今日から姫として生きていきます。

焼きそば.mp3

第1話

────凜々花ちゃん、亡くなったんだって。

 眠たい5限目、こっそりと盗み見たスマホには母親からのそんなメッセージが届いていた。

「…………」

 俺は頭の中で2、3度その文面を読み上げ、スマホの画面を消してそのまま机の中へと仕舞った。先生が教科書を読み上げる声が、頭の上をぼんやりと滑っていく。

 遠野凜々花。

 俺の母親の姉の娘──つまりは、従姉妹である。俺より5つ年上の21歳だった気がする。

 母の実家にあたる遠野家はうちから車で1時間くらいのところにあり、年に1回、正月のときに家族で顔を出すのが常だった。

 凜々花とはほとんど話したことがなかった。どうも生来ひどい人見知りらしく、親戚の集まりには顔を出そうとしないのだ。しかもちょうど5年くらい前、凜々花が俺と同い年くらいのとき、学校でいじめに遭い、学校にも行けなくなったのだという。母さんと、その姉である真里おばさんがそんな話をしているのを盗み聞きしてしまったことがある。

 うちの母さんはおっとりのんびりしている方だが、真里おばさんは対照的に明るく溌剌とした人だ。そんな人の娘がひどく内気に育ったのを内心不思議に思っていたが、誰にも言ったことはない。

 凜々花と最後に話したのは、去年の正月だった。

 遠野家でお手洗いを借りに行った帰りに、何かの用で部屋から出てきていた凜々花と廊下で鉢合わせたのだ。

 凜々花は明らかな部屋着で、長い髪の毛はぼさぼさで、その両手や素足は不気味に生白く、俺は一瞬お化けでも出たのかと悲鳴を上げそうになるのを寸でのところで堪えた。肩はびくりと跳ねてしまったけれど。

 俺の中の凜々花の記憶は小学生くらいで止まっていたので、それが彼女だと気付くのに1、2秒を要してしまったが、ぎくりと足を竦ませた凜々花になんとか平静を装い、「あけましておめでとう」とだけ言った。

 凜々花はぎくしゃくとした動きで、やっと会釈のようなものを返してきた。そうしてすれ違ったが、凜々花からはけっこうな臭いがしたのを覚えている。


 凜々花が、死んだらしい。

 前述の思い出くらいしかない間柄なので当然親しくもなんともなかったが、近い親戚が死んだとなるとさすがに多少心が動揺した。

 家はおろか自室からも滅多に出てこない凜々花の死因って、……そこまで考えて、あまり気分が良くなかったのでやめた。

 授業が終わり、担当教師が教室から出て行ったのとほぼ同時に机からスマホを取り出し、友達が話しかけてくるのに相槌を打つ片手間に母さんからのメッセージを改めて開く。

 凜々花ちゃん、亡くなったんだって。

 その後に、『明日学校終わったら姉さんのところに行くよ。明後日はお葬式だからね』と来ていたので、了解のスタンプを押しておいた。欠席の連絡をするのは保護者でないといけないから、俺がすべき

ことは特に何もない。

「てか玲央、明日暇? スタバの新作出るじゃん」

「あー……明日無理。明後日は休む」

 図ったようなタイミングで誘いをかけてきた友人にそう返すと、「ぁえー?」と何かの鳴き声めいたものを返された。

「なんで。どしたん」

「親戚死んだってLINE来た」

 口に出してみてもいまいち実感が湧かない。

「やば。ガチで? 急に?」

「急にね」

「うわあ。俺んちもさあ、爺ちゃん死んだとき急だったなあ。その前の日まで全然元気だったんだぜ」

「そういうもんなんかなあ」

 実際、俺や目の前のこいつが明日には……なんて可能性も絶対にゼロとは言い切れない。普段そんなことは考えたりしないけど、一度頭に浮かぶと焦げ付いたみたいにこびりつき始めてしまう。

「お~、怖。スタバは俺が先に飲んどくわ」

 友人はわざとらしく震え、自分を抱き締めるように両腕を擦った。

「ノートも頼む」

「チケット送っといて、それで飲むから」

「金取んなよ、仕方ねえだろ公欠だぞ」

 そんな話をしているうちに休み時間が終わり、本日最後の授業が始まろうとしていた。

 学校行って帰って、休みの日は家でごろごろして、ときどき友達と遊びに行って。そんな何事も無い毎日を送る何でもない俺。特筆すべき点もなく、将来どんな人間になってどんな生活を送っているのかなんて、ちっとも想像ができない。きっとこのままぼんやり生きて死んでいくだけなんだろう、なんて思ってしまう。

