第1話 「戦争が始まった」
戦争が始まった。
かねてより敵対してきた隣国が僕らの国に宣戦布告をしたのだ。
敵対していたといっても、僕らが常に緊張していた訳じゃない。おおむね先の大戦からこの六十年は平和だったといっても良いだろう、両親だって戦争を経験したわけじゃない。
そもそも隣国が勝手に“敵国”だって僕らの国を指して言ってるだけだし、僕らは彼らのことを敵だなんて思っていなかった。というより何かっていうと揉め事起こす面倒なお隣さんって感じで思ってるくらいだった。
それに戦争が始まったといっても、それはテレビメディアの中で情報として捉えたことであり、現在の僕らにはその実感はほとんどない。その証拠に今日も普段と変わらないでこうして朝食を食べている。
昔の大戦みたいに空襲警報が鳴り響いて、防空壕に逃げ込むなんてことはない。相手の国に動きがあればすぐさまテレビなりが情報を発信するはずだから。
母がトーストと目玉焼きをダイニングテーブルに差し出し、傍らに置いた新聞を広げてため息をついた。しかしその朝刊にはまだ宣戦布告の四文字熟語は載っていなかった、宣戦布告は早朝に発布されたからだ。
以前から教国の態度には不穏な空気は流れていた、一部のジャーナリストは“いつ戦争になってもおかしくはない情勢だ”と警鐘を鳴らしていたが、その声はいつもワイドショーの生ゴミのような話題に埋もれた。それに誰もが今まで平和が続いているのだから、またいつもの脅しだろう、と高をくくっていた。
そう、まさか戦争が起こるなど、この国にそんな災難が再び降りかかることはないだろうと信じていた。
「まさか、この国がまた戦争をすることになるとはねぇ……考えもしなかったわ」 母は新聞をたたんで、テレビの画面に目をやる。
テーブルに置かれた新聞記事の一面トップは皮肉にも『国防軍予算不正流用発覚』だった。
「すぐに終わるよ。同盟国が動いてくれるし、こっちの国防軍は向こうよりも格段に戦力が上だし、一般市民のレベルにまで波及する戦闘にはなりえないんじゃないかな」 父が続けて言う。
それは夏休みのある日曜日だった。
いつもならばこの時期は祖父の田舎の島に遊びに行っている頃だったが、今僕たち一家は三人で朝食の食卓を囲んでいる。それは別にこの戦争のせいじゃない。僕が受験生であること、それにかこつけて毎日のように追い立てる塾の夏期講習、父の仕事の都合上休暇が満足に取れなかったこと、そしていつも一緒に行っていた近所の家族の不幸、それらが重なりやむを得ず今年はキャンセルとなった。
祖父は僕たちが来ないことを大変残念がっていた、そして勉強なんぞ三日ぐらいせんでもええだろ、と僕に言うのだった。僕はその言葉にうまく返せなかったことを少しだけ後悔していた。
祖父は南洋の離島で漁師をしており、祖母が四年前に他界してからは、昔ながらの縁側のある、いわゆる田舎らしい平屋に祖父がひとりで住んでいる。父が一人っ子という事もあり祖父には再三こちらに来て一緒に暮らしてはどうかと持ちかけたのだが、祖父は頑なに拒否し続けた。
父は若い頃離島から単身本土に渡り、彼なりの努力で現在の会社に入り一応は年齢相応の格好がつくだけの役職をもち、僕たち家族を支える大黒柱として今に至る。
学歴がなかった父は努力家で、好景気に乗じて実績を跳ね伸ばし会社から高く評価された。母は当時の女性ながら都内で名門の大学を卒業したキャリアの持ち主で、父の後に入社、実力主義の会社においてそんな若かりし父と母が惹かれあうのもさほど不思議ではなかった。社内では羨望のまなざしを一手に受ける噂の二人であった。と、二人からは聞いている。
