第十六話:先が見えない逃避行
「……はぁ、はぁ……。どうにか、物理的な距離だけは稼げたか……」
ガタゴトと激しく揺れる闇馬車の小窓から背後を確認し、サトウは深い溜息とともに硬い座席へ沈み込んだ。遠くの空がリナの放った火球で時折オレンジ色に染まっているが、今のところ追撃の魔法が直撃する気配はない。
だが、安堵したのも束の間、サトウは管理職として致命的な「リソース不足」に気づき、顔面を蒼白にさせた。
「……しまった。着替えも、予備の食料も、俺の『社蓄の心得ノート』も……全部あの宿屋に置いてきた。今の俺たちの手元にあるのは、マイが羽織っている毛布一枚と、俺の懐にある金貨の袋、そして使い古した筆記用具だけだ」
装備品全ロス。前世で言えば、プレゼン直前にメインPCとバックアップHDDを同時に紛失したような絶望的状況だ。しかし、隣で毛布にくるまりながら、事後の余韻で頬を上気させているマイは、サトウの不安を余所に力強く拳を握りしめた。
「先輩、大丈夫っス! 装備がないなら、そのへんにあるもので作ればいいっスよ! アタシ、こう見えて『運搬』と『設営』に関しては、冒険者ギルドのどの男よりも自信があるっス!」
「……ふむ。社蓄時代の教訓その五十一……『物理的な資産を失った時こそ、個人の固有スキルという無形資産を最大化せよ』か。よし、マイ。お前のその『荷物持ち』としてのポテンシャル、俺のマネジメントで限界まで引き出してやる」
馬車が森の入り口で止まった瞬間、サトウの「現場監督」としてのスイッチが入った。
「降りるぞ! マイ、まずは周囲百メートル以内の乾燥した広葉樹の枝を、長さ五十センチに揃えて二十本、一メートル級を十本集めろ。俺はその間に、この地形で最も『リナの探知魔法』を遮断できる死角を計算する!」
サトウは泥にまみれた地面に這いつくばり、風向きと湿度、さらには周囲の魔力濃度の偏りを瞬時に分析した。ブラック企業で培った「不測の事態への即応力」が、異世界のサバイバル術へと昇華される。
「先輩! 集めてきたっス! これ、どうやって組むんスか?」
「お前のその強靭な指の力で、この荒縄を樹皮に食い込ませるように締め上げろ。……ここをこうして、三角形のトラス構造を作るんだ。強度は物理学と俺の設計が保証する」
サトウの的確なディレクションと、マイの人間離れした作業スピード。二人の共同作業によって、森の中に異様な構造物が立ち現れた。
それは単なる野宿用のテントではない。サトウが設計し、マイが巨石や倒木を文字通り「運搬」して組み上げた、光学迷彩代わりの泥と枯れ葉でコーティングされた『対魔導士用隠密シェルター』だ。
「……すごいっス、先輩! ただの枝と泥なのに、中に入ると全然寒くないし、外からはただの盛り土にしか見えないっス!」
「ふん、熱力学と現場の知恵の結晶だ。……だが、マイ。本当の『メンテナンス』はここからだ。お前のその酷使された筋肉を放置すれば、明日の強行突破に支障が出る。……横になれ。俺の指先で、お前の乳酸を強引に散らしてやる」
サトウは、唯一手元に残った「聖剣を抜くための精密な指先」を、マイの褐色のふくらはぎへと滑らせた。
「……あ、……ぁっ! 先輩、そこ……そこっス! 指先が、熱いっス……昨日の夜より、もっと深いところまで解される感じがするっス……っ!!」
「……静かにしろ。声が漏れたら探知されるぞ。……これは業務の一環だ。お前の『荷物持ち能力』という貴重なリソースを維持するための、必要経費だ」
サトウは、自分の精神力も限界に近いことを自覚しながら、必死に理性を保ち、後輩の肉体を「最適化」し続けた。毛布一枚の下で、マイのしなやかな筋肉がサトウの指先に応じてピクピクと震え、彼女は真っ赤な顔をして俺の腕に縋り付いてくる。
「先輩、……アタシ、なんだか体が……ポカポカして、また変な気持ちになってきたっス……。……しおらしく待ってるから、……もう一回、……『深いところ』まで、抜いてほしいっス……」
(……胃が痛い。物理的な重労働の次は、また夜の重労働か……。だが、これも部下のモチベーション管理の一環だと思えば……!)
サトウは覚悟を決め、シェルターの中でしおらしく、しかし熱烈に自分を求めるマイを再び抱き寄せた。外ではリナの「残留魔力探知」が森の入り口まで迫り、青白い光が木々を照らしているが、サトウの完璧な偽装と、マイの静かな(しかし激しい)吐息は、闇の中に完全に溶け込んでいた。
「……先輩。アタシ、一生先輩の荷物持ちでいいっス。……だから、ずっとこうして、……アタシを磨いてほしいっス……」
「……ああ、善処する。だが明日は朝四時起きだぞ。……社蓄の朝は早いんだ」
サトウは、腕の中で幸せそうに微睡むマイの頭を撫でながら、次の街で買うべき「リナへの詫びの品」と「マイの新しい道着」の予算案を脳内の帳簿に書き留めるのだった。
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