 そんな俺の脳裏にひとつ、暗い影が落ちた日だった。



 次の日、俺は放課後迎えに来た両親に連れられ遠野家を訪れた。

 普段正月くらいにしか来ないから、いつもは新年特有の浮かれたような忙しないような空気が漂っていたけれど、さすがにそういう訳にはいかなかった。

 重苦しく、じっとりと圧し掛かるような空気が広がっている。

 遠野家は田舎にある大きな一軒家で、玄関から入ってすぐ茶の間に繋がっている。そこに、遺影と種々の飾り、そして布団に寝かされた……顔に布が掛かっているが、あれが凜々花の遺体なのだろう。そう理解すると同時に、妙に緊張した。

 額縁に飾られた凜々花の遺影は、いやに幼い。幼稚園生か小学生くらいの凜々花だろうか。ずいぶん長い間写真を撮っていなかったらしい。確かに、積極的に写真を撮ったりするイメージはない。

 いつも元気で声の大きいおばさんは目がうつろで、口角が下がっていた。優しく穏やかなおじさんも、見るからにやつれている。ふたりして目が落ちくぼんで、皺が増えたような気がした。

「この度はご愁傷様です」「ありがとうございます」と形式ばったやり取りを静かに終え、おばさんと母さんはぽつぽつと凜々花のことを話している。

 どうやら──正直なところ、半ば想像通りではあったが──自殺らしかった。ドアノブに紐を括り付け、首を吊っていたのだという。

「私、何がいけなかったのかしら。このまま放っておくのもかわいそうだと思って、凜々花のために色々してきたけど、それが……」

 おばさんは言葉を詰まらせ、とうとう声を上げて泣き出してしまった。母さんが「そんなことないよ、姉さんの気持ちは伝わってたわよ」と背中を擦っている。父さんとおじさんはふたりの後ろにそれぞれ立って、神妙な面持ちで目を伏せていた。

 聞く限り、おばさんは凜々花が社会復帰するきっかけになればと思い職業学校だとか、簡単そうなバイトだとか、何かの習い事だとか、旅行だとか……とにかく色々勧めてみて、あの手この手で外に出そうと躍起になっていたらしい。

 その気持ちが間違っていたとは思わないが、結局一切功を奏さなかったあたり、合ってもいなかったんだろう。

 会話に入っていく度胸もない俺は、ふと辺りを見回して気付く。

 結愛がいない。

 結愛は凜々花の妹で、俺と同い年だ。凜々花と対照的に人見知りしないから、こっちの方がよほど面識がある。なんなら連絡先だって知っている。

『結愛いないの?』

 スマホを取り出してメッセージを送ると、すぐに『2階』と返って来たので、父さんに小声で「2階に結愛いるから、行ってくる」と告げた。

 父さんが静かに頷いたので、俺は心なしか忍び足で廊下に出て、階段を上がる。普段はあの茶の間でご飯を食べたりしたら帰るだけだから、2階にまで訪れることはない。小学生の頃以来だろうか。

 遠い昔の記憶を頼りに部屋をノックしてみる。

「結愛、俺」

 するとドアが開き、Tシャツにショートパンツとラフな格好の女の子が現れた。この子が結愛だ。

 つやつやとした長い髪に、透き通るような白い肌。美容とおしゃれに気を遣っている普通の女子高生といった感じだ。

 ただ、だからなのか、凜々花とはずいぶん折り合いが悪いようだった。

 結愛が完全に部屋から出てドアを閉めたので、俺は少し横にずれて壁に凭れかかる。

「……凜々花、死んだんだな」

「はぁ……ガチでだるい。学校休みでラッキーだけどさあ、なんかずっと客来てて。アイツ友達も知り合いもいないのに誰が来てんのよ。ママはずっと泣いてるし、パパはおろおろしてるし」

 ため息を吐きながら、結愛はスマホに指を滑らせている。ちらりと画面が見えたが、たぶん友達と話しているんだろう。

「あたし学校だと一人っ子ってことにしてんのにさあ。あいつマジで最期に余計なことしやがって。あいつ本体も部屋もくせーのにさあ、死体とか部屋とか片付けんのにあそこ開けっぱにしてて、マジで臭い移りそうで最悪だった」

