饒舌と寡黙のブラックマンバ #7 新参者の休日②

洗面台に移動したノエルは水で顔を洗い始める。

蛇口から出る冷水は起き抜けの気だるい意識を完璧に目覚めさせてくれた。

タオルで顔を拭き、次に歯を磨き始める。

鏡に映る寝癖の激しい自分を見ていると、四日前の出来事がぼんやりと蘇ってきた。


イーギスに到着したノエルは女子寮に入居していた。


入居する前に一つすったもんだがあったのだが、ノエルはこの話題には今後永久に誰にも触れて欲しくない。

再会を果たしたロキに校内を案内され学長と話をした後に、ノエルはひとり学生課に立ち寄っていた。

身分照会をし在籍登録を完了するためだ。

この事務的な手続きを踏まないと、刃の部分に自分の名が刻印されたイーギスナイフを受け取れない。


当代きっての刀匠、マーラーの手による美麗な刻印が刀身にあるかないか。

それがなによりの信用になる。

袖口に忍ばせた刃渡り十五センチの刻印ナイフは護身用の武器として使えるだけでなく、歴史ある由緒正しきイーギスグランカレッジの生徒であることの身分証明書代わりにもなった。

聖シオンでも絶対無二のブランドとして確立された武器工房クラフトマーラーへの注文は包丁一本でさえ高額だ。

ノエルのお小遣いでは一年分でも絶対に無理だろう。


だが、先代の跡を継いだマーラーは母校愛に溢れるイーギス卒業生だったので、母校の後輩にだけは今でも特別に無償で寄贈している。

大先輩の大きすぎるご厚意により、学生身分でも最高級のブランドを所持することができるのはそのためだ。


身分証明書代わりのナイフがなければ、イーギス生であることを証明するのは難しい。

だから紛失盗難に会わないように常時必携が義務付けられている。

鍵のように便利なスペアなど存在しない。

ノエルはそのようなことを事前に把握していたので学生課に赴いたわけだが、あらかじめ提出していた書類に重大な不備があることを告げられ、ひどく焦った。


不備=受け取れない。


この図式が生み出す不幸な結末を一瞬にして悟ったノエルの落胆は大きい。

あろうことか親権者のサイン欄を空白のまま出してしまっていたらしいのだ。

そこをなんとかお願いシマス!などと嘆願するものの、それでなんとかなるわけがなく、受付担当者を泣き落としにかかる喧しいノエルに周囲が心底煩わしそうな視線を向けるが、当の本人にはそれに気付く余裕も構う余裕もない。


だが、その時偶然にも学生課を通りかかったロキが口添えしてくれたおかげで、今こうして女子寮で無事に三度目の朝を迎えることが出来ている。

学長の専属秘書の肩書きが持つ影響力に畏敬の念を覚えるばかりだ。

と同時に、大きすぎる貸しを作ってしまった相手がロキだったことに一抹の不安を覚える。

例え相手が妹のように接してきたノエルであっても、その後の取立てには容赦がないロキである。


やはり慣れない書類作りはやるものではない。

書類関連に強烈な拒否感を持つノエルに役所勤めの実家の母が救いの手を差し伸べてくれた。

だが自分でやるから大丈夫と息巻き、母の愛もとい好意を突っぱねたのがいけなかった。


ロキにそれがばれ、久しぶりにガツンと説教されたのは言うまでもない。

せっかく学長室でしんみりしたというのに、ものの一時間で怒鳴られる羽目になるとは本気で泣きそうになる。

だが到着した当日にまた二日かけて取りに戻るという悲劇を回避できているだけ遥かにマシなので、金輪際、背伸びするのはやめようと心に固く誓った。

ノエル=フロリアンと刻印されたイーギスナイフは、来週晴れて彼女の手に届けられる予定だ。


基本的に休日の行動には規制はない。

服装も自由だ。


今ノエルが身にまとっているのは実家から持ってきた服だが、天真爛漫でおっちょこちょいという評価をほしいままにする彼女とはいえ、年頃の女の子らしくファッションに無関心ではない。

それに上下びしっと決めたロキを見た後となっては、彼我の落差を意識せずにはいられない。


幸いにして、ノエルの学び舎となったイーギスのある州都マーセルは商業が盛んな都会だ。

初日にフラフラとうろついた時の記憶はまだ鮮明に残っている。

中央駅セントラル付近まで足を伸ばせば、好奇心を満たすものは何だって見つかるだろう。

あの時はどこも開店前だったが、明らかに田舎のレーンヴァルトの雰囲気とは何から何までが違っていた。


例えばカフェというものを初めて目にした時は思わず小さな歓声を上げてしまった。

珈琲党のノエルにしてみれば、いずれ絶対に立ち寄りたい場所である。

ともあれ、ぎゃあぎゃあと煩いこの空腹を満たした後の行動予定はこれで決まった。

櫛で丁寧に寝癖をとかし、いつものノエルが鏡の中で出来上がっていく。

よしっと気合を入れたノエルは洗面台を離れ、部屋に戻った。

服を選ばなければいけない。

これがまた大変だ。


これでもノエルは狭い田舎から一歩も出たことがないし、住人のほとんどが顔見知りという中で十七年を過ごしてきたので、女子寮の同居人がどんな人なのか一応あれこれと想像したりしたのが、そんな心配は杞憂に終わった。