つまり両親は僕にもそういう生き方を強要する。それはわかる、僕自身それがそんなに不自然だとも苦だとも思わない、出来るならやるに越したことはない。それに今の自分がそれ以外の、つまり勉強を頑張り、いい高校や大学に入ること以外に目的というものを見出せないのだから、今できることをやるべきだと思っていた。
だが僕はけして父のような努力家ではないと自負している。変な言い方だけど。
生真面目に何かに向かって突き進むような生き方はできないだろうと感じていた。今の僕は目の前にやるべき事があるから出来ているだけで、それら全てが達成されたとき僕は何を目指せばいいのだろうかと、寝る前なんかにぼんやり考える。
結婚したり、家族を持ったり、そんな事が目標になるのだろうか。父は会社にいる間は楽しくて仕方がない、なんてことはないはずだ。幸せや楽しいって夢や目標がかなったときのことだろう? かといって家でもそんな風には見えない。
テレビドラマで描かれるような普通らしい家族の絵があるように、例に漏れず我が家もその一部に当てはまるのだろうし、特にそれに不満はない。不満とは他所と比べて初めて抱くものだからだ。少なくとも僕自身は他所を我が家よりもいいと思ったことはないし、他所を我が家より不幸だと思ったこともない、どこを見ても似たり寄ったりだ。
ただ祖父がこちらに来ることを拒む理由はわからないわけではない。父とは違う、奔放で気さくな性格の祖父が、この町やこの家はつまらないと思っているだろうからだ。
逆に僕にとって祖父の田舎で夏休みを過ごすことは一年のうちの最も楽しい時間だった。こっちでは出来ないことや、こっちにはないもの、こっちでは見られないものがたくさんあった。
昨日の晩も離島の美しい海の記憶を反芻せずにはいられなかった。今日も夕方から塾のカリキュラムがある、こんな自身の境遇を恨めしくも思うが、残念だけど仕方がない。まがりなりにも受験生だからね。
テレビをつけるとどこのチャンネルも戦争問題の関連番組があふれていた。何度も何度もこの国が面する北洋の沿岸を警戒する国防軍の映像が流れた。リポーターが取材ヘリから神妙な面持ちで「現在のところ動きは見られません」と繰り返す。
中学最後の夏休みに入る前から学校でも再三戦争に対する話し合いが行われ、もし戦争が勃発したら、まずどのような行動をとるか、というシミュレーションを行っていた。
子供の未来を守る何とかの会、とかいう団体は学校のそういう訓練に対して、不穏当だと抗議してきたみたいだけど、いざというときの備えはあるに越したことはないだろう。
でも、僕にはそれと普段の火災訓練とどこがどう違うのかよくわからなかったし、みんながへらへらしているのもいつもと同じだった。訓練のあとの話し合いの結果は常に「戦争には断固として反対する」だった。
戦争映画を見ての感想文などは杓子定規の文脈が並び、こんなもの何のためになるのかと先生に問いただしたくなったものだ。この学校だけでも皆戦争には反対しているのに、なぜ世の中から戦争がなくならないのか、と。
この国が過去に行った凄惨な大戦では僕たちのような十代半ばの若者までもが最前線で戦っていたと聞いている。 僕はその人たちのように戦えるのだろうか。 反対していても一度起こってしまったらどうしようもないんじゃないか? 徴兵されても断ることって出来るのか? 戦いたくないって言って済むんだろうか?
