おまけ 戦争と正義"語られない敗者側の視点"への応援コメント
素晴らしい視点だと思いました。
ですが一ついいでしょうか?
今回僕はこの話を読んで正直連合国側の正義を剥がすのが足りない、不足していると思いました。
『なぜ普通の人々が、正義を信じて暴力に走ってしまったのか』を真に説明するためには、連合国側が行った戦争犯罪をより明確に、そしてそれを何故正義だと思ったのかを同時に詳しく語らなければならないでしょう。歴史は勝者にとって都合よくラッピングされたものであり、正義なんて存在しない、正義は薄っぺらい言葉だと、皆等しく悪魔になりうる…そのことを伝えねばいけないのではないでしょうか。
文章中では反論への回答の為に、日本やナチスのしたことは許されないと言うのを幾度か強調していますが、それだと結局「枢軸国が悪いことをしたから仕方なかった」と、これを読んだ人はそういう従来の印象を抱いてしまうのではないでしょうか。連合国側の事についてに軽くしか触れられていないのも相まって。
(勿論、彼らの戦争犯罪を肯定する意図はないです。)
だからこそ、このことについて語るのならば、どちらの側も「自分たちの正義」を信じて暴走したという点では同じであることを、連合国側の視点も今以上に明確に説明しなければ、敗者側の視点が正確に伝わらないと考えています。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「連合国側の正義を剥がすのが足りない」この指摘、まさにその通りだと思います。
自分は枢軸国側の「内在的論理」に紙幅を割きながら、連合国側については「勝者の正義」「偽善的な漂白」という記号でしか語っていませんでした。
結果として、「枢軸国が悪いことをしたから仕方なかった」という従来の印象を、自分の手で再生産してしまっていたのかもしれません。
「なぜ普通の人々が正義を信じて暴力に走ったのか」を語るのであれば、連合国側の戦争犯罪をより明確に、そして「なぜ彼らはそれを正義だと思えたのか」を同じ深さで掘り下げなければなりませんでした。
ドイツのハイパーインフレと日本のABCD包囲網を詳しく語ったように、アメリカの「民間人殺戮を正当化する論理」や、イギリスの「帝国主義的使命感」、ソ連の「革命の大義」といった、彼ら側の「正義の構造」も対等に描くべきでした。
そうしなければ、ただの「敗者の免罪」にしか聞こえず、「正義なんて存在しない、皆等しく悪魔になりうる」という本当に伝えたかった核心が、読者には届かない。
以前のコメントで「記号の反転」だと指摘されましたが、まさにその通りでした。
枢軸国を「人間」として描いた代償に、連合国を「悪魔」に仕立て上げればいいという安易な発想があったのだと思います。
でも、本当に怖いのは「どちらも人間だった」ということです。
「歴史は勝者にとって都合よくラッピングされたもの」という言葉、その重みを、もう一度噛み締めたいと思います。
ご指摘、本当にありがとうございました。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
初めまして、こんにちは。
尾だけの猫さんの企画に参加させていただき、こちらに立ち寄らせていただきました。
まず初めに申したいのは、私も昨今のなろう作品が溢れかえる現状にうんざりしているというのが本音です。
設定が薄く、前世で何も成さずに転生先では何もかも上手くゆく味の無い主人公。
努力も無しに手に入れるお手軽チート能力で、理由も無くただ嫌なやつという立ち位置の者を蹂躙する無双系。
出会って二秒で即落ちするのような都合の良いヒロインたち。
そもそも長文タイトルで中身を全て語ろうとする制作者の浅はかさ。
ここに何を見出せば良い。もううんざりだ。いい加減にしてくれ。色と形だけを変えた同じ味のガムを噛み続けさせられているようだ。もっと面白い話作りにシフトしてくれ。と。
ただそれは、正解であるのと同時に見当違いな思いであることに気が付きました。
話が変わるようですが、尾だけの猫さんはお酒は飲まれるでしょうか。
飲まれないなら想像し難いと思うのですが、市場に出回る一本数百円から千円前後のウイスキーと、一本一万円から二万円のウイスキー、会社の利益になるのはどちらかご存じでしょうか。
ちなみに言っておきますと、前者が品評会等で賞を取ることはまずありません。対して後者の価格帯に設定されるものは、いつどんな賞を取ってもおかしくはないでしょう。
正解は前者です。それも圧倒的に。
何故でしょうか。旨いのは後者であるに決まっているのに。なんなら前者なんて、後者と比べると吐いて捨てるような味なのに。
理由は簡単です。前者の方が、世間のニーズに合っているからです。
安くていつでも手に入る。ラベル見ただけで味が想像できる。気軽に飲めて、簡単に酔える。生産者としても安価で大量生産しやすい。
概ねこんな理由が挙げられるでしょうか。
何故こんな話をしたかと言いますと、ある意味酒も小説も嗜好品という面では同じと考えているからです。
なろう小説はほぼ無料で楽しめて、どこのサイトでも簡単に見つけることができる。
タイトルを見ただけで中身が想像しやすい(読み疲れし難い)。
気軽に読めて、簡単に酔える。
既にフォーマットがあるため誰でも執筆しやすい。
なろう作品には、こういった利点があるのだと、私は考えています。
つまり何が言いたかったのかと言うと、お酒はお酒、小説は小説という括りで片付けてしまうから苦悩するということです。
極上の高級酒を求めて小説サイトを訪れたのに、どの作品も不味くて飲めたものじゃない。これこそが、尾だけの猫さんの感じている気持ち悪さの正体ではないでしょうか。
某社が昨今の小説作りに危機感を抱いたというニュースが少し前に流れましたが、ニーズがある以上、恐らく生産され続けることにはなるでしょう。
長々と失礼しましたm(_ _;)m
今回はこちらの話にお邪魔しましたが、別の話にも立ち寄らせていただければと思います^^\
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「高級酒を求めて安酒の店に来て、不味いと文句を言っている」この指摘、まさに胸に突き刺さりました。
確かに、自分は「なろう系」というプラットフォームに対して、もしかしたら「文学性の高いフルコース」を期待しすぎていたのかもしれません。
無料で誰でも読めて、気軽に手に取れて、タイトルを見ただけで中身が想像できる。
そこに「驚き」や「重み」を求めるのは、安酒の店に入って「なぜ複雑な香味がない」と怒るのと同じことだったのかもしれません。
「お酒はお酒、小説は小説という括りで片付けてしまうから苦悩する」この言葉も、本当にその通りだと思います。
自分は「小説」という一つの大きな括りの中で、やはり「純文学並みの重さ」を求めていたのかもしれません。
でも、安酒には安酒の、気軽に飲めて簡単に酔える価値がある。
それを否定するつもりは、今は全くありません。
ただ、ここだけ少し言い訳させてください。
まだ自分はお酒を飲める歳ではなくてあまり深くは語れませんが、自分が「気持ち悪い」と感じていたのは、たぶん「安酒だから」ではなくて、「安酒の中で、原料の味も知らずに作っただけのもの」への違和感だったのだと思います。
数百円のウイスキーだって、ちゃんと造られていれば「この価格帯の中で誠実だな」と感じることができるそうです(父談)。
でも、造り手が「安いから適当でいい」と思って造っている味は、飲む側にも伝わる(父談)。
なろう系が「安価で大量生産される」こと自体は、市場のニーズに応えているからこそ成り立っていて、それは美しいことだと思います。
でも、だからこそ「この価格帯の中で、ちゃんと造られているか」という誠実さを、自分は求めていたのかもしれません。
「色と形だけを変えた同じ味のガム」この表現、痛快でした。
それを噛み続けさせられている読者の気持ち、多分自分も同じでした。
でも、それはガムを買う場所に来てしまった自分の選び方の問題でもあったのだと、今は素直に思います。
某K社の危機感のニュースも、確かに「ニーズがある以上生産され続ける」という現実を示していますね。
自分の「物申し」が、市場の流れを変えるものではないことは百も承知です。
ただ、同じ「安酒」を造るにしても、原料をちゃんと選んで、工程をちゃんと踏んで、需要も、ルートも知った上で造る人が、もっと増えたらいいな——そんな期待を、これからも持ち続けたいです。
また、期待を持ち続けて自分は何も行動しないなんて無責任なことはせず、自分で自分が求めていない小説を書いてみようと奮闘中です。
別の話にも、ぜひぜひ立ち寄ってください。
遠慮なく、またぶつけてください。
ありがとうございました。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
こんばんは。企画の自己紹介を読んだ際に、このページにたどり着きました。
ここまで読んだ感想としては、僕はあなたの考え方、小説への思想に非常に感服し、深く同意いたします。
自分は両親が本をよく読む人で、歴史やSF、昔のライトノベルを進められて育ってきました。
まあ恥ずかしながら、自分はそういったものの文章がどうしてもつまらなく感じ、一時期なろう系にはまってしまっていましたがね…
(キャラクターの掛け合いが好きで、昔のライトノベルとかは楽しく読んでいた記憶がありますが)
両親がよく今の焼き回し小説に苦言を呈していたためかもですが、僕自身、『ただ主人公が与えられた力で無双する』『敵がどうしてそのような行動に至ったのかの動機がない、あっても取って付けたような薄っぺらさ』…。そんな行動や結果、力に理由のない作品が、大量生産されている現状に疑問を抱いていました。なので、ここまでその疑問を言語化していることに尊敬いたします。
同年代に私と同じ、いえ…私以上にここまで小説を読み、深く考えている人がいることに、本当に感激しました。
(…自分はゲーム小僧で正直読んできた数が少ない、物事への造形はこの応援コメントの中でも圧倒的に薄い方だと思いますので。)
終始言いたいことがぐちゃぐちゃで申し訳ありません…。兎に角、非常に面白く、為になる思想を書いてくれてありがとうございます…!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
同年代の方からこんなに温かい言葉をいただけたこと、本当に嬉しく思います。
そして、両親の影響で本に親しみながらも、一時期なろう系にはまって、その中で違和感を覚えたという経験を聞かせていただきありがとうございます。
「ゲーム小僧で読んできた数が少ない」と謙遜されていますが、僕はむしろそれが強みだと思います。
むしろ、ゲームというメディアを知っているからこそ、なろう系の「ゲーム的記号化」―キャラクターがステータスの集まりに過ぎなくなっていること、敵の動機がフラグ管理のように単純化されていることに気づけたんじゃないでしょうか。
両親が「焼き回し小説に苦言を呈していた」ことで、きっとあなたの中に「これは違う」という感覚が育っていたんでしょう。
それが、言葉になる前の「違和感」として、ずっとあなたの中にあった。
そして、それを「疑問」として持ち続けてきた。
実は、僕自身もあまり多く小説を読んできたわけじゃありません。
むしろ「読み手としての感覚」が先にあって、それを後から言葉にしただけです。
だから、「感覚」は、十分に価値のあるものです。
言語化されているかどうかよりも、「これはおかしい」と感じることができるかどうか。
それが、物語を読む上で最も大切な能力だと僕は思います。
「両親が本を読む人で育った」ということも、羨ましい環境だなと思います。
きっと、僕らの中にある「違和感」は、そうした土壌があったからこそ、しっかりと根を張っていたんでしょう。
「ぐちゃぐちゃ」で全く構いません。
むしろ、その「ぐちゃぐちゃ」こそが、物語に対する本物の思いの証拠です。
これからも、一緒に「おかしいな」と感じ続けましょう。
そして、たまには「これはいいな」と感じられる作品にも出会えますように。
本当に、ありがとうございました。
「行間を読む」
こちらの作品がこのテーマへ収束した事に感服いたしました
主人公の演出の記号と化した物語、その全ての問題の根底に、行間の不在があったのですね
私は、「行間を読む」というのは、作品で書かれた世界を「存在する世界として捉える」事だと思っています
キャラクターの、書かれていない想いや表情を想像すること
場面として描写が終わった後で続く日常のこと
どう生きて、今の彼ら彼女らに辿り着いたのか
その上で、何を感じ、何を考えているか
その世界で生きる、普通の人々の生活に思いを馳せること
「作者が書いていないものは存在しない」としてしまえば、それらは見えてきません
なろう系に多い薄っぺらい物語には、この行間が無いのです
世界と他者の、不在
全て主人公の為の演出で、主人公なしには存在していないかのよう
極端な事を言えば、前世の主人公が死に際に見ている都合のいい夢としか読めないのです
世界とは、色々な人々が色々な生き方をして、様々な意見を持っているものです
それは、「1つの正解と沢山の間違い」があるものではありません。本当は、どれも正解ではない
「それぞれの意見を尊重する」時、相手の意見と同じくらい、自分の意見も尊重しなければいけません
「同じ問題に対して3つも4つも意見がある」「対立している意見でさえも並列して存在する事ができる」世界とはそれくらい、深くて広いものです
主人公と異なる意見を持つキャラクターがいる事は“悪”ではないし、主人公を“悪”や“間違い”にしてしまう事ではありません。他者が存在するという事です
少なくとも、1つの意見を正解と決めてしまえば、「異なる2つの意見がぶつかって、新しい意見が生まれる」事がなくなってしまいます
もしかしたら、作者も読者も「違う意見はどちらかが“悪”だ」と思っているから、そういう物語が流行ったのでしょうか?
ですが、漫画やアニメがヒットする度に溢れる考察を目にすると、何故?とも思うのです。「行間を読める物語」の需要はあるはずなのに…
そして、尾だけの猫様が推奨されている、現実を知る事、行間を作る事は、決して一方的に書き手に負担をかけることではないと、私は思います
例えば、主人公が水を飲む。そのワンシーンだけでも、「どうやって安全に飲める水を確保しているのか」という広がりがあります
井戸水であれば、汲んでくれた人がいる事、水脈を無視して大規模攻撃をする事の恐ろしさが生まれます
魔法で作り出しているとすれば、どこからか転移させているのではないか?それが地下水であった場合、いつか地下に空洞が生じて落盤が起きるのでは?
無から作り出しているのならば、世界の水の総量が多くなる事で、多湿化、雨量の増加など気候への影響は?
魔法で作り出した水が無に帰るとすれば、魔法には時間制限があることになる…等、都合よく起きる事件、主人公が乗り越えるべき障害が、自然なものとして生まれます
世界を記号、演出としてしか描かない小説は、こうした多くの物語を取りこぼしてきたと思います
そして最後に
一読者として、なろう系に物申したいことがあります
傍目には異性にモテモテで何でも出来て賞賛されての主人公
本人としてはモテている自覚もなく、普通の事をしているだけという感覚
ちっとも幸せそうに見えませんね。
少しは自覚とか実感持たせてあげないと可哀想では?
尾だけの猫様へのコメントになっていなくてすみません
最後まで長文失礼しました
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「行間」が、この連載のテーマへ収束したことに感服していただけたこと、とても嬉しいです。
確かに、自分がこれまで「薄っぺらい」「記号化されている」と感じていたものの、根底にあったのは「行間の不在」だったのだと、今はっきりしています。
「作者が書いていないものは存在しない」この言葉、胸に残りました。
世界と他者の不在。
全てが主人公のための演出で、主人公なしには存在していない。
極端なことを言えば「前世の主人公が死に際に見ている都合のいい夢」
本当にその通りだと思います。
なぜ気づかなかったのでしょう。
そして、水を飲む一シーンから井戸水、地下水、魔法の水、気候変動、落盤、時間制限まで広がるご指摘。
これがまさに「知っていて省略する」ことの力です。
知っているからこそ、書かなくても「行間」に世界が広がる。
知らなければ、書かないものはただの「空白」でしかない。
あなたのお話を読んで、「行間」がどうやって生まれるのか、初めて具体的にイメージできました。
本当に感謝しています。
「1つの正解と沢山の間違い」ではなく、「対立する意見が並列して存在できる」世界。
これは、自分が「敵を絶対悪にする」構造を批判しながら、実は自分の文章の中でも「正しい意見」と「間違った意見」を峻別しようとしていたのかもしれません。
他者が存在するということは、主人公を「悪」や「間違い」にすることではない。
そこに、ようやく「対話」があるんですね。
そして最後の、モテモテ主人公の話。
「ちっとも幸せそうに見えない」いや、本当にそうなんですよね。
「理想の俺」なのに、自覚も実感もなく、ただ「普通のことをしているだけ」という感覚。
それじゃあ、読者である私たちが「幸せになってほしい」と思えないし、本人だって幸せじゃない。
賞賛されても「え?」みたいな顔をしている。
少しは「俺、今幸せかもしれない」と気づいてほしい。
そうじゃないと、可哀想すぎます。
最終話に、こんなに温かくて鋭いコメントが届き、本当に良かったです。
ありがとうございました。
なろう系に物申す 宗教、政治編&おまけへの応援コメント
また長々と失礼します
今回のお話を読んで思ったのが、記号とゲームの関係です
ステータスウィンドウのお話でも触れられていましたが、記号化する/されている事物が、ゲームと共通する要素に多いようですね
ゲームについてまったく知らないので憶測になりますが、まずゲームを作る過程で、様々なものが「複雑さ」や「曖昧さ」を削ぎ落とされ、記号として抽出されたのではないでしょうか?(そうしないとプログラムできないから?)
それを小説に取り込む過程で、物語の要素として再構築する事なく、記号が記号のまま書かれた
それが一作品であれば面白いで済んだかもしれませんが、模倣され大量生産された事により、「葛藤」や「矛盾」といった割り切れないものが排除された小説が溢れてしまった…
そういう流れがあったのではと想像しました
もしそうだとすれば、そうした作品はゲームにあやかっているだけで、小説としての価値を付けられていません。ゲームとして作られる方が面白いのではないでしょうか?
気軽に、純粋に楽しめる物語は必要だと思います
ですが、その為に作品世界を記号として消費する物語は、結局一時の楽しみとして消費されるだけに終わるとも思います
買って1度読んだら捨てられる、或はWebで一読して終わりで、書籍として求められない作品になっていないか?
イラスト等の付加価値なしに「欲しい」と思われる作品を書けているか?