「あぁ……」

 仮にも実の姉が、それも恐らく相当思い詰めて死んでいるというのに何つう言い草だ、と顔が引きつりそうになったが、結愛の眉間の皺もすごいことになっている。彼女も彼女で日常生活の中で細かいストレスを溜めに溜めてきたのだろう。何せ年に1回会う度凜々花の愚痴を聞かされていたくらいだ。

「大体アイツ何なの? あたしは学校行ってバイトもしてやっと欲しいもの買ってんのにさ、アイツは1回いじめられたくらいで何年も学校も仕事も行かないでママの金で何でも買ってもらって一日中ゲームしてさあ。何が嫌だったわけ?」

「何だろうなあ……」

 当然だろうが、そんなことは凜々花本人にしか分からない。結愛が凜々花のことで日々ストレスを溜めていたように、凜々花にもそういうのがあったのかもしれないし……さっきのおばさんの話もあるから、猶のこと。

 更に結愛曰く、『どうにか凜々花を立ち直らせようと画策する母』と『こういうのは放っておいた方がいいと凜々花に関わろうとしなかった父』で対立もあったようで、時折喧嘩も勃発していたらしい。結愛からしたらそれもストレスの種だったようだ。

 そんな感じで一頻り凜々花の愚痴を吐いた結愛は、「そうだ」とぱっと顔を上げた。

「ん?」

「アイツの部屋にあったゲーム……なんか、すげープレミア価格のやつあるっぽいんだよね。どうせカンオケに入れられないんだし、売っちゃおうかな、触るのキモいけど」

 これこれ、と結愛がスマホの画面を見せてくれた。ネットオークションのようで、同じゲームの写真がいくつも並んでいた。が、

「……5万!? ゲームソフトが!?」

「やばくない? こっちなんか8万円だよ」

 細い指先がサムネイルのうちひとつをタップし、詳細が表示される。

「『エレメンツテイル』……へー、知らね」

「これなんでこんな高いんだろ」

 気になって俺もスマホを取り出し、タイトルを検索バーに打ち込むと、サジェストに『エレメンツテイル 都市伝説』と表示された。もちろん気になるが、まずは普通に検索してみる。

「えーなになに、5年くらい前のRPGね……流通量が少ないからプレミアついてるって」

「ふーん」

 聞いた割に興味が無さそうだ。「自殺した姉の遺品とか言わない方がいいよね」とか何とか言っている。

 それにしてもなんだこのゲームは? 開発・販売元は聞いたことのない会社で、実績もこの『エレメンツテイル』とかいうゲーム一本。しかもこれを発売して間もなく社長も社員も夜逃げしたらしい。

 結愛との会話はすっかりお開きの雰囲気だが、だからと言って下に戻るのも気が進まないので、そのままなんとなくこのゲームについて調べることにした。

 5年ほど前に発売されたコンシューマーゲーム。ジャンルはRPG。主人公は男女どちらか選べて、名前は自分でつけるタイプ。多少見た目をいじることもできるようだ。

 ストーリーはざっくり言うと「邪神が復活しちゃいそうだから仲間を集めて倒そう!」みたいなことらしい。シンプルでよくあるストーリーだが、エンディングは多数あるようだ。

 調べているうちに、いくつか分かったことがある。

 まずひとつは、エレメンツテイルにはとある都市伝説がある。『このゲームを遊んでいた人間が相次いで亡くなっている』というものだ。その発祥は匿名掲示板の書き込みなので信ぴょう性はかなり薄いが、「エレメンツテイルの世界で冒険したい」と日頃から友人に語っていたとあるプレイヤーがある日不審死を遂げた──というのを皮切りに、オークションサイトで「身内の遺品です」と書かれたソフトが数本出品されていただとか(タイミングが悪い。俺はぞっとした)、全くゲームに詳しそうでも好きそうでもない中年女性が中古ショップに持ち込んだ大量のソフトの中にエレメンツテイルがあっただとか。そんな話がちらほらと出てきたせいで『ゲームの世界に連れていかれてしまう』といった噂が立てられているらしい。真偽はともあれ、曰く付きのタイトルのようだ。

