【第18話・前編】昼食と、ローラの空席
第一章「匂いを追う者、背表紙を読む者」
ハリス名誉教授の屋敷は、外から見た時よりも、中に入った時の方が妙だった。
玄関ホールには古い絵画が飾られていた。だが、その下の小卓には、明らかに最新式の測定器らしき金属箱が置かれていた。壁際の棚には、量子力学、宗教改革史、マルクス主義研究、ベトナム戦争史、日本神道、黒人教会史、軍事通信理論の本が、何の遠慮もなく並んでいた。
分類としては滅茶苦茶だった。
ただし、置いている本人には筋が通っているらしかった。
マイケル・ジョーンズは、その背表紙をゆっくり見ていた。
舘翔子は、奥から漂ってくる匂いを追っていた。
ハリスは二人の様子を見て、満足そうに笑った。
「よろしい。タチ君は匂いを追う。ジョーンズ君は背表紙を読む。どちらも、世界を知る入口として悪くない」
「先生、飯はこっちですか」
ショーコは、すでに廊下の奥を見ていた。
「その通りだ。君の観測精度は、食事に関しては極めて高い」
「食い物の匂いは大事や」
「そうだ。人類史の大半は、食物の匂いを追うことで進んできた」
マイケルは小さく笑った。
「教授、それは学説ですか」
「半分は冗談だ。残り半分は、かなり本気だ」
ハリスはそう言って、二人を食堂へ案内した。
食堂は広かったが、威圧的ではなかった。長いテーブル、白いクロス、磨かれた銀食器、壁際の古い時計。窓の外には夏の庭が見えた。由緒ある家の昼食という雰囲気だったが、テーブルの上には、ひとつだけ異様に現実的なものが置かれていた。
白い米だった。
ショーコの目が変わった。
「米や」
ハリスは席に着きながら頷いた。
「君が来るのでね。用意した」
「先生、分かっとる」
「空腹の学生に歴史を語っても、ろくなことにならん。まず食べる。話はそれからだ」
「その順番は正しいな」
ショーコは深く頷いた。
マイケルは、ハリスの食卓を見た。肉料理、温かいスープ、パン、野菜、米、複数の副菜。明らかに普通の学生二人を招く量ではなかった。ショーコの摂食量を、事前にかなり正確に見積もっている。
「教授。これは、かなり正確な補給計画ですね」
「スカーレット君に学んだ」
ハリスは何気なく言った。
ショーコは米を見たまま言った。
「スカー先生、やっぱり飯のこと分かっとるやん」
「本人は認めないだろうがね」
「黒いコーヒーばっかり飲むくせに」
「その点については、私も同意見だ」
ハリスは愉快そうに笑った。
食事が始まった。
スープが出された。野菜と鶏の出汁がしっかり出ている。ショーコは一口飲んで、少し真面目な顔になった。
「うまい」
「それはよかった」
「アメリカにも、ちゃんとした汁あるんやな」
「アメリカを何だと思っていたのかね」
「肉を焼いて、ケチャップかける国」
「間違ってはいないが、かなり偏っている」
マイケルは黙ってスープを飲んだ。
派手ではない。だが、きちんと手が入っている。ハリスの昼食は、奇抜な料理ではなかった。食べる人間を整えるための料理だった。
2「ローラの空席」
最初の沈黙がほどけた頃、ハリスがぽつりと言った。
「ベネット君がいないのは、実に残念だ」
ショーコは顔を上げた。
「ローラか。教会の手伝いや」
「聞いている。サマーバイブルキャンプ、慈善バザー、食事配布、子ども向けの劇。いかにも彼女らしい」
「ローラ、忙しそうやったで」
「だろうな」
ハリスはスプーンを置いた。
「だが、惜しい。基礎学力では、彼女は当学一の能力を持っている」
ショーコは目を丸くした。
「ローラ、そんな賢いんか」
「賢い。極めて優秀だ。物理学、化学、数学、読解力、実験記録、どれを取っても隙が少ない。しかも、分からないことを分からないままにしない」
マイケルは、夕方のベンチでローラが言った言葉を思い出した。
『本当は、行きたかった』
あの声は、軽くなかった。
「ベネット君は去年も不参加だった。今年も来ない。私はとても残念に思っている」
ハリスは窓の外を見た。
「おそらく彼女は、卒業後は教会に入るつもりだろう。信心深い女性だ」
ショーコは少し考えた。
「もったいないんか」
「学問の側から見れば、惜しい」
「でも、教会の子らに飯出すんやろ」
ハリスはショーコを見た。
「そこを見るのかね」
「飯出すんは大事や。子どもが待っとるなら、行かなあかんやろ」
