応援コメント

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  • 第1話 白衣と値札への応援コメント

    救急外来の張り詰めた空気と、勤務医の過酷な現実がとてもリアルでした。 美容外科へ進んだ友人との対比が重く刺さり、「何のために医者になったのか」という問いに強い余韻があります。 (⁠≧⁠▽⁠≦⁠)

    面白かったので、★★★とレビューを進呈いたします(⁠人⁠ ⁠•͈⁠ᴗ⁠•͈⁠)

    もしよかったら、私の作品も読んでいただき、面白かったら★★★をいただけたら嬉しいです(⁠◍⁠•⁠ᴗ⁠•⁠◍⁠)

    先生と繋がっていきたいので
    作者フォローよろしくお願いしますm(_ _;)m

  • 第4話 年収1800万円の敗北への応援コメント

    しばしば雑誌などで開業医と勤務医の収入の格差が、野次馬根性的に取り上げられますが、「勤務医は雇われ人、開業医は社長。もともと比較するものでもないのに、馬鹿な記事だなぁ」と思いながら見ています。

    私が医師を目指した理由の大きなものに、子供のころからお世話になっていた有床診療所の先生に対するあこがれがありました。ただの、「医師ー患者」という関係でしかない私に目をかけてくださり、先生の応援のおかげで医師になることができました。初期・後期研修を乗り越え、専門医受験資格を得た段階で、その有床診療所に医師として就職しました。

    恩師はいまだ理事長として、第一線で、外来、訪問診療に走り回っておられました(先生が入院を指示した患者さんの病棟管理は私が行っていました)。先生は私を3代目(2代目は当時の院長を考えておられた)と考えられ、私も診療所の経営陣の一人となりました。

    「経営者」と「医師」は両立するか、と問われれば、「それは可能だ」と感じています。恩師は、亡くなる直前まで医師として患者さんと向き合い、誠意と情熱をもって治療にあたっていました。と同時に、訪問診療の患者さんが当院で対応できない病態で、他院に入院すると、「あぁ、在医総管(在宅医療総合管理料)の4万5000円が~」と残念がってもいました。昭和の「国民皆保険制度」設立のちょっと前から医師になり、医療機関の極めて少なかった(いわゆる「無医村」、今は大阪、京都のベッドタウンである北摂地域にも、昭和30年代にはそういうところは多かったようです)ところに建てられた有床診療所を支え、昭和40~60年代の「給料遅配」の時代も、「医療ウハウハ」時代もみてこられ、診療所の半径10kmに、国立センター一つ、大学病院3つ、急性期医療を提供する大病院を複数抱える時代まで指揮を執ってこられました。経営に苦労はしつつ、経営者としては冷徹に行なうべきことを行い、それでも暴利をむさぼるわけではなく、医師としては誠意をもって医業を続けてこられました。

    「医業」という事業の視点では、当然「赤字が積み重なり、経営が成り立たない」となれば「負け」ですが、「医療」として患者さんに向き合うときには「誠意をもって向き合い」、結果は神様が決める、という点では「勝ち負け」はないのでは、と思います。経営が成り立たないと頭を抱えていても、患者さんと向かい合ったときに、全力で誠意をもって「医」を行うことができれば、それは「負け」ではないのだろうと思いました。

  • 第3話 リンがいない夜への応援コメント

    お釈迦様は、自身の寿命が尽きるに際して、「出家者は私の死にかかわらず、修行を続けよ。私の葬儀は在家のものが行なうこととする」と言明しましたが、それでも釈尊の死に際して、「生死を離れた」はずの高弟たちも含め全員が泣きぬれた、という話があります。この話は、ご自身の「死」が近い方、そのご家族によくする話です。「死」がだれにとっても不可避であることは、頭ではわかっていても、心が納得するまでにはいくつものステップと、何度も離別の悲しみに涙する必要があります。

    私の父は、私が16歳の時に、41歳で亡くなりました。糖尿病とその合併症です。父の発症が16歳、と聞いているので、診断がついたのは60年以上前、ということになります。我が家は糖尿病家系ですが、父は経過が異なり、おそらく父は1型DMだったのでは、と考えています。診断も、治療のツールも未発達な時代で、私が小学生の頃は糖尿病の薬(おそらくSU剤)を飲んでいたので、相当コントロールが悪かったはずです。糖尿病増悪で20代で入院、脳梗塞と心筋梗塞で30代で入院、CABG、40歳からHD、というコースでした。食事療法を厳格に守っていたか、といわれると「うーん」ですが、「暴飲暴食」はしていない人でした。

    私自身も病弱で、小学校低学年から「家庭の医学」を好んで読む、変な子供だったので、父の状態を聞くたびに、父との別れが近いと涙したことを覚えています。

    それとは別で、「強い気持ちがよそへ向かうと、『死』の受け入れはすんなりいくものだ」ということも経験しました。

    後期研修医2年目のころです。ER当直をしていると、大阪市の警察から「死亡確認をしてほしい」というホットラインが来ました。大阪市は「監察医」制度が動いているので、警察が「死んでいる」と判断すれば監察医の方に話が行くので、その時点で「おかしい」と気づくべきでした。搬送されてくると、ご遺体の方は縊頚で、身体は冷たく、顎関節は硬直、死斑も出ていましたが、第一発見者の息子さんは、「親父はついさっきまで生きていたはずだ。なぜ蘇生処置をしないんだ」とワーワー言っていました。

    「お身体に、亡くなった後でないと出てこない変化が出ているので、もう亡くなられてますよ」と伝えても全く納得されませんでした。

    ご存じの通り、死後硬直や死斑をひっくるめて「死体反応」といいますが、10回以上同じ説明を繰り返していたので、気づかずに「『死体反応』が出ているので組成は無理です」といいました。息子さんはその「死体」という言葉に、「お前、俺の親父を「もの」扱いにするのか!」と私に怒りをぶつけてきました。

    「死後硬直や死斑をまとめて「死体反応」という用語を使うんです。お父様をもの扱いしたわけではないです」と伝えましたが、当然耳には届かず、私に対して怒り狂っていました。会話が成立しないので、後輩が「先生はいったん下がってください」といって対応を代わってくれました。その人は先ほどまでの「お父さんがまだ生きている」なんて主張は全くせず、「あの医者、許さんぞ!」一色で、すんなり死亡を受け入れました。

    あまりいい形ではありませんが、そんな形での「死の受け入れ」もあるのだ、と思いました。

  • 第3話 リンがいない夜への応援コメント

    切ないです。
    半年ほど前、実家の猫を亡くしまして。
    そういったこともあり、つい涙腺が緩みました。

    そこに居たはずなのになぁ、と姿を探してしまったり、お散歩に使っていたリードに目が行ったり。
    わかってはいても、どこかに欠片を探してしまう描写が胸に迫りました。

    リンちゃん、きっと修司を見守っていることでしょう。