少し補足への応援コメント
拝読しました。
ネットスラングのご紹介にニヤリ。
個人的には
「強い物語」
と呼んでいるんですが、
テンプレの枠を超えてストーリーテリングとして確たるものがある、キャラの行動の軌跡がドラマとして魅力的である、のであれば、マスプロダクトの呪縛からは解放されるのかな、と。
でも、皆が目指しつつ、なお及びうる作品が僅かというあたりが、小説創作の難しさであり醍醐味であると思います。
そして、それはたぶんいまはAIには叶えられない高みだとも考えています。
いつか書けるかもしれない?
その暁にはAIは「生まれが違うだけの人間」になっているんじゃないでしょうか。
作者からの返信
まさに、私も同じように考えています。
結局のところ、「テンプレ化」が生まれる根本的な理由は、多くの人が「人気のあるテンプレート」に乗ることで、自分の作品の注目度や受け入れられる可能性を少しでも高めたいと考えるからなのではないかと思っています。
そして、最初からそうした前提や期待があるからこそ、逆に作品そのものとじっくり向き合い、物語を丁寧に磨き上げるという発想や機会、そしてそこへ注ぐ情熱までもが失われやすくなってしまうのではないか、と感じています。
だから私は、テンプレかどうかということ自体は、突き詰めればそれほど本質的な問題ではないと思っています。
たとえ何度も使われてきた王道の展開であったとしても、作者が作品全体を丁寧に磨き上げ、その作品ならではの物語をしっかりと語ることができているのであれば、それだけで十分に素晴らしい作品になり得ると思っています。
そして、今回で三度もコメントとお返事をいただき、本当にありがとうございました。
毎回たくさん考えさせられ、とても勉強になっています。
その一方で、少し恐縮してしまう気持ちもありますw。
というのも、こんなふうに少し大きなことを語っておきながら、自分自身はまだ胸を張って「これが自分の代表作です」と言える作品を生み出せていないので、少し恥ずかしくもあるんです。
編集済
ヒ魔っちゃんへへの応援コメント
実を言うと、この一日中、ずっと少しソワソワしていました。柊さんが僕の考えに対して、どんな返しをしてくるのか気になって、ちらちらとスマホの通知を確認し続けていたからです笑。
本編の内容としては、これまた非常に面白く拝読しました。
確かに、私の考えは、文章を使った創作全てをカテゴリに入れて、その両端をピックアップし展開していった感があります。そういう意味で、その内の一端、ノベル的、娯楽商品的なものの集まる極に対する私の突き詰めは、甘かったと言えます。
私は、その広い定義な形式の創作物群のグラデーションを手にとって、
小説側← 『文学』〜『key』〜『娯楽商品』→ノベル側
というふうに扱っていました。
ですが、恐らく、私や柊さんのいる『key』と『娯楽』は全く別のもの、と線引きされるべき、という考えには直感的に賛同できました。
私が書いた物と、AIによって生成されたものが、同じ壇上に上って評価されるのは嫌だな、と思ったのです。
あー、言語化が難しい!
例えば、本当に何も考えず、「笑える!」とか、「かわいい!」と楽しむことのできるコンテンツはあるでしょう。しかしその奥に、本気で自分の創作に向き合っている人がいる作品と、AIの作った作品とは、区別されるべきだと感じます。
そんな感覚と現実との間にはやはり、「良いものが必ずしも売れるものとは限らない」という残酷さもあるのでしょう。
またもう一つの線引きの基準として、売名欲の有無、みたいなものが思いつくかもしれません。
ですが、私たちは当然のこととして、歴史上の名だたる文学家に売名欲が無かったとは言えないはずです。
むしろその逆です。作品を通して、『自分』が売れたい、評価されたい、という意思があるのが、文学ないしkeyまでの物たちでしょう。
『作品』が売れればそれでいい、という感覚の元に活動する人たちとは、我々は分かたれる存在であってほしいという感覚です。
うーん、やっぱり言語化が難しい!
なんだか文学論とかそういうふうな、それこそ特殊な審美眼を磨いた人たちの語る領域に足を突っ込みそうな気配がするので、私はここで身を引かせていただきます。(こういうところを含めて、「たちが悪い物書き」なのでしょう)
最後に、私は今回の柊さんの今回の論考について、私はかなり賛同の立場をとっています。本当に、面白く読ませていただきました。
そして、当たり前のことかもしれませんが、柊さんが僕に対してスパッと反論してくれたのはなんだかすごく嬉しかったので、一つだけ。正直に白状して締めたいと思います。
ごめんなさい!サマポケ、やろうやろうと思い続けて、まだインストールされたデータのままです!
