四
『──……は、鮮やかな朱色が誰よりも似合うね』
そう言って、控えめだけれど美しい簪を贈ってくれたあの人はもう、いない。豪奢な着物を身に纏っていたあの頃の私も、どこにもいない。
ならば私が女である意味はあるのだろうか。
「──華純?」
そんなことを考えていたら、先を歩いていた栄太郎が私を見つめていた。
「華純、大丈夫? 心ここにあらず、だけど」
「……すまない、少々考え事をしていた」
栄太郎は静かに笑った。
「なら良いんだけど。……あ、疲れてたら言ってね。お饅頭でも食べて帰ろうよ」
「それはお前の要望だろう」
えへへ、と栄太郎が無邪気に笑う。何の飾り気もないその笑みに、私の心は白く塗られていくようだった。
すぐに仏頂面をせずに、そんな風に綺麗に笑えたのなら、少しは女のように見えるだろうか。
「……華純?」
再び黙ってしまった私へと、栄太郎の物憂げな目が向けられる。
私は出かかった言葉を飲み込んで、左の手で持っている風呂敷の結び目を握り直した。
その時、市の人混みから女の悲鳴が上がった。
「……何だ?」
栄太郎も聞こえていたのか、目を見開いている。
私と栄太郎は来た道を引き返し、騒いでいる人集りの中へ入った。すると、そこには刃物を手に泣いている幼子を担いでいる男の姿があった。
「一体何事だ?」
私の呟きに反応を示したのは、足元で崩れている女だった。泣きじゃくりながら男を見上げている。
「盗人やっ! 其奴はうちの子を人質にしはってっ……!」
「……なるほど」
状況は何となく理解できた。あの男はどこかの店で何かを盗み、逃げる途中でこの女の子供を人質に取ったのだろう。騒ぎを聞きつけて人が集まってはいるが、皆丸腰のようだ。
私は女を立ち上がらせ、手に持っていた荷物を隣にいる栄太郎に押し付けた。
「荷物を持っていてくれ」
「え? ちょっと、華純?」
咄嗟に伸ばされた栄太郎の指先が、私の肩を掠めた気がした。けれど、掴まれる前に私は犯人を目掛けて駆け出していた。
子供を抱いて、その首筋に刃物を当てている男は、真っ直ぐに駆けてくる私を見るなり慌てふためいていた。その様子から、男が武術において素人であるのは明らかだ。
男の下に辿り着いた私は、まず男の体勢を崩すべく、膝の裏に手刀を入れた。それにより男が体勢を崩したのを確認し、腕の中から子供を取り上げた。
「っ……、くそっ!!」
男の顔が歪む。その手の中にある刃物が強く握り直されているのが見える。
反撃に出ようと、男が立ち上がろうとしている。それを阻止するために、男を投げ飛ばしたいところだが、幼子を抱えている今、それは難しいかもしれない。
「栄太郎! 其奴を──」
場の空気を読んだのか、此方に駆け寄ってきている栄太郎に向かって、私は大きく叫んだ。
けれど、それは掻き消えた。
「任せたまえっ!」
それはまるで、風のようだった。颯爽と現れた影が、今まさに栄太郎に頼もうとしていたことを、描くように成していく。
「うわああっ!」
男は倒れた。正確には、倒された。滑らかな蹴り技を繰り出した男の手によって。
その場に居た人たちは、突如現れるなり盗人を倒した男を褒め称えている。
「やあ、盗人さんよ。こんな事をして楽しいかい?」
そう言い、盗人を紐で縛り上げている男は、見覚えのある顔だった。向こうもそう思ったのか、私を見るなり瞬きを繰り返している。
「おや、君はさっきの……」
その男は、先程川に落ちた変人だった。顔と身形だけがやたら良い、小五郎と名乗った奇人変人だ。
けれど、そんなことはどうでもよかった。男がどこの誰で、どうしてここにいるのかよりも、知りたいことがある。
それは、この変人が盗人に向かって繰り出した、体術についてだ。
「師は誰だ」
突拍子もない質問に、男──小五郎は首を傾げた。しかし、今の今まで佩いていた薄い笑みを消している。
「……それは僕に聞いているのかい?」
「そうだ。お前の剣の師を訊いている」
小五郎は二度瞬きをすると、唇を横に引いた。
「ならば、昔の君の名を教えてくれたら……答えるよ」
ちゃり、と。刀が鞘に入る音が鳴る。それに誘われるがままに小五郎の手首へと目を向ければ、その手は私が刀の柄に手を添えた時とそっくりだった。
「……それは、どういう意味だ?」
間違いない。この男は、私と同門だ。私と同じ人から武術を学んでいる。それだけならまだしも、私のことをも知っているようだ。
(──昔の、名。わたしの)
そんなもの、とっくに捨てている。だけど、忘れたとすぐに言えなかったのは、捨てきれていないからなのか。
別の名を名乗っていながら、変わらぬ微笑みを浮かべて、私を湖に突き落とした彼奴と何が違うというのか。
私の名前は、本多華純で。だけど、中身は何年が経ってもあの男を恨み続ける人間でしかなくて。
そんな私の何を、小五郎は知っているのだろう。
「華純、どうしたの?」
柔らかな声とともに、左手に熱が灯る。それから伝わってくるのは、何かを察してここから連れ出そうとしてくれている栄太郎の優しさだ。
私は小五郎から視線を外して背を向け、右足を一歩、前へ運んだ。
けれどそれは、小五郎の一言により地に縫い付けられる。
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