2026年9月18日 10:01
奥付への応援コメント
はじめて、コメントします。私の作品を読んでいただきありがとうございました。応援もありがとうございます。とても、励みになります。私自身、神話・伝説・古史古伝・世界観・設定資料集が大好物です。「カリム・ソレイユ詩選集」作者さまの作品がとても好きです。本文の中で言葉や記録、同じものの見え方がどう作られていくかを辿りながら、私なりに受け取ったことを書いています。拝読しました。読んでいる間、何度も「呼び方」が引っかかりました。帳簿や役所では「第一月」「第二月」と数字で呼ばれているのに、戦友や仲間を弔う場面では「静もりの月」のような古い呼び方が戻ってくる。フォンターナでは、すぐ近くで暮らしている貴族と使用人のあいだにも、月を呼ぶ言葉の違いがあります。最初は土地ごとの風習として読んでいたのですが、同じような違いが何度も出てくるうちに、少し気になってきました。この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。◇数字の呼び方と古い呼び方は、どちらかが本物で、どちらかが偽物というふうには置かれていません。最後には編者自身が「二重の営み」と呼んでいて、違う言葉が同じ大陸の中にそのまま残っています。そして、読み進めるうちに、似たことが詩と注解のあいだにも起きているように感じました。ただ、注解はいつも詩をひっくり返すわけではありません。カレンの村を描いた篇では、詩のあとに農作業や暮らしの具体的な様子が加わっていくけれど、先に読んだ詩そのものが否定されるわけではない。その一方で、リーゼになると事情がかなり違います。第三歌では「光の絹ドレス」をまとったまばゆい人物として描かれるのに、続く注解では、もっと地味な姿を伝える別の記録が置かれる。政治的な事情についても書かれていますが、そこまでをそのまま事実として受け取ってよいのか、私は少し立ち止まりました。さらにリヴィエナでは、舞台の上でその華やかなリーゼが演じられ、幕が下りたあと、仮面を外した役者が「本物の光など、どこに降り立ったものか」と呟く。最初に読んだはずの第三歌が、そこでもう一度、少し違う場所から見えてきます。そういう積み重ねの先に、編者結言の「輝かしき伝説」と「生きた現実」という言葉が置かれているのが印象に残りました。けれど、この本はそこで、どちらが本当だったのかを一つに決めてはくれません。リーゼが実際にはどんな人生を送ったのか。エルデンバッハの記録の空白はなぜ生まれたのか。「器」は人間だけなのか。どれも、最後まで決着しないままです。それでも編者自身は、完全に中立というわけでもない。「無言の寄り添い」や「語られざる日々」、名もなき民の小さな暮らしのほうへ、はっきりと目を向けています。ただ、それは、その側だけが史実として正しいということとは別なのだと思います。第一歌の「意志を持ちて言葉を持たぬ光」も、最後まで読んでから振り返ると少し違って見えました。同じ節を三度繰り返し、四度目だけを言い切らない神官の儀式。言葉を発しない賢き獣。そして、器を人間に限るのかどうかも決められないまま残っている。それらが編者結言まで来ると、「行間に広がる沈黙」や「沈黙の歴史」、「風土の言葉」へとつながっていきます。もう一つ印象に残ったのは、この本そのものです。これは後の世の編者が詩を選び、「安全で正しい」文字としてまとめ、宰相府と大神殿の認可を受けて刷られた本だと、最初から書かれています。その同じ本の中に、王都や教団へ批判的な内容を含む注解も置かれている。そして最後になると、編者は自分が並べてきた詩や注解を振り返りながら、何が正しかったのかという答えではなく、「一つの『読み方』」をこちらへ渡してきます。読み終えて残ったのは、歴史の正解を知った、という感じではありませんでした。むしろ、文字になっているものだけを追っていると、こぼれてしまうものがあるのかもしれない、と少し視線をずらされた感じがあります。「沈黙の歴史」「風土の言葉」最後に置かれる「もう一つの『導きの光』」も、何が真実だったのかを教えてくれる光ではなく、これからどこへ耳を澄ませて読むのかを、こちら側へ返してくるものなのかもしれない。そんなふうに残りました。◇作者さまの「何が良くないのかを学びたいので、厳しい批評や指摘も歓迎です」に甘えて、私の近況ノートに素朴な疑問などを載せました。