マイケルは静かにショーコを見た。
ローラがもしここにいたら、少し泣きそうな顔で笑ったかもしれない。
ハリスはゆっくり頷いた。
「君は時々、最も単純な言葉で人の選択を肯定する」
「難しいことは分からんからな」
「それが君の欠点であり、強みでもある」
ショーコはよく分からない顔をして、米を食べた。
主菜が運ばれてきた。厚く焼かれた肉だった。外は香ばしく、中は柔らかい。添えられた野菜には、余計な飾りがない。ショーコはひと口食べて、しばらく黙った。
「うまい」
「二度目だな」
「大事なことは何回言うてもええ」
「よろしい。では、食べながら少し話そう」
ハリスは、肉を小さく切った。
3「玄関で止める理論」
「君たちが関わっているNEFTPは、公式には新エネルギー基礎理論プロジェクトだ。次世代エネルギー源、石油依存からの脱却、核融合を超える変換原理、ホ連との科学技術競争。政府へ提出する書類には、そう書かれている」
「ホ連」とは、極北の大国・ホワイトベア社会主義共和国連邦のことだ。
ショーコは肉を噛みながら聞いていた。
マイケルはフォークを止めた。
「公式には、ということですね」
「そうだ」
ハリスは短く答えた。
「本当の目的は、もう少し厄介だ。大陸調和連邦の洗脳技術を、物理学として否定することにある」
食堂の空気が、わずかに重くなった。
大陸調和連邦。
洗脳電波。
漂白。
人間の心へ勝手に入り込み、考えや記憶や感情を書き換えようとした国家の名残。
ショーコは米を飲み込んだ。
「人の頭に勝手に上がり込む電波を、玄関で止めるんやな」
ハリスは笑った。
「雑だが、非常に近い」
マイケルは言った。
「人間の自由意思を、物理的に守るということですか」
「そう言ってもよい。ただし、自由意思という言葉は、哲学者と神学者が何百年も揉めてきた危険物だ。われわれ物理学者は、もう少し慎重に扱う」
「では、どう言いますか」
「外部からの情報強制によって、人間の判断過程が破壊される条件を特定し、それを成立させない理論を作る」
ショーコは眉を寄せた。
「長い」
「だから君の玄関のたとえが必要になる」
「ほな、玄関で止めるんや」
「そうだ。土足で上がらせない」
その瞬間、脳内めばえが小さく反応した。
《ショーコちゃん、これ、かなり合ってる。情報エネルギーの不法侵入を境界条件で遮断する話。玄関モデル、雑だけど概念的には使える。やばい、ハリスじいさん、ちゃんとショーコちゃん語に翻訳してる》
《めばえ、静かにしとけ》
《はい。米おいしそう》
《見えてるんか》
《ショーコちゃんの視覚野経由でガン見してる》
《おええ》
ショーコは少しだけ顔をしかめ、米をもう一口食べた。
ハリスは、そんなショーコの表情を面白そうに見ていた。彼が脳内めばえを知っているわけではない。少なくとも、表向きにはそうだった。ただ、ショーコが時々、誰にも見えない何かと会話しているような間を置くことには気づいている。
そのことを、彼は今は問わなかった。
4「科学は国家に欲しがられる」
「問題は、ここからだ」
ハリスは言った。
「科学は、国家に欲しがられる」
マイケルの目が少し細くなった。
「ホ連との競争ですね」
「それもある。ホ連は悪の帝国と呼ばれている。レールガン大統領は、その言葉を好む。スカーレット君も、その点では大統領を評価している」
ショーコは肉を切りながら言った。
「先生、反共やもんな」
「そうだ。彼女は筋金入りだ」
「怖いもんな」
「怖いだけで済むなら、まだ可愛い」
マイケルは黙って聞いていた。
ハリスは続けた。
「ホ連との競争は、演説会場だけで行われているわけではない。宇宙、通信、兵器、エネルギー。MITの地下研究棟も、その競争の一部だ」
「大学は中立ではないんですね」
マイケルが言った。
ハリスは、少し笑った。
「中立は、大学が好む美しい幻想だ。資金を受け取り、装置を使い、政府の許可区域で研究する。その時点で、われわれは世界情勢の外にはいない」
ショーコは米の上に肉を少し乗せた。
「飯奢ってもろたら、ちょっと言うこと聞かなあかんみたいなもんか」
ハリスは一瞬だけ沈黙し、それから楽しそうに笑った。
「かなり危険なたとえだが、構造は似ている」
「ほな、先生も政府に飯奢ってもろとるんか」
「研究費という名の食事だな」
「返礼は?」
