黒の悪魔使いと冥界の王
黒崎
1章
01 死にたくないだろ
恐怖のあまり足が震える。
なんて経験をしたことが、これまでの人生で一度だってあっただろうか。
羽生(はにゅう)黒乃(くろの)はふいにそんなことを考えた。
今はそれどころではない、というのは自分が一番良く分かっている。きっと、だからこそだ。そんなとりとめのないことが頭を過ぎって仕方がないのは。
上がった息が漏れないようにと歯を食いしばって口を閉ざした。奥歯が痛む。もう一時間近くそうしているように感じるが、実際のところは五分、十分が精々といったところだろう。
無意識のうちにTシャツを握り締めた指先からは、とうに色が抜け落ちていた。
浅く何度も息を吸い込むと、埃っぽい空気が喉を引っ掻きながら肺に落ちる。平時であれば不快だと感じるだろうそれも、この非常時には全く気にならなかった。
首筋には黒い髪が貼り付く。これもまた、不快だと思う余裕はなかった。
なぜこんなことになったのか。
またしても、考えたところでどうにもならないことが浮かんでは消える。
何かに思考を囚われていなければ、パニックになってしまうだろうことは安易に想像がついたからだ。
――ただ散歩してただけなのに、どうして……。
いつもどおりの時間に起きて、朝食を作り、学校に行って、特に問題なく放課後を迎えて、それから。
夕飯の支度、洗濯、風呂を沸かしたのもいつもどおり。それから風呂に入る前、裏庭で竹刀を振るという日課をこなした。可愛がっている二匹の飼い猫と遊んで、二匹を連れて散歩に出たのもまた、日課だったからだ。
いつもどおりの一日だった。散歩から戻って、飼い猫たちと布団に入ることさえ出来たなら。
どこで間違えた。なにを間違えた。
黒乃は一日を振り返り、そう思案する。けれどあいにく、好き勝手に色んなことを考える頭は、ちっとも情報を整理しようって気はないようだ。ただ少なくとも、自分の行動に非はなかっと、それだけ答えを吐き出した。
ただまぁ……一つ選択を間違えたとするなら、二手に分かれた道で「もう少し歩きたいから」と遠回りになる方を選んだことか。あのとき、近道を選んでいれば……。
一瞬浮かんだ考えに黒乃は小さく首を振る。今更そんなことを言っても、もう遅い。
――きっと大丈夫だ……ここは秘密の場所なのだから……。大丈夫……大丈夫。
そうやって自分を鼓舞しながらも、心の片隅では最悪の結末を思い描いている。つい十数分前、ナイフを突きつけてきた少年に無残にも殺される結末を。
次に、黒乃は隠れ潜んだクローゼットの中で考えた。ここで殺されたなら、自分の死体は誰かに見つけてもらえるのだろうか――と。
それとも、今は誰も住んでいない廃墟の奥まったこの場所で、誰にも知られることもなく腐っていくのだろうか。それは少し寂しい。
――そういえば昔、隠れんぼで誰にも見つけてもらえずに、ここで眠ったことがあった。
今度は遠い過去の記憶に思いを馳せる。幼馴染と遊んだ楽しい記憶だ。
このクローゼットに初めて隠れたあの日、あまりに見つからないものだから幼い黒乃はその場で眠り込んでしまった。
けれど、自ら扉を開いて外に出た記憶はない。誰かに見つけてもらったはずだ。時間は掛かったけれど、誰かがこのクローゼットの扉を開いた。
ギギィ……と、蝶番が物々しい音を立てる。
――そうだ、あの時もこんな音がした。こうやって誰かがこの扉を開いた。
それが誰だったかはもう、思い出せない。そしてこれから先、それを思い出すこともないだろう。きっと自分はここで死んでしまうのだから。
それだけ考えて、黒乃は息をとめる。
「隠れんぼは終わりだ。さっさとその指輪を俺に渡せ」
目の前に広がった部屋の中は、月明かりが差し込むせいか思いの外明るい。
いっそ暗闇だったなら、己にナイフを突きつける少年の姿も見えずにすんだかもしれないのに。見えなかったからといって、助かるわけでもないけれど。
諦観の念を抱きながら汗ばんだTシャツ越しに、チェーンに通した指輪を握り締める。硬い金属が皮膚を押すが、痛みは感じられなかった。
「指輪を寄越せば殺さない。約束する。お前だって死にたくないだろ」
ナイフを突きつけながらの約束。それのどこに信憑性があるというのか。
