第17話 説得と逃走
「……危ねぇっ……!」
心底慄然したように、ラトが驚愕の声を上げた。空中で体を反して体勢を立て直した彼の手には、刀身の半ばから歪曲した大剣が握られている。
それを見たリーシャは、無意識の内にほっと胸を撫で下ろしていた。これほどまでに背筋が凍りつくような感覚を味わうのは、随分久しぶりだった。
何故ラトが無事なのかというと――攻撃を受ける直前、短剣として鞘に収まったままのオールブレイドを瞬時に大剣に変化させ、己の背面を守ったからだった。その、ラトの咄嗟の機転というか、戦闘における勘には感服するばかりだが……。
しかしリーシャが更に驚愕したのは、彼を襲った一撃の“重さ”であった。
とは言え、オールブレイドは
「――短剣」
というラトの一声で、刃渡り半メトル足らずのナイフへと戻ったオールブレイドには、もう一切の歪みも認められない。
周囲の樹木よりも高く打ち上げられたラトは、地竜の背後一〇メトルの地点に軽やかに着地。同時に、ビシィ! と地竜に対して指を突き付けた。
「おいお前! 俺たちは敵じゃねぇって言ってんだろ! 何で攻撃してくんだっ!」
ラトが怒りを露わに声を荒げると、地竜がゆっくりとした動作で振り返る。正面から向かい合う形となった両者は、互いにじっと睨み合ったままチラリとも視線を逸らそうとしない。
不意に、ラトが苛立たしげに頭を掻いた。
「だからそれは俺たちじゃねぇんだって……」
ただ視線を交錯させているだけのように見えるが、その実、どうやら二者の間では無言のやり取りが交わされているらしい。しばしの間、ピリピリと肌を刺すような張り詰めた空気が辺りを包む。
その静寂に終止符を打ったのは、大地を震わすドラゴンの咆哮だった。
「ゴアアアアアアアアアアッ!!」
その雄叫びは、反射的にリーシャの心身を竦ませた。意思とは無関係に、リーシャの中の一生物としての本能が大音量で警鐘を鳴らす。
地竜が再び、振り上げた巨角で地表に穴を穿った。
(また潜る……っ!)
そう身を硬くしたリーシャの前で、ドラゴンが先ほどとは違う行動をとった。地中へ消えることなく、一直線にラトへ向かって突進したのだ。
ガガガガガッ! と豪快に地面を抉る猛進は、ラトとの距離を転瞬に詰める。だが、斜め上方に跳躍することで間一髪それを躱した彼は、くるくると宙返りをしたのち、ドラゴンと入れ替わるようにリーシャとミィナの正面に着地した。
十数メトル離れた場所で、ドラゴンが雪混じりの土砂を巻き上げ停止する。
今は背を向けている地竜に険しい眼差しを向けたまま、ラトが口を開いた。
「リーシャ、ミィナ……お前らは逃げろ」
もはや命令にも近い口調に、リーシャは思わず反論してしまう。
「逃げろって……あんた一人で勝てるわけ――」
「二人でも無理だ」
断言した。あのラトがあっさりと、負けを認めた。その事をミィナはどうしても信じることが出来なくて、そんな時間が無いのは分かっているのに質問を重ねてしまう。
「何でですか……? だってラトさん、ドラゴンを倒したキマイラにも勝ったじゃないですか。水竜だって、リーシャさんと力を併せて――」
「キマイラがドラゴンに勝てたのは、きっとドラゴンの方が油断してたからだと思う。それに俺たちが水竜を殺せたのも、我を忘れてた上にかなり弱ってたからだ。……けど、あいつは違う」
地竜が再度こちらへ向き直る。
その様子を凝視したまま、ラトが肩から大きく息を吸った。後に吐き出された震えた吐息は、かつて無いほどに深く長いものだった。
普段は何を考えているのか分からず、時として、周囲の度肝を抜くような思いも寄らない行動を取るラトだが、今回に限っては、全くの正反対だった。リーシャには彼の心中が手に取るように理解できていた。
それはきっと、ラト自身が今までに感じたことの無い感情だから……。
それだけに多分、抑え方が分からないのだ。恐らく誰が見ても、今のラトが緊張しているのは一目瞭然だろうと思う。
明らかに、自然体のラトではなかった。
まるで己の中に湧き上がる感情を吞み込むかのように、一度、ラトがこくりと唾を
「本気のドラゴンには……絶対に勝てない」
視線の先で、地竜が力を溜めるように、体を横に折り曲げぐぐっと体を縮めると、尻尾と頭の先がくっ付くほどに丸まってしまった。
そのまま円を描くようにゆっくりと回りながら、傍の岩壁へ接近する。そして――
「行け!!」
ラトが絶叫し地を蹴ったのと、ドラゴンが蓄えた力を解放したのは、ほぼ同時だった。
跳ね戻る地竜の尻尾。
ズガァンッ! という硬質な爆音を轟かせて岩壁を打ち据えた。砕け散る無数の岩石片。その一つ一つが人頭ほどもあり、まさしく砲弾の嵐となってラトを襲った。
「片手剣ッ!」
その声に応じて、手にした短剣がショートソードに姿を変える。
ひゅ、ひゅんっ! と目にも留まらぬ速さで閃いた刃が、空中で幾つかの岩石を迎撃した。間髪容れず体を浮かせ、足元へ飛来したものを最小限の動きで回避。そして宙にいる間にも、更に二弾三弾を斬り捨てる。
対応可能な大きさのものは全て防いでいた。
それでも、撃ち漏らした――もしくは回避し切れなかった小さな破片が身体の各所を掠め、その度に肌に浅い傷痕が刻まれる。
その時、リーシャはあることに気付いてハッと息を呑んだ。
(一つも、こっちに飛んで来ない……)
それは何故か。考えるまでもなく、ラトがそう仕向けているからである。ただ滅茶苦茶に岩石を弾いているわけではなく、その方向をコントロールしているのだ。と、それを意識した途端、リーシャは咄嗟に動いていた。
ミィナの腕を掴むと、半分ほど無理やり彼女を引っ張り立たせる。
「ミィナちゃん行くよ!」
「で、でも、ラトさんを――」
「私たちがいたら邪魔になっちゃう!」
リーシャも実を言うと本当は、今すぐにでもラトの隣まで走って行って、彼に加勢したかった。仲間を、助けたかった。
けれど
もはや、人が介入して良いレベルの話ではないのだ。
――――あいつなら……ラトなら、絶対に大丈夫。
ラトは自ら“勝てない”と宣言したけれど、きっと彼の事だ。どうにかして逃げおおせるに違いない。今は行動を別にしても、その内いつものように
きっと大丈夫。きっと……大丈夫だ。
そう己に言い聞かせるように心中で繰り返し呟きながら、重たい足を動かした。ミィナを連れ立って、気持ちとは反対の方向へ走り出す。
進むべき道の先へ、駆け出した。
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