第三章・2

 芙蓉の予感は命中した。

 数日経って、燈籠殿につながる廊下に血がまき散らされたのだ。

 この一件は多磨彦に届いたつてで、次に院殿の於莵彦に届き、流れで芙蓉が知ることとなった。


「帝である多磨彦に血を見せるわけにはいかない、と陰陽師たちが彼を清涼殿に閉じ込めているらしい。女房や妃たちもおのおのの殿舎にこもっている。下仕えの舎人が怖がっているせいで血を誰も片付けようとしないままだ」


 脇息にひじをもたれながら、於莵彦が眉根を寄せて扇をぱちりと開閉している。

 穏やかで人当りの良い於莵彦とはいえ、我知らず、見て見ぬふりを続ける者たちにあきれているのだろう。

 夫の心中を察し、芙蓉は口を開いた。


「私たちの出番、ということですね」

「話が早いな、芙蓉」


 於莵彦の口角が上がる。

 かくして上皇夫妻は現場に参ることとなった。



 現場は凄惨だった。

 人がせいぜい三人くらいすれ違える幅の廊下の中心に、鮮血がまき散らされている。

 周囲には人ひとりいない──と思って四方八方を振り返ると、舎人がそそくさと逃げていくのが見えた。


「ひどいな」


 於莵彦が口を袖で隠し、目をすがめた。

 現場の状況に対して言ったのか、今の舎人に対して言ったのかはわからない。


「見てみましょう」


 芙蓉が血に向かって歩みを進めたのにならい、於莵彦もついてきた。

 二人して血をのぞき込み、首をかしげる。


「近くで見ると、なにやら変だな。血の香がちっともしない」

「その通りですね。それに、血にこもる情念が一切感じられません」


 身体をめぐる血という液体には、その血を流した者の情念というものが少しでも混じっているものだ。

 しかし、いくら手をかざしてもそれが一向に感じられないのである。

 思い切って、芙蓉は血らしき液体に指を突っ込んだ。指先で触ってみたり、においをかいでみたりしてから結論付ける。


「……血ではありませんね。おそらく、塗料で色をつけ、植物で粘性をつけただけの、ただの液体です」

「やはりか。では、ここで人が殺されたり、集めた血をまいたりしたわけではなさそうだな。ならば、なぜ血もどきをまく必要があったのだか。そこの舎人、なにも知らないか」


 於莵彦が逃げようとした舎人に呼びかけ、手招きした。

 舎人は怒られるのかと思ったらしくおびえている様子だったが、上皇に逆らうわけにもいかずおどおどと廊下の下にひざまずいた。


「いえ……私はなにも知りません。ただ血を見つけた女房さまが目を回して倒れてしまいましたから、それを運びはしましたが」

「それは良い行いだったな。その話は誰かに伝えたのか」

「いえ、誰にも」


 舎人が答えるなり、於莵彦がふところから小さな巾着を取り出して差し出した。


「では私が褒美をやろう。唐菓子だ。油っぽいから一度に食べぬようにせよ」

「あ、ありがとうございます」


 舎人が頭を下げながら戻っていくのを見送り、芙蓉はため息をついた。


「於莵彦さまはお人よしですね。どこに唐菓子を隠していたのだか」

「以前そなたの父上が来た時にいただいたものの残りだ。あまり食べると芙蓉に怒られるからとっておいたのだ」

「はて、そんなこと言いましたっけ」


 とぼけてみせつつも、頬を膨らませて見上げてくる於莵彦が無性にいとおしくなり、持ち上げてその場でくるくる回る。


「やめろ、やめろ、目が回るではないか」


 止めようとする割には楽しげである。

 先ほどは逃げる舎人に怒っていたのだと思ったが、やはり明朗な於莵彦のことだ。特に気にしてはいなかったらしい。

 舎人に気軽に菓子を渡してしまうような優しさ、芙蓉は彼のそんなところが好きだ。


「では、この血もどきを拭く必要があるな。まず水を撒いて流し、それから拭くこととしよう」

「はい」


 於莵彦を下ろし、そろって水を汲みに行くことにした。

 女院と上皇が手ずからすることではないかもしれない。

 だが、それが楽しくもあった。


「足元が濡れないようにせよ」


 於莵彦中を水でたっぷりと満たした桶を持ち、布を用意した芙蓉に叫ぶ。

 小さな身体に水の入った桶は重いに違いなかったが、彼は自分で持つと頑としてゆずらなかった。


「ではいくぞ、えい」


 掛け声に合わせて、廊下に水が流される。

 清い水は見る間に血もどきを押し流しつつ交わり、薄い紅色の水となった。

 ちょうど、もうじき開花する芙蓉の花のようである。


「けっこう綺麗な色ですね」


 普通の血ではこうも美しい色にはならないだろう。まき散らされたものが血ではない、何よりの証拠だった。


「さあ、拭こうではないか」


 芙蓉から布の一枚を受け取り、そろって床と相対する。

袖は紐でたすき掛けしてあるので濡れる心配はない。裾も同様、紐で縛ってある。

 しばらく廊下を拭き続け、四半刻経つころにはすっかり跡形もなく綺麗になっていた。


「久しぶりに良い運動をしたな。布をこちらに貸せ、芙蓉。桶と共に片付けておこう」

「ありがとうございます」


 水分を含んで重くなった布を於莵彦に託し、芙蓉はその場でぼんやりと待った。

 その時である。燈籠殿の廂から、こちらをじっと眺めている顔を見つけた。目元の黒子でわかる。安寿だ。


「安寿さま、なにかご用ですか」


 芙蓉が廂に歩み寄ると、安寿が御簾を持ち上げてその美貌をあらわにした。


「いえ……血が綺麗さっぱりなくなったようですが、その恰好からするに女院さまじきじきにお片付けなさったのですか」


 彼女の両目は不安と驚きに揺れている。

「私だけでなく、於莵彦さまも手伝ってくださいましたよ。そもそも血が撒かれていたのではなく、血に見せかけた液体でした。もう案ずることはございません。安心なさいませ」

 答えながら、たすき掛けしていた袖と裾の紐をほどき、自由にする。


「そうですか……それは良かったです。私も、燈籠殿の女房ともども血を恐れて動けず困っているところでしたから」


 血は穢れの代表的なものである。単なる体液とはいえ、皆が使う廊下にあれば大岩が置かれたも同然だ。


「あの、どうして女院さまがた手ずからお片付けしたのですか。他に舎人や女嬬ならいくらでもいるでしょうに」


 控えめに安寿が訊いてきたので、芙蓉は肩をすくめながら苦笑した。


「舎人や女人は逃げてしまったのです。まったく、怖がりな者たちでございますよね。これでは埒があかない、と赴いたのですよ。ところで、血を見て目を回した女房がいたそうですが、燈籠殿の女房ではございませんでしたか」

「いいえ、私の殿舎の者ではございませんよ。女院さま、わざわざありがとうございました」


 頭を下げて、そそくさと安寿は廂へ戻っていく。

 彼女の長い垂髪が御簾の向こうに消えるまで、芙蓉はその場に立ち尽くしていた。

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