いまいち勝手が分からず入り口でまごつくノエルを優しく出迎えてくれたのは、三年の倫理科アギナと二年の歴史科ユーリという共にマーセル育ちの先輩だった。

聞く話によると、女子の武芸科在籍者数は魔術科よりもずっと少ないらしい。

その夜、二人の発案で新人歓迎会が開かれた。


だが、そんな少数派のノエルを物珍しさで覗きに来る女生徒は跡を絶たず、当初三人だけの予定だったささやかな歓迎会はささやかではなくなり、遅くまで会は続くことになった。

「むぅ」

クローゼットの中を覗き込んだノエルが腕組みをする。

そんな世話焼きな先輩たちと昨日の夜、話に花を咲かせていると流れで外行きの服装を見せてもらうことになった。

クローゼットに所狭しとかけられた何着もの服はノエルが見たことも着たこともないものばかりだった。


入学時に来てきた服を手に取る。

改めて見なくても服を選べるほど多くはないのは知っているが、一張羅がこれではどうにも野暮ったさを感じずにはいられない。

先輩の豊富なコレクションを見た後だけに。

「レベル高いよね。やっぱり」

二人が持ってるいかにも女子な服が果たしてがさつな自分に似合うかどうかは謎だが、持参してきた服を本人たちに見せるのは少々憚られた。

いや、悪くはないのだが、ちょっとイヤなのだ。

まあ、そんな感じだ。

元々見た目には必要以上に気を配ることはなかったが、流石にこれ以上は無頓着ではいられないらしい。

自分が実は引け目を感じる性格なのだということを初めて知ったノエルである。


学生寮は男女ともにどこも四人用の相部屋だった。

連日のハードワークで爆睡しますと宣言していたノエルを気遣ってか、二人はすでにでかけてしまったらしく、今は部屋に一人だ。

ぐうぐうと先ほどから空腹を知らせるアラームがしきりに鳴っているが、田舎娘の自分とは違う世界に住むであろう女子を前に、こんなものを聞かせるのはちょっと恥ずかしい。

イーギスに入学してからというもの気にしなくてはいけないことが一気に増えてきた。慣れぬ共同生活にも色々と馴染んでいかないといけないだろう。


後輩思いな二人によると、寮の各部屋では学年の違う生徒が毎年一人ずつ入れ替わるのが慣わしのようだった。

一番上に四年の女子生徒がいたようだが新年を迎える前に家庭の事情で実家に戻らざるを得なかったらしく、ノエルが来るまでは彼女たち二人だけだったようで、ノエルが来てくれたことを心底喜んでくれた。


さらに言うと、魔術科と武芸科は絶対に一緒にならないように配慮されているらしい。

こんなところでも両者の断絶具合を見せ付けられないといけないのかと内心嘆息するが、その決定に意義を唱えるつもりはなかった。

冷静に考えてみれば、当たり前の措置かもしれない。

寮に戻れば、学校業務からは開放される。

プライベートの場でも衝突を起こしていれば流石に身が持たないだろう。

それにアギナやユーリなどの他科の学生たちは、平穏な学生生活を過ごしているのだ。

自分たちの感情的な対立関係など彼女たちには無関係だ。巻き込んではいけない。逆の立場なら絶対に御免だ。


同室の先輩が遅くまで付き合ってくれたおかげで、イーギスについて大体は把握できたと思う。

あとは日々の中で吸収していくしかないだろう。

大変だねノエルはと同情してくれる先輩二人と同世代女子の会話をするのも楽しかった。

地元にも当然友達はたくさんいるが、やはり都会と田舎では話す内容も全然違ってくるらしい。


知らないだらけなこともあり自然話は弾み、山のようにあるノエルの質問の数々にも二人は丁寧に答えてくれた。

部活動があるのにも驚いた。

戦闘訓練校の側面が強いイーギスだが、学校であることには変わりはないようだ。

学生の本分以外にも力を入れているのだと教えてくれたアギナは弁論部、ユーリは異文化研究会に所属しているとのこと。


先日学長のヱテンナが話の折にハイレベルを維持できているといったのはこういう点も含めての感想なのだろう。

校訓校是に文武両道があるのも頷けた。

「あたしは何にしようかなー」

武芸科なので、どうせならここは何か思い切って全く違うことをしてみたい。


自分の趣味がそんなにたくさんあるわけではないが、知らない体験をしてみるのも面白そうだ。

自分の頭のデキをよく理解しているので、誘ってくれたアギナには申し訳ないが弁論部は却下だ。

そして、田舎しか知らない自分は異文化研究よりもまず商業都市マーセルや自国の聖シオンについて学んでおくほうが先な気がする。


結局いつもの服に袖を通したノエルは、ベッドの上で丸くなった猫を起こさないようそっとドアを閉め、ひとまず食堂へ向かった。

腹ごなしをしてから色々考えよう。

だって今日は休日。

時間はたっぷりあるのだから。

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