 そんな感じで肝心の中身よりもこの都市伝説の方が有名になってしまったようで、匿名掲示板以外でゲーム本編の話をしているページがなかなか見つからなかった。

 それで、実際にこのゲームをプレイしていた人たちの書き込みを眺めていたが……このゲーム、恋愛要素もあるようで、 条件を満たすと主人公の異性のキャラクターと恋愛関係になれるらしい。

 しかし、女性プレイヤーに人気の『フレイズ』という王子様キャラは対象外なうえ、どう進めても別の女性キャラとくっついてしまうんだとか。そこに不満を持ったり疑問を呈したりしている人がまあまあいた。

 そんでその王子様と結ばれるのが『レオーネ』という、なんか親近感の湧く名前のお姫様なのだけれど、これがまあ評判の悪いこと悪いこと。掲示板では『無能』だの『邪魔』だの散々な言われようだった。

 探してみたらまとめ動画もあったが、自分勝手な言動や空気を読まない色ボケ具合が反感を買い、更には戦闘面でもさほど強くないのに一部イベント戦で強制参加となっているのが駄目を押しているようだ。『外見以外褒める要素がない』とまで言われている。確かに金髪碧眼の可愛いお姫様だけれども。

 現在入手困難で実際にプレイした人が少ないせいか、こういう動画が未プレイの人の印象に強く影響しているのも彼女の評判が落ちている一因なのかもしれない。

 そうしているうちに、母親から夕飯の支度を手伝えと呼ばれたのでスマホを仕舞って1階へと下りた。

 その日は遠野家に泊まり、翌日みんなで斎場へと向かった。

 遠野家は親戚の数がそこそこ多く、見たことがあるような無いようなおじちゃんおばちゃんたちに「アラ怜央くんおっきくなって~」と言われ続け早々に疲弊してしまったし、控室で凜々花が自殺したのだとひそひそ話しているのを聞いて更に疲れるような心地がした。

 最後に見た生前の凜々花は俯いていたし前髪も長くてあまりどんな顔だったか思い出せないが、棺に入れられた凜々花はぞっとするほど肌が青白く、当然小学生くらいの時よりも大人っぽい顔つきだったので、いよいよ本当に知らない人みたいだった。

 焼かれて骨だけになったらひどく小さく見えて、いよいよもう凜々花かどうかも分からないな、なんて思ったりもした。斎場のスタッフさんがばりばりと骨を骨壺に詰め込んでいるのをぼうっと眺めている頃には、どこかざわついていた胸中はすっかり凪いでいた。『もう疲れたから帰りたい』の気持ちの方が大きくなったのもある。

 それから日常に戻るのは一瞬だ。次の日から俺は何事も無かったかのように学校へ行き、友達としょうもない話をして、帰って寝るの繰り返し。

 何なら凜々花のこともすっかり頭から抜けていたが、ある日の夜、風呂から上がって自室に戻ると結愛からメッセージが届いていた。

『5万で売れた』

 何がだ、と思ったが、続けて送られたスクリーンショットにはあの日話題にした『エレメンツテイル』の写真と、Sold Outの文字。どうやら先日話していた通り、例のゲームソフトを売りに出したようだ。結愛は小遣いのことで色々不満があったようなので、良い臨時収入になったんじゃないだろうか。『何かおごって』と送ったら、すぐに『やだ』と返ってきた。まあそうだろうな。

 現在の遠野家の家庭環境は気になるところではあるが、少なくとも結愛は元気そうだ。そりゃあそうか……。

 俺はスマホを枕元に置いて充電ケーブルを挿し、ベッドに潜り込んで目を閉じる。

 なんだか今日は妙に眠たい。すぐに眠れそうだ。



「…………?」

 まず、慣れない匂いで目が覚めた。花の匂いだ。俺の部屋、花なんてないのに。

 のりでもくっついてるみたいに開いてくれない重たい瞼を頑張って薄ら持ち上げると、変に眩しい。見慣れた部屋の天井とは何か違うような……まだ夢を見ているんだろうか。

 枕元のスマホを確認しようにも、眠気が抜けず身体がうまく動いてくれない。金縛りにでも遭ったかのようだ。

「……ま! 目が……」

「……え?」

 なんだ? 知らない女の人の声が聞こえる。

 いや、それよりも……思わず漏れ出た自分の声がいやに高く聞き慣れなくて、その衝撃で一気に目が覚めた。

「………………は?」

 なぜか俺はだだっ広いベッドに寝転び、金の刺繍がびっしりと入った布団を被っている。辺りを目だけ動かしてぐるりと見まわしてみると、どうやらお姫様が使っていそうな天蓋付きベッドらしい。天井部分にも金ぴかの装飾があしらわれていて、薄ら明るい中でもいやに眩しい。