これは、作品自体の面白さやウケる事とは、まったく別の問題だと思います
少なくとも私は、読み返し、考えさせられる何かがなければ手元に置きたいとは思いません
それには、作品世界やキャラクターが生きている実感、書かれている以上の複雑さや広がりを感じられる事が必要だと思います
手触り、温もり、匂い…
形にならない生々しさを表現し得る「言葉」の世界で、生々しさを消した物語がもてはやされる
これもまた皮肉な話だと感じました
最後に、宗教についてですが
これは読み手書き手によって、正解の分かれる問題だと思います
私個人は、作中の宗教が「キリスト教っぽい違うもの」であっても気になりません
むしろ正確になぞられている方が、「異世界なのにキリストが生まれていたのか?」「2つの世界の歴史はどこまで同じでどこから分化するのか?」「聖人も聖女も“奇跡”を起こすのは飽くまでも“神”のはずだが、人間が魔法を使えるとか、魔力が強いとか弱いとか、教義に反していないのか?」等が気になります
その世界独自の宗教であれば、キリスト教の用語を使うべきではない…という意見もあるかと思いますが、正直、あまりオリジナルの名称を濫用されると、読み手としては誰がどこで何をしているのかイメージできなくなってしまいます
「教会」の一言で「西洋的な宗教施設」をイメージできる点、記号には記号の強さがあると思いました
勿論、キリスト教に造詣の深い方にとっては、いい加減に扱われるのは不愉快な事だと思います
中世ヨーロッパのある時代、ある国をモデルとして、きちんと書いてほしいという人もいると思います
飽くまで、そこに当てはまらない私個人としては気にならないというお話です
宗教や政治に関して私が気になるのは、作品内での矛盾です
既に尾だけの猫様が挙げられた「信仰の描写が全く無い聖職者」をはじめ、各家に祭壇も偶像も朝晩の礼拝もない世界観で何故か王家に比肩する資金力や支持者がいるらしい宗教。主人公が領主でありながら、自領の人口規模、貧富の差と割合、インフラの状況、他領との関係、そもそも領地改革を独断専行で行える権限が王家から与えられているのか等の、前提にしなければならない情報に無頓着な言動。
そのキャラクターであれば触れられるべき事が無視される、設定との根本的な矛盾があると、それは生きた世界ではなく、ご都合主義の舞台装置だなと感じてしまいます
余談ですが、生物学的なディテール(エルフの耳は何故尖っている、獣人が哺乳綱霊長目と食肉目との特徴を兼ね備える謎)の不可解も、私はそういうファンタジーとして受け入れられます
ただ、犬と猫でも子供はできないという現実を無視して「生殖行為をすれば子供ができる」という無理筋を押し通し、種族差の問題をゼロにして恋愛を展開されると、釈然としないものがありますね
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「ゲームを作る過程で複雑さや曖昧さが削ぎ落とされ、記号として抽出され、それを小説に取り込む際に再構築せず記号のまま書かれた」この構造の指摘、鳥肌が立ちました。
確かに、ゲームはプログラムとして動かすために「曖昧さ」を許容できません。
敵のHPは数値化され、感情はフラグ管理され、人間関係は選択肢の分岐に還元される。
それを小説にそのまま持ち込んだ結果、「葛藤」や「矛盾」といった割り切れないものが排除され、大量生産された。
これは「ゲームにあやかっているだけで、小説としての価値がない」まさにその通りだと思います。
ゲームとして作る方が面白い、という指摘は痛いほど鋭いです。
「買って一度読んだら捨てられる」「Webで一読して終わり」この消費の速さは、まさに「記号として消費された」証左です。
イラストや装丁の付加価値なしに「手元に置きたい」と思われる作品を書けているか。
自分も、そこまで到達できているか、今、強く問われています。
「手触り、温もり、匂い……形にならない生々しさ」言葉の世界だからこそ表現できる「生々しさ」を、わざわざ消して「記号」にしている。
これは確かに皮肉です。
宗教についてのご意見も、とても参考になります。
「記号には記号の強さがある」教会という言葉が一瞬で西洋的な宗教施設を喚起する機能は、創作において無視できない効率です。
それを否定するつもりはありません。
ただ、問題は「矛盾」ですよね。
信仰の描写がない聖職者、資金力があるのに前提がない宗教、独断専行で改革できる領主そうした「設定と実際の乖離」が世界観を「生きた世界」から「ご都合主義の舞台装置」に変えてしまう。
自分も同じ違和感を持っていましたが、ささがに様の言葉で「矛盾」として整理できました。
そして最後の「犬と猫が子供を作れない現実を無視して生殖を押し通す」これは、種族差別の問題と生物学的リアリティの問題が、見事に交差した指摘です。
ファンタジーだから何でもあり、と言いながら、恋愛の核心部分だけは現実の生物学的制約を無視して都合よく解決する。
そこに「釈然としないもの」を感じるのは、世界観の「整合性」への信頼が崩れるからなのでしょう。
ゲーム的記号化の構造、書籍としての価値、宗教の矛盾、生物学的リアリティ。
どれも自分の見落としていた視点です。
本当に、ありがとうございました。
今後へと活かすために、絶対に忘れません。
なろう系に物申す 作者と読者の理念編への応援コメント
私のところに来たことはないけど厄介読者もいるそうです。客観的に作品のクオリティを上げてくれる弱点分析などは私も歓迎です。最近はAIがそういう役割もしてくれますし、建設的な批判と単なる難癖は分けて考えたいところです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
自分の方にはありがたい読者さまも居てくれて助かっていますが、荒らしコメントとかも来ている方々もいるそうです。
やはり、建設的な批判と難癖だったり荒らしだったりの区別はきちんとしないといけないですよね。
編集済
おまけ 戦争犯罪について。2への応援コメント
大変、大変、勉強になりました。
戦争における、性犯罪。私はまさに、欲望の処理だけだと思っておりました……
ですが、裏にはとんでもなく残酷な目的が隠れていたのですね……
そうしますと、
捕虜となった敵国のヒロインが、なぜか服も汚されず、傷一つなく牢屋に座っており、主人公が助けに来るのを健気に待っている。
という描写は、
敵国の兵たちは揃いも揃って実はとんでもなく実は優しい人たちで、人を傷つける勇気もないか、
揃いも揃って性欲がないか、下半身が使い物にならないか。
揃いも揃って、被害者の人間性を奪う意図的な戦術すら知らないただのタイミー兵士ですかね。
なるほど、理想の俺!!を語る舞台としてはいささか滑稽な舞台になりますね。
ふむふむ。
尾だけの猫様の知識を全部踏まえたうえで、その現実をしっかり表現したうえで、俺つえぇチート書いたら、面白いコメディになりそうです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「揃いも揃って下半身が使い物にならないか」
いや、噴き出しました。
そう、まさにその通りです。
なろう系の敵兵は、戦争犯罪の「戦略的意図」も知らなければ、人間としての「欲望」も持ち合わせていない、便利な「タイミー兵士」に矮小化されています。
被害者の「人間性を奪う」どころか、加害者側の「人間性」すら奪われている。
結果として「理想の俺!!」のためだけに存在する、まさに滑稽な舞台装置になっているんですよね。
「知識を全部踏まえたうえで、現実をしっかり表現したうえで、俺つえぇチート書いたら面白いコメディになりそう」
これ、最高に面白い発想だと思います。
「知っているからこそ」できるユーモア、あるいは「知っているからこそ」生まれるパロディ。ピカソが写実を完璧にマスターしてからキュビスムに行ったように、「重力」を知った上での「無重力」こそが、本当の意味で自由な創作なのかもしれません。
自分も、今の小説が完結したらいつかファンタジー小説も書きたいなと思っていたりするので、検討しておきます。
「欲望の処理だけだと思っていた」という率直な感想も、とても嬉しいです。
知ることで、物語の見え方が変わる。
そしてその「知識」が、次の創作の土壌になる。
そう思えるコメントをいただけて、本当に励みになります。
また、遠慮なくコメントしてください。
読者の皆様と考える場所にできたら嬉しいです。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
めちゃくちゃ同意です。「主人公がいいことしました、トラウマ解消!」で済むほど現実は甘くないんですよね。ファンタジーだからこそ、そこを容赦なく突いてほしいです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
いやはや、その通りですよね。
いくらWEB小説だとしても、トラウマや恐怖などそういったものが主人公のおかげで手軽に解消されるのは見ていて違和感を感じてしまうんです。
そして、ファンタジーだからこそそう言った現実性を見せてほしい。
この言葉、とても共感しました。
現代や現実世界を基にした小説ではありえない魔物や強大な敵など、ファンタジーでしか味わえない要素があるのに…となって、いわゆる宝の持ち腐れと感じてしまいます。
いや、本当にもったいないと思います。
兎にも角にも、コメントありがとうございました。
これもからもよろしくお願いします。
編集済
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
「獣人は見た目が獣に近く、野蛮だから」
「昔からそういう決まりだから」
この様な安易な考え方はまさに、現実に置き換えると恐ろしい事になりますね。
「あいつ、周りと違うから虐める」
と、全く同じ考えではありませんか。
タイパ重視ですぐ結果を求める読者様は、その裏に隠された差別の事情を考えないでしょうし(というか、お話にそんな事実、隠してすらない。存在すらしていないと思いますが……)
これが普通に流行る世の中は、先入観だけで差別をするのが当たり前な考え方になりませんでしょうか。
あまりにも未来が不安です。
若者のコミュニケーション能力が低すぎる昨今、これが原因だったりするかもしれない。
私はそんな気すらしますね。
透明なステータスウィンドウがビヨーンと出た瞬間、もうげんなりです。
対峙した瞬間の威圧感、長年の戦闘勘、泥臭いフェイント、当日の体調、精神力、天候、地形、心理戦、武具の整備の有無、運
この様な人を作り上げる素晴らしい経験と力が、一個の数値に集約される……
ゾッとしますね。
これが、会社の評価シートなら、辞表叩きつけるレベルです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
いやはや、全くの同感であります。
大半のこのエッセイで言う「なろう系」を書く作者様や、読者様はそんな設定を気にせずに過ごしてしまうと思います。
また、先入観だけで差別をするのが当たり前な考え方が普通の未来…これはとても恐るべき推測だと感じました。
私としては、そうならないことを祈ります。
そして若者のコミュニケーション能力が低すぎる昨今はその事が原因だったりするかもしれないとの指摘も、共感いたしました。
私自身、恥ずかしながら確かにコミュ力が無かった時代はそんな物語が好きだった経験があり、これはもしかすると…!
と、感じてしまいました。
そして言ってくださった通り、対峙した瞬間の威圧感、長年の戦闘勘、泥臭いフェイント………の要素が全て数値で吹き飛ばせる。
そんな物語や戦いは本当にゲンナリします。
例えばですが、サッカーワールドカップがランキングと今年の勝率を鑑みて、一瞬で優勝が決まってしまったら、それはもうスポーツとか、戦いとは言えないと思います。
最後に、あまり関係ありませんが…「ビヨーン」という表現には、迂闊ながら笑ってしまいました。
兎にも角にも、コメントありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
おまけ 戦争犯罪について。への応援コメント
兵器や人の意思、意識をテーマに、書いてる豚です(*´ω`*)
当時、原爆、都市への無差別爆撃、商船の無制限撃沈は、アメリカにとっては戦争終結への「ただの工程の一つ」であるくらい、国力が隔絶していました。
そこには「民間人の犠牲」の考慮はなく、兵站を徹底的に弱体化させ、心を折るという観点で行われました。
しかし、「女子供も含め、日本国民を殲滅しようとしている」と捉えた者が多く、徹底抗戦に舵を切られ1億総特攻へと進んでいきます。
1億特攻すれば、100万人くらいの米兵を倒せた、みたいな計算をしていたかもしれません。
東京大空襲、沖縄戦で「殲滅戦は、無限に敵を生産する」ということをアメリカは学んだはずですが、
原爆投下を、政治が求めました。
(※このアメリカの正義はどうしても、受け入れがたい)
歴史IFとしては8月天皇の介入で降伏しなければ
米軍は九十九里浜に上陸して、千葉、東京と、稀に突撃してくる民衆が混じるため、女子供も軍属便衣兵として扱われ、防空壕に隠れる民間人を火炎放射器で焼き払いながら、天皇の御所まで侵攻、樺太・北海道にソ連が上陸し、占領して分割統治。
朝鮮半島や、ドイツのように、東西分断日本、という世界もあり得たかもしれませんね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「ただの工程の一つ」この言葉、冷たくて重いですね。
原爆も都市爆撃も、対人間の殺戮も、米軍にとっては「終結へのプロセス」でしかなく、そこに「民間人の命」という倫理は介在していなかった。
国力の隔絶が、人間の命を「数字」に変換した。
そして、その「数字」は帳尻を合わせるためのただの変数でしかなかった。
そして、日本側が「女子供も殲滅しようとしている」と捉えて徹底抗戦へ舵を切ったこと。
これは「被害者意識」が「自滅」に繋がった、恐ろしい構造です。
敵に「悪意」を仮定し、その悪意に応える形で自らも狂気に走る。
なろう系の「絶対悪」の構造と、歴史の現実が、ここでも重なります。
「殲滅戦は無限に敵を生産する」を沖縄で学んだはずなのに、原爆投下を政治が求めたこの矛盾。
戦争の論理は、学習しないどころか、エスカレートするしかない機構なのかもしれません。
戦争を「終わらせるため」なら、どんな手段も正当化される。
そしてその「正当化」こそが、次の地獄への入り口になる。
歴史IFの話、鳥肌が立ちました。
天皇の介入がなければ、九十九里浜への上陸、火炎放射器による民間人の焼き払い、ソ連の北海道占領、東西分断。
原爆で犠牲になった人々の命は決して「軽い」ものではないけれど、本土決戦が起きていれば、もっと多くの「女子供」が、もっと凄惨な形で死んでいたのだとしたら——この倫理的なジレンマは、どうやって受け止めればいいのでしょうか。
「アメリカの正義はどうしても受け入れがたい」この言葉、強く共感します。
受け入れがたい。
けれど、同時に「本土決戦を避けられた」という事実も、無視できない。
歴史は「正義」と「悪」では割り切れない。
そしてその「割り切れなさ」こそが、私たちが語り続けなければならない「重み」なのだと、改めて感じました。
兵器と人の意識をテーマに書かれているとのこと、本当に貴重な視点をありがとうございました。
いつか、先程のifを題材にして物語を書いてみたいものです。
なろう系に物申す 戦闘、戦争描写編への応援コメント
私も人のことは言えませんが……
戦争の「せ」の字も知らない世代は、もはや戦争の本当の悲劇を知ることもなく、想像力も皆無でありますからね……
裸足のゲンや、火垂るの墓も知らなかったりするのでは……?
昨今、描写される戦争は、理想の俺!!を引きたたせるための道具でしかないのです。
90代のお年寄りに、あえてファンタジーを書いてもらったら、チートでも、なろうでも、もしかしたら面白いかもしれません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
理想の俺!!を引きたたせるための道具でしかないとの指摘、とても共感いたしました。
本当に、戦争と言う重い要素を主人公の活躍とかかっこいい事を表す舞台としか考えられない作者様もいますからね…。
また、90代の方にファンタジーを書いてもらうと言うアイデア、普通に面白そうですね。
あの戦争を知っていて、なおかつ戦後を生き抜いた人達なのですから、今の私たちとは経験や思考が全く違うレベルにあるとも思います。
兎にも角にも、コメントありがとうございました、これからもよろしくお願いします。
おまけ 戦争と正義"語られない敗者側の視点"への応援コメント
勝者が創る「歴史」と語られない敗者の視点。とても重い話だと思いました
これは第二次世界大戦に限った事ではなく、普遍的に続いている問題です
日本の土蜘蛛や鬼と呼ばれた人々の事、殷の紂王や隋の煬帝の苛烈な悪事が創作であった説、常に野蛮の汚名を着せられる先住民…
勝者の、欲も野心も悪意も漂白され、血を流した事の「悪」は、全て敗者に被せられる構図
ただ1つ付け加えさせていただくなら、勝敗がつく前の、戦時中、戦前において、これらは「お互い様」と言える事です
「鬼畜米英」を繰り返し、敵性語として野球のアウトやセーフの言葉すらも狩られ、勇ましい戦争画があふれ、戦果に…敵国とはいえ人が死んだ事に歓呼の声を上げた時代がありました
憲兵、臨時取締法、「日本は勝てない」の一言が違法で犯罪であった検閲。その言論統制は、皮肉にもGHQのプレスコードとよく似ています
アメリカに対して牙を剥くための規制と、アメリカに対する牙を抜くための規制。目的こそ逆ですが、同じシステムであったと言ってもいいくらいに
敵同士の語る相反する「正義」の中で、勝者の語る「正義」だけが「正史」として記される
きっと、それだけの事なのだと思います
ですが、敗者が生き残り、それを語り継ぐならば、敗者の歴史もまた消える事はありません
民衆の間に残る「残虐な歴史上の悪党」の、「優しく誠実なお人柄」の言い伝え。それらが後世に拾い上げられ、歴史の見直しを迫られる事もあります
残念ながら、勝者にとっての不都合な真実を、敗者自ら握り潰そうとする事もまたありますが
私がなろう系の勧善懲悪に感じる薄っぺらさと気持ち悪さは、この「勝者の創る捻じ曲げられた歴史」が、そのまま「真実の歴史」であり、敗者が実際にクズで悪である様が「事実」として描かれるからなのかもしれません
敗者の視点を考察する余地や匂わせがない、主人公が絶対的な正義である物語は恐ろしい
勿論、正義が悪を倒す物語にはカタルシスがあります。理不尽な現実の中、物語でくらいは…という思いには頷けます
ただ、それが現実で「悪」と指差された者の視点に立つ想像力を奪ってはいないか?という疑問は、常に持っていていたい
何故、プロパガンダにおいて文学や芸術が利用され易いのか
創作が持つ影響力を、甘く見ないでほしいと思います
そして、余計なコメントかもしれませんが、言わせてください
今回のお話、ちょっと辛かったです
「愛する祖国や家族を守る為に戦った」という表現。私はどうしても、「そんな時代じゃなかった」と思ってしまいます
近頃の戦時中のドラマで、ヒューマニズムを振りかざし、涙する人々を見た時もそう
あさのあつこの「ぼくがきみを殺すまで」で描かれた学校や柳広司の「ジョーカー・ゲーム」で描かれる帝国軍人の姿にリアルを感じる人間にとって、どうしても綺麗事に見えてしまう
陸海空軍の主導権争い、民衆の財産を奪った供出、母が子を「お国の為に死んでこい」と送り出し、20歳までに死ぬ事が誇らしくまっとうな日本男児の生き方だと信じていた人間が、少なくとも1人はいた事
それらが漂白されてしまったように感じられて、辛かった
ただここで本当にお伝えしたいのは、その上で、「それでもこの表現は必要であった」と、私が感じた事です
尾だけの猫様が何度も掲げられた、この話の目的
戦争を、それを起こす心理を、自分の問題として捉えること
教師や親が絶対であった時代、天皇が現人神とされていた信仰心は、もはや遠い。これが真実だと並べ立てても、「頭のおかしい連中がやった、自分には関係のない事」として片付けられてしまうでしょう
それでは語る意味がない
若い世代の方が、どう身近な問題として捉え、考えていかれるのか
これは、安易に口を出せる事ではないと思いました
何より、「家族を守る為に戦う事」が、敵から見れば「侵略」であったり、「卑劣な攻撃」であったりした事実が明示されている点、単なる正当化や漂白とは言えません
欲を言えば、そこで真珠湾攻撃が卑劣と言われる理由(開戦前交渉中の奇襲であった事、多くの民間人を巻き込んだ事)、それ故に連合軍の特にアメリカが、自国民を守る為に、日本を害悪として苛烈な攻撃を加えてきた経緯も書いてほしかったところですが…
