第12話 救われなかった人たち
警察署の資料室。
朱音は机いっぱいに古びたファイルを広げ、ひとつずつページをめくっていた。
真琴から聞かされた、篝と久我の戸籍の違和感。
二人が親子になった記録は、どこにも存在しない。
篝を助けたい。
そう決めたからこそ、まずは知らなければならなかった。
彼女に、何があったのか。
何があの少女を、女性完全保護課の責任者にしたのか。
何冊目かのファイルを開いたところで、朱音の指が止まった。
十数年前の地方新聞。その片隅に、小さな囲み記事が載っている。
【幼児誘拐事件】
被害者――天宮篝(三歳)。
母親――天宮楓(二十八歳)。
現在も捜索中。
記事は、そこで終わっていた。
「……これだけ?」
思わず眉をひそめる。
三歳の幼児が誘拐され、母親まで姿を消している。それなのに、その後の記事がまるで見当たらない。
解決したのか。
母親は見つかったのか。
篝は、いつ、どこで保護されたのか。
どれだけページをめくっても、続報だけが不自然なほど抜け落ちている。
朱音は新聞から内部資料へと手を伸ばした。
そこで、もうひとつの名前を見つける。
父親――天宮輝義。
職業欄は黒く塗り潰されていた。
だが、添付された別紙には、一言だけ残されている。
【警察関係者】
「警察……?」
朱音は小さく呟いた。
篝が父親を憎んでいることは、真琴から聞いている。
けれど、その理由までは分からない。
父親が警察関係者だったことと、篝の誘拐に何か関係があるのだろうか。
さらに資料をめくり、最後の一枚へたどり着いたところで、朱音の手が止まった。
【保護経緯:機密指定】
【担当部署:公安部特別捜査課】
「……公安?」
背中を冷たいものが這った。
三歳の子どもの誘拐事件に、なぜ公安が関わっている。
父親が警察関係者だから?
それとも、もっと別の理由があるのか。
分からない。
分からないことだけが、増えていく。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
テレビの中で笑っていた篝。
その奥に見えた、泣いている少女。
あの少女に何が起きたのかを、自分はまだ何も知らない。
◇
数日後、朱音は啓太の遺品整理を手伝うために実家を訪れていた。
母は相変わらず目を赤く腫らしている。
机の上には写真立てや折り紙、運動会のアルバムが積まれ、そこかしこに啓太が生きていた時間が残されていた。
「こんなに愛されてたのにねぇ……」
母が、アルバムの表紙を撫でながら呟いた。
朱音は何も返せなかった。
そのとき、インターホンが鳴った。
玄関に立っていた青年の顔を見て、すぐに思い出す。
啓太が何度も話していた男性看護師。
唯一無二の親友――周防日南人だった。
「突然すみません。周防日南人です」
深々と頭を下げた彼に、朱音も頭を下げる。
「啓太から聞いていました」
その言葉に、日南人は少しだけ寂しそうに笑った。
「啓太のお線香、あげさせてもらえますか」
◇
線香の煙が、遺影の前で静かに揺れていた。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて日南人が、傍らに置かれていたアルバムを手に取る。
「……啓太らしいな」
「え?」
「写真の中でも、子どもに囲まれてる」
泥だらけになって園児たちと笑う啓太。
運動会で子どもを肩車している啓太。
ページをめくっても、めくっても、そこには同じ笑顔があった。
「本当に、子どもが好きだったんですね」
朱音が言うと、日南人は懐かしそうに笑った。
「好きなんてもんじゃないですよ。保育士の話になると止まらなかった」
アルバムを見つめたまま、ぽつりと続ける。
「俺が看護師になったのも、あいつの影響なんです」
朱音は日南人を見る。
「啓太の?」
「はい」
少し迷ったあと、日南人は静かに話し始めた。
「俺には姉がいます。数年前、性犯罪の被害に遭いました」
朱音の表情が変わった。
「今も、傷は残っています。一人になると、死にたくなることもあるって」
当時の日南人は、どうしていいのか分からなかったという。
犯人が許せなかった。
今すぐにでも殴りに行きたかった。
けれど、そんなことをしても姉の傷が消えるわけではない。
「どうすればいいんだろうな、俺」
そう零した日南人の隣で、啓太は何も言わずに話を聞いていた。
途中で遮ることも、安っぽい慰めを口にすることもなかった。
全部聞き終えてから、ようやく笑った。
「優しいな、日南人は」
「そんなことない」
「いや、あるよ」
啓太は照れ臭そうにジュースを飲んだ。
「人の痛みを知ってるからさ。だから看護師とか、向いてると思う」
「男でもなれるのか?」
「もちろん」
即答だった。
「それ言ったら、保育士の俺も、警察官の姉ちゃんも変じゃん」
あまりにも当然のように言うものだから、日南人は思わず笑ってしまった。
すると啓太も笑いながら、こんな話をしたという。
「姉ちゃん、小さい頃から強かったんだ」
まだ幼かった頃、朱音は弟に言った。
「私は警察官になる。悪い奴と戦う」
そして弟には、こう続けた。