「とうさんもお前も戦争に呼ばれることはないさ、国防軍は志願制だし、昔みたいな白兵戦もないし、国家総動員なんてもう世論が許さないさ」
「そうね、おばあちゃんが言ってたわ、竹槍で戦えって言われたって、兵士でもないのに無茶よね」
母は掃除機を引っ張りながら言った。兵士でも竹槍では嫌だろう、と思いながら僕は父と母の口癖を聞き流した。
「今時国を守るとか言っても一般市民の生活は保障されるべきさ、納税とか参政の義務は果たしているんだし。そのために官僚や兵士という職業があるんだ」
まだ午前中だというのに、父はプロ野球の中継でも見るかのようにソファに座ってビールを注いでいた。 母はこういうところは寛容で、特に車を出す用事がなければ父には何も言わなかった。普段は仕事でがんばってくれてるのだから休みの日くらいは好きにしてもらってもいい、と。
僕には兄弟がいない。母は父と同じ会社で産前まで働いていたし、その後も近くのスーパーにパートに出ている。特に生活が苦しかったわけじゃないけど、どうやら母は外に出て働きたいってのが本音のようだ。子育てに手を取られるのは本意じゃなかったらしい。
画面上のマスコミの取材ヘリは沿岸を相変わらず飛びまわっている。南洋沿いの僕の住む町からは随分離れたところだ。もし仮に敵の兵隊が上陸してきても、この町にたどり着くまでに敵部隊は国防軍に殲滅されるかもしれない。
いやそれよりこんなへんぴな田舎町よりも、まず先に都市を襲撃するだろうからこんなに呑気にしていられるのだろう。いうまでもなく最前線に住まう人々は気が気でないだろうけど。
そういえば、中学一年のときの女子のクラスメートが北岸の都市に引っ越したな。彼女どうしているんだろう、向こうはどうなっているか電話して訊いてみようか。
僕は過去の住所録に登録した番号を自分の携帯電話から呼び出しダイヤルした。クラスメートだったとはいえ、一緒のクラスにいるときはそれほど交流もなかった。
特別な感情があったわけじゃない、文化祭のときに互いに委員を半期共にした仲だけのことであり、この電話番号はその当時互いに連絡を取り合うためのものだ。 今も同じ番号である可能性は低い。
そんな事務的な関係だけで、あえて僕が彼女を心配したり気遣うだけの理由というものは多くは見つけられなかったけど、一種の非常事態にある今、彼女の事だけが南岸の僕と北岸をつなぐものであり、ダイヤルするその指先に一種の興奮を覚えた。
最近は中学生の僕でも携帯をもてるくらい当たり前になった。ただし安物で電波の入りはあまりよくない。最新機種はカメラが付いてたり、文字を打ってファックスみたいな使い方ができるものが出始めてるんだけど、両親は頑として僕の携帯を買い換えてはくれない。まだ使えるのにもったいない、とね。
彼女の電話番号を呼び出し、深呼吸してからおもむろに通話ボタンを押す。
コールが三回。出ない。
さらに三回……つながった。
「も、し……もし?」
「たすけて! いま……そこまで……きてる!」
それだけ言って言葉は途切れた。これは彼女の声なのだろうか。そう、僕は彼女の声を記憶するほど彼女とは関わってはいないのだ。
鬼気迫る声に気圧され、反射的に 携帯電話を握る左手は感覚がないまま小刻みに震えていた。僕はそのまま受話部に耳を押し当て懸命に音を聞き込んだ。
電話越しに向こうの情景が音となって遠く離れた南岸の町の僕の耳にとどく。 何かが崩れる音、銃声のような音、悲鳴、慌しく人が走り回る音。
そして突然回線が途切れた。 無機質な反復音がむなしく僕の内耳にひびきわたり、やがてゆっくりと電話を耳から離す。
瞬きが出来ないままリビングの入り口に立ち尽くし、非現実感の中に浮かぶ父の背中だけが今の僕に取りつく島に思えた。
「とうさん!」
僕はリビングのソファに座る父の背中に声をかけた。いや、もはやそれは声として届いていなかったのかもしれない。父は振り返らなかった。テレビにはさっきと同じように沿岸を警備する国防軍の姿が映し出されていた。リポーターがさっきと同じ言葉を吐いた。
「北岸です、現在のところ動きは見られません」
ほろ酔い顔を赤くした父が口元を緩めてゆっくり振り返り、きっと彼とは逆に青ざめているだろう、電話を握り締め震える僕にこういった。
「伸也、ビールをもう一本取ってきてくれ」
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