同じ想い、同じ動機で行われた、同じ「卑劣」でも、敗者は裁かれ、勝者は裁かれない
これは確かに理不尽ですが、敵から見れば自分達の「正義」は「悪」でしかなかったとも言えます
だからこそ、正義を理由に人を傷付ける事はためらわれなければならない
大義の為に戦う事は美しいけれど、その為に踏み潰される民衆がいる
それが本当は守ろうとしたはずの者である事の恐ろしさを、忘れないでほしい
正義や大義名分を掲げられた時、いかにして立ち止まるか
自身が脅かされた時に、いかに思考停止に陥らず、他者への想像力を持ち続けるか
長く平和が続いた事で、考える事がかえって難しくなっているのかもしれません
それに対してどういう表現を選んでほしいとは、私からは言えません
ただ、問題を身近に引きつけ、自分の身にも起こり得る事として捉える試みは、十分に意義のある事だと思いました
また延々と長文ですみません
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
「愛する祖国や家族を守るために戦った」という表現に、違和感を覚えたとのこと。
まさにその通りだと、今、強く反省しています。
当時の日本には、確かに「家族を守る」という純粋な動機で戦った人々がいたことは事実です。
しかし、それだけではなかった。
陸海軍の醜い主導権争い、民衆からの強制的な供出、「お国のために死んでこい」と子を送り出す母親の姿、二十歳までに死ぬことが誇らしいと信じさせられた若者たち——そうした「醜さ」や「狂気」を、私は「漂白」してしまっていたのだと思います。
「ヒューマニズムを振りかざした戦時中ドラマ」に感じる違和感と同じものを、私自身が書いていた。
綺麗事にしたくなかったのに、結果として「家族を守る正当な戦争」という、片側だけの物語を語ってしまっていた。
そして、真珠湾攻撃が「卑劣」と言われる理由——開戦前交渉中の奇襲であり、多くの民間人を巻き込んだことを説明しなかったことも、指摘の通りです。
「同じ想い、同じ動機で行われた『卑劣』でも、敗者は裁かれ、勝者は裁かれない」という理不尽を語るためには、まず「何が『卑劣』とされたのか」をきちんと示すべきでした。自分の論理の不備を、恥ずかしく思います。
しかし、そんな厳しい指摘の中で、「それでもこの表現は必要であった」と感じてくださったこと、本当に救われます。
「頭のおかしい連中がやった、自分には関係のないこと」として片付けられてしまえば、語る意味がない。
若い世代にとって身近な問題として捉え、自分の身にも起こりうることとして考えてほしい——その試みを、意義あるものとして受け止めてくださったこと、深く感謝しています。
「正義や大義名分を掲げられた時、いかにして立ち止まるか」「長い平和が続いたことで、考えることがかえって難しくなっている」
この言葉、強く胸に刻みました。
私はまだ未熟で、歴史の重みを正しく背負えていない。
でも、だからこそ、指摘を受け止め、次につなげていこう思います。
長文の、そして重いご指摘、本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
人種差別について率直に申し上げますと、なろう系の人種というのはかなりあやふやなのではないかなと思われます。
なろう系の人種は作者の知識量によって決まるので、獣人いません、ドワーフいません、エルフいませんとなるものだったり、いや、私の作品にはダークエルフやどれそれの人種を出していると言った様に、そんな似たり寄ったりな作品が多かったりと多岐に渡ります。
けれどもそこから何故そういった様々な種族などが差別されるのか。
そこについては恐らく作者自身が『それが流行だから』というマインドでいるからだと思います。
どこまでやったとしても身体の作りが違うからそれら種族は人々から恐怖され、蔑まれ、差別されるのだという論理が、多くの作者にあるのだと思います。
一体学校で習ったホロコーストの恐ろしさはどこへやら、そう思わざるを得ません。
なろうの作品である『オルクセン王国史』という作品では、この獣人差別、種族差別に真正面から向き合っており、人間の恐ろしさについても分かりやすく描かれているので、なろうで差別を描くのなら、是非とも参考にして欲しいものです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「なろう系の人種は作者の知識量によって決まる」まさにその通りだと思います。
自分も「獣人が差別されている」と書きながら、実際には「人種」が何であるかをちゃんと定義していませんでした。
あやふやなまま「差別」という言葉を使っていた。
それは、まさに指摘してくださった「流行だから」というマインドそのものだったのかもしれません。
「身体の作りが違うから差別される」この論理、本当に安直ですよね。
現実の差別が、ただ「見た目が違うから」ではなく、経済的・政治的・歴史的な「構造」として作られてきたことを、自分は語りながらも、結局「見た目の違い」に還元してしまっていた。
学校で習ったホロコーストの恐ろしさを、自分自身が「知識」としてしか持っていなかったのだと、強く反省します。
『オルクセン王国史』ぜひ読ませていただきます。
なろう系の中にも、種族差別に真正面から向き合い、「人間の恐ろしさ」を描き切っている作品がある。
その事実を知れて良かったです。
貴重な推薦とご指摘、本当にありがとうございました。
なろう系に物申す 戦闘、戦争描写編への応援コメント
戦争、大まかな話としましては、何故転生した日本人の若者が、異世界で日本国憲法かなぐり捨てて戦っているのか。こちらをこの話の本筋として感想を書きますが。
まず、なろうの主人公が戦争賛美をするというのは恐らく戦争を行う動機が勧善懲悪の延長では無いかなと思います。
あれが悪いこれが悪いと言って敵をチートで倒し、良かったと言ってはしゃいだりするのはなろう系の定番と言えば定番ですが、寧ろそこで更に読者である私は嫌悪感を覚えてしまう。
そんな経験を何度もしたことがあります。
戦争を安易に扱い過ぎている
成程、確かにそこもあるでしょう。
けれども根底的な問題として一歩深く踏み込むのなら、若い、若しくはなろう系で戦争を賛美する主人公やキャラクターに賛同してしまうのは、作品を書いている作者や作品を読む読者自身の戦争への忌避感が無い。
もっと分かりやすく言い換えるなら、戦争を知らないため、またはそれに準ずる記憶を持っていないため、戦争を悪だと思わない人々が増えたためではないかなと思います。
戦後直ぐでは、戦争反対と叫び、戦争にNOと突きつけた平和を愛する人々がいただろうと思います。けれど昨今、何かと過激な発言が見られるものが世の中に溢れました。
なろうの状況も、それに似たものなのではないかなと、思わずにはいられません。
けれども、なろうでも『幼女戦記』などの作品は群を抜いて戦争の描写をより生々しく描いた作品があるので、一概になろう全てが悪いとは個人的に言い難いです。
私は特定の作品を断罪したいわけではありません。ただ、戦争という重い題材を扱うからこそ、作り手にはせめて最低限のリアリティと、歴史への敬意を持ってもらいたいですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「戦争賛美が勧善懲悪の延長にある」この分析、まさに核心だと思います。
自分は「戦争を安易に扱っている」と書きましたが、実際には「あれが悪いから倒す」というなろう系の最も基本的な構造が、そのまま「国を相手にした大規模な暴力」にスケールアップしているだけなのかもしれません。
敵キャラを「絶対悪」にする論理が、そのまま敵国を「絶対悪」にする論理になっている。
そして、「戦争への忌避感がない」つまり「戦争を知らない、あるいはそれに準ずる記憶を持っていない」から、戦争を悪だと思えない。
これは、自分が「元日本人であるはずの主人公が平和主義を投げ捨てる」ことに違和感を覚えた根底でもありました。
義務教育で「戦争は悪」と教わっても、それが「知識」であって「体感」ではない世代にとって、戦争は「悪」ではなく「ただの対決イベント」に矮小化されてしまう。
「戦後直ぐは戦争反対と叫んだ人々がいたが、昨今は過激な発言が溢れている」この流れを、なろう系の戦争描写と重ねて考えること。
自分にはできていなかった視点です。
歴史の記憶が風化するのと同じように、物語における「戦争の重み」も風化している。そしてそれは、作者と読者の双方の「記憶の欠如」から来ているのだと、強く感じました。
『幼女戦記』の言及も、ありがとうございます。
確かに、あの作品は「戦争の生々しさ」を描き切っていて、なろう系の中にも「例外」が存在することの証左です。
自分が「なろう系では」と一般化してしまっていたことへの、また一つの戒めとなります。
「作り手には最低限のリアリティと、歴史への敬意を」この言葉、自分の胸に深く刻みます。
自分もまだ未熟ですが、これから物語を紡ぐ上で、この二つを決して忘れないようにしたいと思います。
貴重なご指摘、本当にありがとうございました。
なろう系に物申す キャラクター編への応援コメント
主人公、ヒロイン、ライバル、敵
それらキャラクターとしての造形が終わっているのは、恐らく作者自身の投影の様な何かがあるのではないかと思います。
キャラクターとはつまり作者自身の手で書き上げ、作者自身の手で作り上げる物語の代弁者です。
そこの造形が終わっているのは、恐らく読者のこういうのが見たい、またはこういうのが書きたい、が原点になっているので、仕方の無い話だなと思いつつも、もう少し工夫を凝らすべきなのでは無いかと思っております。
突貫工事で作った主人公、どこか手製フィギュアみたいなヒロイン、ライバルとは何かを考えてしまうライバル、圧倒的に同情の余地の無い悪役。
当然嫌う人間も出ますし、インスタントな爽快さ、ドーパミングに惹かれた人間からは共感を呼んでしまう。これがなろう系が嫌われているのに廃れない原因の一つでは無いかなとの結論とともに、コメントしておきます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「作者自身の投影のような何かがあるのではないか」
この指摘、まさに核心だと思います。
よく言われるように、キャラクターは作者以上の知識を持てず、作者以上の人間性を持てない。
だからこそ、作者が「こういうのが書きたい」「こういうのが読まれる」と欲望のまま突貫工事をすれば、キャラクターは「人間」ではなく「作者の願望の人形」になってしまう。
自分が「薄っぺらい」と感じていたのは、まさにその「人形感」だったのだと、今はっきりします。
「突貫工事で作った主人公」「手製フィギュアみたいなヒロイン」
この比喩も痛快でした。
フィギュアは見た目は整っていても、中身が空洞で、自分の意思で動かない。まさに、読者の「見たいもの」に応じて、作者が都合よく動かしているだけのキャラクターは、そういう存在なのかもしれません。
そして、「ライバルとは何かを考えてしまうライバル」これは本当にその通りです。
自分は「ライバルが小物化している」と書きましたが、それは作者自身が「ライバルとは何か」を経験したことがない、あるいは考えたことがないから描けないのでしょう。
キャラクターは、作者が「考えていないこと」については、永遠に黙ってしまいます。
「インスタントな爽快さに惹かれる人間からは共感を呼び、嫌う人間も出る」この構造は、まさに「多様性」という言葉で丸めてしまうには、あまりにも惜しい問題です。
自分は「好きな人がいるならそれでいい」と言いながら、実は「それでいいのか」と思っていた。
でも、それを「悲しい」とだけ言って終わらせるのは、まだ作者側の逃げなのかもしれません。
「もう少し工夫を凝らすべき」この言葉、自分の胸に深く突き刺さりました。
キャラクター造形に「工夫」を凝らすことは、決して「難しいことをする」ことではなくて、ただ「人間を人間として観察し続ける」ことなのだと思います。
貴重なご指摘、本当にありがとうございました。
編集済
なろう系について物申すへの応援コメント
分かり味が深すぎます……
なので、ものすんごい人気の、ソードアートなんちゃらが大嫌いでした。
今の子たちは、今の自分にあまりにも自信がなくて、さっさと自分の理想の世界に生まれ変わりたい欲が強いのかなと思いましたね。
また、そういった小説を読むと理想の俺!を明らかに反映させた作品もあって、痛々しくて読めませんでした……
ですが、海外に売れてしまうから仕方がないんですよね……実際のアニメ業界も、昨今の流行りにうんざりしつつも、手放せないのが現実だとか。
あと10年はこの流行り続くらしいですよ……
一方で鬼滅の刃のような泥臭い努力ものも流行っておりますし、一応、まだ捨てたもんじゃないのかな、なんて思ったり。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「わかり味が深すぎる」
そう言っていただけて、少し救われた気がします。
「ソードアートなんちゃら」については、あえて名は伏せますが(笑)、確かに「自分の理想の世界に生まれ変わりたい」という欲求が、あまりにもストレートに反映された作品には、自分も同じような違和感を覚えます。
「理想の俺!」を投影させた主人公は、読んでいて痛々しくて、どうにも応援しきれない。
それは「キャラクターが薄い」というより、むしろ「キャラクターが『鏡』すぎて、人間としての揺らぎがない」からなのかもしれません。
「今の子たちは自分に自信がなくて、生まれ変わりたい欲が強い」という分析、鋭いと思います。
自分も、なろう系の「転生」ブームの根底には、現実世界での「自己肯定感の欠如」があるのではないかと感じていました。
現実で努力しても報われない、あるいは努力する前から「無理だ」と諦めている。
そんな時代だからこそ、「別の人生のチケット」が売れる。
それは決して若者を責める話ではなくて、社会全体の空気の問題なのだと思います。
「海外に売れてしまうから仕方がない」「あと10年は続く」
これは、創作者としても読者としても、重たい現実です。
アニメ業界が「流行りにうんざりしつつも手放せない」という構造は、まさに自分が批判していた「パッケージの再生産」そのものです。
商業が「安全圏」を選ぶのは当然で、それを責めるつもりはありません。
ただ、だからこそ、「流行りに乗らないもの」を支える土壌が、もっと必要なのだと思います。
コメントありがとうございました。
なろう系について物申すへの応援コメント
なろうに対して非常に機知に富んだ素晴らしい評論。と、私は両手を挙げて賛同したいです。
私としては、なろう系に対して一種の時代背景による創作文化のあり様では無いかと解釈していましたが、何か違うと思っておりました。
以前は広く世間を見渡せば、なろう系の作家だ囲めや囲めと持て囃されていた時期もありましたでしょう。
個人的にその時期の作家は今のなろうの顔であると言える様な作品を書き上げておりましたので、そういう自由に物が書ける時代が来たのではないか。と思っておりましたが、どうにも近年なろう系と聞くだけで悪評を思い浮かべる様になりました。
どうにも何かがおかしいなと思っておりました。
ツーバイフォー形式、ベルトコンベアー形式でチート、登場人物、出来事を組み上げて量産される作品群に、どこか蕁麻疹の様な痒みを覚えた次第です。
『努力と結果の関係を書いてほしい』
どうにも背中の痒みがとれたような心地です。
語彙力が少なく、文章力がそこまで無いので、どうにも他方から誤解を招きますが、私も筆者と同じくなろうを完全に否定する積りはございません。
寧ろその上で、新しい文学性の土壌となって欲しいと、私は思っております。
なろうとは何かについて考察された一つの鋭い考察でしたので、ここにコメントさせていただきます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「ツーバイフォー形式、ベルトコンベアー形式」
この表現、まさにその通りだと思います。
自分の中でうまく言語化できなかった「量産感」を、鮮やかに突いてくださった気がします。
「なろう系の作家が囲めや囲めと持て囃されていた時期」があったことも、確かにそうでした。
初期の『魔法科』や『ログ・ホライズン』などには、今読んでも「この人はこの世界を生きて書いている」と感じさせる何かが少しはありました。
それが、いつの間にか「型」を量産する「土壌」から「工場」に変わってしまった。そこに違和感を覚えていたのだと思います。
「背中の痒みがとれた」
そう言っていただけたこと、とても嬉しいです。
自分も同じ痒みを抱えながら、ただの「なろう批判」ではなく、このジャンルが「新しい文学性の土壌」になってほしいという期待から、この連載を書き続けてきました。
語彙力の有無は関係ありません。
あなたの「蕁麻疹のような痒み」という言葉は、十分に伝わりました。
そして、その痒みを共感してくださったこと、本当に励みになります。
ありがとうございました。
なろう系について物申すへの応援コメント
つまりは中身の物語の厚みがなく、登場人物は記号で、結局設定の焼き増しだから、そもそものガワを嫌いになってしまった、ということですかね?
推測ですが、筆者様は物語を通して人間、もしくは作者の熱を感じたいんじゃないかな、と。
登場人物に努力して生きてきた自分とうまく重ねることができないというのもありそうです。
難しいですね。
記号じゃない人間を書くのは、どれだけ作者がその世界を愛しているかにかかってきそうです。
インターネットの画面の奥に人間がいることを思い出すことが難しいように、画面の奥に生きている登場人物がいることを自覚するのは、とても難しいことなんでしょうね、と思いました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「ガワの中に人間がいない」
まさにその通りです。
自分が「気持ちが悪い」と感じていたのは、実は「ガワ」そのものへの嫌悪ではなくって、「誰かがこの物語を生きて書いている証拠が見えない」ことへの喪失感だったのだと思います。
「記号じゃない人間を書くのは、どれだけ作者がその世界を愛しているかにかかってきそうです」
この言葉、核心を突かれました。
自分は「努力を描け」「現実を知れ」と言ってきましたが、肝心の「愛」について語っていませんでした。
知識や正確さを要求しながら、その世界を「愛せずに」批判していたのかもしれません。
「画面の奥に生きている登場人物がいることを自覚するのは難しい」
まさにその通りです。自分も、画面の向こうにいる読者や作者の「人間性」を見失いかけていました。
この連載で一番学んだのは、厳しい言葉を並べるだけでは愛には届かない、ということです。知っていて、愛していて、だからこそ省略できる。
そこにたどり着きたいです。
貴重な洞察、本当にありがとうございました。
おまけ なろう系の歴史。への応援コメント
一人の若者の情熱と努力から創られたシステムで、努力が存在しないチート無双がもてはやされているというのは、なんとも皮肉というか…
結局は、そういう物語を求める読者が多かったという事なのでしょうか
テーマへの感想から逸れた連想で申し訳ないのですが、領地改革系のお話に、こうしたパイオニアの苦労が欠落していた事が思い出されました
差別についてのお話への感想でも少し触れましたが、主人公の前世の知識から生まれた、その世界にとっては全く馴染みのないものが、反発も嫌悪もなく受け入れられ、賞賛され、もてはやされる
この不自然が、どうにも気持ち悪いのです
ファッション、音楽、絵画や小説といった創作。マンガやアニメでもそうですが、新しい文化を世に出そうとした時、先駆者たちがどれほどの苦労を強いられた事か
勿論、そんなシーンを延々と書かれても苦痛、フィクションでくらい上手くいってほしいという意見があったのでしょう
ですがその結果生まれているのは、「頭も悪く能力もなく文明が遅れている異世界の人間たちは、主人公に従うのが当然」という、歪な構図です
主人公が領地を興すとき、新たな商売を興すとき、蹴落とされる者達がいる。その人々にも生活があるという視点はありません
蹴落とされる側が描かれる事があっても、敵として現れ、欲張りな領主や商人が犯罪者として散々悪行をした挙句に、裁かれるだけ
主人公は正しくきれいなまま
主力産業が突然に粗悪品として追い遣られて困窮する、生産者の姿はありません
都合が悪いのはわかります。せっかく主人公が活躍している場面で、その為に泣く人を書いたら、主人公が悪者になってしまう
ただ、主人公に都合がいいだけの世界は、異世界を生きる人々に対して、とても残酷で辛辣です
読んでいる人、書いている人は、現実で負けた事も蹴落とされた事も、1度もないのでしょうか?
蹴落とされる側に感情移入するのはおかしいでしょうか?
彼らがクズでカスとして描かれ、ゴミとして処理される結末が、楽しいでしょうか?