薄暗い部屋で、ナイフが月明かりに反射して鈍く光る。色に温度などありはしないが、冷たい色とはこういうことを言うのだろう。
はっきりと識別できるわけではないが、そのナイフを持つ少年の髪もまた、同じような色をしていた。
けれど瞳はどうだ。こちらもはっきりとは分からないが、黒乃はどうしてかそれを冷たいとは感じられなかった。
そこに人を刺すような冷たさはなく、いっそ優しいと言ってしまいたくなる眼をしている。そんなアンバランスさが余計に不安を煽った。
一つ唾を飲み込んで、黒乃は恐る恐る口を開く。どうせ殺されるのなら、抵抗ぐらいはしておきたかった。
「ゆ、指輪は……」
口の中はカラカラだ。絞り出した声は掠れている。
「これは、父から貰ったもので……」
「……俺にはどうしてもその指輪が必要なんだ、悪いな」
眉を潜めて少年が答えた。決死の主張を「悪いな」の一言で片付けられたことに黒乃は唇を噛む。
「誰にも渡すなって言われてるから、だから――」
「じゃあ」
言葉を遮って少年が口を開く。黒乃の首元の衝撃が走ったのはそれと同時だった。
ブチッという音と共に、首が大きく前に引っ張られる。
「っ!」
「やっぱこうするしかないな」
握った手のひらの中には布以外のものは何もない。
代わりに、目の前の少年の手には千切れたチェーン。そしてその先で、見慣れた指輪がゆらゆらと揺れていた。
黒乃は反射的に手を伸ばすが、それより先に少年が数歩後ずさる。
黒乃の目の前で、指輪はチェーンを滑り落ちて少年の手のひらの上に転がった。
『いいか、黒乃。これはすっごいお守りなんだ。きっとお前のことを守ってくれる。大事なもんだから、絶対誰にも渡しちゃ駄目だぞ。いいな、お父さんとの約束だからな』
ふいに懐かしい声を思い出した。
黒乃が高校生になった日に、父親がいつも付けていた不思議な模様の指輪は黒乃のものになった。透明な石が光る指輪はとても綺麗だったが、どこか薄気味悪い印象を受けたものだ。
けれど大好きな父がくれたものだからと、黒乃はその日からそれを肌身離さず持ち歩くようになった。
その数日後に父親は事故に遭い、三年目を迎えようという今も昏睡状態だ。回復する見込みはない。
だからこそ、黒乃にとってはそれは形見にも似たものだった。
「返して!」
懐かしい声を思い出したのと同時に、黒乃はクローゼットの床板を蹴って少年に飛び掛かっていた。勝算も策もない。ただ取り返さなければという思いだけで動いていた。
そしてそんな突発的な行動が実を結ぶことなどそうそうない。
黒乃がそうすることは分かっていた、と言うように少年は身をかわす。倒れこむ黒乃が伸ばした腕は、虚しく空を切る。
その腕の代わりに少年の手へと伸びたのは、割れた窓から飛び込んできた灰猫の牙だった。
「いってぇ!」
思いがけない伏兵に、少年が大声を上げて腕を抑える。手の甲に空いた二つの穴からは血が流れていた。
くそ、と短く悪態をつきながら少年は床に視線を落とす。痛みに放り出した指輪は、伏兵の口にあった。
「バアル!」
上がった声に、灰猫の耳がぴくりと動いた。主人に呼ばれた猫――バアルは黒乃の元へと駆け寄り、それから彼の手のひらに指輪を落とす。
指輪の重みを手のひらに感じながら、黒乃は先ほどの懐かしい声が紡いだ言葉の続きを思い出していた。
『もし、お前が絶体絶命のピンチってやつになったら、そんときはこれを右手の薬指に嵌めて助けてくれって言ってみろ。これがすっごいお守りだって分かるぞ』
今までそれなりに平穏な生活を送ってきた。この言葉を聞いた時、この指輪を使うことはないのだろうなと考えたことを黒乃は今でも覚えている。
――まさかこんなことになるなんて。
数分前と同じことを思う。けれど悠長にしている暇はなかった。
(こんな指輪が、どうやって助けてくれるって言うんだろう)
それでも父が自分に嘘をついたことなどない、と妙な確信を抱きながら金の指輪を右手の薬指に滑らせる。
やめろ、と怒声が響いたが、黒乃がそれに従うことはなかった。
「助けて」
僅かな疑心と共に、口からはそんな願いが短くこぼれ落ちる。
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