作者からの返信
こんなに読み込んでコメントをくださって、感激です!!!もはや驚きです....本当にありがとうございます。こちらの詩は、「勇者はうちの犬」という連載小説の作中作として作りました。説明不足なこの作品から、こんなに考察できてしまうのか....とびっくりしております。弟子にしてください笑では、せっかくなので一部疑問に思ってくださったことに回答していきたいと思います。-----大前提として、違和感があること、が正しいのです。というのには大きく3つ理由があります。1 作られた経緯についてカリムは詩人です。世界の全てを知っているわけではありません。また、これらは一気に作られたものではなく、実際に作られた順番も現在はわかっておりません。(現在つけられている番号はエルデンバッハ文書庫にある 「カリム・ソレイユ詩歌全集」編纂の際にわかりやすくつけられたものです。)厳密には作られた時期が違えば、カリム自身の言葉にも多少の矛盾が発生しています。2 検閲についてカリムの詩は昔から語り継がれていたものであり、そのうちに若干のブレが生じています。今回「安全で正しい」ものに編纂される前から、です。ただ、今回の編纂を担当した人物は本心ではそれを皮肉っているようですね。その様子は滲み出ていますが、検閲は無事に通ったようです。国家の批判やその程度では検閲には引っかからないこともわかります。そもそも解釈以前に、どこかで都合よく変えられた箇所も...あるかもしれませんね。3 注釈というものの性質について注釈はその注釈を書いた人の見解がかなり強く表れます。検閲に引っかからない範囲ですが...つまり注釈は必ずしも「正しい」が存在するわけではないということです。これを読んでいる作中世界の人が、「そういう捉え方もあるな、なるほど」と読んでいるような箇所だと受け取っていただけると嬉しいです。きっと自分もそう解釈したと受け取る人もいれば、それは自分の説を裏付けたい人の歪んだ捉え方だと感じる人もいるでしょう。作中世界の人たちも、ある意味これは「伝承」であると理解しています。完全な創作ではないが完全な真実だとも思っていないわけです。でも、そこに元になった事実が存在していると認識しており、その捉え方は地域差ももちろん年齢にもかなりの差があります。本書を購入し持ち運んでいる人の認識としては、しっかり読むためというよりは「私は善良な民です」という証明のために持っている人も多い、と付け加えておくことにしましょう。-----月の呼び方は本編にもかなり出てくる箇所になるので、すぐに理解されてしまいそうですが...地域差も大きくあります。さらにTPOと言いますか、どこで何を使うかも異なります。それに伴った職業差も出てきます。月の区切りも変わるので完全には一致しませんが、日本語の和風月名に近いとも言える部分もありそうです。まず、番号呼称は光導教団が大陸暦を制定した際に定めた公式の呼び方で、古称は大陸暦以前から各地で使われていた季節の呼び名を、制定時に一対一で吸収したものになります。そして、番号呼称も古称も現役で使用されています。余談ですが、せっかく季節を表している古称も、地域によって実際の気候が故障の意味合いとは食い違っている場合があります。「雨継ぎの月」に雨の降らない地方もありますしね。でも住民はそれを気に留めておらず、「昔からそう呼ぶから」で済ませています。世界観作者としていうと、実はこういったところは自然文化の成立に寄せた結果でした。-----ちょっとしたつぶやきですが、実際に箝口令を敷いたらもっと隠すことはできるんだろうけど、物語にならないしなぁなんて思って設定を緩くしている箇所や、少し世界を見せたいなと説明を入れてしまったところが、バレるし違和感を覚えられるんだなとビビっております。何よりこんなにも読み込んでいただきありがとうございます。
奥付への応援コメント
はじめて、コメントします。
私の作品を読んでいただきありがとうございました。
応援もありがとうございます。とても、励みになります。
私自身、神話・伝説・古史古伝・世界観・設定資料集が大好物です。
「カリム・ソレイユ詩選集」作者さまの作品がとても好きです。