主人公が「普通の人々」に受け入れられる為に苦労する姿も書いてほしいと望むのは、意地悪でしょうか
優しい世界というのなら、もう少し主人公以外にも優しくあってほしいと思うのですが…
なんだかなろう系の歴史というテーマから外れた事ばかり書いてしまってすみません
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「努力のパラドックス」
まさにその通りだと思います。
梅崎さんがプログラミング未経験から独学でシステムを作り上げた情熱と、そこで生まれたプラットフォームで「努力なしに無双する物語」がもてはやされている。
これは皮肉というより、構造の逆説ですよね。
でも、言う通り「そういう物語を求める読者が多かった」からこそ、市場はそちらに傾いていった。
需要と供給の螺旋です。
創業者の努力が、努力を不要にする消費の土壌を育ててしまった。
歴史って、こういう皮肉を含んでいるんですね。
「蹴落とされる者」の不在
そして、領地改革系の話で「パイオニアの苦労が欠落していた」ことに気づかれた点、これは本当に核心です。
新しい商売、新しい技術、新しい制度。
それを持ち込むことは、必ず既存の秩序を破壊します。
ファッションも音楽も、そして領地改革も、先駆者は「異端」として迫害され、理解されず、孤独な闘いを強いられてきたはずなのに。
なのになろう系の領地改革では、主人公の「前世知識」が反発もなく、嫌悪もなく、一瞬で受け入れられて「英雄」になる。
これ、ささがに様の言う通り「不自然」の極みです。
しかも、そこで生まれる「犠牲」。
既存の生産者が粗悪品と見なされて廃業に追い込まれる、職人の誇りが粉砕される、従来の流通ルートで飯を食っていた人々が路頭に迷う。
そういう「改革の裏側」が一切描かれない。
主人公は「正しくきれいなまま」、そして蹴落とされる側は「欲張りな悪役」として犯罪者化されて処理される。
これ、「優しい世界」どころか、とてつもなく残酷な世界じゃないですか。
「優しさ」の偏在
ささがに様の問うている——「蹴落とされる側に感情移入するのはおかしいでしょうか?」
いや、全くおかしくありません。
むしろ、そういう感情移入ができる人こそが、物語を「人間のもの」にできると思います。
「主人公が普通の人々に受け入れられるために苦労する姿」——それを望むのは、決して意地悪ではない。
むしろ、「優しい世界」を本気で作りたいのであれば、主人公だけに優しい世界は、優しい世界ではないんですよね。
主人公の都合のいい「優しさ」は、実は構造の外側にいる人々にとっては「暴力」なのかもしれません。
「歴史から外れた」とは思わないでください
「なろう系の歴史から外れた」と謝っていますが、全くそんなことはありません。
歴史を知った上で、今の作品の構造を見直す。
それがまさに、この連載の第9話を書いた意図です。
創業者の努力を知って、作品内の「努力の不在」を見る。
パイオニアの苦労を知って、領地改革の「受け入れられ方」の不自然さを見る。
その「目」こそが、歴史を学ぶ意味だと思います。
また、何かあれば遠慮なくコメントください。
なろう系に物申す 作者と読者の理念編への応援コメント
批評を排除する事の是非は別として、読み手の側から言える事は、「万人を満足させる小説など存在しない」という事です
誰かの好きは、誰かの嫌い
だからこそ、多様性に価値がある
これは単なる一読者のわがままですが、好みに合わないと離れていく読者がいくのは仕方がない
でも、そこで書くのをやめないでほしい
そういう話を読みたいと望む読者がたどり着くまで待っていてほしいと、そう思います
ペロー童話集完訳版の序文に、著者自身の面白いエピソードがあります。かなり大雑把にまとめると、「色々な人に意見をもらったけれど、同じ所を良いと言う人と悪いと言う人がいるからもうそのまんま出す」という話です(シャルル・ペローを創作者と定義するかは賛否両論あるかと思いますが)
結果的に彼は批判を無視しましたが、批判を受けて、より良いものを作ろうとした話でもあります
まず前提として、読み手側が不必要な攻撃や暴言を混ぜてコメントを読む気を失くさせないのは当然です
その上で書き手の方にも、「こういう感じ方をする人もいる」「恐らく逆にここを好んでいる人もいる」という気持ちで、自分とは違う視点から得られるものがないか、探してみてほしいですね
所詮書く苦労を知らない者の言い草と言われればそれまでですが、せっかくの機会を自ら閉じてしまうのは、単純に勿体ない話かと思いました
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「万人を満足させる小説など存在しない」。
その通りです。
僕は「批判を怖がるな」と言いながら、どうやら「批判を全部受け入れて、全員に好かれようとしろ」と言っているように聞こえていたかもしれません。
でも、それは違いますよね。
誰かの好きは誰かの嫌い。だからこそ、多様性がある。
ペロー童話の序文の話、初めて知りました。
同じ箇所を「良い」と言う人と「悪い」と言う人がいるから、「もうそのまま出す」これ、すごく大事なことだと思います。
批判を「全部直せ」と受け取るのではなく、「こういう見方もある」と知って、その上で「自分の軸」で判断する。
それが「対話」なのかもしれません。
「そこで書くのをやめないでほしい」。
この言葉、本当に温かいです。
そして、書き手にとってこれ以上ない応援だと思います。
好みに合わない人は去っていく。
それは仕方ない。
でも、合う人がたどり着くまで、待っていてくれる人がいる。
「書く苦労を知らない者の言い草」なんて、そんなことありません。
読者の方だからこそ言える視点です。書き手が「創作の苦労」を盾にして読者の声を遮るのは簡単です。
でも、あなたの言う「違う視点から得られるものを探す」という姿勢は、書き手も読み手も、互いに必要なことだと思います。
「せっかくの機会を自ら閉じてしまうのは勿体ない」。
その通りです。
僕も、この連載でたくさんの批判を受けましたが、全部受け入れたわけじゃないし、受け入れられない部分もありました。
でも、耳を塞いでいたら、このコメントのような声や、鋭い指摘も、全部聞き逃していたと思います。
また、何かあれば遠慮なくコメントください。
「誰も傷つかない、主人公がすべてを解決してくれる優しい世界」
この言葉で全てが腑に落ちました。
ここまでの長いなろう系についての意見、読ませていただきました。
行間の想像までしてくれる方がいるというのを初めて知りました。
私もいつか、こんな小説を書いてみたいと思います。
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
「腑に落ちた」。
その一言で、僕がこの長い連載を書き続けてきた意味が、ほんの少し報われた気がします。
「行間の想像」。
実は、それこそが僕が読者の皆様に一番してほしかったことでした。
作者が描かなかった「空白」に、あなた自身の優しさや想像を馳せること。
僕はそれが、読書という行為の、一番の醍醐味だと思っています。
そして、「私もいつか、こんな小説を書いてみたい」。
その言葉、本当に嬉しいです。
いつか、こびちゃー様の書いた物語のページをめくれる日を、心待ちにしています。
本当にありがとうございました。
なろう系に物申す 作者と読者の理念編への応援コメント
確かに、『批判お断り』などの言葉には、なんともなぁと思う点もありますが、それでも私はそういう描かれ方をする人を悪いとは思いませんし、そこで区別する必要はないと考えています。
(そのようなスタンスで書かせていただくため、否定的な文章が入るかもしれませんがお許しください)
まず第一に、モチベーション維持や『いいねください!』をすることの共通の目的として、作者たちの『いい小説を書きたい!』という欲望があるからです。
ここで言ういい小説というのは、『物語が最後まで完結し、多くの読者に読まれること』きっとこれ以外を望む物書きはそう多くないのではないかと思います(自論と偏見です)。
モチベーションは最後まで書くことにつながり、
『いいねください』は、多くの読者に読まれたことの証明として作者へのフィードバックになり、それがモチベーションにつながる。
悪い見方をしなければいいシステムに見えるます。
もちろん、このシステムが腐敗してきていて、ちゃんと機能していないという意見もわかりますが。
本当にお伝えしたいのは、システムに限らず、それを行なっているのは『作者』であるということです。
読者が物語に求めているものは作者の思想性や自己紹介ではありません。
物語の質です。
作者のメンタルを守るための一言やシステムは物語に何ら影響しません。
(需要と供給の関係から物語のテンプレート化が進むという点も理解できますが、『いい小説書きたい』の欲望の裏返しであると見ているため、思って当たり前だと感じています)
むしろ、『いい小説書きたい』の気持ちがない方が、果たして、『本当にいい小説を書く気があるのだろうか』と疑いたくなることもあります。
数字のために行動するなという意見もわかりますが、私は読者を置き去りにするなとも思います。これを書きたいから書く、それも立派な感情ですが、読者に寄り添って書く。これも立派な作者としての感情だと思います。
もし今回のこの話が『なろう系』の物語に関するものでなければ、それはきっと『なろう系』の作者に対する意見だと思います。
どうかストーリーはその物語の中だけで見てあげてください。
後ろに蔓延る経済とか、需要と供給とか、なろう系の歴史とか。
そういうの全部無視して、ストーリーを純粋に楽しんであげてください。
私は他のコメントのように議論とかそういう難しい話のできる人ではないですが、
どうか自分で良い作品に巡り会えるかもしれない扉を閉ざさないでほしいです。
ーーーーー
すみません。こんな長文で何の取り留めのないことを言って。
きっとあなたも理解してくださっていることと思いますが、それでももう一度思い出して欲しかったのです。
小説とは本来、楽しく、幸せで無限に広がる世界のようであったことを。
初めて小説の中の世界に夢を馳せたあの時の感情を思い出して欲しかったのです。
余計なお節介のようなコメントとなってしまことをどうかお許しください。
最後になりますが、あなたがより良い小説に出会えますことを心から願っております。
失礼しました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
完結後もこうして読んでいただき、しかもこんなに誠実な言葉を寄せていただけるとは……本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。
「いい小説を書きたい」という欲望。
そして、それを最後まで支えるモチベーションや、「いいね」というフィードバック。
仰る通りです。
それは悪いことではないし、むしろ当然のことだと思います。
物語を完結させ、多くの人に読んでもらいたい。
その気持ちがなければ、長編なんて書けません。
僕だって、毎回「いいね」がつくと嬉しくなりますし、それが次を書く力になるのは間違いありません。
そして、「物語は物語の中だけで見てほしい」。
この言葉、胸に突き刺さりました。
確かに、僕は「後ろに蔓延る経済」とか「需要と供給」とかを持ち出して、物語を分析しすぎました。
それは僕の「創作論」としての興味からで、決して「そうやって読め」と強制したかったわけではないのですが……読者の皆様にとっては、「純粋に楽しむ」ことの邪魔になっていたかもしれません。
そこは、僕の視点の偏りだったと思います。
ただ、僕があえて「後ろの経済」に目を向けたのは、「知らないままテンプレを使う」のと、「知っていてあえて使わない」のは違う」と思ったからでした。
でも、それはあくまで「書く側」の話であって、「読む側」がそこまで考える必要は全くないと、今、このコメントを読んで強く感じました。
「物語の質」こそが全て。
その通りだと思います。
そして、こびちゃー様言う「小説とは本来、楽しく、幸せで無限に広がる世界」という言葉、本当に美しいと思います。
僕も、初めて小説の世界に夢を馳せたあの時の感情を、忘れてはいけなかったのかもしれません。
ページをめくる手が止まらなくて、登場人物の幸せを心から願って、最後にほっと胸を撫で下ろしたあの感覚。
こびちゃー様の言う「純粋に楽しむ」
それは、決して「浅い」ことではなく、物語に対する最も尊い接し方だと思います。
「自分で良い作品に巡り会える扉を閉ざさないでほしい」。
その言葉、ありがとうございます。
僕も、もっと色々な物語を、純粋に楽しむ心を大切にしたいと思います。
余計なお節介どころか、とても大切なことを教えていただきました。
本当にありがとうございました。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
わかりやすく……の後の差別の件についてはちょっとよくわからなかった(私の理解不足と歴史知識の浅さのせいですみません)のですが、『ステータスウィンド』という設定や言葉についてはたぶん全く同じ考えです。
そもそもの話、数値で負けてるから絶対勝てないとか。
これが別に主人公サイドの方が低くて、敵の方が強い=システム的に主人公絶対負けるけどどうするの?
みたいなのなら、むしろ、「不可能に挑む」感じがして全然ありだと思うんですが。
擬似的なゲームのような世界観で、ステータスが絶対の指標として用いられる……それで何?って思ってしまいます。
確かに数値を用いて力を示すっていうのは手っ取り早い手法ではあると思うのですが、ゲームなんだか、現実なんだかよくわからない世界の話をされるのは、世界観の盲点を隠すような作者の意図を感じたりしたこともあって、なんとも言えない違和感を感じます。(すみません、私の言語化能力が足りずこんな浅い文章になってしまいました。)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
差別編、難しくてよくわからなかった、とのこと。
いや、こちらこそ難しく書きすぎましたかもしれません。
すみません。
簡単に言えば、「獣人がなぜ人間に虐げられるのか」というメカニズム(経済的な搾取とか、分断統治とか)をちゃんと描かないで、「なんとなく差別されてる」だけにしてしまうのがもったいない、という話でした。
歴史の知識がなくても全然読めるように目指したつもりでしたが、僕の説明が回りくどかったです。
さて、ステータス・数値化の話。
「それで何?」
この一言に、僕も思わず手を打ちました。
まさにその通りだと思います。
「レベルが低いから負ける」——それが「絶対的な絶望」として描かれるなら、まだ物語になります。
主人公が「システム的に絶対勝てない」状況に置かれて、それをどう覆すか。そういう「不可能に挑む」構造なら、数値は緊張感の道具になりますよね。
でも、なろう系で多いのは「レベルが高いから勝つ」だけの話で。
「レベルの差が100あるから、指一本触れられずに負けました」——こう書かれると、もう「物語」じゃなくて「計算」です。
読者は「ああ、数字が大きい方が勝つんだ」と思うだけで、胸は全く熱くならない。
そして、あなたが言う「ゲームなのか現実なのかよくわからない」という違和感、これは本当に鋭いと思います。
生身の人間が傷つき、血を流し、死ぬはずの世界で、なぜか「ステータスウィンドウ」が開いて数値が表示される。
でもその数値がなぜ存在するのか、誰が作ったのか、社会にどう影響しているのか。
そういう「なぜ?」が一切語られない。
だからこそ、「世界観の矛盾や盲点を、ステータスでごまかしている」ように感じるんです。
「説明めんどくさいから、とりあえずレベルで済ませとこ」という、作者側の思考停止が透けて見える。
こびちゃー様の言葉は全く浅くなんかありません。
むしろ、ものすごく核心を突いています。
「数値で負けてるから絶対勝てない」
それが「どうする?」につながらないのであれば、それはただの設定の逃げ道でしかない。
繰り返しになりますが、コメントありがとうございました。
おまけ 戦争犯罪について。2への応援コメント
まずは、連載完結おめでとうございます。難しいテーマに取り組まれ、完走されたこと、お祝い申し上げます
色々と考えさせられる事が多いので、休日にゆっくり読み進めさせていただいております
また長文の感想を送るかと思いますが、お手隙の時にかまっていただけると幸いです
さて
今回のテーマは、現実では個人の犯罪、創作上では単なる不幸や悪事のテンプレートとして消費されがちな問題が、戦争の「兵器」として捉え直されている点、興味深く読ませていただきました
気になったのは、「何が彼ら彼女らをそうさせるのか?」です
敵の根絶を目論んでいるかのような、戦略的暴力
枯れ葉剤然り、核兵器然り、戦争における暴力の苛烈さは異常なものがあります
それは或は、一族郎党皆殺しと同じ、「禍根を断つ」という、ある意味相手への恐怖、報復への恐怖からくるものなのかもしれません
しかし、戦争の異常さというのは、性暴力の件に現われている通り、弱者への一方的な蹂躙となる場面でも歯止めがかからないこと。そして時として、ナチスの秘密警察・帝国の憲兵・「非国民」「お国の為に死ぬ」「靖国で会おう」など、自国民の命にも、矛先が向けられる事です
この、戦時中の凄まじい悪意
その悪意の不在こそが、全ての薄っぺらさの根底にあるような気がします
敵に根絶の悪意がないから、捕虜はきれいでいられる。味方に根絶の悪意がないから、味方の手で略奪が行なわれない。主人公の攻撃の巻き添えになる市民も、その為に主人公を恨む市民も、最初から存在しない。
無論、ファンタジーはファンタジーです
現実と区別して、虚構として楽しんでいるのでしょう
それでも私が個人的にどうしても気持ち悪いと感じるのは、「主人公を絶対的な正義として描くために、痛みや悪意を排除する」この構図が、戦争や侵略で繰り返されてきた「勝者が作る歴史の姿」、そして先の戦争で「鬼畜米英」などの正義を振りかざしていたプロパガンダで描かれる「清く正しい戦争」と重なるからです
現実の凄惨さとのギャップを思うと、吐き気がする
気楽なファンタジーを描く上で、戦争という言葉を持ち出す必要はあったのか
健全な、スポーツ的な勝負ではいけなかったのか
書き手の方にも、そういう物語を求める読み手にも、1度立ち止まって考えてみていただけたらと願います
いつもの事ながら長文失礼しました
作者からの返信
コメントありがとうございます。完結の祝いまでいただき、恐縮です。
「悪意の不在」。 いや、これは核心を突かれました。
僕はこれまで「漂白」だの「絶対悪」だのと言ってきましたが、ささがに様の言う「悪意の不在」こそが、その根底にあるものだったんですね。
敵に「根絶やしにする」悪意がないから、捕虜はきれいでいられる。
味方に「お前は使い捨てだ」という悪意がないから、略奪や内圧が発生しない。
主人公の魔法の巻き添えになった市民も、主人公を恨む悪意を持たない。
これ、物語的には「優しい世界」に見えるかもしれません。
でも、言う通りそれは現実の戦争の「異常さ」と完全に乖離していて、しかもその構図が「勝者が作る清く正しい戦争」のプロパガンダと重なる。
気づかされました。
僕は「戦争の悲惨さを描け」と言いながら、もしかしたら「悪意」という側面を見落としていたのかもしれません。
戦争というのは、敵味方問わず「人間の理性が溶解する」場所ですよね。
ナチのゲシュタポも、憲兵も、本来は「自国民を守るはずの組織」が、いつの間にか自国民を「非国民」として狩る側に回る。
あれは組織の暴走というより、むしろ「悪意の氾濫」なのかもしれません。そしてその「悪意」こそが、戦争を戦争たらしめているのに。
なのになろう系では、その「悪意」が敵にだけ偏在し、しかもそれは「絶対悪」として記号化され、主人公側には一滴も残らない。
これって、まさに「戦争を戦争として描いていない」ということですね。
そして最後の問い、「健全なスポーツ的な勝負ではいけなかったのか」。
これには僕もずっと同じことを思っています。
戦争という言葉を持ち出すのであれば、その「悪意」の深さと、人間がどこまで醜くなれるかを、最低限知った上で使うべきだと思います。
知らないで「戦争」と書くなら、わざわざ「戦争」という言葉を使う必要はない。
剣の大会、武闘会、国同士のスポーツ交流、なんでもいい。
そっちの方が、よっぽど誠実な創作だと思います。
「戦争」を消費するために「戦争」という言葉を使いながら、その「悪意」の不在を前提にする。
これは、歴史の被害者に対する侮辱だと、このコメントを読んで、改めて強く感じました。
長文の感想、本当にありがとうございます。
休日にゆっくりと、とのこと、全くお構いありません。
次の長文感想も、ぜひ送っていただけると嬉しいです。
なろう系に物申す 戦闘、戦争描写編への応援コメント
ここまで読んできましたが(応援コメントでの内容も含む)、ここについては同意できる気がします。
戦争とかそういう重いテーマを語れるほどの人ではないですが、一つだけ。
最近の作品は「命」を軽視しすぎな気がします。
追放ものであれ、復讐ものであれ、転生もの(これは世界観にもよりますが)であれ。敵であろうが、どうしようもないクズであろうが、命は命です。
もし、本当に力のある主人公を描くのであれば、人型の生物(ファンタジー込みで考えているため)から無駄なタイミングで簡単に命を刈り取ってはいけないと思います。(特に無双系)
そもそも、命を刈り取られなければならないキャラを出すorストーリーにしてしまうこと自体、間違えだと思っています。
確かに命の選択はストーリーに重みを出しますし、緊張感も与えます。
だから、描くなとは言いませんが……少なくとも主人公とその仲間たちがやっていいことではないと思います。(自然災害とか、心すらない野獣みたいなモンスターとか、主人公が直接関わらないのであれば、私的には許せます)
どんな生物にも平等にやり直す機会が与えられ、どんな悪役にだって主人公に返り咲くチャンスが与えられる(それを不意にするかどうかは悪役の心しだい)。
極力、というか、絶対に。
私は死を描き出すようなものは書かないようにしています。
だって死んだら悲しいし、仕方ないとも思えないからです。
私の目指すフィクションは、どんなにリアルとかけ離れていたとしても、最後はみんなが笑って満足し、大団円を迎えられるような、そんな素敵な世界。
私はそんな小説を目指して書いていてたな〜っと、このお話を見て思い出しました。
最後、自分語りのようになってしまって失礼しました。
とにかく、無双主人公や復讐系の方には「もういいだろ」って肩を叩いてやりたくなる瞬間があるということをお伝えしたかったのです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
ここまで読んでいただき、しかも共感の言葉をいただけるとは……正直、恐縮です。
仰る通りだと思います。
「命の軽さ」については、僕も戦争描写の話で触れましたが、あれはあくまで「戦争という構造」の側面からで、こびちゃー様の言う「創作における死の倫理」は、もっと根本的で、もっと大事な話だと感じます。
「力のある主人公」が人型の相手を「無駄に」殺すシーン。
僕もこれは、違和感を覚えます。
強いからこそ、殺さずに済ませられるはずなのに、「クズだから」「敵だから」という理由であっさり命を刈り取る。
それって、本当に「強さ」なんでしょうか。
むしろ「殺すことのできない強さ」。
「相手を人間として見てしまうからこそ、手が止まる強さ」の方が、はるかに重みがあると思います。
「死を描かない」と決めていること、それは決して「甘さ」ではないと思います。
「死んだら悲しいし、仕方ないとも思えない」。
その感覚こそが、人間としての根源的な倫理だと思います。
「死の重み」を知っているからこそ、あえてそれを「消費」しない。
あえて「殺さない」選択をする。
それは、死を安易に使うことより、はるかに「覚悟」を伴う行為だと思います。
「どんな悪役にも返り咲くチャンスが与えられる」。
その思想、素晴らしいと思います。
「絶対悪」なんてこの世に存在しない、というのは僕も何度も書いてきたことですが、創作の中でそれを実現するというのは、むしろ「殺して終わらせる」より、はるかに難しく、尊い創作だと思います。
無双主人公や復讐系に「もういいだろ」と肩を叩きたくなる気持ち、とても分かります。
「もう十分に強いんだから、そろそろ手加減してやれよ」と。
また、何かあれば遠慮なくコメントください。
今後ともよろしくお願いします。
あなたがこれまでの人生で感じた理不尽さ、悔しさ、人間関係の面倒くささ、そして、誰かに救われたときの温かさ。
→テンプレも、時代によって変わると思います。今売れていないテンプレは、上記の要素がないテンプレだと思われます。『無職転生』、『Re:ゼロから始める異世界生活』が今売れているなら、これからは上記の要素が含まれたテンプレが売れるのではないかと私は思います。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
確かに、時代は移り変わるもので、確実な予想はできませんがそうなる可能性も十分あるとは思います。
まぁ、やはり市場(読者)の要求するものによって変わると思いますが。
なろう系について物申すへの応援コメント
「小説家になろう」に作品を置いてるから、私もなろう系?
でも、定義を読むと違うのかな?まあ、よくわかりませんが、流行りのものには必ずアンチがいるもので、個人の好きずきじゃないですか。私など、そういう身のない読み物は最初から読まないだけです。放っときましょう。
作者からの返信
コメントありがとうごさいます。
まぁ、そこら辺は個人の自由でしょうね。
編集済
おまけ 戦争と正義"語られない敗者側の視点"への応援コメント
興味深く拝読しました。「『悪魔』は突然空から降ってくるのではない」には同意するのですが、その他の点で歴史上の事実と異なるように感じられた部分がありました。
一つ目、ハイパーインフレの収束は1923年11月、シュトレーゼマン内閣のレンテンマルク発行がきっかけだったはずです。その同じ月、ヒトラーはミュンヘン一揆に参加して失敗し、翌年収監されています。彼がインフレを収束させた、というのは違うのではないでしょうか?