「啓太は保育士になりなよ。人に優しくする仕事が向いてる」
誰かの痛みに寄り添う仕事。
その言葉を、啓太はずっと覚えていた。
◇
「結局、俺、本当に看護師になりました」
日南人が小さく笑った。
「啓太が背中を押してくれたから」
朱音も、ほんの少しだけ笑う。
「啓太らしいですね」
「でしょう?」
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
日南人の視線が、遺影へ戻る。
「啓太、朱音さんのこと尊敬してましたよ」
「……私を?」
「はい。姉ちゃんが背中を押してくれたから保育士になれたって、何度も聞かされました」
朱音は遺影を見る。
笑っている。
写真の中の弟は、何も知らない顔で笑っている。
「だから俺、分からないんです」
日南人の声が沈んだ。
「何が正しかったのか」
拳が、膝の上でゆっくりと握られる。
「姉のことがあったから、篝さんのことを今でも救世主だと思ってる自分がいます」
朱音は黙って聞いていた。
「女性を守りたいって気持ちは、本物だったと思う。あの制度に救われた女性だって、きっとたくさんいる」
日南人自身、その必要性を誰より知っている。
大切な姉が、被害者になったのだから。
「でも――」
その視線が、啓太へ向かう。
「啓太まで奪われた」
部屋が静まり返った。
「善良な男性まで敵にする社会は、やっぱり間違ってる」
怒鳴ったわけではない。
誰かを責めるような声でもなかった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「俺、行こうと思ってます」
「どこへ?」
「女性完全保護課です」
朱音が顔を上げる。
「男性有志による抗議デモがあります。SNSで呼びかけが広がっていて、全国から人が集まるそうです」
「デモ……」
「数万人規模になるかもしれないって」
朱音の胸がざわついた。
それほどの人数が、女性完全保護課へ向かう。
嫌な予感がした。
「危険じゃないですか」
「かもしれません」
日南人は否定しなかった。
「でも、何もしなかったら」
遺影を見る。
「また啓太みたいな人が出るかもしれない」
線香の煙が、わずかに揺れる。
「姉のためにも」
そして、少し間を置いた。
「啓太のためにも」
朱音には、止める言葉が見つからなかった。
日南人は女性を憎んでいるわけではない。
篝を憎んでいるわけでもない。
姉を救いたい。
啓太のような人も救いたい。
ただ、それだけなのだ。
それなのに今の社会では、その二つがまるで相反する願いのようになっている。
◇
帰宅すると、朱音はすぐに真琴へ電話をかけた。
『もしもし?』
「真琴さん。誘拐事件の記事を見つけました」
『ほんと!?』
「天宮楓という女性の名前も出ています。篝さんのお母さんです」
電話の向こうが静かになる。
「それだけじゃありません」
『ん?』
「公安が関わっています」
『……は?』
今度は完全に沈黙した。
「篝さんの保護経緯は機密指定。担当部署は公安部特別捜査課になっていました」
数秒後、真琴が低い声で答える。
『それはおかしい』
いつもの飄々とした調子が消えていた。
『幼児誘拐事件に公安なんて、普通は出てこない』
「ですよね」
朱音も資料を見つめる。
「それと、父親の名前も分かりました。天宮輝義。職業は黒塗りでしたが、別紙に『警察関係者』とあります」
『父親が警察関係者で、娘の保護には公安が出てくる……』
「はい。でも、どうつながっているのかは分かりません」
『調べる必要がありそうだね』
「あと、もうひとつ」
『まだあるの?』
「男性有志による大規模な抗議デモが計画されています。女性完全保護課へ向かうそうです」
電話の向こうから、盛大なため息が聞こえた。
『あーあ。全く、女性完全保護課の連中は記者使いが荒いねえ』
そのときだった。
『誰が記者使いが荒い言うたんや』
聞き慣れた声が割り込んでくる。
玲だった。
『お、自覚あり?』
『うっさいわ』
いつもの調子。
けれど、玲はすぐに声色を変えた。
『……けどな』
一拍。
『篝を何とかせなあかん』
その言葉だけは、冗談ではなかった。
朱音は窓の外へ目を向ける。
夜の街の向こうで、赤色灯が小さく瞬いていた。
篝を救いたい。
その気持ちは、もう変わらない。
けれど今日、日南人の話を聞いて分かった。
救わなければならないのは、篝だけではない。
傷ついた女性を守ろうとして生まれた社会で、啓太のような男性が傷ついている。
姉を救いたいと願う日南人が、親友を奪った制度へ抗議しようとしている。
どちらか一方を選べばいい話ではない。
だからこそ、知らなければならない。
篝に何があったのか。
この社会が、どこから歪んでしまったのか。
そして――どうすれば、もう誰も取りこぼさずに済むのか。
朱音は机の上の資料へ目を落とした。
そこには、一人の男の名前がある。
天宮輝義。
篝が憎んでいる、実の父親。
次に調べるべき相手は、決まった。
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