本文の中で言葉や記録、同じものの見え方がどう作られていくかを辿りながら、私なりに受け取ったことを書いています。
拝読しました。
読んでいる間、何度も「呼び方」が引っかかりました。
帳簿や役所では「第一月」「第二月」と数字で呼ばれているのに、戦友や仲間を弔う場面では「静もりの月」のような古い呼び方が戻ってくる。フォンターナでは、すぐ近くで暮らしている貴族と使用人のあいだにも、月を呼ぶ言葉の違いがあります。
最初は土地ごとの風習として読んでいたのですが、同じような違いが何度も出てくるうちに、少し気になってきました。
この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。
◇
数字の呼び方と古い呼び方は、どちらかが本物で、どちらかが偽物というふうには置かれていません。最後には編者自身が「二重の営み」と呼んでいて、違う言葉が同じ大陸の中にそのまま残っています。
そして、読み進めるうちに、似たことが詩と注解のあいだにも起きているように感じました。
ただ、注解はいつも詩をひっくり返すわけではありません。カレンの村を描いた篇では、詩のあとに農作業や暮らしの具体的な様子が加わっていくけれど、先に読んだ詩そのものが否定されるわけではない。
その一方で、リーゼになると事情がかなり違います。
第三歌では「光の絹ドレス」をまとったまばゆい人物として描かれるのに、続く注解では、もっと地味な姿を伝える別の記録が置かれる。政治的な事情についても書かれていますが、そこまでをそのまま事実として受け取ってよいのか、私は少し立ち止まりました。
さらにリヴィエナでは、舞台の上でその華やかなリーゼが演じられ、幕が下りたあと、仮面を外した役者が「本物の光など、どこに降り立ったものか」と呟く。
最初に読んだはずの第三歌が、そこでもう一度、少し違う場所から見えてきます。
そういう積み重ねの先に、編者結言の「輝かしき伝説」と「生きた現実」という言葉が置かれているのが印象に残りました。
けれど、この本はそこで、どちらが本当だったのかを一つに決めてはくれません。
リーゼが実際にはどんな人生を送ったのか。エルデンバッハの記録の空白はなぜ生まれたのか。「器」は人間だけなのか。
どれも、最後まで決着しないままです。
それでも編者自身は、完全に中立というわけでもない。「無言の寄り添い」や「語られざる日々」、名もなき民の小さな暮らしのほうへ、はっきりと目を向けています。
ただ、それは、その側だけが史実として正しいということとは別なのだと思います。
第一歌の「意志を持ちて言葉を持たぬ光」も、最後まで読んでから振り返ると少し違って見えました。
同じ節を三度繰り返し、四度目だけを言い切らない神官の儀式。言葉を発しない賢き獣。そして、器を人間に限るのかどうかも決められないまま残っている。
それらが編者結言まで来ると、「行間に広がる沈黙」や「沈黙の歴史」、「風土の言葉」へとつながっていきます。
もう一つ印象に残ったのは、この本そのものです。
これは後の世の編者が詩を選び、「安全で正しい」文字としてまとめ、宰相府と大神殿の認可を受けて刷られた本だと、最初から書かれています。その同じ本の中に、王都や教団へ批判的な内容を含む注解も置かれている。
そして最後になると、編者は自分が並べてきた詩や注解を振り返りながら、何が正しかったのかという答えではなく、「一つの『読み方』」をこちらへ渡してきます。
読み終えて残ったのは、歴史の正解を知った、という感じではありませんでした。
むしろ、文字になっているものだけを追っていると、こぼれてしまうものがあるのかもしれない、と少し視線をずらされた感じがあります。
「沈黙の歴史」
「風土の言葉」
最後に置かれる「もう一つの『導きの光』」も、何が真実だったのかを教えてくれる光ではなく、これからどこへ耳を澄ませて読むのかを、こちら側へ返してくるものなのかもしれない。
そんなふうに残りました。
◇
作者さまの「何が良くないのかを学びたいので、厳しい批評や指摘も歓迎です」に甘えて、私の近況ノートに素朴な疑問などを載せました。
作者からの返信
こんなに読み込んでコメントをくださって、感激です!!!もはや驚きです....