二つ目、世界恐慌後の景気回復は軍需中心でした。そしてその兵器増産こそが、開戦の引き金になったのではないかと思います。兵器は錆びるので、軍需に偏った経済は戦争以外に投資の出口を持たない。「絶望が救世主を求めた」より、「回復策そのものが次の破局の設計図だった」ほうが、教訓としては怖いし再現性も高いと感じます。
私も日本の歴史教育(高校では世界史)を受けましたが、「連合国=正義、枢軸国=悪」という構図を強く意識した記憶がありません。そのうえで本文を読むと、枢軸国側の内在的論理には多くの紙幅が割かれている一方、連合国側がなぜそう動いたかはほとんど語られていないように見えました。敵を人間として描かない物語を批判する論考としては、ここが惜しいところだと思います。
本論を読んで感じたのは、全体として記号が反転しただけで、記号化そのものは残っているのではないか、ということでした。「連合国=正義」を崩した後に「偽善的な勝者/語られなかった敗者」が置かれているだけで、構造は同じではないかと。
その意味では、第8章の戦争被害受忍論の指摘が一番強かったと思います。あそこだけは勝者/敗者の軸ではなく、国家が誰の犠牲を数え、誰の犠牲を数えないかという話になっていて、日本国内にも同じ刃が向いていました。
私は「絶望」より、「無思考」のほうが怖いと感じています。誰も特別に悪意を持たないまま、判断を手放した結果として残虐さが積み上がっていく——アーレントが指摘したのはそこだったはずで……
作者からの返信
コメントありがとうございます。
まず、歴史的事実の訂正から。
仰る通り、ハイパーインフレの収束は1923年11月、シュトレーゼマン内閣によるレンテンマルク導入が直接的なきっかけでした。
同じ月にヒトラーはミュンヘン一揆に参加して失敗し、翌年収監されています。「ヒトラーがインフレを収束させた」という記述は、明らかな時系列の誤りであり、歴史的事実の歪曲でした。
訂正させていただきます。
そして、もっと胸を刺されたのが、「絶望が救世主を求めた」よりも「回復策そのものが次の破局の設計図だった」という指摘です。
確かに、私の文章は「絶望した民衆がヒトラーに走った」という感情の物語に偏っていました。しかし、実際にはナチス政権下の景気回復は軍需中心であり、その兵器増産こそが開戦への道を開いた。
兵器は錆びるので、軍需に偏った経済は戦争以外に投資の出口を持たない——この構造は、「感情」ではなく「システム」の問題です。そしてその「システム」こそが、次の戦争を必然化する、再現性の高い教訓だったのです。私は「感情の物語」を語ることで、このもっと本質的な「構造の物語」を見逃していました。
そして、「連合国側がなぜそう動いたかを語っていない」というご指摘。まさにその通りです。
私は枢軸国側の「内在的論理」に紙幅を割きながら、連合国側を「偽善の勝者」「語られなかった敗者を黙殺する側」という記号として処理していました。
しかし、それは私がこれまで批判してきた「敵を人間として描かない」構造と、まったく同じではないでしょうか。
枢軸国を「人間」として描きながら、連合国を「記号」として描いていた。そこに「対話」はなく、ただの「記号の反転」だった。
「連合国=正義」を崩した後に置かれたのは、『偽善的な勝者/語られなかった敗者』という新しい二項対立であって、記号化そのものは何も崩れていなかった、この指摘は、私の文章の根幹を揺るがすものです。
構造は同じだった。
私は自分が批判していた「なろう系の敵キャラ」と同じように、歴史の登場人物たちを「都合のいい記号」に漂白していた。
そして、「戦争被害受忍論」の部分だけが「勝者/敗者の軸ではなく、国家が誰の犠牲を数え、誰の犠牲を数えないか」という話になっていた、との評価、ありがとうございます。
あの部分が「一番強かった」と言っていただけたこと、とても意味のあることだと感じます。
確かに、あそこだけは「対立の構造」ではなく「国家というシステムの内側の格差」に目を向けていたのかもしれません。
最後に、「絶望より無思考」の指摘。
アーレントが指摘した「悪の陳腐さ」——誰も特別に悪意を持たないまま、判断を手放した結果として残虐さが積み上がっていく。
私は「絶望した人々が正義に走る」という物語を語りましたが、実はもっと怖いのは「絶望も感じず、ただ手放している」状態なのかもしれません。
なろう系の「絶対悪」も、実は「悪意」ではなく「無思考」の産物なのかもしれない。そして私自身も、歴史を語る際に「無思考」に陥っていたのかもしれない。
歴史的事実の誤り、構造の見落とし、記号化の再生産、そして「無思考」の自覚。
これは、改善していきます。
本当に、ありがとうございました。
今後、note版の改稿やこの連載を続ける上で、これらの指摘を必ず反映させます。
何かあれば、また遠慮なくお願いします。
なろう系について物申すへの応援コメント
そんな貴方に、
小説家になろうにて
2026年7月18日完結
純粋私小説 十三個のカルマ(誤字脱字多きにつき仮)
をおすすめします!
まあ、こちらでも読めますが😅
ほんとに正論だと思います!!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
どのような点でお勧めされたのか分かりませんが、とりあえず少し、読んでみようと思います。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
「ステータスオープン」
ドン引きだし、ページの無駄だし、設定厨の劣化版みたいで嫌いです。
ただ、コレに完璧な設定を持たせて、物語の核に据えた「蜘蛛ですが、何か」には衝撃を受けました
作者からの返信
コメントありがとうございます。
まぁ、あのステータス画面は強さが見やすいと言った点や、おっしゃる通り設定をカスタマイズしやすいと言った点からよく使われているのかなと思います。
でもまぁ、確かにページも使いますし、そんなに書きたいなら設定ページに書けって言われると何も言えないと思います。
なろう系に物申す 戦闘、戦争描写編への応援コメント
私はなろう系で、主人公が「日本とは違うんだー」と言い出して、戦争、人殺しを始めるまでは我慢できます。
我慢できないのは、そんな命の価値が低い世界設定しといて、鋼の意思で童貞を貫くのが許せません。
ヒロインも主人公も明日には死ぬかもしれない世界なのに、なんでやねん。
って感じで、
童貞ルート入った瞬間投げてます。
逆に童貞ムーブかましてる主人公が、NTRれるシーンを書ける作者は尊敬します
作者からの返信
コメントありがとうございます。
確かに、世界設定が違う、異世界のくせに何故か童貞を貫き通す。これは読者の欲と少しすれ違っていて、それで嫌われる主人公もいるのかもしれませんね。
まぁぶっちゃけ自分も、そこまで書いたなら開き直って欲全開で書いたほうが潔いのかなと思ってます。
NTRの事は…ノーコメントです。すみません。
なろう系に物申す キャラクター編への応援コメント
なろう作家で、本当にニートで、引きこもりで、社畜さんの割合どれくらいなんでしょうね。
ガチのニートは青春のシーンや友人との接し方、遊び方のシーン、仕事するシーンでわかりますよね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
ニートや引きこもりの確立については、さすがにそんなデータはあるはずもなく、不明です。
まぁなんとなく私が嫌っているような作品は少し社会的に困窮している方が書いているのが感じられるものが多いと思ったています。
あと、青春や友情関係が少しエアプっぽさが出ている作品の作者さまも何かあるのではないかと思っています。(凄くオブラートに包みました)
編集済
おまけ 戦争犯罪について。への応援コメント
この話を読んで、今まで考えてもみなかった事を思いました
なろう系で書かれているという漂白された「戦争」は、国威発揚の戦争画や、現在のアメリカの原爆教育と似た危険があるのではないかという事です
勿論、国家のプロパガンダと個人のファンタジーは全く別の話です
ただ、「巨大な力を振るう事」を「正義の実行」としてもてはやし、
その下で流れる血や痛みを「存在しないもの」としてしまうと、
それが「現実で力を振るう事へのハードルを下げてしまう」
この危険は、書き手の皆様に知っておいていただきたい事だと思いました
このような作品を執筆し、公開してくだっている尾だけの猫様には心から尊敬と感謝を申し上げます
ただ、1つだけよろしいでしょうか
原爆を「悲劇」として、アメリカを糾弾しないこと。これは、決してアメリカに迎合し、起きた事を受け入れている訳ではありません
尾だけの猫様も既に勉強されているようですが、戦時中の日本の加害は、弁護できないレベルのものでした
そして、日本は止まらなかった。砲弾がなくれば特攻を行い、市民が戦車に対抗するため竹槍訓練を行っていたと言えば、どれほど狂気的だったかわかるはずです
その戦争を終わらせた「正義の執行」としてアメリカで教育されているのが、原爆です
ヒロシマ・ナガサキを語る時、反論として持ち出されるのが「真珠湾攻撃」です
引き金を引いたのは日本、東京大空襲も原爆もその報復だと言われた時、返せる言葉はなんなのか
報復の連鎖を止め、憎しみに憎しみを返す事をやめ、「正義の執行」の、あのキノコ雲の下で何が起きていたかを叫ぶこと
放射能のために何十年も苦しみ続ける人がいることを訴えること
それが、「原爆は悲劇だった」なのです
アメリカの苦言に抗い、原爆ドームの展示品が掲げられている事を知ってください
どこの国であれ、こんな事を繰り返すべきではないと、アメリカよりも「戦争」そのものと戦う道を選んだ事を知ってください
どれだけの言葉や思いを飲み込んで、「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ」が叫ばれているのか、知ってください
お願いします
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「漂白された戦争」が、国威発揚の戦争画やアメリカの原爆教育と同じ構造を持つ。
その指摘、鳥肌が立ちました。
巨大な力を振るうことを「正義の実在」として持てはやし、その下の血や痛みを「存在しないもの」にしてしまうことで、現実で力を振るうハードルが下がる。
これは、フィクションの問題を超えた、社会全体の危険です。
創作者として、そして一個人として、肝に銘じなければなりません。
そして、原爆についてのご指摘。これは、私の意識を変えたと思います。
私はこれまで、原爆や東京大空襲を「アメリカの戦争犯罪」として語り、それが「戦勝国のルールで揉み消された」と書いてきました。
しかし、それは「報復の連鎖」の文脈の中で、日本を被害者、アメリカを加害者という図式に閉じ込めていただけだったのだと、今、強く感じています。
「原爆を『悲劇』として、アメリカを糾弾しないことは、迎合ではない」この言葉、胸に突き刺さりました。
私は、日本が「アメリカ=正義」の空気の中で育ってきたと書き、それを批判していました。しかし、本当は違ったんですね。
日本が選んだのは、「アメリカを糾弾する」道ではなく、「戦争そのものと戦う」道だった。
原爆ドームの展示品が、どれだけの言葉を飲み込んで、「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ」を叫んでいるのか。私は、その重みを「アメリカ批判の材料」に矮小化していた。
放射能のために何十年も苦しみ続ける人々の存在を、「だからアメリカは悪い」と結論づけるための論拠にしていた。
しかし、本当に伝えるべきだったのは、「どこの国であれ、こんなことを繰り返すべきではない」という、報復を超えたメッセージだった。
「引き金を引いたのは日本」「東京大空襲も原爆も報復だ」と言われた時、私は「でも日本兵も愛する家族を守るために戦った」と反論していました。しかし、それは連鎖を止めようとしない、ただの言い訳の積み重ねだったのかもしれません。
私は、戦争犯罪の「歴史」を語ろうとして、その「歴史」が生んだ「選択」を見落としていました。
日本が選んだ平和主義は、ただの被害者意識でも、アメリカへの迎合でもなく、あのキノコ雲の下で何が起きたかを叫び続ける、人類に対する警鐘だった。
この視点がなければ、私が語る「戦争のリアル」は、ただの「被害者の物語」の繰り返しでしかありません。
それでは、なろう系の「漂白された戦争」と同じ構造を、私自身が再生産しているだけです。
「どれだけの言葉や思いを飲み込んで、『ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ』が叫ばれているのか」私は、その声に、もっと謙虚に耳を傾けなければなりません。
貴重なご指摘、本当にありがとうございました。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
今回はがっつり異論失礼します
まず、差別と奴隷をまとめて論じるのは無理があるのでは?という疑問です
現実の日本の差別についても取り上げられていますが、憑き物筋やハンセン病には触れていませんね?
彼らは奴隷にはされませんでした
奴隷は差別されるから奴隷にされたのではない
奴隷という身分制度の底辺に落ちたから、差別される
まとめて論じてしまうと、ここが曖昧になります
また、氏族・職業差別であるえたやひにんと、戦争の戦利品として、国を焼かれ敗者として持ち帰られた西洋の奴隷を一括りに扱うのは少々無理があるのではないでしょうか
変えようのない生まれと職業を理不尽に蔑まれる事と、あったはずの自由の剥奪や勝者の驕りを構造に含む事を、政治的プロパガンダの一言で括る。これは少々乱暴かと思います
私個人の考えですが、差別とは「自分と異なるものへの嫌悪」「嫌悪を感じた事の正当化」「自分の方が優位に立ちたい願望」という心の動きから生まれるものだと思います
ハンセン病や黒人差別のように始まりが政治的、社会的制度であり、その間違いが認められた後であっても、社会がそれを間違いだと叫ぼうとも、簡単に失くす事ができない。個人の間で残り続ける事がある
それは、差別がシステムではなく感情の問題だからだと思うのです
だからこそ、獣人差別は読者が飲み込み易い
「見た目が人間と違うなら差別される事もあるだろう」と
しかし、それだけで一足飛びに奴隷制度が成立する訳ではない
差別と奴隷は別です
素手で人間を殺せるはずの種族が隷属している事の不自然、奴隷が社会システムとして構造化していなければ成立しないのは、尾だけの猫様が述べていらっしゃる通りだと思います
そこを抜きにした世界観の軽さという説にも頷けます
ただ、それは背景の描写や奴隷キャラの反応を付け加えれば解消される問題でしょうか?
奴隷制度が間違い、誰もが平等に人権があるというのは、現代日本の道徳です。奴隷がシステムとして組み込まれている社会に、そんなものがある訳がありません
「奴隷をもっと大事に使え」というならまだ受け入れられるでしょう。ですが「奴隷扱いなんて非道」と奴隷を「解放」してしまうのは、社会への叛逆です
極端な事を言えば、誰も知らない別世界の理論を持ち出して、今みんなが暮らしている社会を壊そうとしているのです
周りの反応は、「優しい人」ではなく「奴隷をなくしてどうやって暮らしていくの!?」というのが自然ではないでしょうか
つまり、主人公の敵は魔王ではなく、異世界の社会そのものになる
本気で奴隷を救う主人公を書こうとすれば、奴隷として生きる事に慣れた者達に命をかけて自由を求めろと扇動し、民衆に人権のなんたるかを説き、奴隷のない社会システムのビジョンを訴え、それがよりよい社会を実現する事を示さなければならない、途方もない物語になるでしょう
或は、その「優しさ」の為に社会から逐われてさまよう逃亡者の物語になるかもしれません
私が過去になろう系で見たのは、好みの異性一人だけ、あるいはその関係者グループだけを助けて後は知らん顔。社会もそれを許容する、あるいは奴隷自体が違法で国家も味方してくれるものです。勿論、違法奴隷を買った人バレたら終わりの存在を隠し、養い、どう働かせれば元が取れるのかは語られません
一言二言付け加えても、どうにもならないレベルのお粗末さだと思います
そうではない、奴隷制度に則って買い上げた上で優しくするパターンもありますが、その場合、奴隷は奴隷です。主人公と対等ではない。結婚もできないでしょう
お気に入りの奴隷を可愛がっているだけの主人と、ひどい目に遭いたくないから主人の機嫌を取っているだけの奴隷
客観的に見て、恋やモテとは別物の、まさしく隷属の形ではないでしょうか?
要は、奴隷の存在自体が世界観に合わないのに、不遇演出として無理矢理使うから破綻しているのです
ハーレム要員を助けて以降、主人公の前に奴隷という存在が出てこない事もしばしば
奴隷が流通してる設定どこいった?
虐待されていたなら、髪はボサボサ肌はガサガサの痩せこけ傷だらけで、美貌とは判別できないのでは?
そもそも、獣人が差別されてきた歴史があるなら、獣人から見て獣耳も尾もない人間の姿は、加害者の特徴として嫌悪されるのでは?
