第4話 0%の特権
調律指導室の重い扉を開けると、そこは冷房が効きすぎていて、まるで冷蔵庫のようだった。
デスクの向こうでは、担任の数学教師――江口が、感情のない目で端末(ターミナル)の画面を見つめている。
彼のAILISは、システムと同期して青く細かく明滅していた。
「座りなさい、要零」
促されるままパイプ椅子に腰掛ける。その時、背後で静かにドアが開いた。
振り返ると、そこには優がいた。心配して付いてきてくれたのだろう。彼女は音もなく部屋の隅、スチール書庫の横にそっと身を寄せている。
「昨日のドローン事件の件だ。わかっているな」
江口は、俺の後ろに立つ優に一瞬たりとも視線を向けることなく、冷酷なトーンで話し始める。
「君の『異常行動』のせいで、クラス全体の秩序が乱れ、安寧計数2%低下した。AIの推奨ルートを無視したスタンドプレーは、社会の調律を乱すノイズでしかない。これ以上の問題行動はない。君は『特別調整棟』の収容候補となった」
「……収容、ですか。目の前で生徒が怪我をしそうだったんですよ? 助けるのが人として当たり前じゃないんですか」
反論する俺の言葉を、江口はピシャリと撥ね退けた。
「当たり前ではない。AIの計算が『見捨てるのが最善』と弾き出したなら、それに従うのが世界全体の幸せに繋がる。君のくだらない自己満足(エゴ)で、システムの完全性を汚すんじゃない」
脳が沸騰しそうだった。目の前の教師は、自分の言葉で喋っていない。AIの提示するスクリプトをただ読み上げているだけの、スピーカーだ。
――その時、俺はあることに気づき、背筋が凍りついた。江口は、激昂する俺の背後――つまり、優が立っている方向をまっすぐに見たのだ。
だが、その視線は完全に優の身体を透過していた。焦点は彼女の背後にあるスチール書庫のラベルに合っており、目の前にいる生身の少女を、まるで『虚空』であるかのように見つめている。
優はといえば、俺に向かってひらひらと手を振ってみせている。悪戯っぽい、いつものマイペースな態度。
だが、江口は瞬き一つせず、ただ俺だけを睨みつけていた。
「……話は以上だ。月曜日までに身の振り方を考えなさい」
江口の冷たい声を背に、俺は部屋を飛び出した。優もそれに続く。
「あいつ、白金が来たのに無関心だったな」
「そうだね。私って存在感が薄いからじゃない?」
存在感が薄いで済む話ではないと思うが、優は少しだけ悲しそうな顔で微笑んでいるだけだった。
──旧校舎の図書室に戻ると、俺は再度、怒りが込み上がり、たまらず机を拳で叩く。
「あいつら、絶対におかしい……! 俺は正しいと信じて行動した。その行為が間違っているだと?」
憤る俺の前で、優は俺を落ち着かせようとしたのか、ふふ、と小さく笑う。
「大丈夫だよ。私も零が正しいって思うから。
それより、月曜日まであと3日。AIは零を完全に『マーク』した。これからもっと、監視の目は厳しくなるかな。その前提で行動しないとね」
穏やかな口調で話す優だが、ヘアゴムを握る手は真っ赤になっている。
「あぁ。だが、チャンスでもある。
正常を見抜けないAIなんて完璧じゃない。俺達を異常だと言うのなら、その『0%の特権』を使って、AIの監視網を潜り抜けることだって出来るはずだ」
俺の言葉に、優は一瞬だけ驚いたように目を見張り――それから、今日一番の、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「理解し合うのが、私たちのルールだもんね。――うん、やろう、私たちの未来を、AIに勝手に計算させないために」
窓の外では、目に染みるオレンジ色の夕日が校庭を染め始めている。
そして、そこには場の光景に合わない黒いドローンが一機、浮遊し、ただ俺だけを監視していた。
【AILIS SYSTEM】
監視対象:要零
状態:追跡継続
脅威評価:判別不能
監視レベル:上昇
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