「姫様! ああよかった……!」

「殿下、お目覚めになられましたか。ご気分はいかがですかな」

「え、あ……?」

 重たい身体を起こすと、傍に控えていたらしいメイド服のおばさんと、黒いコートに身を包んだお爺さんが口々に話しかけてきた。ひとつも状況が理解できない俺は完全に固まり、何を言えばいいのかも分からず魚みたいに口をぱくぱくさせることしかできない。

 何を言っているんだ? 何が起きているんだ?

 視線を落とすと、長い金色の髪が視界に覆いかぶさってきた。豪奢な布団を頼りなく掴む俺の手は記憶より遥かに小さく細い。まるで女の子みたいな……。

「? ??……」

 混乱を極めた俺は、頭がずきずきと痛み意識が遠のくままに、再びシーツに倒れ込んだのだった。



 目の前に、女の子がいる。金色の長い髪に青い目の、人形のような美少女だ。ドレス姿のせいで余計に現実味がなく見える。ゲームに登場する、実写よろしくリアルなCGみたいだ。

 女の子は悲しそうな、恨めしそうな顔をして、ゆっくりと消えていく。俺はそれをただ見ていることしかできない。

 髪の先まですべて消えてしまったあと、そこには宝石でできたブローチが残されていた。彼女の瞳のような、大きな緑色の宝石だ。

 俺は吸い込まれるようにそれに手を伸ばし、拾い上げる。

 そうして俺はなんとなく、事の一切を理解したのだった。

 ブローチを光に透かす俺の手は細く小さく、視界の端には長い金髪が揺れていた。

 どうしてなのかは分からないが、俺は彼女になってしまったようだ。そして、元いた彼女は消えてしまった。

 どうしたらいいのかも、分からない。それでも俺の意識はゆっくりと水底から引き上げられていく。

「……姫様!? 姫様、よかった、もう駄目なのかと」

「…………」

 さっきよりもスムーズにむくりと上体を起こした俺の背中を、涙目のメイドさんが擦った。骨張った細い手だ。

 どれくらい気絶していたのか分からないが、今しがた見た夢のおかげで薄らと自分に何が起こったのかは理解ができた。

 あの女の子は『レオーネ』。凜々花が持っていた例のゲーム『エレメンツテイル』のキャラクターで、多くのプレイヤーから反感を買いボロクソ言われてしまっていたお姫様だ。

 しかし困ったことに、分かるのはそれだけである。

 どうして俺はゲームの登場人物になってしまったのか、どうしてこのゲームなのか、どうして俺なのか、何もかも分からない。一番困るのは、『レオーネはプレイヤーから嫌われてしまっていた』以外のことをよく知らないことだ。掲示板の書き込みをまとめた動画をちらっと見たくらいで、ゲームそのものは遊んでないどころかプレイ動画すら見たことがない。具体的にレオーネがどういう人物なのかとか、そもそもこのゲームはどういう話で、今俺が身を置いているのはどこの場面なのかだとか、何一つ分からない。

 そういう訳でへたに喋ることもできず文字通り閉口する俺に、メイドのおばさんの顔はどんどんと悲壮感を増していく。この人、レオーネを昔からお世話している人とかなんだろうか。天蓋のカーテンが引かれているからベッドの外はよく分からないけど、今俺の傍にいるのはこの人と、あと恐らくお医者さんっぽいお爺さんだけだし。

「だ、……大丈夫、です。心配かけてごめんなさい」

 悲しそうなおばさんの顔を見ていたらこのまま口を開かないのも如何なものかという気持ちになり、散々悩んでなんとなく無難なことを言ってみたけれど、その途端に俺の背中を擦る手がぴたりと止まってしまった。俺の心臓も止まりそうだ。

「姫様……?」

 まずい、何か間違っていたんだろうか。何もおかしなところなんて無かったはずだ。あの短いフレーズに間違いが潜んでいたのだとしたら、もうお手上げである。せっかく戻った意識が再び遠のきそうだった。