「物書き」ではなく、まず人として、「たちの悪い人間」だ、自称し直した方がいいですね…。(この夏休み中には始めます!マジで!)
作者からの返信
「まだインストールされたデータのままです!」って、
サマポケ民舐めるなよ!いま授業サボってやろ!
······というのは冗談です(?)
私自身も考えながら、一つひとつ言葉を選びながら書いていました。
お昼ご飯を食べ終わってから、この章を公開するまで、ずっと書き続けていました。
でも、その時間はとても心地よかったです。
以前の近況ノートにも書いたように、こうして皆さんと交流するたびに、自分の頭の中にある考えが少しずつ整理されて、よりはっきりしていくような気がします。
ただ、この文章の言葉選びには、まだまだ問題があるかもしれません。
中には、少し言い切りすぎてしまった部分や、表現がやや極端になってしまったところもあるように思っています。
今回のお返事は、ゆっくり読みながら、自分なりに考えたり整理したりすることができました。
これから少し一人で散歩しながら、小説の構想も考えてこようと思います。
今日は小説のほうも書かないといけません。新人賞の締め切りまでに規定の字数を書き上げないといけませんから(笑)
なので、今回は少しお返事が遅くなってしまうと思いますが、もう少しだけお待ちいただけると嬉しいです。
編集済
ヒ魔っちゃんへへの応援コメント
拝読しました。しましたが、
1,とりあえず娯楽商品であっても売れると判断されないと本が出ない
2,売れる作家でないと自分の書きたいテーマも書かせてもらえない
3,求められるテーマと自分の創りたいを上手く沿わせるのがアーティスト
(この3つめは塩野七生先生の言葉ですね」
という気もしますし、文学の大家がP/N変えてエログロ書いていたりもあったし、そんなに「何項対立」で捉えなくてもいいんじゃない?と思います。
なかなか悩ましいことに、本当に「すごい」作品は
そういう項対立をぶっとばしていくものだと思うんですよ。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
まず、私が一番避けたかったのは、「何項対立」のように見えてしまうことです。
厳密な論文ではなく、あくまで随筆として書いたものなので、表現が至らない部分も多かったと思います。すみません!
私が本当に気になっているのは、例えばこんなケースです。
ある作品があったとします。
「勇者Aが聖剣Aを手に生まれ、姫Aと出会い、1・2・3・4の出来事を経て魔王Aを倒す。」
そしてその作品が大ヒットした結果、今度は
「勇者B・C・D・E、聖剣B・C・D・E、姫B・C・D・E、同じような1・2・3・4の展開、魔王B・C・D・E」
というように、名前や舞台、キャラクター設定だけを変えたような作品が次々と出てくる、という状況です。
そうなってくると、私にはそれが、まるで工業的な流れ作業のようにも感じられます。
もちろん、これは私個人の考えですが、そうしたものを「創作」と呼んでいいのかどうかについては、少し疑問を抱いてしまいます。
そして仮に、出版社へ同時に二つの企画が持ち込まれたとして、一方がこうした作品、もう一方がまったく別の作品だった場合。
たとえタイトルやあらすじの段階だけだったとしても、出版社は前者のほうに自然と惹かれやすいのではないか、と私は思っています。
いわゆる「第一印象」のようなものの時点で、すでに差が生まれているのかもしれません。
もちろん、「マイナーな作品こそ正義」と言いたいわけでは決してありません。
作品そのものの完成度や面白さが、何よりも最優先であるべきだという考えです。
二つ目については、小説に限らず、多くの芸術分野にも共通することなのではないかと思っています。
ただ、それを「問題」と呼ぶべきなのかどうかは、私自身もまだ分かりません。
三つ目については、この言葉が誰のものだったとしても、私は心から賛成します。
芸術は本来、何かを表現する営みであり、その表現は最終的には誰かに届けるためのものです。
だからこそ、自分が表現したいものと、人々が求めるもの、その両方を自然に重ね合わせることができる人は、本当に素晴らしいアーティストだと思います。
そして、
「本当に『すごい』作品は、そういう項対立をぶっとばしていくものだと思うんですよ」
この言葉にも、私は強く共感しています。
ただ同時に、そうした「本当にすごい作品」が生まれるための土壌や環境をどう整えていくかということも、考える価値のあるテーマなのではないか、と私は思っています。
一人ひとりの考え方は、それぞれの創作観から生まれているものなのだと思います。
だからこそ、私は自分とは異なる創作観に対しても、心から敬意を持っています。
