第26話 覚醒 3

 それから一週間も過ぎた頃だろうか、ある日の午後編集部に盛喬の弟弟子の盛季が顔を出した。彼は噺家の身分では二つ目なので、未だまだ修行中でもある。前に神田に出来た二つ目専用の寄席神田連雀亭に見に行ったことがある。

「どうしたんだい? 今日は仕事は?」

 俺の質問にやや胸を張って

「昼のワンコイン寄席の帰りです。これでも連日出ているんですよ」

 そう言った顔に少し自身が伺えた。「ワンコイン寄席」とは連雀亭で行われてる昼席で三人噺家が出て五百円で見られるのだ。

「そうか、それは良かった。ところで今日は?」

 こんな落語の情報誌の編集部に来るなんて思わなかったからだ。俺の質問を待っていたかの様に

「実はアニさんの事なんですが……」

 その言葉で盛喬の事だと理解した。盛季がこうして俺の所に来たという事は盛喬は未だ出口を見つけていないのだと理解した。

「あのままなのかな?」

「それが……神山さんから映像のDVDをコピーして貰って家で毎日見ているそうなんです。俺なんか見ていても判る所まで実力が伴ってないので、凄いとは思いましたけど、そんなに感じ無かったんですがアニさんは見れば見る程……」

「考え込んでるのかい?」

「はい……それはもう……」

 一度様子を見たほうが良いかなと思った。何と言っても映像を見せた責任があるからだ。

「今日は家に居るのかい? 確か今席は寄席には出て居なかったと思ったが……」

 そう俺が言うと盛季は自分の手帳を出して

「そうですね。アニさんは『住吉踊り』には出ていませんから出番は無かったと思います。あれば代演で鈴本ですかねえ?」

『住吉踊り』とは、故八代目雷門助六師が伝えて来た踊りを故古今亭志ん朝師が受け継ぎ浅草演芸ホールで八月中席に行われている興行で、こればかりは噺家協会の芝居でありながら噺家芸術協会の芸人も出演する。確か柳生も出演しているはずだった。総勢四十名を超す芸人が高座に出て踊るのは一見の価値がある。

「じゃあ今日は家に居るんだね?」

「だと思います」

 行くしか無いと思った。幸いお盆休みで編集部も暇である。既に九月号の原稿は出来て印刷に回ってる。休み明けには出来て来るはずだ。行くしかあるまい……

「この後、仕事は?」

「ありません。お付き合いします」

 盛季の答えは単純だった。というより最初からそのつもりで来たのだろう。薫に電話を入れて事情を話しておいた。遅くなるという事を……


 山手線から私鉄に乗り換えて四つ目の駅で降りる。いく分寂れた商店街を抜けた先に盛喬のマンションがあった。確か幼稚園に通ってる女の子がいるはずだった。途中の洋菓子店でプリンを買って行く。水羊羹より喜ぶと思った。

「美樹ちゃんプリン好きなんですよ。きっと喜びますよ」

 プリンを買ったのは盛季のアドバイスがあったからだ。俺は子供の好きなものなんて全く判らないからだ。だが来年になればこれも違うのだろう。年末が楽しみで仕方がないのだ……

 思ったより綺麗なマンションだった。ベランダの柵が市松模様になっていて洒落た感じで噺家が住むには適してしるのではと思った。

 盛季が編集部を出る時に電話を入れておいてくれたので、呼び鈴を押すと女将さんがすぐに出てくれた。確か大学の時からの付き合いだと聞いた事があった。カワイイ感じの人だった。

「どうぞ、主人もお待ちしていました」

 その言葉に上がらせて貰い手土産を渡すとそれまで母親の後ろに隠れるようにしていた女の子が嬉しそうな顔をした。それを見て今までに無い思いが心を占めるのを感じた。

「ね! プリンで良かったでしょう!」

 盛季も嬉しそうな顔をした。そいえばコイツも一児の親なのだと思った。改めて実生活が噺に反映されるのはこのような時なのだと理解した。

 盛喬は奥の部屋に居て、座布団に正座して一心に噺をさらっていた。良く聴くと「文違い」だった。

 俺も盛季も黙って終わるのを待っている。この部屋には美樹ちゃんも女将さんも入って来ない。きっと稽古中は何時もこうなのだと思う。柳生の稽古は何回か見た事があったが、他の噺家の稽古はそれもその噺家の家での稽古風景は始めてだった。

 サゲを言って噺が終わるとこちらに向き直り

「神山さんいらっしゃい。何だか戴いたみたいですね。手ぶらで来てくれれば良かったんですよ」

 盛喬はそう言ったが、まさか人の家を訪問するのだ、そうは行かない。

「出来具合はどうだ?」

 ストレートに訊いてみる。俺と盛喬の仲ならそれでも通じると思った。すると盛喬は

「生まれて始めて噺をするのを怖いと感じています。こんな出来で高座で話せるのか、と思いますよ。今は高座に出たく無いですね」

 力無く笑うその姿は以前の陽気な盛喬とは違っていた。

「暫く寄席は無いのかい?」

 こんな状態ではとても高座には出られないと思ったからだ

「明後日、鈴本の夜頼まれました。悩みましたが受けました。良い噺家は浅草に出ていますからね。出ない訳にも行きませんよ。だから必死なんです。『文違い』はやりませんけど、兎に角キリの良い所まで仕上げませんと高座には出られません」

 確かに盛喬の心持ちはそうなのだろう。

「良かったら、明後日見に来てくださいよ。受付に言っておきますから、入れるようにしておきます。薫さんと是非!」

 そうまで言われては行かなくてはならないだろう。

「ああ、じゃあお邪魔させて貰うよ。それで出番は?」

「音武蔵師匠の代演です。トリですよ。大任です」

 いくら八月の中席で良い噺家が浅草に出ている状況で、鈴本の夜席で代演とは言えトリに出るとは大したものだと思った。

「へへへ、鈴本でトリなんて昇進披露以来ですよ」

 俺は、その言葉に盛喬は何かを掴みつつあるのではと思うのだった。

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