ツッコミどころを挙げたらキリがありません
ちなみに、女性向け逆ハーものでも主人公が奴隷を助けて惚れされる展開がありました
人間不信になっている元奴隷に寄り添い根気強く心を開かせるパターンもあったものの、やんごとない出生やチートヒーローになる未来を前世知識で知った上でそのキャラだけを助け、他の奴隷の存在などなかったかのように恋愛に勤しむ展開で、重さなど欠片も感じられませんでした
奴隷が存在するひどい世界を書きたくないのなら、最初から別の不遇や苦境を設定すればよかったのでは?と思うのは、間違っているでしょうか
実在の奴隷をなぞるのが嫌なら設定を作り込む
それが嫌なら実在した奴隷制度を踏まえる
それも嫌なら、そもそも奴隷などという設定は持ち込まない
それが作品世界に通すべき、最低限の義理であってほしいのですが…
毎度長々と失礼しました
作者からの返信
毎度長々と、しかもこれほど核心を突くご指摘をいただき、まず深く御礼申し上げます。
「差別と奴隷をまとめて論じるのは無理がある」この言葉、最初から最後まで読み返して、自分の文章の「乱暴さ」に気づきました。
確かに、自分は「差別編」で差別と奴隷をほぼ同じ文脈で語っていました。
「獣人が差別されている」「だから奴隷にされている」という流れを、何の疑問もなく書いていた。
でも、ご指摘の通り、差別は感情の問題で、奴隷はシステムの問題です。
混同してしまえば、どちらも曖昧になってしまう。
まさにその通りです。
「憑き物筋やハンセン病には触れていない」という点も、その通りです。
自分は「穢れ」の概念を「えた・ひにん」にまで持ち込みながら、同じ日本の歴史にある、もっと近現代的な差別の事例を見落としていました。
差別の構造を語るなら、もっと多様な事例に目を向けるべきでした。これは単なる知識の不足です。
そして、最も胸を刺されたのは、「奴隷解放は社会への叛逆である」という指摘です。
自分は「奴隷を解放して優しくする主人公」を、何の疑問もなく「正義」として描いている作品に違和感を覚えていました。
しかし、違和感の理由を「奴隷制度のシステム的整合性がない」とだけ語っていて、「解放すること自体が社会システムへの根本的な挑戦である」という点まで論じていませんでした。
仰る通り、奴隷がシステムとして組み込まれている社会で「奴隷扱いなんて非道」と解放してしまえば、それは「誰も知らない別世界の理論を持ち出して、今みんなが暮らしている社会を壊そうとしている」行為です。
周囲の反応が「優しい人」ではなく「奴隷をなくしてどうやって暮らしていくの!?」となるのは、当然です。
そこまで描かなければ、「奴隷解放」はただの都合のいい小道具に過ぎない。
「好みの異性一人だけ助けて後は知らん顔」「違法奴隷を隠して養い、どう働かせれば元が取れるかは語られない」「奴隷として買った上で優しくするパターンでも、対等ではなく隷属の形」これらの指摘、まさにその通りだと思います。
自分も同じような物を読んできて、同じ違和感を持っていましたが、「一言二言付け加えてもどうにもならないレベルのお粗末さ」という言葉、痛快でした。
「獣人が人間を嫌悪すべきでは?」「虐待されていた奴隷が美貌であるはずがない」ツッコミどころを挙げたらキリがない、というのも本当にその通りと感じます。
自分は「世界観の軽さ」を指摘しながら、肝心の「その世界観を生きる人間の視点」を無視していました。
獣人側から見た人間の姿、奴隷側から見た「優しい主人」の姿。
そこに視点を置かなければ、ただの上から目線の道徳劇です。
そして、最後の「実在の奴隷をなぞるのが嫌なら設定を作り込む。
それが嫌なら実在した奴隷制度を踏まえる。
それも嫌なら、そもそも奴隷などという設定は持ち込まない」この三段論法、創作者としての「最低限の義理」として、心に刻みました。
自分は「重い題材を扱うなら覚悟を持て」と語りながら、同時に「差別と奴隷をごちゃまぜにして、感情とシステムを区別できていなかった」。
結果として、「書く覚悟」を語る資格すら、十分にはなかったのかもしれません。
コメント、本当にありがとうございました。
今後、創作を語る上で、差別と奴隷を峻別し、どちらも「感情の問題」として矮小化しないよう、常に意識していきます。
また、遠慮なくぶつけてください。
おまけ なろう系の歴史。への応援コメント
はじめまして。
当時を若者として生きていた身としては、なんとも懐かしいまとめでした。
一点、補足したいところがあります。
現在の「なろう系」が隆盛する少し前に、2ちゃんねる発祥の物語群があり、私はこれらも現在のWeb小説文化の前身の一つだったのではないかと考えています。
具体的には『電車男』『まおゆう魔王勇者』、そして各種やる夫スレなどです。
それ以前の小説は、基本的に「作者が書く→出版社を通して読者に届く」という形で、読者から作者へのフィードバックも、ファンレターなどを介した比較的ゆるやかなものでした。
一方、2ちゃんねる発祥の作品では、作者とスレ住民がリアルタイムに近い形でじゃれ合いながら、物語そのものが進んでいった記憶があります。
また、掲示板という媒体の性質上、ぱっと見て意味が伝わる表現が好まれました。
擬音や定型句、短く直感的な描写が多く、後の「キンキンキン」に象徴されるような、説明を圧縮して読者へ即座に伝えるWeb小説的な表現にも、どこか通じるものがあったと思います。
一つの物語を何回にも分けて投稿し、その途中で読者の反応を受け取り、ときには反応の良かった方向へ作品を寄せていく。
現在の「なろう系」に見られるこのスタイルや表現には、2ちゃんねる発祥作品の文化もかなり流れ込んでいるのではないか――と、個人的には考えています。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
2chの文化を興味深く見ることができました、特にやる夫とかはもう若い者たちも知らない人が多くなっていて、でもその特徴は受け継がれていると思うと面白いです。
確かに、2ch発祥の文化も今の流行に影響を与えているかも知れませんね。
今回調べたなかでは見えてきませんでした、本当にありがとうございます。
これからも宜しくお願いします。
おまけ なろう系の歴史。への応援コメント
しかし、読者の皆様にはこの歴史を確認することで思うことがあれば、ぜひともコメントをしていただきたいです。
→「小説家になろう」が、たった一人の高校生が開設したと言うことは知らなかったので驚きです。私はまた、どこかの会社が立ち上げたと思っていたので。「もっと小説が読みたい」という思いからサイトを作ったようですが、やっぱりそういう純粋さってすごいと思います。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
いやはや、やはり若者の行動力と言うものは凄いと思います。
自分も、友達と共に会社の起業に向けたAIの勉強と開発をしていまして、この高校生特有の行動力は理解できますが、その上でいざ実践して、成功するのは凄いと思います。
その行動力には純粋さも、関係するのかも知れませんね。
なろう系に物申す 作者と読者の理念編への応援コメント
全編、読ませていただきました。
問題意識そのものはかなり鋭いと思います。チート、ハーレム、奴隷、差別、戦争、ステータス表示などが、主人公を気持ちよく見せるための装置として雑に消費されているのではないか、という指摘には共感できる部分が多くありました。
表面的にはかなり強い「なろう系批判」ですが、読んでいくと、単に「なろう系が嫌い」という話ではない気がします。
筆者が本当に嫌っているのは、テンプレそのものというより、
努力の省略。
人間性の省略。
女性キャラの道具化。
敵の小物化。
戦争のゲーム化。
差別の小道具化。
数値による人間の単純化。
読者に都合のいい快楽だけを残す構造。
そういった、「テンプレによって思考停止すること」なのだと思いました。
私自身も、時には脳死状態で文章を書き殴ってしまうことがあるので、自重しなくてはと思う部分もあります。ただ、少なくとも思考停止だけはしないよう、常日頃から注意していきたいと感じました。
その意味で共感できる部分は多かったです。
一方で、短所もかなりはっきり出ていると感じました。
一番大きいのは、怒りの熱量が強すぎて、批評としての精度を自分で下げてしまっているところです。言いたいことは分かるのですが、「なろう系」と一括りにする範囲が広く、具体例や比較対象、例外への目配せが少ないため、かなり印象論に見えてしまう部分があります。
また、戦争、差別、奴隷制、性暴力のような重い題材に踏み込むなら、勢いだけではなく、もう少し資料や構造の整理が欲しいとも思いました。そこがないと、せっかく重要な問題提起をしていても、「強い言葉で殴っているだけ」と受け取られかねない気がします。
特に惜しいのは、刺さる人には刺さる一方で、本当にこれを聞くべき相手に届く前に、文体の攻撃性で相手が心を閉じてしまいそうな点です。
主張の芯はかなり大事なのに、言葉の強さがその説得力を削っている印象があります。貫通力が高過ぎて、装甲を通り抜け、別のところに着弾してしまうような印象でした。
論点をもう少し絞り、具体例、構造、例外、改善案まで整理すれば、かなり強い創作論になると思います。現状は「完成された批評」というより、「怒りのある問題提起」に近い印象です。
ただ、その怒りが向いている方向自体は、創作者にとって考える価値がある内容でした。
参考になりました。ありがとうございます。
作者からの返信
全編を通してお読みいただき、しかもこのように創作論的な観点から的確にご指摘いただいたこと、深く感謝しています。
「怒りの熱量が強すぎて、批評としての精度を自分で下げてしまっている」まさに核心を突かれた気がします。
他の読者様からも「『なろう系では』と一般化しすぎている」「具体例や例外への目配せがない」と厳しく指摘を受けたのですが、改めてこの文章を読み返すと、確かに「言いたいことは分かるが、論としての裏付けが薄い」印象論になっていたなと、強く自覚しました。
特に「貫通力が高過ぎて、装甲を通り抜け、別のところに着弾してしまう」という比喩は、面白く、そしてとても鋭く、胸に突き刺さりました。
本当に聞いてほしい相手に届く前に、文体の攻撃性で心を閉じさせてしまっていた。それは「対話」ではなく、ただの「放流」でした。「強い言葉で殴っているだけ」と受け取られても仕方がない、そう思います。
そして、戦争や差別、奴隷制、性暴力といった重い題材に踏み込んだ際、「勢いだけではなく資料や構造の整理が欲しい」というご指摘も、その通りです。
熱意はあっても、そこに「批評としての筋道」が伴っていなかった。
結果として、大切な問題提起を「ただの怒りの羅列」に矮小化してしまっていたのだと思います。
「完成された批評ではなく、怒りのある問題提起」この言葉が、この連載の現状を最も正確に表していると感じました。
ただ、そこから「論点を絞り、具体例、構造、例外、改善案まで整理すれば、かなり強い創作論になる」という期待もいただけたこと、とても励みになります。
自分の中で「テンプレによる思考停止」を嫌っていたはずなのに、書く側も「怒りのテンプレ」に陥っていたのかもしれません。
貴重なご指摘、本当にありがとうございました。
今後とも、何かあれば遠慮なくお願いします。
なろう系に物申す 戦闘、戦争描写編への応援コメント
まずは一読者として、戦争という重いテーマに真摯に向き合ってくださる作者様がいる事に、心より感謝を申し上げます
幸いにして私はそういう作品にぶつからずに済みましたが、安易に戦争に突き進み大量殺戮を行うのが「主人公」とは。恐ろしい話があるものですね
ちなみに私は外食中、クジラ料理が美味しいと騒いでいた隣のテーブルで、クジラ漁が許されないからいっぱい食べられないと嘆いた末に「もう一回戦争しましょう!」などと大声で言うのが聞こえて、ぎょっとした経験があります
勿論、酒の席での冗談でしょう。何の権限もないから言えたのだろうと思っています
ですが、とても立派な経歴をお持ちの政治家の方にも、時折不安な発言が見られます
そして、今のお若い方はご存知ないかも知れませんが、随分前の若者の間で戦争を望む声が上がり、ニュースにまで取り上げられた事がありました
平たく言うと、「今の世の中がぶっ壊れてしまえば底辺の自分たちでも今ふんぞり返ってるエリートを殴れる」とかいうとんでもない願望です
全部、冗談なのでしょう。
戦争の結果、焼け爛れた子供や死骸の腕の中でハエにたかられている赤子を見て、それらを自分の責任として直視する覚悟が彼らにあるのか?
自分が腕や脚を吹っ飛ばされて切断する事になったとき、これが自分の選んだ道だと胸を張れるのか?
とてもそうは思えません。本当は戦争なんか起こりっこないと思うから、そんな事が言えるのでしょう
ですが私は、戦争を軽く扱ってしまえる事、それ自体が恐ろしい
空襲、特攻、原爆
あの地獄を学んだ戦後日本人が、何故そんな思考を持てるのか
もっとも、ここを突き詰めると、憲法や法律に守られて生きる現代日本人としての自我のまま、モンスターに襲われて生身の体が傷付く、生身の体を傷付けるような日常に放り込まれて、どうして正気いられるのかという話になりますが…
戦闘シーンが盛り上がる、これはわかります
読者が受け入れ易いよう生々しさを排して漂白する
これも裏にその汚さが存在する事を暗黙の了解としているなら、理解できます(児童向け戦争文学で死骸や空襲を出さずに喪失だけを描く等)
対立があるなら戦争に至る事もある、これも悲しいかな現実です
ですが、だからこそ、主人公が戦争を煽ってはならないし、そのような主人公は世界にとって災厄でしかない
もしもそんな主人公がいるなら、結末はバットエンドでしかあり得ない
自分が犠牲にしてきた民衆に石を投げられ処刑されるか、その犠牲を後から自覚して発狂するか
そして、主人公が裁かれたところで、戦争によって喪われたものは戻らない
そこまで書き切る覚悟がなければ、書いてはならない事だと思います
理想の押し付けかもしれません
ですが、そもそも対人間の戦争を書く事そのものが、モンスターや魔王といった「悪しきもの」を敵とする事で「漂白」してきたファンタジーの戦闘を、殺戮でしかないと晒す行為ではないでしょうか?
その一線を越えておきながら「ファンタジーなんだから悪い奴をドーンとやっつけてスッキリ」は、あまりに無責任だと思います
私はなろう系に対して、読みたい人と書きたい人がいるならそれでいいんじゃない?私は読まんけど。というスタンスなのですが…
さすがにこれは、嫌なら読まなければいいでは済まないような…
その作者さんにはこの作品を読んで、自分が何を書いているのか自覚してほしいです
…でもそういう人はとっくにブラウザバックしてるんだろうなと思えて複雑
色々いらんこと吐き出した長文ですみません
作者からの返信
長文のコメント、本当にありがとうございます。
心から感謝しています。
まず、外食中に隣のテーブルで「もう一回戦争しましょう」と聞こえたというエピソード、読んでいて衝撃を受けました。
酒の席の冗談で済まされる話ではなく、それが「何の権限もないから言えた」言葉だというご指摘、とても鋭いと感じます。
そして、若者の間で「底辺の自分たちがエリートを殴れる」という願望として戦争が語られたこと。
それらは全部「本当は起こりっこないと思うから言える」のであって、自分が焼け爛れた子供や切断された肢体を直視する覚悟など、欠片もないからこその発言なのでしょう。
私自身も、まだ若者なので分かります。
「戦争を軽く扱ってしまえること、それ自体が恐ろしい」この言葉、とても強く共感しました。
そして、ご指摘の「主人公が戦争を煽る作品」について。
仰る通り、あれは「嫌なら読まなければいい」で済まない問題です。
ファンタジーがモンスターや魔王を敵とすることで「殺戮」を漂白してきたのに対し、対人間の戦争を描くということは、その漂白を剥ぎ取って「これは人間を殺す行為だ」と晒す行為なのですから。
それを「悪い奴をドーンとやっつけてスッキリ」の延長で描くことは、あまりに無責任だと、私も強く感じています。
「書き切る覚悟がなければ、書いてはならない」この言葉も重く受け止めます。
主人公が戦争を煽るのであれば、結末はバットエンドでしかあり得ない。
民衆に石を投げられ処刑されるか、犠牲を自覚して発狂するか。
そして、それでも喪われたものは戻らない。
そこまで描く覚悟がなければ、戦争というテーマを対人間の殺戮として持ち込むべきではない。
まさにその通りだと思います。
「でもそういう人はとっくにブラウザバックしてるんだろうな」痛いほど分かります。
ですが、だからこそ、私も含めて「書く覚悟」を持つ人間が、少しでも多くの人に届くように書き続けるしかないのだと思います。
ささがに様のように、戦争の重みを理解し、しかし物語としての倫理を問い直してくださる読者がいること自体が、書き手にとっての大きな支えになります。
いらんことではなく、とても大事なことを吐き出してくださいました。
本当にありがとうございました。
なろう系に物申す キャラクター編への応援コメント
キャラが終わってる…首がもげるほど同意します
女性向けの婚約破棄もの悪役令嬢ものでも男女入れ替えでそうなのですが、普通の主人公がなぜか全てうまくやれて、問題の渦中の異性に一途に愛される、周りにいくら他の異性がいようと絶対ふられない…とか、すごいのですよね
都合の悪いのは現実だけでじゅうぶん、夢とわかって夢を見てるだけ。という人もいるので、無くした方がいいとまでは思いませんが、入り込めない人間にとってはストーリーが入ってこなくレベルの辛さ
ライバルとか、敵とか、教師役とか?肩書経歴は立派なのに、中身はアホカス雑魚に書いている作品にぶつかってげんなりしたものです
その経歴どうやって手に入れた?今までの経験どこやった?とか思わされてもう駄目
対する人物の格が下がると、相対的に主人公の格も下がる。雑魚相手にイキっているカスに見える。書き手にはその事に気付いてほしいです
そういう作品は、他のキャラも、世界も、果ては主人公まで言動ねじまがって、で?結局何がしたかったのこの子は?となる
キャラの言動には説得力が欲しい
何があって、何を感じて、その結論としてどういう行動に出たのか、生きた人格として考えてほしい
勿論、ストーリー重視でキャラが変わるのは、なろう系に限った話ではありません
結局はキャラ重視の読み方をしている読者には合わないというだけの話かもしれません
それでも、なろう系にはそういうのが多過ぎた気がします
少々脱線しますが、設定と実際が乖離しているキャラも苦手ですね
具体的には、「優しい」とか「賢い」キャラが自己中でアホみたいな事しても、他キャラが説明台詞的に「優しい」「頭いい」「好き」とか言うの
そういうのいいから、エピソードと描写で説得力くださいってなります
これも感じ方は人それぞれという話なのかもしれませんが…
無駄に長文失礼しました
作者からの返信
コメントありがとうございます。
とても…共感できます。
初めに私自身、あまり自分から悪役令嬢物を読んだことや見たことはないのですが、少し機会がありましてちらっと見たんですが、やっぱりなぜ主人公だけが成功して、溺愛されるのだろうか?と疑問を抱いてしまう事がありました。
また、自分の中で「なろう系」という言葉が、どうしても男性向けの異世界転生チートものに引っ張られがちでしたが、男女を入れ替えても「全てうまくやれて」「問題の渦中の異性に一途に愛される」「絶対にふられない」という構造は完全に同じですね。
そして、対する人物の格が下がれば、相対的に主人公の格も下がる。雑魚相手にイキっているカスに見える、という表現、とても気付かされました。
書き手がこのことに気づいてほしい、という気持ち、全くその通りだと感じています。
「設定と実際が乖離しているキャラ」についても、鋭いですね。
やはり「優しい」「賢い」と他キャラが説明台詞で補強するのではなく、エピソードと描写で見せてほしい所です。
「都合の悪いのは現実だけでじゅうぶん」という言葉、とても印象に残りました。
夢を見るのは悪くない。
悪いのは、夢を見るために「現実の歯痒さすら都合よく消費する」構造なのでしょう。
入り込めない人間にとっての「ストーリーが入ってこないレベルの辛さ」、自分も読者として何度も味わってきました。
長文になってしまいましたが、貴重な体験を本当にありがとうございました。
なろう系について物申すへの応援コメント
はじめまして、異論コメント失礼します
なろう系についていけず読めなくなった身として、共感をもって楽しく読ませていただきました
ですが異論反論にお返事いただけるとの事ですので遠慮なく
「パッケージの中身が同じ」「小説は人間や社会の姿を表現する」この辺りが腑に落ちませんでした
「中身が同じ」なのはそれはそう。なのですが、恋愛SFなどもそれはそうというか…
似たものを分けるからジャンル分けでは?というのと、「いいものは少ない」というのも他ジャンルにも言える事で、ただ歴史が長いから10年に1つの傑作が貯まっているだけでは?と思うのです
無論、Web主体で簡単に読めるなろう系に比べ、書店に足を運んで贖わなければならない昔ながらの小説の方が淘汰され易い事はあるかと思います。けれど、言うほどなろう系と違うかな?と
そして「表現」のお話、社会の方ですね。社会の姿の表現を目的とした小説は他ジャンルにもそうないと思います。今を生きる人間が書く物語だからこそ、意図せず社会を反映してしまうだけというか…まあこれは作家それぞれに聞いてみなければ答えの出ない問題だと思いますが
じゃあなろう系は?と言われると、現代社会を反映していると思いますよ?
家より自分、立場より自分、親と子は別と個人の人権を振りかざし続けた結果、未来の自分への投資としての努力も放棄して、今の自分の気持ちよさだけを追求してる辺りが…
端的に言えば、なろう系以外を買いかぶり過ぎでは?という疑問です
強くてモテモテというのも、そこだけなら少年漫画の王道、スサノウとかペルセウスとか英雄譚の昔からある話ですし
蛇足ですが、ならば私はなろう系の何が嫌いなのか
異世界転生が現実逃避的過ぎるからです
息抜きは必要だから、なろう系を必要とする人がいるのはいいと思うのです。ただ、欣求浄土遠離穢土、クソったれな現実からはサクッときれいにオサラバして、なんでも思い通りの異世界でちやほやされる…
で、現実を生きる私達はどうしたらいいの?死ねってこと?