編集済
カドミウム化窒素さんへへの応援コメント
遅ればせながら。柊さんの今回の評論拝読しました。いやはや、やはり本当に面白い(興味深いという意味で)こと書かれる方だなあ、と思いました。しかも、第二(?)言語でですよ⋯。
それで、せっかくなので私も私なりのアンサーを出しておきたくなってしまいました。お目汚し失礼します。
私はまず、商業用品としての小説と、文学的な意味を持つ小説とを、ざっくり切り分けてしまったほうがいいのでは、と思いました。ここで、商業用品の方を”ノベル“、文学物としての方を”小説“、としましょう。あくまで、便宜上のネーミングです。
両者を分ける要素は、『そのコンテンツの主体』です。生産者に主体があるのが、小説。消費者に主体があるのが、ノベル。この二つはグラデーションで、極端に分けて考えることには、デメリットがあるでしょう。ですが、私の力ではその全てを考慮に入れることはできないので、あえて単純な二項対立で進めてしまいます。
小説の主体が生産者、つまり書き手にあるということにしたのは、小説が書き手が伝えたいこと、知ってほしいことを物語の形式に乗せて出力したものだと言いたいからです。
一人が部屋に閉じこもって書いた物語を、一人が部屋に閉じこもって読むコンテンツ、としても良いでしょう。
さらに、その形式ならば、一人の分かってくれる人に読んでもらえれば、他の十人に受け入れられなくても良い、と考えることもできます。
小説の書き手が、自身の文学的な技術を向上させるために文壇を研究することは当然あり得ます。しかし、文壇に上るために、文壇の傾向を研究するということはないでしょう。
なぜなら、しつこい様ですが、究極的な執筆目的は書き手自身のためだからです。
ノベルは、その逆と言えるでしょう。消費者が主体で、より多くの人に見られるのが目的。早い話が、大衆向けのエンターテインメントだからです。
出版社の失策、という文脈はノベル側のものでしょう。編集部は、面白い作品ではなく、売れる作品を売るのだ、という話を耳にします。必ずしも、面白いから売れるわけではない、売れているから面白いわけではない、というのは、少し残念かもしれません。
それで私は、そんなノベル側の作品なら、別にAI生成でもよくない?と思ってしまいます。
だって人間でも、売れる作品が作りたいなら、売れている作品を研究するはずです。AI生成だろうが、的確に我々の泣きのツボ、笑いのツボを突いてくる作品を作れるならば、それで良いと思います。
(すると問題は、私のようなたちの悪い物書きが、「小説的な文章で、ノベル的に売れたい」と思っているところにもあるかもしれません。)
それで、ここは認識の分かれるところですが、最近だと、「『原作』から『アニメ』に“昇華”されれば成功と言える」という風潮もある気がします。本当に素晴らしい作品であれば、どのような形式であれ、優劣はないはずなのにです。
最近の日本のアニメがつまらんと言われるならば、そこにも理由があるでしょう。
例えば、『涼宮ハルヒ』。あれは、日本の筒井康隆という小説家をはじめとして、多くの文学者に“オタク向けのライトノベル”とは言えない、と評価されています。言うなれば、オタク文化を汲んだ小説、ということです。そんな作品が、より人目に触れやすいアニメという形式にも移植されたからこそ(しかも、あの京アニの手によって)、『ハルヒ』は空前の人気を獲得し得たのでしょう。実際、『ハルヒ』などでは、小説版の方が好き、アニメ版の方が好き、で結構意見が別れるように感じます。
そんな例に対して、アニメ化に向かうための、完全な手段としての”小説“に、不誠実さを感じもします。私にも少しは、小説というコンテンツそのものが好きでやってる部分がありす。それが完全に道具の一つとして扱われてしまうのを見ると、残念に思います。また、そんな文章たちが大量生産されたのが、AIの模倣の源になってる気もします。
またここで、『アニメ化を盲信すること』と『他のコンテンツに移植されても通用する原作書こうとする』ことは違うだろう、ということも言い直しておきます。良い物語を世界に発信したくて、その最初の武器として“小説”というコンテンツを選んだのなら、それをちゃんと学ぶフェーズを設けてほしいと、私は思います。
長くなりすぎましたが、私なりの結論としては、『完全なエンターテインメントにAIを使うのは別にいい。でも、背後に本気の人間がいる作品と、AIによって降って湧いた作品は、本質的に同じ土俵にいないと思う。』です。
(どっからどう見ても、あんましちゃんと推敲できてないのがまるわかりですね、ごめんなさい!いつも柊さんの懐の深さに甘えております⋯笑。)
作者からの返信
ごめんね、ヒ魔っちゃんw!