 ちらりとお爺さんの方を見ると、何やら難しげな顔で立派な顎鬚を擦っている。

「ふむ……。攫われたショックで混乱しているやもしれませんな」

「ああ、なんてお労しい。あの姫様が、こんな」

 攫われてたの、俺? 病気で寝込んでたとかじゃなくてマジで気絶してたらしい。というか、今の何がいけなかったんだ。今の一言で異常を疑われるなんて、レオーネって一体どんな奴だったんだろう。

「記憶障害の可能性もあります。……殿下、ご自身のお名前は言えますか」

「れ、レオーネ……です」

「では、こちらのメイドは」

 まずい、分からん。黙り込む俺におばさんがこの世の終わりみたいな顔をしていて、大変に気まずい。

「……ご、ごめんなさい」

 観念して首を振ると、おばさんがいよいよ顔を覆って泣き出してしまい、非常に気まずい。だがしかし、記憶喪失というのは大分都合がいい。どうやら誘拐されていたらしいし、タイミングとしても自然だろう。

 結局俺は『自分の名前以外全部忘れている』ということになり、神妙な面持ちの医者が「国王陛下に報告して参ります」と退室していくと、俺はさめざめと涙を流すメイドのおばさんとふたりきりになった。

「あの、ごめんなさい、その」

「いえ……本当にお辛いのは姫様の方ですものね。私はプリム、姫様が生まれた頃から身の回りのお世話をさせて頂いております」

 この人はプリムさんと言うらしい。髪をきっちりとひっつめた、痩せたおばさんだ。涙を拭い居住まいを正したその姿は、使用人とは言えどどこか気品が漂っている気がする。さすがは長らく姫に仕えているメイドさんだ。

 プリムさんは俺の立場と、俺の身に何が起こったのかを簡単に教えてくれた。

 レオーネのフルネームは『レオーネ・サントグロワ』。サントグロワ国の第三王女で、兄とふたりの姉がいる。ある日何者かに誘拐されてしまい、隣の同盟国であるフォルガンという国の第二王子──フレイズ王子率いる騎士団によって救出されたらしい。

 このフレイズっていうのは、覚えがある。レオーネといい感じになるらしきキャラだ。王子でありながら国一番の剣の腕を持ち、騎士団長を務めているらしく、すごい人もいたものだ。ちなみに俺としてはいい感じになるつもりは無いのだけれど、どうなるんだろう。

 そうしてプリムさんの話を聞いていると、コンコンと扉がノックされる音がした。どうしたらいいのか、とプリムさんの顔を情けなく見てしまったが、プリムさんは「姫様、少々お待ちを」と言い残して真っ直ぐに立ち上がり、きびきびとカーテンの向こうへ消えていく。

 ややあってプリムさんはさっきのお医者さんと、それからふたりの中年男女を連れて戻ってきた。豪奢なローブとドレス、頭にはそれぞれ王冠やティアラを載せている……もしかしたら、レオーネの両親、つまりは国王と王妃だろうか。

 阿呆みたいにぽかんとしているだけの俺に、ふたりは悲しそうに顔を歪めた。

「おお、レオーネ……本当に私たちが分からないのか」

 国王らしき人はベッド横の──さっきまでプリムさんが座っていた──椅子に腰かけ、俺の手を取って悲しそうに眉を下げる。王妃らしき人は顔を覆って泣いており、今にもくずおれそうなところをプリムさんに支えられていた。大変に気まずい。

「プリムのことも覚えていないようで……」

「なんと、プリムのことまで! ああ、大地の精霊グランよ、これも試練だと言うのでしょうか」

 国王がそんなことを言うと、声を上げて泣いていた王妃がやにわに顔を上げた。

「そうだわ、きっとこれも大地の精霊がお与えになった試練なのよ。レオーネが立派な『代行者』となりお役目を果たせば、記憶も戻ってくるに違いないわ」

 何だかよく分からないことを言っているが、なぜか皆がうんうんと頷いている。一体何を言っているのか俺だけが理解できていないまま急速に納得ムードに包まれ始めたのが恐ろしいのだが、残念なことにここで口を挟む勇気もない。