本当にありがとうございます。
こちらの詩は、「勇者はうちの犬」という連載小説の作中作として作りました。
説明不足なこの作品から、こんなに考察できてしまうのか....とびっくりしております。弟子にしてください笑
では、せっかくなので一部疑問に思ってくださったことに回答していきたいと思います。
-----
大前提として、違和感があること、が正しいのです。
というのには大きく3つ理由があります。
1 作られた経緯について
カリムは詩人です。世界の全てを知っているわけではありません。
また、これらは一気に作られたものではなく、実際に作られた順番も現在はわかっておりません。(現在つけられている番号はエルデンバッハ文書庫にある 「カリム・ソレイユ詩歌全集」編纂の際にわかりやすくつけられたものです。)厳密には作られた時期が違えば、カリム自身の言葉にも多少の矛盾が発生しています。
2 検閲について
カリムの詩は昔から語り継がれていたものであり、そのうちに若干のブレが生じています。今回「安全で正しい」ものに編纂される前から、です。
ただ、今回の編纂を担当した人物は本心ではそれを皮肉っているようですね。その様子は滲み出ていますが、検閲は無事に通ったようです。
国家の批判やその程度では検閲には引っかからないこともわかります。
そもそも解釈以前に、どこかで都合よく変えられた箇所も...あるかもしれませんね。
3 注釈というものの性質について
注釈はその注釈を書いた人の見解がかなり強く表れます。検閲に引っかからない範囲ですが...
つまり注釈は必ずしも「正しい」が存在するわけではないということです。これを読んでいる作中世界の人が、「そういう捉え方もあるな、なるほど」と読んでいるような箇所だと受け取っていただけると嬉しいです。きっと自分もそう解釈したと受け取る人もいれば、それは自分の説を裏付けたい人の歪んだ捉え方だと感じる人もいるでしょう。
作中世界の人たちも、ある意味これは「伝承」であると理解しています。
完全な創作ではないが完全な真実だとも思っていないわけです。でも、そこに元になった事実が存在していると認識しており、その捉え方は地域差ももちろん年齢にもかなりの差があります。
本書を購入し持ち運んでいる人の認識としては、しっかり読むためというよりは「私は善良な民です」という証明のために持っている人も多い、と付け加えておくことにしましょう。
-----
月の呼び方は本編にもかなり出てくる箇所になるので、すぐに理解されてしまいそうですが...地域差も大きくあります。さらにTPOと言いますか、どこで何を使うかも異なります。それに伴った職業差も出てきます。
月の区切りも変わるので完全には一致しませんが、日本語の和風月名に近いとも言える部分もありそうです。
まず、番号呼称は光導教団が大陸暦を制定した際に定めた公式の呼び方で、古称は大陸暦以前から各地で使われていた季節の呼び名を、制定時に一対一で吸収したものになります。
そして、番号呼称も古称も現役で使用されています。
余談ですが、せっかく季節を表している古称も、地域によって実際の気候が故障の意味合いとは食い違っている場合があります。「雨継ぎの月」に雨の降らない地方もありますしね。でも住民はそれを気に留めておらず、「昔からそう呼ぶから」で済ませています。
世界観作者としていうと、実はこういったところは自然文化の成立に寄せた結果でした。
-----
ちょっとしたつぶやきですが、実際に箝口令を敷いたらもっと隠すことはできるんだろうけど、物語にならないしなぁなんて思って設定を緩くしている箇所や、少し世界を見せたいなと説明を入れてしまったところが、バレるし違和感を覚えられるんだなとビビっております。
何よりこんなにも読み込んでいただきありがとうございます。