前世をただのソース扱いしないでほしい
無双チートとか異世界知識とか絶世の美貌とか、真似しようのないものを並べられても、入り込めない人間はむしろ生きる気力折られます
では入り込める人が羨ましいかと言われると…その、あまりに主人公に都合のいい世界過ぎて、オナ…自…その、お一人で気持ちよくなってる感じが強くて、書店に書籍として堂々並んでるのとか見ると、「うわぁ」と思います…
ファンタジーであっても、主人公のがんばりを読んで、自分もがんばろうと思える作品が好きですね
作者からの返信
コメントありがとうございます。異論を遠慮なく投げかけていただけるのは、むしろ嬉しいです。
まず、「ジャンル分けとは似たものを分けること」「他ジャンルも同じでは?」という指摘、まったくその通りだと思います。
正直に言いますと、自分の文章を振り返ると、「なろう系」という一つのジャンルを切り取って特別視し、他のジャンル(恋愛SFや書店の文学など)を「本質的に違うもの」とするような、傲慢な構図があったなと自覚しています。
歴史が長いジャンルには傑作が蓄積されているのは当然で、Web小説だから悪い、書店の本だからいい、という図式は成り立ちません。
他ジャンルを買いかぶりすぎていた、というご指摘は胸に突き刺さりました。
そして、「なろう系も現代社会を反映している」というのも、鋭い指摘です。
むしろその通りだと思います。
自分が言いたかったのは「なろう系は現代社会を反映していない」ということではなくて、「反映している現代社会の病理——家より自分、未来への投資としての努力の放棄、今の気持ちよさだけの追求——を、物語が肯定し、麻薬的に消費させる構造」に強い違和感を覚えていた、ということでした。
「強くてモテモテは英雄譚の王道」というのも、その通りです。
ペルセウスやスサノウも、結果的には「強くてモテモテ」でしょう。
結局、差別化できるのは「結果」ではなく「過程と代償」なのだと、改めて感じます。
そして、最後に記載いただいた「異世界転生が現実逃避的すぎる」「前世をソース扱いしないでほしい」「無双チートに並べられても入り込めない」という部分は……正直、とても共感できます。
自分もなろう系と呼ばれる作品を読むなかで何度も同じことを感じました。
前世をただの「設定のソース」にして、現実世界での努力を無意味にするような物語は、読者の中には「生きる気力を折る」人もいる。
それは「息抜き」としての側面を否定するものではありませんが、「あまりに主人公に都合のいい世界」は、共感の余地を奪うし、読後に空虚だけが残ることもある。そこに「うわぁ」と思ってしまう感覚、とてもよく分かります。
「主人公のがんばりを読んで、自分もがんばろうと思える作品が好き」これは、物語に対する素晴らしい欲求だと思います。
自分も、そういう作品を読みたいし、書きたいです。
他ジャンルへの見えないプレッシャーや、一般化の癖を改めなければと反省させられました。
貴重な異論、本当にありがとうございました。
また、遠慮なくぶつけてください。
長文失礼しました。
なろう系に物申す キャラクター編への応援コメント
出版ビジネスが生まれて物語コンテンツが商品として流通するようになってからずっと抱えてる欠陥を、日本という辺境でここ20年以内に出てきたWeb小説プラットフォームの責任のように言ってしまうのも無理があるようにも思いますけど、最近の作品を読んでもキャラクターに惹かれるものがないってのは私も強く感じるところではあります。
小説家になろうでも2012年辺りに連載開始した諸作品は、今読むと驚くくらいキャラクターに魅力あるんですよ。リアリティがあるとかトロフィーじゃないとか、そういう評価軸とは別のこととしてです。ラノベやエロゲの作り上げたキャラクター創作のドグマがこの頃はまだ影響として残っていたからかな?とは思ってます。でも最近のWeb系作家はラノベなんか読んだことないのが当たり前じゃないですか。
今(ここ7,8年くらい)のWeb小説のキャラクターの退屈さは、Web系が台頭する前にラノベや美少女コンテンツを見下してたSFやミステリ、ファンタジー界隈の書いてた表面だけハードな作風の陳腐なキャラクター群と印象が被るんですよね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
まず、返信が遅れて申し訳ありません。
「出版ビジネスの欠陥を、なろう系の責任のように言ってしまうのは無理がある」まさにその通りだと思います。
自分は「なろう系」という一つのプラットフォームに矢を集中させて、そこが「特別に堕落した場所」のように語っていましたが、振り返れば「商品としての物語」が生み出してきたキャラクターの陳腐化は、もっと長い歴史の中で出版全体が抱えてきた問題だったのだと、今は強く感じます。
そして、2012年頃の作品には「今読むと驚くくらいキャラクターに魅力がある」というお話、とても興味深いです。
自分はどうしても「最近の傾向」に目が行きがちで、そこから「なろう系=キャラクターが終わっている」と結論づけていましたが、同じプラットフォームでも時期によってここまで違うのか。
そして、その背景に「ラノベやエロゲのキャラクター創作のドグマ」があったという推測、これは考えもしなかった視点です。
確かに、ラノベや美少女コンテンツが築き上げてきた「キャラクターとしての語法」例えば「口調と小物で個性を付ける」「過去のトラウマで動機を補強する」といった、ある種の職人的な技術の蓄積があったはずです。
それが2012年頃のなろう作品には、まだ生きていた。しかし最近のWeb系作家はラノベを読んだことがないのが当たり前になり、そこからの継承が途絶えた結果、キャラクターが「退屈」になったのかもしれない。
そして、最も胸を突かれたのは、「最近のWeb小説のキャラクターの退屈さは、ラノベや美少女コンテンツを見下していたSFやミステリ、ファンタジー界隈の『表面だけハードな作風の陳腐なキャラクター群』と印象が被る」という指摘です。
自分は「なろう系」を批判する際に、無意識のうちに「ラノベ=古い・陳腐」「Web小説=新しい・だが堕落している」という思いもしない図式を描いていたのかもしれません。
しかし、実際には「ラノベのドグマ」を継承していないWeb小説が、かつてラノベを見下していた「純文学寄りのハードSF・ミステリ」が陥っていた「キャラクターの陳腐さ」と同じ穴に落ちている。
これは皮肉な構造です。
つまり、なろう系のキャラクター問題は、「新しいジャンルの堕落」ではなく、「キャラクター創作の伝統から切り離された書き手」がどこに陥っても起こりうる「普遍的な退化」だったのかもしれません。
自分は「なろう系」という枠に囚われて、その普遍的な構造を見逃していました。
貴重な指摘、本当にありがとうございました。
自分の「批評」は、まだまだ歴史的文脈を無視しすぎていたと痛感します。
もっと広い視野で、もっと長い時間軸で、創作の問題を見つめ直したいと思います。
編集済
なろう系に物申す 作者と読者の理念編への応援コメント
はじめまして。秋定弦司と申します。
全編を通して読ませていただきました。
最初に抱いた印象は、これは単なる「なろう系批判」ではない、というものでした。
テンプレート、チート、無双、ハーレム、薄いキャラクター、ゲーム的な世界観、戦闘や戦争の軽さ、差別や奴隷制の扱い、作者と読者の関係。
扱われる題材は、回を追うごとに広がっていきます。
しかし、その根底にあるものは一貫しています。
筆者は、努力や葛藤、代償、歴史、人間の尊厳といったものが省略され、主人公にとって都合のよい快楽だけが残されることに、強い嫌悪を抱いているのでしょう。
チート能力そのものが嫌いなのではありません。
力を得るまでの過程も、得た後の代償もなく、ただ勝利だけが与えられる構造が嫌いなのだと思います。
恋愛やハーレムそのものが嫌いなのではありません。
女性キャラクターが一人の人間として描かれず、主人公の優しさや魅力を証明するための賞品やトロフィーにされることが嫌いなのでしょう。
戦争を扱うことが嫌いなのでもありません。
死や破壊、略奪、捕虜、民間人被害といったものが消され、主人公が活躍するための派手な舞台装置にされることを嫌っているのだと思います。
その問題意識自体は理解できます。
むしろ、前半のキャラクター論や世界観論には、首肯できる部分も多くありました。
主人公に都合よく好意を寄せる女性。
何の背景もなく、主人公に倒されるためだけに残虐行為を繰り返す敵。
身体能力で人間を上回る獣人が、なぜか人間に従属している世界。
長年の経験や技術が、レベルやステータスの数字一つで無意味になる戦闘。
こうした設定に対して、「なぜそうなるのか」「その社会はどのように成立しているのか」と問いかける姿勢には、創作論として一定の意味があります。
特に種族差別や奴隷制について、単に「差別はよくない」で終わらず、支配が成立するためには武器、技術、人口、経済、組織、分断統治などの構造が必要だと述べた部分は、この連作の中では比較的筋が通っていました。
ただし、読み進めるにつれ、違和感も大きくなっていきました。
筆者は「なろう系の一部作品について述べているのであり、すべてを批判しているわけではない」と何度も断っています。
しかし実際の文章では、「なろう系では」「大抵のなろう系は」「ほぼほぼ」という一般化が繰り返されています。
具体的な作品を挙げず、「自分が見てきた多くの作品」という範囲で論を進めるため、反証することも難しくなっています。
例外は存在すると認めながら、本文ではほとんど例外を考慮していません。
この時点で、批評というより、筆者が抱いてきた嫌悪感を正当化するための長い演説に近くなっています。
さらに気になったのは、読者への態度です。
反論や異論は歓迎すると言いながら、最後まで読まなければ敬意がない、知らないなら歴史への敬意が足りない、義務教育を受けた知性ある人間なら知っているはずだ、女性とまともに関わったことがあるのか、人生で本気のライバルを持ったことがあるのか、と繰り返しています。
これは反論を歓迎しているように見えて、実際には反論者の資格を筆者自身が決めているように感じます。
自分に異を唱える人間を、無知、未熟、経験不足、不誠実の側へ、あらかじめ追いやっています。
批判コメントを削除する作者を「対話から逃げている」と批判していますが、自分の文章もまた、異論を述べる相手が立てる場所を狭めています。
コメントを削除してはいません。
しかし、異論を述べる前に「あなたには知性や経験や敬意があるのか」と迫るのであれば、構造としては大きく違わないのではないでしょうか。
もっとも大きな問題を感じたのは、戦争描写編から戦争犯罪、性暴力へと論が進んだ部分でした。
当初の問題提起は理解できます。
戦争を主人公無双の舞台として描き、敵兵や民間人を数字や背景として処理する作品に対し、現実の戦争はそれほど軽いものではないと訴えたいのでしょう。
しかし、そのためにシベリア抑留、南京事件、都市空襲、捕虜虐待、戦時性暴力、ウクライナ侵攻など、実在の被害を次々と持ち出していきます。
ここまで来ると、なろう系批判と戦争犯罪の記述の関係が逆転しています。
なろう系の戦争描写を批判するために、現実の惨禍が論拠として使われているように見えてしまいます。
筆者は、人間の命や尊厳を物語上の小道具として消費することを批判しています。しかし一方で、実在の戦争被害や性暴力を、自分のなろう系批判に重みを与える材料として用いてはいないでしょうか。
もちろん、戦争犯罪について書いてはいけないという話ではありません。
歴史を語ることも、被害を記録することも、フィクションの安易さを批判することもできます。
しかし、実在の犠牲を持ち出すのであれば、それが本当に被害そのものを考えるためなのか、それとも自分の批判を強く見せるためなのかは、慎重に問われなければなりません。
とりわけ性暴力は、読者に「現実を肌で感じてもらう」ための刺激的な材料ではありません。
被害者の尊厳や、その後の人生、沈黙せざるを得なかった人々の存在まで含んだ問題です。
そして、ここで強く思いました。
「現実から逃げずに書け」と言う前に、「書かない自由」について考えたことはあるのでしょうか。
戦争体験や被害の記憶が、すべて語られるとは限りません。
当事者が語らないこともあります。
遺族が書かないこともあります。
家族の傷を作品にしないと決めることもあります。
それは逃避ではありません。
歴史への不誠実でもありません。
創作者としての覚悟不足でもありません。
書くことだけが誠実さではありません。
書かずに抱えること、他人の目に触れさせないこと、作品の材料にしないことも、一つの倫理です。
現実に存在した苦しみを知っているからこそ、あえて書かない人もいます。
家族の傷を「創作の深み」や「説得力」に換えない人もいます。
そうした沈黙まで、「重い題材から逃げている」と評価されてよいはずがありません。
筆者が語る「創作の覚悟」は、次第に「自分が重いと考える現実を、他の作者も同じ重さで描くべきだ」という要求に変わっているように見えます。
しかし、創作には選択があります。
どこまで描くのか。
何を描かないのか。
どの視点を取るのか。
写実に寄せるのか、寓話にするのか。
娯楽として割り切るのか。
その選択を批判することはできます。
しかし、自分の倫理観を唯一の正解として、他者の作品や読者の人格まで裁くこととは別です。
最終回では、批判コメントを削除する作者や、肯定だけを求める読者、「いいね」やランキングによる評価経済が批判されています。
作者も読者も安全圏に閉じこもり、互いに同じ型を再生産しているという指摘です。
この問題意識にも、理解できるところはあります。
ただ、筆者自身もまた、自分の創作観という安全圏の中にいるのではないでしょうか。
努力、現実、葛藤、歴史、人間の尊厳を重視する。
それ自体は筆者の自由であり、創作理念として尊重されるべきです。
しかし、その理念に合わない作品を「気持ちが悪い」「薄っぺらい」「終わっている」と断じ、異論を述べる読者には知性や経験を要求しています。
それは、自分の安全圏を壊して対話している姿勢なのでしょうか。
「批判を受け止めろ」と他者に求める人ほど、自分の論が批判される可能性にも開かれていなければなりません。
この連作を読み終えて残ったのは、なろう系に対する批判への賛否だけではありませんでした。
むしろ、筆者が創作に対して非常に強い理想を持ち、その理想に反するものを許せなくなっている姿でした。
筆者は、創作を軽い消費物にしたくないのでしょう。
人物を人間として描いてほしい。
努力や過程を描いてほしい。
戦争や差別や奴隷制を安易な道具にしてほしくない。
作者も読者も、互いに都合のよい言葉だけを求めず、本気で作品に向き合ってほしい。
その願いは理解できます。
しかし、その願いが強くなりすぎると、他者の創作の自由や、読者の読み方、さらには当事者や遺族が沈黙する自由まで圧迫しかねません。
創作には「書く覚悟」があります。
同時に「書かない自由」もあります。
重い題材を選ばない自由もあります。
描写を省略する自由もあります。
娯楽に徹する自由もあります。
そして読者には、それを浅いと批判する自由がある一方で、作者を未熟、無知、不誠実と決めつけない節度も必要でしょう。
この連作は、整った批評ではありません。
具体例や論証よりも、筆者の怒りと確信が前へ出ています。
しかし、だからこそ筆者が何を創作に求め、何を許せないと思っているのかは、はっきりと伝わります。
なろう系批判というより、筆者自身の創作理念を剥き出しにした長い告白です。
ただし、その理念を他者に突きつけるのであれば、一度立ち止まって問う必要があります。
現実の重さを語ることと、現実の傷を自説の材料にすることは同じなのでしょうか。
書くことと、誠実であることは同じなのでしょうか。
語らない人、書かない人、娯楽として描く人にまで、自分と同じ覚悟を要求してよいのでしょうか。
「書く覚悟」をこれほど強く説くのであれば、最後にもう一つだけ聞きたいです。
「書かない自由」も、当然ありますよね。
作者からの返信
全編を通してお読みいただき、しかもこれほど深く、丁寧に、そして厳しくご指摘いただいたこと、まず深く御礼申し上げます。
仰っていることは、ほぼ全て、その通りだと受け止めています。
「なろう系では」「大抵のなろう系は」という一般化に依存し、具体例を示さずに論を進めたこと。それは批評ではなく、自分の嫌悪を正当化する演説でしょう。
「反論歓迎」としながら、実際には「最後まで読め」「知らないなら敬意がない」と、異論を述べる相手の資格を自分で決めていたこと。
皮肉にも構造的に、まさに自分が批判していた「対話の拒否」と同じでした。
そして、最も胸に突き刺さったのは、実在の戦争被害や性暴力を、なろう系批判に重みを与える「材料」として消費していたことです。「人間の尊厳を小道具にするな」と言いながら、私自身が歴史の傷を論拠の小道具にしていた。これは完全に指摘の通りです。
「書かない自由」について、考えたことがありませんでした。当事者が語らないこと、遺族が書かないこと、家族の傷を作品の材料にしないことを選ぶ倫理。そうしたものに気がついていませんでした。
私自身、まだ経験の浅い若者です。だからこそ、若者特有の勢いと熱量でこの作品を書き上げたかった。
しかし、その熱量のままに書いたことが故に、見るべきものを見逃し、考えるべきことを考えず、自分の創作観という安全圏の中で、他者を断罪する言葉を並べてしまっていたのだと思います。
勢いはあったけれど、それは対話ではなく、ただの熱風になっていたのでしょう。
「自分の創作観という安全圏にいた」ことも、その通りです。「気持ちが悪い」「薄っぺらい」「終わっている」という言葉で、自分の理念に合わないものを断罪していた。それは対話ではなく、一方的なものでしょう。
「批判を受け止めろ」と他者に求めながら、自分の論が批判される可能性にあまり開かれていなかったことも、今回のご指摘を受けて強く自覚しました。
秋定弦司様の最後の問いにお答えします。
「書かない自由」は、もちろんあります。
そして、その自由を知った上で初めて、「書く覚悟」にも誠実さが生まれるのだと、今、強く感じています。後者を知らずに前者を語ると、ただの押し付けになってしまう。まさにその通りでした。
このコメントは、私にとって単なる「批判」ではなく、壊さなければならない「殻」そのものでした。本当に、ありがとうございました。
まだまだ未熟ですが、少しでも誠実な創作者になれるよう、これからも精進します。何かあれば、またご指摘いただければ幸いです。
なろう系に物申す 作者と読者の理念編への応援コメント
今回の話については、少し懐疑的に捉えました。
私は、作者は基本的に『自分の読みたい物を自給自足している』という生き物で、読者は『自分の肌に合うものを探している』という生き物だと思っていました。
そして、コメントも書きたければ書けばいいし、作者も返信したければ返信すれば良いと思っています。
ランキングも選択の1つの指標ではあるものの、実際の中身が保証されているものではないので、そこまで皆さん気にしていないのかなと。
そして、「この展開は唐突でした」、「キャラクターの動機が分かりませんでした」あたりのコメントは作者が貰ったら最も嬉しい部類のコメントかなと思いますので、こういうコメントを削除する作者の気持ちが分からない部分は同意します。
自身の作品を良くしたいというより、そこまで深く読んで理解してくれているんだなという気持ちが芽生えるためです。
これを批判と捉えるのは、考え物だなと率直に思います。
コメント内容が右往左往してしまい、失礼いたしました。
作者からの返信
確かに、「作者は自給自足、読者は探すだけ」というのは、Web小説の生態系を見る上で非常にリアルな描写だと思います。
僕が「理念」なんて大げさな言葉を使ったのは、少し熱くなりすぎた結果かもしれません。申し訳ないです。
ただ、僕が問題にしたかったのは、「強制すべきだ」ということではなくて、「プラットフォームの設計が、自然と『共感だけが可視化される』構造になっている」ことなんです。
作者も読者も自由に振る舞えるべきだし、実際そうしている。
でも、その自由の中で、気づかないうちに「異論を排除するバブル」が完成してしまう。それが個人の悪意ではなく、システムの帰結であることを指摘したかっただけです。
理念を押し付けるつもりは毛頭ありません。
ただ、「こういう仕組みがあるよ」と知っていただければ、ということです。
異なる視点からの冷静な指摘、とても勉強になりました。ありがとうございます。
なろう系に物申す 世界観、種族差別編への応援コメント
読んでいて、フィクションとして許容できる部分と、出来ない部分の差異について考えました。
仰りたいことは、『創作された世界においてのルールが明文化、若しくは示唆可能か』という観点と、『その環境下で生きてきた生物が、妥当な思想・行動を伴っているか』という観点が抜け落ちている作品が多いよね、ということなのかと思いました。
作品の世界観を深めるために必要なコストとして記載することで、読者離反が起こり、それを忌避する作者も多いのでしょう。
私としても、世界観は示唆可能な形で深みを持たせてほしいと思いますので、同じ意見です。
作者からの返信
Pyayume様、いつも鋭いご指摘をありがとうございます。
「ルールの明文化・示唆可能性」と「その環境下での妥当な思想・行動」、まさに言語化できていなかった核心をついていただきました。
僕が「なんとなく差別されている」と感じたのは、まさにその二点が欠けているからです。
創作された世界の「ルール」が曖昧で、そこに生きる人々の行動が「この環境ならではの合理性」を持っていない。だから「作者の都合」だけで動いているように見えてしまう。
「世界観を深めるコストとして読者離反が起こる」という指摘も、痛いほどその通りだと感じます。
僕もnote版で書いていて、どこまで深く掘るかの線引きに毎回悩みます。深く掘りすぎると「堅苦しい」と離れていくし、浅すぎると「薄っぺらい」ままです。
「ルールの中での妥当性」という言葉、次回以降の創作でも意識させていただきます。
本当にありがとうございます。
なろう系に物申す キャラクター編への応援コメント
恐らく、凡庸ななろう系の作者の創作過程は、設定よりも自分がカタルシスを感じるシーンが先行するのだと思います。
「モテモテのシーンがみたい!」、「純然たる悪を一発で黙らせたい!」みたいなシーンが先に浮かんで、それに対して一直線になるようにキャラクターを作ってしまうのだと思います。
作者がキャラクターを動かしてしまうので、尾だけの猫が主張しておられる『薄っぺらさ』に必然的に繋がるのかなと思いました。
創作時に、人間と世界の構造を先に作り、その構造の中に人間を置き、そこから必然的に発生する変化を観察していくと言うスタイルであれば、創作時に矛盾が起きにくいですし、キャラクターも矛盾なく深みが出るのだと思います。
しかし、この手法は非常にコスト(時間的にもロジック的にも)がかかりますので、なかなかそのコストを捻出出来ないというのが実態なのかな、とも思います。
