付喪神のオレと神虫のキミ
南紀和沙
プロローグ
「おとうさん! おとうさん!」
幼子は父親を揺さぶった。
屋敷のあちこちから悲鳴が聞こえる。焦げくさい臭いがする。火がついたらしい。
「おとうさん!」
「か……ず、ま……」
父親はわずかに目を開ける。父親は怪我をしていた。深手だった。
「
「おとうさん、でも、おとうさん……」
「逃げろ……! 早く……!」
幼子は父親を置いて部屋から逃げ出した。
広い屋敷だ。かつて商家だったという家の中を、幼子は逃げた。
『フウウ……フフフフ……』
くぐもった笑い声が遠くに聞こえる。屋敷を襲った者の声だった。
『感じる。感じるぞ……ああ、愛しき気配だ……』
耳障りな擦過音まじりの声だった。
『いいなぁこの気配……宝だなぁ……』
バリバリと障子の折れる音がした。
『
「答えると思っているのか!」
父親の怒号が遠くに聞こえる。
争う音を聞き届けず、幼子はひたすら走る。倉へ逃げこんだ。棚のあいだをすり抜け、一番奥へ走る。床に置かれた箱をどける。箱の下には扉があった。
「かぎ、カギ……!」
幼子は胸元からペンダントをひっぱり出す。金の鎖には、小さな鍵がついている。先が輪形の変わった鍵だった。
震える手で鍵穴に鍵を入れ、回す。扉を開けると、階段が地下へ続いている。
「ああ……ああ……!」
階段を下り、扉を閉める。内側の鍵をかけると、視界が闇へ閉ざされる。
『若君』
「ひっ!」
誰もいないはずの闇から、小さく声がかかった。
闇がポウと明るくなる。
「若君、若君」
「こっちこっち」
幼子を若君と呼んだのは、小さな燭台だった。乗ったロウソクに小さな火が揺れ、燭台はまるで人のように階段を下りていく。
燭台の横には、銅製の雀がちょこちょこと舞う。そのくちばしから言葉がこぼれる。
「若君、こっち」
「うん!」
幼子はほっとした表情で、燭台と雀についていく。
地下室へ出た。
板張りの広い部屋だった。壁はすべて棚になっており、骨董品が並んでいる。
部屋の奥に、黒檀の箱が置かれている。
大きな仏壇だ。
幼子は仏壇の扉をそっと開ける。
中には古びた木像がある。
美しい女の顔、細い八本の腕。青い瞳がほほえみを宿している。
弁才天の像だった。インドに発祥した河の神、つまり水神だ。一方で音楽の神でもあり、妙音天の異名も持つ。日本に伝えられてからは七福神の一となり、幸福を授ける神として信仰されている。
「おかあさん……」
死んだ母親によく似た像だった。
幼子は仏壇の前にへたりこんだ。
「若君、大丈夫?」
「大丈夫?」
幼子の足下に、地下室に置かれた物が集まってくる。巻物、番傘、たらい、手ぬぐい、鈴、置物、根付――それがまるで小動物か人のように動いて、幼子のもとに集まった。
「みんな……」
幼子は驚かなかった。器物が動いているというのに、幼子は怖がらない。彼にとって、見慣れた光景なのだ。
このモノらは
「若君、辛抱してな」
「わしら付喪神、若君と一緒におります」
「うん」
幼子がうなずくのと、扉が破壊される音が響いたのは同時だった。
『見つけたぁ……!』
ずるり、と巨大な腕が入りこんでくる。
鬼だ。
朱い肌を血まみれにした鬼だった。顎に二本の突起、四本の腕に黒いもやをまとわせた異形の者だ。
「わきゃきゃきゃ!」
付喪神たちが逃げ惑う。
鬼は逃げ遅れた付喪神を踏みつぶす。
『小物ども、すこし掃除してやろうぞ』
鬼の手から白光が放たれる。針のように無数に飛び、付喪神たちを貫く。
「きゃあああっ!」
貫かれた付喪神は激しく悶え、青い炎を発して壊れていく。
『ククククク……』
鬼が幼子の前に立つ。
恐怖だった。暴力そのものだった。
『恐れることはない。お前は我が宝になるのみ』
幼子に、節くれだった腕を伸ばす。
「あ……ああ……わあああああっ!」
だが鬼の腕は届かなかった。
何者かが幼子を抱え、鬼の間合いから飛び下がる。
「一磨……」
弁才天の木像だった。八本の腕のうち、二本に武具を構えている。別の二本の腕で幼子を抱きしめ、弁才天像は鬼を見据えていた。
「おかあ、さん……?」
弁才天は幼子に視線を移し、ほほえむ。細い手で、一磨の頭をなでる。まぎれもない母親の仕草だった。
『付喪神が、小賢しいわぁ!』
鬼が咆える。
「この子は、わたくしが守る!」
鬼の手から何本も白光が飛ぶ。
弁才天の手から、輪宝が放たれる。車輪の形をした投擲武器だ。輪宝が白光をはじき飛ばす。鬼の顔と腕をえぐった。
『ギイエエエエエエエッ! おのれ! おのれぇぇぇええ!』
鬼が悲鳴を上げた。
弁才天が両手をかざす。雷電が走った。
鬼の皮膚に何本もの雷が吸いこまれる。鬼は転がるように、闇の中へ退いた。
『フフ……クク……』
闇から含み笑いが聞こえてくる。
『待とうぞ。我は待とうぞ。小僧の鬼が、育つまで待とうぞ』
憎悪のような歓喜の声。煮え立つ汚泥のような低い音。
『十を待とうぞ、二十を待とうぞ』
重く響いた笑い声は、遠ざかり、消えた。
「お……かあ、さん」
幼子は疑わなかった。今、自分を抱きしめているのが、母親だと。
ずっとこうしたかった。母を呼び、母に抱き寄せられ、守られたかった。
「おかあさん」
「一磨……」
弁才天――否、一磨の母は笑った。優しい母の顔は、幼子が感じてきた孤独を一瞬で埋めた。
「…………グ!」
弁才天は、突然、幼子を突き放した。
「おかあさん!」
弁才天の顔が割れる。白い肌の下に、木目がのぞく。
青い左目に、深々と白い針が突き刺さっていた。
「あ……あ……」
青い炎が燃え上がった。
弁才天の体が、青い炎の中でのけぞる。
「おかあさぁぁぁぁん!!」
幼子の声が、響き渡った。
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