「プリム、お前も辛いことだろうが、今まで以上にレオーネを支えてやってくれ。頼んだぞ」

「畏まりました」

 プリムさんは恭しく頭を垂れ、夫妻は部屋を後にした。次いで医者は「遅くなりましたが」と俺の熱や脈拍を測ったりいくつか問診をしたりして、記憶以外の異常が無いことを告げると、彼も部屋を去って行く。

 途端に辺りがしんと静まり返り、再びプリムさんが音も無くベッド脇の椅子に腰掛けた。

「姫様。急に色々と起こってお疲れでしょう」

「大丈夫です。あの、聞きたいことがあって」

「はい、なんなりと」

 今頼みの綱はプリムさんしかいないし、俺は記憶喪失という体なので何を聞いても怪しまれないだろう。とりあえず気になったことは片っ端から聞いてみることにした。

「ええと、『代行者』っていうのは?」

「そうですね、それにはまず、この世界のことをお話ししなければ」

──この世界には、火、水、風、土、そして光と闇の六精霊がいる。それぞれが東西南北、そして中央の祠に祀られ、その土地を守っている。

 中央の国には、千年前に英雄が精霊たちと共に封じた邪神の封印があり、これを光と闇の精霊が守っている。

 しかし月日が経つと共に少しずつ封印が薄れ、邪神が復活の時を今か今かと待っている。

 精霊たちは英雄との契約によりその土地を離れることができない。なので、東西南北それぞれの地に自らの『代行者』と成り得る者を見つけ、身体のどこかに印をつけた。

 その者は精霊の与える試練を突破し、精霊の『代行者』と認められたら邪神を再び鎮めなければならないのだ。そういえば、確かに『エレメンツテイル』のあらすじってそんな感じだったような。

「……そ、それって、あの……お、私、邪神? と戦わなきゃいけないってことですか?」

 俺が舌を軽くもつれさせつつ尋ねると、プリムさんは「大変光栄なお役目なのですよ」としっかりと頷いた。頭がくらくらしてくる。大事な姫が邪神と戦ってもいいのかよ、あんた達。

 これが元はゲームの中の世界だと考えると、その邪神とやらを倒すのが最終目標なのだろうか。そうしたら俺は元の世界に帰れるのか? 今現実世界の俺はどういう状態なんだ? この世界で死んだらどうなるんだ? プリムさんに尋ねる訳にもいかず、俺の中で疑問と不安が山積みになってぐるぐると胃の底に溜まっていくような心地がした。冷静になっていくにつれてこの状況の恐ろしさにどんどん気が付いてしまい、シーツを掴む手がどんどん白くなっていくのを他人事みたいに見つめるしかない。

「姫様、顔色がよろしくありませんわ……今日はもう寝てしまいましょう」

 プリムさんの骨っぽい手が、俺をそっとベッドに寝かせる。それに逆らうこともできず完全にシーツに身体を沈み込ませると、脳みそが情報と感情の処理の限界を訴えているのか、あっという間に眠気が訪れた。



 それから数日、俺はベッドの上からろくに動くことができなかった。目覚める度に金ぴかのベッドで寝ていたことに絶望し、視界に入る金の髪や細い手足に違和感をおぼえ、何の気力も沸いてこない。

 毎朝あのお医者さん(どうやら俺の専属医だったらしい)が検温と軽い問診をしに来て、プリムさんに身体を拭かれ、ペースト状のおかゆみたいな何かを2、3口だけ食べ、あとは強烈な眠気に誘われるがまま眠りに就くだけ。こんな生活をしていたらベッドの上で餓死するかもしれないとは思えども、動く気になれなかった。

 ろくに口も利かない俺に、プリムさんは毎日そっと手を取って、少し皺の寄った細い手で宝物みたいに擦ってくれる。「姫様、プリムはずっとお傍におりますよ」って。

 俺は一度たりとも顔を上げることができなかった。

 俺は、彼女の愛したレオーネ姫ではない。その事実が、日に日に重たく頭上に圧し掛かっている。騙しているような罪悪感がずっと付き纏っている。

 いっそ、「俺はレオーネじゃありません」と言ってみようかな、なんて思ったこともあるが、ただでさえ記憶喪失扱いの身だ。更におかしくなったと思われて終わりかもしれない。

 そんなある日、プリムさんが相変わらずおかゆ的な何かがほとんど残った食器を下げに部屋を出てひとりになったタイミングで、『それ』が目の前に現れた。

「……蝶?」

 カーテンが引かれたはずの天蓋の中で、大きな翅をひらひらとさせて優雅に漂っている、一匹の蝶。

 現実離れした青白く光るその姿に、栄養不足でいよいよ幻覚が見え始めてしまったのか、と薄らぼんやり死が頭を過った。泣き崩れる真里おばさんと、真っ白い顔で棺に横たわる凜々花と、その骨をばりばりと壺に納める葬儀スタッフの人の姿を漠然と思い出す。ここで死んだら土葬だろうか。

“レオーネ、聞こえる?”