もう率直に言います……今回の返信、また自己最長記録を更新しちゃいました(笑)。
本当はそのままコメント欄に返信しようと思っていたんですが、文字数が約7000字にもなってしまって、とても入りきりませんでした……
なので、このエッセイの後ろに新しく一つエピソードを作って、そちらに返信を書かせてもらいました。
お手数ですが、そちらへ移動して読んでもらえると嬉しいです。
よろしくお願いします!
(長文のコメントを見た瞬間、完全にタガが外れちゃいましたw。まさかそのまま7000字まで書いてしまうとは……ある意味ですごいな)
カドミウム化窒素さんへへの応援コメント
本来なら、カドカワのような出版社こそがそういう流れを牽引していくべきだと思うのですけどね
20年経っても新たなエヴァやハルヒが生まれてこないのは出版社の怠慢なのではないかとと思います
作者からの返信
コメントありがとうございます!
同感です。
でも結局のところ、出版社もアニメ制作会社も、利益や商業性を考える以上、どうしても一番無難な方向や選択肢を選んで支援してしまうんでしょうね。
もしかしたら傑作になるかもしれない作品であっても、その分だけ不確実性も大きいですよね。
斬新な題材や新しい語り方が、今の市場に本当に受け入れられるのか――そういう議論が経営判断の場に上がれば、会社を預かる立場としては不安になるのも無理はないと思います。
だからこそ、最終的には市場ですでに実績のあるジャンルや、より無難な作品を選んでしまうのでしょうね。
私自身、今の業界の仕組みや運営について深く理解しているわけではありません。ただ、一人の小説・アニメファンであり、創作者でもある立場からすると、今の業界は、あなたがおっしゃるように、大手ほど安定したヒット作を継続的に生み出すことを重視しすぎていて、新しい題材や叙事手法に挑戦する作品を後押しする姿勢が以前より弱くなっているように感じます。
もちろん、それが企業として間違っていると言いたいわけではありません。ただ、もし新しい題材や新しい表現に対して、もっと大きな規模で支援や後押しが行われるようになれば、「こういう作品でも挑戦していいんだ」と創作者全体の励みにもなると思います。その積み重ねが、今のような画一化やテンプレ化を少しずつ変えていくきっかけになるのではないでしょうか。
カドミウム化窒素さんへへの応援コメント
私がなろうの方で書いた拙い感想を、こんなに丁寧に読解していただき本当にありがとうございます。
読んでいて、私の中にあるフワっとした感情がどんどん言語化されていくのを感じました。
AIがない時代でも「テンプレート」と「功利」によって世界がどんどんと狭くなる現象はあったと思います。
18世紀のクラシック音楽は貴族のための教養や娯楽だったものが、ベートーヴェンによって思想や感情を表現する芸術となり、市井も含め楽しまれるものになりました。
19世紀の絵画は写実的なものだけが好まれ、しかも国家がそれを推進するため写実以外の絵画は金にならないという中で、それを打ち破ったのは印象派でした。
20世紀、ラブソングが主流だったポピュラー音楽界に、社会風刺や哲学的な詞という新風を吹き込んだボブ・ディランも有名です。
もし当時にAIがあったとしても、ベートーヴェンやモネやボブ・ディランの役目をAIが担うことはおそらく無かったでしょう。
世界を広げるのは、「人間にしかできない営み」。私もそう信じています。
十一人目の作家になれるよう、邁進していきたいです。
作者からの返信
まさにおっしゃっていた通りだと思います。
結局のところ、芸術という精神的な営みが狭くなる現象は、産業化時代に生まれた功利主義から生み出されたものなのかもしれません。
たとえAIがなくても、商業性だけを重視し、「テンプレート作品」だけが成功できる現状が続く限り、「十一人目の作家」の誕生が非常に難しいと思います。
しかし、あなたのような「十一人目の作家」になりたいという気持ちで頑張っている作家がいるからこそ、希望があると、私も考えています。
有名作家・プロになりたいとか、作品の出版・アニメ化とか、私自身も望んでいます。
でも、その前に「いい物語」を伝えることを何よりも優先しています。
創作、一緒に頑張りましょう!
カドミウム化窒素さんへへの応援コメント
AIに丸投げした作品が増えている現在の風潮には、私も強く危機感を持っています。 AIが作ったものをAIが学習するループが続けば、表現の多様性が失われ、気づいた時には手遅れの『創作ディストピア』になってしまいますよね。
AIの作る作品は読みやすくて王道パターンを楽してなぞれますが、頼りすぎると創作者の『創作筋』がダメになってしまいます。マシンはあくまで補助であって、作品に「魂」を込めるのはやっぱり人間ですよね。
安易な風潮に流されず、創作に対して誠実に向き合う姿勢を見せていただき、刺激になります。応援しています!