私は創作時の設定資料が有れば、それも読みたいタイプなので、きちんと設定資料を公開している作品を探してみるというのも、自分の舌に合う小説を選ぶヒントになるかもしれません。
長文失礼いたしました。
作者からの返信
Pyayume様、的確な分析をありがとうございます。
「カタルシスシーンが先行して、それに一直線になるようキャラを作る」、この表現、まさに「操り人形」と同じ構造ですね。
キャラクターが「こう動きたい」という自律性ではなく、「作者が見たいシーンのために動かされる」存在になってしまう。だから「中身がない」んです。
僕も、なろう系を読んでいて「このキャラ、なんでここで惚れるんだ?」「なんでここで反撃するんだ?」と違和感を覚えるのは、シーンのためのキャラだからだと思っていましたが、Pyayume様のおっしゃる「創作過程」の問題に気づきませんでした。
まさに「シーン→キャラ」という工程自体が、キャラクターの主体性を殺しているのかもしれません。
しかも「この手法は非常にコストがかかる」という指摘、それが「凡庸ななろう系」が量産される理由の一つなのかもしれません。時間的にもロジック的にもコストがかかるから、テンプレートに逃げてしまう。そこに「即効性・効率性」の構造が繋がっていくんですね。
「シミュレーション」という言葉、僕が小説に求めているものを的確に表しています。一定のルールの中で、キャラクターが自己整合性を持って動く物語。
それが見たいんです。
ありがとうございます。
なろう系について物申すへの応援コメント
私も同じように『なろう系』と括られるものには、即効性と効率性を追い求めた作品が多くあるという印象です。
多くあるとしたは、中には『努力』や『苦労』が論理的に積みあがった作品もあるからです。
努力や挫折が丁寧に描かれた作品(俗にいう『ストレス回』)は私も好んで読んでいますし、無ければ自給自足するというスタンスです。
さらに、個人的に小説に求めているのは、『一定の世界(ルール)の中で、そのルールを準拠したキャラクターが動作するようなシミュレーション』が見たいと思っています。
文章を読みながら、尾だけの猫様も理屈や論理がきちんと整合している物語を欲しておられるのかな、と思いました。
とりとめのない文章になりましたが、親近感が湧いたため、私が読んだ所感を記載いたしました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「一定のルールの中で、整合性を持って動くキャラクターのシミュレーション」——この表現、とても心地よく胸に落ちました。まさに私が物語に求めているものの一つです。
実は最近、他の読者様から「『なろう系では』と一般化しすぎている」という厳しい指摘を受けまして。改めて自分の文章を振り返ると、確かに「即効性・効率性」を追い求める傾向のある作品群を「なろう系全体」のように語ってしまっていたな、と自覚しています。
だからこそ、ご指摘の「努力や挫折が論理的に積み上がった作品もある」という言葉は、とてもありがたいです。「ストレス回」を自給自足されるとのこと、私も負けていられません。
ルールの整合性と、キャラクターがその中で納得のいく動機で動く物語。それがあれば、チートであろうとハーレムであろうと、決して「薄っぺらく」はならないと思います。
むしろ、その整合性の中でキャラクターが苦しみ、這い上がる姿こそが、物語の重みになるのでしょう。
親近感を抱いていただけたとのこと、こちらこそ嬉しいです。
今後も、もっと多様な作品を謙虚に受け止めながら、自分の創作にも活かしていきたいと思います。
なろう系に物申す キャラクター編への応援コメント
こちらも前回と同じくになってしまいますが「中身がない」のが原因かと思いますね。
私は、こちらで仰られるようなキャラのことを「(作者の、あるいはストーリーの)操り人形」や「ただ配置されただけの駒」と呼んでますねw
キャラが「生きてない」んです。
「中身がない」んですから当然ですけどね。
本来、作者は「キャラに命を吹き込まなければならない」と思うのですが……あまりそれが重視されていないように感じてしまいますねぇ。
重要視している作者や読者が少数派……などとは思いたくはありませんが、この界隈を見ていると自信がなくなってしまいます。
あ、ちゃんと「生きているキャラ」であれば「社畜おっさん」でも「いじめられっ子」でも、何でもいいと思ってますw 「バカ」でも「安直な正義の味方」でも「ハーレム願望エロガキ」でも何でもいいと思いますよ。
最後に少しだけ反論ですが、「リアルの経験」は創作に絶対必要というワケではないと思いますね。
そりゃあ恋愛やライバルなどの経験はないよりあった方がいいとは思いますけど、なくても書けますよ。
ファンタジーやSFを「実際に体験した人」なんていませんしね。
子供だって「大人を書く」ことはできますし、戦争を経験しなくても「戦争もの」は書けます。
私はオッサンですが、女の子が主人公の話も書いてますしw
まぁ「経験があった方がいい」という点に異論はありませんが。
作者からの返信
確かに「中身がなく、だからキャラが生きていない」という指摘、すごく鋭いと感じました。
多くの「なろう系」作品を見てきた個人的な感想なのですが、あの手のキャラって、私たちが寝る前や暇な時にする「現実逃避の妄想」の延長線上にいる気がするんです。
現代社会がその現実逃避を加速させているからこそ、ああいったキャラが受け入れられ、生まれてくるのかなと。
ある程度は時代背景として仕方ないのかもしれません。
あと「リアルな経験が必要」と書きましたが、確かに経験がすべてではなく、それがなくても描ける部分はたくさんありますね。
ただ、自分自身がどうしても今の流行に乗りきれない「リアル信者」なところがあり、少し主張を強く書きすぎてしまったなと反省しています。
繰り返しになりますが、気づきのあるご指摘とコメントをありがとうございました。
なろう系について物申すへの応援コメント
始めまして。突然ですがコメント失礼します。
ずいぶんと挑発的な内容に惹かれて来ましたw
まず決して反対意見ではないことを最初に謝罪します。
仰られることはよく分かりますね。完全同意……ではありませんけど、同じようなことを私も考えてしまいます。
「なろう系は嫌い」とハッキリ仰ってますけど、実際には「なろう系作品をよく読んできた」ということも、お話の内容から分かります。
私はなろう系……というか、テンプレ自体は好物なんですけどねw
ただし、仰られる通り似通った設定・展開が多いのは事実です。そして、それが行き過ぎた作品は「オリジナリティ」がなく「中身もない」ですね。
私はこれを「ガワだけの作品」や「ただのテンプレ」と言っています。
尾だけの猫さまが嫌いな作品も、これらなのではないでしょうか。
もちろん、なろう系にも「オリジナリティと中身のある素晴らしい作品」もあります。
私はこれを好物としていますし、きっと尾だけの猫さまもこういった作品まで嫌いではないのでは……と思います。
まぁカクヨムやなろうでだけでなら、中身のない作品がいくら生まれても私は気にしないんですけどね。元々「素人の作品を投稿するサイト」なんですし。
私が気に入らないのは、そういった「中身のない作品が次々に書籍化している」という事実です。
そのおかげで安易に中身のない作品がコピーされ、さらに増えることで良質な作品が埋もれ、評価されて書籍化するのも多くはテンプレなろう作品ばかりです。
もちろん全てではありませんが「こういった傾向がある」ということは誰にも否定できないかと思います。
私は「テンプレでも、なろう系でもいい」と思っています。
しかし「中身のある作品」であって欲しいですね。書籍化されるような作品であればなおさらです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
まずはじめに、少し挑発的な表現になってしまったことをお詫び申し上げます。
私自身、いわゆる「なろう系」と呼ばれる作品を読み込んできた経験があるからこそ、不満を感じると同時に「もっと良くなるのに勿体ない」という強い思いがありました。
なお、note版ではそのことについてより知的な構成にまとめておりますので、よろしければご覧いただけますと幸いです。
note版では挑発的な表現をかなり抑えておりますので、不快感なくお読みいただけるかと思います。
もちろん、ボルコム様のように「いまのままで良い」と考える方もいらっしゃいますし、捉え方は人それぞれだと考えております。
実際に、ボルコム様のご意見には深く感心させられる部分もありました。
唐突ではありますが、こうして自分の思いを伝えることで価値観の違いを実感できる点こそ、このプラットフォームの素晴らしいところだと改めて感じております。
改めまして、異なる視点からの貴重なコメントをいただき、ありがとうございました。
なろう系に物申す 作者と読者の理念編への応援コメント
拝読しました。構造の話として非常に面白かったです。特に「共感は可視化され、異議は不可視化される」という指摘は、わたしも常々意識している事柄で、プラットフォームの評価設計そのものを突いていて、鋭いと思いました。
その上で、引っかかった部分を書かせてください。
この論の射程に、趣味で書いている個人と商業作家、そして業界構造の三つが同居しているように感じました。文豪を規範として引く以上、そこには「創作者たるものこうあるべし」という基準が前提されますが、無償で公開している趣味の書き手にまでその基準を適用するのは、少し酷ではないでしょうか。「批判は削除します」という一文も、そう読むと自衛として理解できる余地があります。
逆に、対価を受け取っている書き手がそれをやるなら問題だ、というご指摘には完全に同意します。批判を排した結果が市場の画一化を促し、業界全体を最終的に破壊してしまうことにつながると私も思います。
つまり論点を、個人ではなく市場とプラットフォームの設計に向けたほうが、刺さるのではないかと思いました。
読者の側についても同じことを感じています。「読者にも罪がある」と書かれていましたが、需要が供給を作っているだけであって、そこに罪を見出すと構造の話が道徳の話に落ちてしまう気がします。ブラッドベリが『華氏451』で、政府が焼く前に大衆が選んだのだと繰り返し語りながら、それでも大衆を糾弾する物語にはしなかったのは、そのあたりの線引きだったのかもしれません。
異論歓迎とのことでしたので、遠慮なく書かせていただきました。次回も楽しみにしています。
作者からの返信
ご丁寧な異論、ありがとうございます。
まさに「論の混在」を指摘され、背中を正しく押された気がします。
確かに、文豪を引き合いに出した時点で「創作者あるべき論」の臭いが漂っていたと思います。
ただ、あえて弁明すると、私が問題にしたかったのは「無償だから何をしてもいい」という空気ではなく、「プラットフォームの設計が、無償・有償を問わず『批判排除』を合理的な選択にしてしまっている」点だったのですが、それが個人攻撃に見える語り方になってしまっていたのは、文章力の未熟さです。
三層混同については完全に同意です。
趣味の書き手に文豪の背中を押し付けるのは無理があったと感じます。
「批判は削除します」も、個人の自衛として理解できる余地は確かにあります。
ただ、それが「プラットフォームの標準」になってしまうと業界が死ぬ、という線引きは、もっと明確に「市場とプラットフォームの設計」に向けて語るべきでした。
「読者の罪」についても、仰る通りです。「需要が供給を作る」を「罪」と呼ぶと、構造論が道徳論に墜ちます。
ブラッドベリが『華氏451』で大衆を糾弾しなかったのは、焚書が「システム」であったからだと今回のご指摘で改めて気づきました。
読者を「共犯者」と呼んだ私の方が、むしろ安易な道徳主義でした。
今回のコメントは次回以降に活かさせていただきます。
こういったコメントは本当にありがたく、自分自身の思考をさらに深められると感じています。
やはり、こういった場を活かすことで自分自身が成長できるのだと感じます。
繰り返しますが、ご指摘ありがとうございました。
おまけ 戦争犯罪について。への応援コメント
南京事件のいちばん厄介なところは、犠牲者数の「正確な真相」が、もはや誰にも証明できないという点だと思います。中国側が数字を政治的に水増ししてきたことが、かなり確からしいとしても、ではこちら側が史料に基づいて誠実な推計を出せば信用されるかというと、そうはなりません。
なぜなら、加害者の側が出す数字には、どれだけ正確であろうと「被害を少なく見せたいはずだ」という疑いが、構造的に貼りついてしまうからです。この非対称性からは、当事者である限り誰も逃れられません。
つまり、加害も被害も、戦争が終わった後には「正しい数字」という形では決して回収できない。事件直後に利害関係のない第三国が調査するのが一番、信用性の高いことですが、当時の情勢や戦争はそれを許しませんでした。
戦争の悲惨さとは、人が死ぬことだけでなく、その死にまつわる事柄すら確証を持てなくなることかもしれません。
作者からの返信
柊様、非常に深く、かつ本質的なコメントをいただきありがとうございます。
「加害者側がどれだけ誠実に数字を出しても、構造的な疑いから逃れられない」という非対称性の指摘、そして「死にまつわる確証すら失われること自体が戦争の悲惨さである」という視点は、私にとって非常に新鮮な発見であり、深く考えさせられました。
確かに、戦争という狂気は物理的な命を奪うだけでなく、戦後における「その死を悼むための客観的な事実や真実」すらも政治や立場の霧の中に消し去ってしまう。この構造自体が、戦争が残す最大級の不条理(二次被害)なのかもしれません。
この作品で書いた「勝者と敗者、被害者と加害者の間で歴史が都合よく書き換えられていく」というテーマにも深く響き合う、素晴らしい視点を共有していただき本当に感謝感激雨あられです。
こうした有意義な議論ができることを、書き手としてとても嬉しく思います。
なろう系について物申すへの応援コメント
率直に言うと、記事そのものよりも、「自分の好みに合わないジャンル全体を切り捨てるような姿勢」に違和感を覚えました。
なろう系には確かに共通するテンプレートやお約束がありますが、それはミステリーや恋愛小説にも同じことが言えます。
エンタメ作品には「気軽に楽しめること」そのものに価値がありますし、読者全員が社会問題や重厚な人間ドラマを求めているわけではありません。
また、「なろう系にはオリジナリティがない」と断言しながら、一部のテンプレート作品だけを例にジャンル全体を語ってしまうのは、少し視野が狭いようにも感じました。
個人的には、作品への批評以上に、「自分の価値観こそが創作の正解である」という前提で語られている点が気になりました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
たしかに、おっしゃる通りにこの作品は自分の主観で書かれたものであり、共感できない方々もちろんいると思っております。
そして、読み手への配慮が足りず、熱意が先行してしまった部分がありました。
これは自分の力不足でございます。
自分は気軽に楽しめるジャンルを一方的に非難したいわけではありません。
近現代、娯楽は多様化し、今までとは違い手軽に楽しめる娯楽が社会一般的に好まれるようになりました。
今後の世界でも、より一層手軽に楽しめる娯楽は広まっていくと思っております。
しかし、「手軽さ」が「唯一の正解」にならないことを、願っているだけです。
なろう系全体をテンプレートで駄作と断ずるのは、確かに飛躍でした。
正確には、「特定のテンプレートが溢れ、それがジャンルの顔になっている」ことへの違和感を書いたつもりでしたが、うまく言葉にできていませんでした。
ただ、「エンタメには"気軽に楽しめること"自体に価値がある」と言うなら、それは受け入れます。
しかし、「気軽に楽しめる」ことと、「テンプレートを無批判に流用すること」は別の問題ではないでしょうか。
ミステリーや恋愛小説にもテンプレートはある——その通りです。
しかし、「なろう系」というジャンルは、Web小説という媒体の特性上、テンプレートの再生産が圧倒的に速く、かつ大量に行われる。その結果、「テンプレート=ジャンル」という認識が固定化し、多様性が失われるリスクが、他のジャンルよりも高いと感じています。
「努力の大切さ」を親友から学んだ経験は、私の宝物です。
しかし、それを「すべての読者に求めるべきもの」として提示したのは、私の傲慢です。
ただ、「努力」を描かない作品が悪いとは言いません。
言いたかったのは、「努力の"結果"があまりにも安直に報われる」構造が、現実の努力と乖離しすぎていることへの違和感でした。
これは「努力を描け」と言っているのではなく、「努力と報酬の関係を、もう少し複雑にしてほしい」という願いです。
異なる視点からの貴重なコメント、ありがとうございました。
neon様の意見は後の創作で活かさせていただたいと思っております。
「自分の価値観こそが創作の正解」という前提を、もっと自覚的に扱うように気をつけていきます。
なろう系に物申す 戦闘、戦争描写編への応援コメント
はじめまして。
私も戦争作品を扱う身として、単純なジュブナイルや無双に昇華するミリタリー作品を横目で睨みながら執筆をしております。
なろうと呼ばれる全ての作品がそうであるとは思いませんが、最も警戒しているのは、善悪がはっきりしていて、それでいて戦いがすべてを解決するという構造です。
書かれているように、戦争犯罪もなく、主人公サイドは聡明で敵は野蛮といった描き方で戦いを肯定する。これは暴力礼賛につながり、フィクションであっても危険だと感じております。
現実と幻の境界は常に曖昧なものです。その曖昧な境界の上で、暴力を快楽として反復し続ける行為は、いつか社会に手痛いしっぺ返しとなって返ってくるのではないか。そう思えてなりません。
作者からの返信
コメント有難うございます。
確かに、なろう系と呼ばれる作品のすべてがそうであるとは限りませんね。
しかし、おっしゃっていただいた「暴力を快楽として反復することへの社会的なしっぺ返し」という懸念については、私も強く同感しております。
実は私自身、未熟ながらも戦争や政治をテーマにした作品を本格的に執筆し始めたばかりの身です。
そうした立場にあるからこそ、善悪の二元論で一方的に敵を野蛮に描き、戦いさえすれば何もかもが解決するような「都合の良い無双作品」に対して、どこか強い危機感を抱いておりました。
善悪は決して単純な二元論で語れるものではなく、戦争や争いもまた、すべてを綺麗に解決する手段などではあり得ないはずです。
同じような問題意識を持たれている創作の先輩様と、このような場でお会いし、言葉を交わせたことを大変光栄に思います。
僭越ながら、私はまだ学生でありまして、この「なろう系について」という中でも、勉強不足ゆえに拙い主張や偏った表現をしてしまっているかもしれません。
もし気になる点や不自然な記述がございましたら、ぜひご指摘いただけますと幸いです。
温かくも深いご指摘、本当にありがとうございました。
これからも、素晴らしい作品の御創作、応援しております。
なろう系について物申すへの応援コメント
でもweb読者はその気持ち悪さを求めているので読まれたいなら迎合するのが手っ取り早いと思います。
もちろんなろう系以外でも伸びてる作品はありますが例外を真似してもほとんどの人は成功しない。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
確かに、「手っ取り早くアクセスを伸ばす」という商業的な観点に立てば、なろう系のテンプレートに迎合することが最も効率的である、というのは全くその通りだと思います。
そして、多くの読者がその「手軽なカタルシス」を求めているという現状も、重々承知しています。
しかし、僕がここで書きたかったのは「どうすれば手っ取り早く伸ばせるか」という技術論やマーケティングの話ではありません。
ここで僕が問題にしたいのは、「伸びないからテンプレートに逃げる」「伸ばしたいからテンプレートをなぞる」という姿勢が定着した結果、創作における「オリジナリティ」が蔑ろにされていないか、ということです。
安易なテンプレートへの依存は、見方を変えれば「自分自身のアイデアで読者を惹きつけることを諦めた」とも言えるのではないでしょうか。
もちろん、テンプレートを器用に使いこなしつつ、独自の魅力的な作品を作られている作家様を否定するつもりはありません。
インターネットによって誰もが簡単に小説を発信できる時代になったからこそ、数字を追い求めるためだけの模倣に終始するのではなく、自分自身の言葉や感性で「自分流の物語」を紡ぐことの大切さを信じたい、と僕は考えています。
ちなみに、僕を批判するのはもちろん良いです。
こんな大勢を敵に回すようなことを書いている人など批判されて当然です。
すみません、長々と書いてしまいました。
兎にも角にも、異なる視点からの貴重なご意見、ありがとうございました。
なろう系に物申す 最終章「知っていて、あえて省略する」――創作者の倫理と、これからの物語への応援コメント
素晴らしいお話を、本当にありがとうございました!
行間を読む。
本当に、まさに!
そのほんの一瞬の隙間に、隠された真実があるんですもんね!説明しなくとも感じ取れる歴史が。
尾だけの猫様のこの作品を拝読させていただいて、これほど勉強になったものはございません!
堂々と、はっきりとものを申すスタンス、本当に素敵です。
私も、多くのことを学んだうえで、それを白々しく説明せず、行間で伝えられるような深い小説が書けるように頑張りたいと思います!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
最終話まで読んでいただき、しかも「行間を読む」という言葉を拾ってくださったこと、本当に嬉しく思います。
「堂々と、はっきりとものを申すスタンスが素敵」
そう言っていただけたこと、恐縮です。
実際には、最初はただの愚痴で、途中で色々な方に指摘されて、ようやく少しだけ「堂々と」なれたようなものです。
しかし、そう見てくださったなら、ここまで書き続けてきた甲斐があったと思います。
確かに、物語の醍醐味は「書かれた言葉」ではなく、「書かれていない沈黙」にあると思います。
作者が知っていて、あえて黙した部分。
読者がそこに想いを馳せることで、初めて完成する世界。
「白々しく説明せず、行間で伝える」
それはまさに、この連載で最後に届けたかったことです。
そう感じ取ってくださったこと、自分の言葉が少しだけ届いた証拠だと思います。
僕もまだまだ未熟です。
ここで語ったことの半分も、自分の作品で実践できているかどうか。
口先だけの人間にならないよう、これからも一文字ずつ、魂を削って書いていきたいと思います。
いつか、悠理様の書く「行間」も読んでみたいです。
それでは、最後に。
これまでこの作品を読んでいただき、本当に、ありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。