「!?」

 今、確かに女の人の声が聞こえた。びっくりしすぎて大げさに肩が跳ねてしまう。

 辺りをきょろきょろと見回してみても当然誰もおらず、現実味のない蝶々がひらひらしているだけ。いよいよ幻聴まで……と諦めにも似た気持ちになっていると、蝶々が俺の鼻先にちょんと止まった。

“ここよ、ここ”

「えっ、しゃ、喋っ……!?」

“驚かせちゃったかしら。でもこれは私の仮の姿”

 蝶々は俺の鼻先から飛び立ち、再び目の前をふよふよ漂い始める。

“私はアンジェリカ。ここではない、『世界の境界』にいる魔女”

「世界の境界?」

“世界はひとつじゃない。あなたなら分かるわよね? レオーネ……いや、逆生怜央くん”

「え!? お、俺……え?」

 唐突に本当の名前を呼ばれて、心臓がばくんと跳ね上がった。じり、とベッドの上で後退りをしてしまう。あからさまに動揺を見せてしまった俺に構わず、声は続けた。

“私は世界と世界の境目にいるの。だからこちらの世界に干渉するために、私の魔法で作った仮の身体を送り込んであなたに話しかけているのよ”

 つまりこの蝶々はアンジェリカとか言う奴のアバターみたいなものなんだろう。

 普通だったら信じる要素の無い話だが、現にありえない現象が自分の身にいくつも起きている今、無視して布団を被ることもできなかった。

「それで、その魔女が何か用?」

“あなたがこの世界に送り込まれるのを見て、状況も分からず混乱しているんじゃないかと思って様子を見に来たのよ。想像していたよりもずっと落ち込んでるみたいだけど”

「まあ……そりゃ、そうだろ」

 こんなにも心細く両親が恋しかったことなんて、生まれて初めてかもしれない。家のベッドで目を覚ますことを期待して眠り続ける毎日だ。

“こんなこと初めてだから、どうしたら元の世界に帰れるのか、私も確かなことは言えないけど……とりあえず、このままじゃ邪神が復活してこの世界ごと全部おしまい。それは確実ね”

「……だから、戦えって?」

“あなたひとりでやれって訳じゃない。この世界には、あなたを含め4人の代行者がいる。まだ『候補』だけど”

 プリムさんから聞いた話と同じだ。

 俺はパジャマとして着せられている白いワンピースの襟元を軽く引っ張った。レオーネの『代行者の印』はここ、胸元にある。なんつーとこに印つけてんだ。

「仲間を集めて来いってことか。ゲームみたいだ」

“あなたの世界じゃそうらしいからね。……まあ、寝るのにも飽きたら考えてちょうだい”

 それだけ言って、アンジェリカは溶けるように消えて行ってしまった。

 蝶々が溶けて行った虚空をしばらく見つめて、俺はおもむろに布団を剥がし、素足のまま床に足をつける。そのままベッドから立ち上がると、脚に力が入らずふらふらした。ろくに飯を食っていない上寝たきりだったから身体が弱りに弱りきっている。

 そのまま大怪我でもしたみたいに一歩一歩、脚を引きずるようにふらふらと無駄に広い部屋の中を歩き、やっとの思いで姿見の前に立った。

 長い金髪の少女がそこに立っている。顔のパーツも配置も整った美少女だろうに、顔色は最悪だし、目は虚ろで、ワンピースの布が有り余るほど痩せこけている。元がどうだったのかよく知らないが、どこからどう見ても健康を損ねているのが残念極まりない。

 そんなつもりは無かったけど、この身体の元の持ち主を追い出して、どういう訳かここにいる。

 何日経っても夢から覚めない。認めなきゃいけない。これが、今の俺だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る