作者からの返信
コメントありがとうございます!
おっしゃっていた『作品に「魂」を込めるのはやっぱり人間ですよね』という言葉は、まさに私が言いたい核心的なことです!
小説とは、「物語」を通じて、作者の想いを伝えるものだと思います。
そのため、「創作」は私たち人間しかできないことであり、すべきことであると思っています!
カドミウム化窒素さんへへの応援コメント
拝読しました。興味深いですね。
わたしは創作にあたってのアイデア整理にAIを補助的に使っていますが、次のルールを課しています。
1、AIに回答を求めない。こちらで回答を用意して、それに対する意見を求める
(思考フレームの拡張としてツール利用する)
2、AIが改善意見を例えば3パターン出してきた場合は、他の4パターンめを探す
(ぜったいに理外の4つめのほうが「面白い」)
3、本文テキストはぜったいに触らせない。誤字脱字チェックのみ。
非常に楽にならないやり方ですが、「伝える相手がいる」だけで考えが結構まとまるため、AIに回答を提示する段階では、もう自分で意見が固まっている感じです。
個人的には、創作関連でのAI利用については、「漫画原作のプロ作家が同クオリティを量産する」パターンが近い将来で有り得るのではないかと存じます。
多くの会社で見られる光景ですが、本来なら新人や若手が担うべきスペースをAIプロダクトが埋めてしまって、育成がされないということを危惧しています。若手の食い扶持が減る懸念ですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
有賀慧さんのようなAIとの向き合い方は、とても良い使い方だと思います。
このエッセイは厳密な論考ではなく、あくまで私個人の考えをまとめたものなので、表現が十分でない部分もあったかもしれません。
「AIによって作品の大部分を作りながら、その事実を意図的に隠し、自分自身の創作であるかのように評価や注目、利益を得ようとすること」
私が問題だと感じているのは、この点なんですね。
一方で、AIはこれからの時代において避けては通れない創作ツールでもあると思っています。
ですから、AIを使った作品を一律に否定したいわけではありません。大切なのは、「どの程度AIが創作に関わっているのか」、そしてそのことをきちんと明示することだと考えています。
もしAIが作品の大部分の制作に関わっているのであれば、そのことは明確に示されるべきですし、そのような作品は新人賞のような場にはあまり適さないのではないか、と私は感じています。
新人賞はAIを使いこなせる人ではなく、創作者としての可能性や実力を持った新人を見出すための場だと思うからです。
最後に書かれていたご懸念についても、とても考えさせられました。
もし著作権を持つプロの漫画家や小説家が、自分の作風をAIで再現し、新しい作品を次々と生み出せるようになった場合、それをどう捉えるべきなのか。
この問題は、業界全体で考えていく必要があるテーマだと思います。
そうなれば、おっしゃるように、まだ無名の新人作家が活躍する機会はますます少なくなってしまうのかもしれませんね。
少し補足への応援コメント
こんばんは。お邪魔します。
最近の生成AIは、ブラインドで見た場合に、ぶっちゃけAI製なのか人力なのか区別がつかないところまで来ていると思います。もし作品に人間が手を加えたら尚更でしょう。
そんな中で危惧するのは、「区別がつかないなら申告する必要もない」なんて流れになることです。私自身はAI製の作品は読みたくありませんが、もし区別がつかないで読まされたらどうなっちゃうのかな、とは思いますね・・・
作者からの返信
コメントありがとうございます!
まったくその通りだと思います!
さらに、もう一つ想像してしまうことがあります。
もし将来、出版社やアニメ制作会社の側にはAI作品を見分ける能力がある一方で、「今の品質なら十分に合格点だ」と判断し、さらに人間の作者よりも低いコストで済むという理由から、それを黙認したり、暗黙のうちに受け入れたりするような状況になったとしたら……
そのとき、創作という世界は一体どのような姿になってしまうのでしょうか。
もちろん、これはあくまでも私の一つの仮定にすぎません。
ですが、そうした未来の可能性を考えると、私はやはり強い危機感を覚えてしまいます。
現状では、AIに関するルールや線引きは、まだ始まったばかりの段階だと思います。
だからこそ、今の私たちにできることは限られていますが、権威ある立場の方々によって、多くの人が納得できるようなAIに関するルールや制度が整備されていくことを願うしかないのかもしれませんね。