「成果だ」
「危ない成果やったら?」
「そこからが、研究者の倫理になる」
マイケルは、テーブルの上の料理を見た。
食事は人を落ち着かせる。警戒を解く。話を柔らかくする。だが同時に、何かを受け取ることは、何かに結びつくことでもある。ハリスは、それを昼食の場で話している。
ショーコは言った。
「飯に毒入れたらあかんで」
ハリスは頷いた。
「その通りだ。科学にも同じことが言える」
「科学にも毒あるんか」
「ある。よく効く毒ほど、最初は薬に見える」
ショーコは、そこで肉を一切れ口に入れた。
「この肉は毒やない」
「安心したまえ。君に毒を盛るほど、私は食材に失礼なことはしない」
「分かっとる先生や」
マイケルは小さく笑った。
5「心を白くする国、腹を統計にする国」
ハリスは水を一口飲み、少しだけ声を落とした。
「大陸調和連邦とホ連は、同じ敵ではない」
「違うんですか」
マイケルが聞いた。
「違う。大陸調和連邦は、人間の内側を直接白くしようとした。洗脳電波によって、感情、記憶、判断、差異を漂白する。あれは、心への直接侵入だ」
ショーコは顔をしかめた。
「やっぱり、土足で上がっとる」
「そうだ。しかも靴を脱ぐ気がない」
「最悪やな」
「最悪だ」
ハリスは、パンを小さくちぎった。
「ホ連は違う。彼らは必ずしも心を直接白くするわけではない。党、官僚制、統計、計画、配給。そういうものを通して、人間の生活を少しずつ削る」
「削る?」
「腹を、数字にする」
ショーコの手が止まった。
「腹を統計にしたらあかん」
「そうだ」
ハリスはすぐに頷いた。
「大陸調和連邦は、心を白くした。ホ連は、腹を統計にする」
マイケルは、その言葉を静かに受け取った。
腹を統計にする。
それは、ただ食料を数えるという意味ではない。食料の量、必要量、不足量。そういう数字は必要だ。だが、数字だけが残り、食べる人間の顔が消えた時、何かが壊れる。
ショーコは低い声で言った。
「腹減っとる奴を、表の数字だけで見たらあかん」
「君は、本当にそこへ戻る」
「戻るやろ。腹やもん」
「だから君を呼んだ」
ハリスの声は、静かだった。
ショーコは顔を上げた。
「アタシを?」
「そうだ」
「飯食うからか」
「それもある」
「あるんか」
「大いにある」
ハリスは笑ったが、その目は真面目だった。
「君は、科学者としてはまだ未熟だ。英語も乱暴、数式の説明も雑、実験ログは時々感想文になる」
「ひどい言われようや」
「事実だ」
「スカー先生みたいなこと言うな」
「彼女ほど美しくは言えんよ」
マイケルは、スカーが聞いたらどんな顔をするかを少し想像した。丁寧に否定し、心の中でハリスをクソジジイと呼ぶのだろう。それでも、彼女がハリスを深く尊敬していることは、マイケルにも何となく分かっていた。あの女は、誰にでも従う人間ではない。ハリスにだけは、怒りながら従う。
ハリスは、そこには触れなかった。
彼はショーコを見たまま、続けた。
「君は未熟だ。だが、人間を食い物にする理論を、腹で嫌がる。その嫌悪は、研究室に必要だ」
ショーコは、黙った。
マイケルも黙った。
その言葉は、ハリスの昼食の中で初めて、まっすぐショーコへ向けられたものだった。
ショーコは、少し困ったように米を見た。
「アタシ、難しいことは分からんで」
「分かりすぎる者が、人間を見失うこともある」
「ほな、分からんままでええんか」
「いや。学びなさい」
「結局それか」
「もちろんだ。君を甘やかすために呼んだわけではない」
ショーコは渋い顔をした。
「デザートは甘い方がええ」
「もちろんデザートはある」
「ほんまか」
「本当だ」
「ほな、学ぶ」
マイケルは声を出さずに笑った。
ハリスも笑った。
食堂の空気が少し軽くなった。だが、テーブルの上に置かれた話は消えていなかった。
NEFTP。
洗脳電波。
科学と国家。
ホ連。
統計にされる腹。
食卓に戻される人間。
ショーコは完全には理解していない。
マイケルは理解しようとしている。
ハリスは、その両方を見ている。
窓の外では、夏の庭が静かに揺れていた。
昼食は、まだ終わっていなかった。
【第18話・前編 完】
→第18話・後編「紅茶と、語られない戦場」に続く
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