どきりとさせられて、僕はまるで小さな子供のように何も言えず、花を受け取るしかなかった。


 山内に奥田のことを話すかどうか迷った。彼女もかつてのクラスメートの一人だ。言うべきだろう。でも、状況が、順を追って話すほど悠長にやってるわけにはいかない。それに、それより僕が今から北岸市に何をしに行くのかすら自分でも説明が付けられないのだ、どこから話すというのだ?


 なんとなく手持ち無沙汰で、僕は渡された袋を提げたままつっ立っていて、山内は左手を腰に当て、右手で前髪を弄んでいる。なんだろうこの居心地の悪さ。


「なあ……一年のとき一緒のクラスだった奥田って、覚えてるか?」僕はできるだけ何気なく、さりげなく訊いたつもりだった。


「おくだ……なによ突然?」といって眉を歪める。


「ほら、冬に転校した子、いただろ?」


「ううん……たしか、夏祭りに一緒にいったっけ? 何人か一緒だったからそんなに印象があるって訳じゃないけど、文化祭で木田と同じ委員してたよね?」彼女が口角でニヤリと笑う。


「あいつ、どうしてるか知ってる?」


「ううん? しらない、彼女が引っ越してからは。連絡取り合うほど仲がよかったわけじゃないし……なんかあった?」再び彼女がニヤリとするのを抑えるが如く僕は次の言葉を懸命に捜した。


「あー実は、さ。彼女に借りてたままの本があって、さっき部屋を片付けてたら出てきたんで……んで」そう言ってから後悔した。しまった、なんてベタな言い訳じみたアプローチだ、何言ってるんだ。


 案の定、もう一度山内はニヤリとした。


「連絡先、多分どっかにあるから探しとくよ! 見つかったら連絡してあげるから」だめだ、山内は完全に勘違いをしている、その不敵な笑みが全てをあらわしている。


「ちっ、違うんだよ、そうじゃなくて……あ」僕は苦い顔を隠せずに彼女から目をそらした。


「はいはい、それじゃまたね! お仕事しなきゃねぇー」彼女は踵を返し僕に後ろ手で手を振った。


 いや、これでよかったのかもしれない。何も説明しなくて済んだのだから。よかったのかも知れない。彼女は何も関係がない、無理に心配事を話す必要もない。


 平和な街で美しい花々を人々に提供する、気丈で男勝りな優しい花屋としてここで笑っていてくれればいい。僕はしばらく彼女の背中を見つめて考えていた。何かを聞かなければいけないのに聞きそびれている。


「なあ、山内! さっきの、花に願掛けってなんのことだよ?」


 彼女は僕の言葉に立ち止まったが、振り返らなかった。そして不自然な体制で壁にかけていた箒を手繰り寄せ、おもむろに床を掃きながらそっけなくこう言った。


「花言葉よ。『希望』しらなかったの?」


 知るわけないだろう。僕はこの花の名前すら知らなかったんだ、まして花言葉なんて。憮然とする僕を伺うように彼女が顎を上げてちらりと見たが、その視線はすぐに外に向けられた。


「あ、ありがとうな。俺、大事にするよ、この花」


 その言葉に彼女は僕を一瞥し、右手をあげて軽く手を振ると、店頭のお客の対応に走った。耳が遠いと思われる老婆に対し大きな良く通る声で、懇切丁寧に花の説明をする彼女の横顔が僕に安堵感をもたらした。


 邪魔すると悪いと思ってそれ以上声をかけなかった。それじゃあまた、帰ってきたら顔を出すから、と心の中でつぶやいて山内の花屋をあとにした。

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