第10話 「いつもどおりに」
黒崎玲奈は、人と距離を置くのが得意だった。
とくに男とは。
理由を聞かれたことはあるが、 答えたことはない。 答える必要もないと思っていた。 仕事さえきちんとしていれば、 それでいい。それだけでいい。
十二年間、それで困ったことはなかった。
——なかった、はずだった。
木曜日の朝、玲奈は医局の鏡の前で自分の顔を見た。
目の下にうっすら隈があった。 昨夜よく眠れなかった。
考えないようにしていたことを、考えていた。
玲奈は鏡から目を逸らした。
今日は難しいオペがある。 余計なことを持ち込んではいけない。
手術室に入ると、春日がいた。
いつも通りそこに立っていた。 玲奈と目が合うと、軽く頭を下げた。それだけだった。
玲奈は「始めます」と言った。
メスを持った。
——集中しろ。
患者は五十一歳の女性。 膵頭部の腫瘍。難易度は高い。 雑念を持ち込んではいけない。
わかっている。なのに今日は、 呼吸が浅かった。
三十分が経った頃。
玲奈の手が、一瞬止まった。
その隙間に、春日がガーゼを一枚、術野の端に置いた。 音もなく。 言葉もなく。
玲奈の視野が、すっと開けた。
呼吸が、戻った。
メスが、また動いた。
それから一時間、玲奈は集中した。
春日はいつも通りだった。
求める前に器具がある。 視野が乱れる前にガーゼがある。
何もしていないように見えて、 全部していた。
オペが終わり、片付けをしながら玲奈は春日の背中を見ていた。
距離を置くのが得意だった。
なのにこの男との距離が、気づけば縮まっていた。
いつの間に。どこで。
「春日くん」
「はい」
「今日、手術中に私が止まったとき。あのガーゼ、わざと?」
春日は少し間を置いた。
「先生が、必要そうだったので」
それだけだった。
玲奈は前を向いた。
ずるい、と思った。
距離の置き方を、忘れそうになる。
——この男といると、なぜか。
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