第29話 猿と狸と神の裁き
「徳川家康様……ッ!」
久方ぶりに招集された徳川重臣会議の場で、万千代(井伊直政)は困惑と、全身から吹き出す冷や汗を抑えられずにいた。
豊臣秀吉の命の灯火がいよいよ燃え尽きようとしている――そんな不穏な噂が日ノ本を駆け巡る中、家康が下した命令は、徳川の武の象徴である四天王(徳川信康、本多忠勝、榊原康政、そして井伊直政)を伴い、大坂城へ向かうというものだった。
しかも、大軍を率いるのではない。僅かな近習のみを従えての、事実上の「素手」での乗り込みである。
今や徳川と豊臣の国力は完全に拮抗している。秀吉の容態が芳しくない今、徳川が力尽くで天下を簒奪するのではないかと天下が固唾を呑んで見守るこの時期に、幹部が揃って敵の本拠地へ丸腰で向かうのだ。命知らずと恐れられる万千代といえど、緊張で奥歯が鳴るのを止められなかった。
万が一、太閤秀吉が罠を伏せ、家康の命を奪えば、これまで積み上げてきた徳川の歴史は一瞬にして砂塵へと消える。
しかし、万千代の心臓が張り裂けんばかりの緊張感とは裏腹に、主である家康は、すべてを見通したかのような静謐な風格を纏い、堂々と大坂城の廊下を歩んでいた。
いよいよ通された秀吉の寝所。
緊迫の瞬間であったが、兵の気配は微塵も無かった。驚くべきことに、広い室内に居たのは、主殿を守るように控える石田三成と、秀吉の二人きりであった。
(……化かされたか!)
太閤秀吉は病に倒れ、身体を崩しているという噂だった。だが、目の前に座す男を見て、万千代は直感した。
病床にあるはずのその身から放たれる圧倒的な威圧感。あの「人の形をした関白の器」は、衰えてなお、万の兵に匹敵するほどの凄まじい気迫を放っている。
この息が詰まる空間で、平然と己の思うがままに振る舞うことができるのは、同じく「天下」という荒波に育てられた怪物の器――我が主、家康様以外には居ない。
この世に残された、最後の鬼二匹による戦いは、言葉を交わす前からすでに始まっていたのだ。
「随分と遅かったようだが……やっと、あの小牧長久手の戦いの続きを行う日が来たのかの?」
沈黙を破り、秀吉が低く、愉しげに笑いながら喋り出した。眼光だけは、全盛期のままだ。
対する家康様は、一寸の怯えもなく、静かに拝礼を返した。
「秀吉殿。……これまで貴殿に『預けていた』天下を、お返し頂くべく参りました」
最初から互いの首を獲りに行くような、とんでもない会話の応酬。
そのあまりの空間の圧に堪りかねたように、秀吉の背後に控えていた石田三成が、一歩前に出て言葉を挟んだ。
「徳川様! あなた様は長きにわたり、この豊臣政権を支えていただいた誰もが認める人徳者のはず! 何故、今更になってこのような天下の簒奪を企てられるのですか!」
並の武将であれば、家康と秀吉が放つ「天下人の覇気」に圧殺されて声も出せないはずの場である。そこで一歩も退かずに正論を吠えた石田三成の驚くべき胆力。
それを見た秀吉は、どこか愛おしそうに目を細め、少し嬉しそうに声をかけた。
「良い、佐吉。下がっておれ。……徳川殿とはな、腹を割って、ゆっくりと話し合わねばならぬのだ」
秀吉が三成を制し、再びその爛々とした目を家康へと向けた。
じっと秀吉を見据える家康の脳裏には、一周目の記憶、そしてこの男が犯した「最大の罪」の証拠が、冷徹に思い浮かんでいた――。
「秀吉殿。まずは……この『土産』を受け取ってはくれぬか」
家康は懐から、一本の古びた短刀を取り出し、静かに畳の上へと差し出した。
大坂城の主を前に、何の衒いもなく差し出された一本の刃。それを見た秀吉の目が、異様な鋭さでギラリと剥かれた。
「――薬研藤四郎か。やはり、お主が持っておったか」
秀吉の口から漏れ出たその呟き。
その瞬間、寝所の空気が、まるで極寒の刃で切り裂かれたかのように一瞬で凍りついた。
万千代も……
本多忠勝も……
榊原康政も……
先ほど見事な胆力を発した石田三成も。
そして、家康と共に死線を潜り抜けてきた徳川信康でさえも。
誰も、一言も発することができずにいた。ただ、信じられぬものを見たように、目を見開いて硬直している。
部屋を支配する、恐ろしいほどの静寂。
なぜなら――家康はまだ、その短刀の銘(名前)を、一言も発していないのだ。
その短刀の名は、かつての日ノ本の絶対権力者・織田信長が、生涯肌身離さず愛蔵し、本能寺の変の夜にその肉体とともに炎の彼方へと消え失せたはずの名刀。日ノ本の歴史における、最大の「謎」そのもの。
そして、この短刀は見た瞬間にそれと分かるほどに、分かりやすい特徴を持っているわけではない。熱狂的な刀剣の目利きであっても、じっくりと手に取り、光に透かして見ねば判別など到底不可能な代物なのだ。
それを、畳の上に置かれた姿を見ただけで、瞬時に言い当ててみせた。
それが意味する答えは、ただ一つ。
あの本能寺の夜。信長を殺し、その遺体からこの短刀を奪い去った真の首謀者――事の真相を誰よりも気に病み、その行方を血眼になって追い続けていた張本人でなければ、これを見た瞬間にその名を叫ぶことなど、絶対にあり得ない。
「……太閤、様……?」
三成の声が、震えていた。
自分の信じていた主君が、天下の恩人が、実は織田信長を暗殺した大罪人であったという事実。豊臣の「正義」が、秀吉自身のたった一言によって、根底からガラガラと音を立てて崩壊していく。
自らの致命的な失言に気づき、顔を歪めていく
。
秀吉の顔が歪んだ。
あり得ぬ。
この程度の罠。
この程度の誘い。
天下を奪った己が掛かるはずがない。
だが――。
ほんの一瞬。ほんの刹那。
心に生まれた隙。信長を裏切った日より積み重なった重圧が、その一瞬だけ己の判断を鈍らせた。
そして神はそんな隙を見逃さない。
神は善人も悪人も裁かぬ。
ただ、弱った者を狩る。
天下人・豊臣秀吉ですら例外ではなかった。
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