9 少女の殺人(三) 三週間前 前

 蜷川かがりに再会したとき、これは運命だと思った。


 四月中旬。友人に誘われ、しぶしぶ参加した学部の飲み会でのことだった。酒を言い訳に体を触りたがる男がうっとうしく、私はみんなから離れたところで一人、ジュースを飲んでいた。


 開始から三十分足らずで座敷は入り乱れ、酔い潰れた者も何人かいた。しらふなのは私だけのようだった。


 友人は、赤ら顔の男子に囲まれ、体を触られ、それでも楽しそうに笑っていた。それを見て、思わず眉間に皺が寄った。


 下品だ、と思った。


 友人は高校の同級生だった。高校のときから男子から人気が高い子だった。確かにかわいい。愛美という名前も、まるで愛されるために生まれてきたみたいだ。


 でも、どうしてそれを、あんな性欲に支配されているだけの男に消費させてしまうのだろう。愛美がその気になれば、もっといい男を……いい女も……いくらでも捕まえられるはずなのに。どうしてそれに気がつかないのだろう。


 ……いや。

 これはきっと嫉妬だ。

 沙枝を殺してから、私はあることに気がついた。


 私は、同性愛者ではないか?

 これまで考えたこともなかった。私が愛しているのは間中と沙枝だけだ。


 でも私はそもそも男性を好きになれないのかもしれない。


 そして、私を愛してくれない女性を……異性愛者の女性を……心のどこかで恨んでいるのかもしれない。


 そのうえで、男性性に憧れているのかもしれない。


 考えているうち、気分が重たくなった。


 愛美は変わらず、男たちに色香を振りまいている。もし私にも男性器があったなら、きっとあの輪に入ることができただろう。あんな男たちから愛美を奪い取り、愛し合うことができたはずだ。


 でもそれは叶わない。


 どれだけ頑張っても私は男になれないのだ。決定的なものが欠けている。望んだところで波長がズレるだけ。でもそれを悔しいと思うことが一番悔しかった。


 もう帰ろう。

 帰って沙枝に慰めてもらおう。


 愛美を横目に立ち上がりかけたときだった。


 いきなり座敷の襖が開かれた。そちらに目をやった数名がまず驚きと歓喜の声を上げ、遅れて他の人も次々と顔をほころばせていった。


 私もつられてそちらに目を遣った。そして自分の目を疑った。


 立っていたのは蜷川かがりと野月世奈だった。誰もが憧れる二人が肩を並べている。喜びは波のように伝播した。


 けれど私が驚いたのは、二人がここに来たことにではなかった。


 二人は控えめな笑みを浮かべて座敷に上がると、あっという間に座の中心に溶け込んだ。勧められた酒を上手くあしらいながら、一人一人と適度な言葉のやりとりをしていく。


 誰もが二人と話したがった。二人もその空気には慣れているのか、なるべく全員と話せるよう配慮をしている風に見えた。特にかがりさんは控えめな子にも発言しやすい空気を作るのが上手かった。


 私はまた隅っこに座って、それを離れたところから眺めていた。


 二人が来たことにようやく場が慣れ始めたとき、かがりさんは野月先輩になにやら耳打ちをしてこちらに近づいてきた。

「ここ隣いい?」

「……どうぞ」


 かがりさんは私の返事を待ってから座った。胸元に下がったネックレスが揺れる。彼女のまとう空気には甘い香りが漂っている。ひどく喉が渇いた。テーブルに置いておいた残りのジュースを飲み干しても、すぐに干上がってしまいそうになる。


「久しぶりだよね。二年ぶりくらい? 髪短いままなんだね」

 思わずかがりさんの横顔を見た。聞き間違いかと思った。

「私のこと、覚えてるんですか? かがりさんにお世話になったの、二年も前なのに」


 きっと間抜けな顔をしていたのだろう、かがりさんは優しい声で笑った。

「忘れるわけないじゃない。私、今まで関わった人のことは全員覚えてる自信があるよ。カナちゃんでしょ?」


 自慢げに胸を反らし、

「大学生活には慣れた?」

「ええ、まあ。でもたまに疲れますね。人間関係とか面倒ですし、こうやって飲み会に参加させられたときなんて最悪です」


「そっか」

 かがりさんは少し寂しそうな笑みを浮かべた。


「かがりさんは大変ですよね。ああやっていろんな人に囲まれて。疲れないんですか?」

「全然。むしろ楽しいよ。私を好いてくれる人はみんな好きだな。アルコールが駄目だから、酒の相手は世奈に任せてるけどね」


 かがりさんの視線の先には、何人もの後輩に囲まれながら酒を飲む野月先輩がいた。

 野月先輩はこちらを振り返ると、安心したように笑った。かがりさんはそれに手を振った。


「これは彼女自慢なんだけどさ。世奈、優しいんだよね。私が間違って飲んでないか、飲まされていないか、ああやっていつも確認してくれるの」


 これは私への牽制だろうか。あるいは考えすぎかもしれない。


「野月先輩とまだ付き合ってたんですね」

「まあね。高校のときは喧嘩ばっかだったけど、もうそんな仲でもないから。……あ、仲が深まったって意味だからね」


 かがりさんはグラスを傾けて喉を鳴らした。彼女の細い首が露わになる。見ているとグラスを握る手に力がこもった。


 ひとつの予感があった。

 私は近いうち、かがりさんを殺すだろう。


 ずっと後悔があった。それが消えることはないのだとも思っていた。しかし、どうだろう。かがりさんによって、晴らせるかもしれない。これは運命の出会いではないのか。

 だって、彼女は――


「そんなに見つめられると、ちょっと照れる」


 かがりさんの声で現実に引き戻された。彼女は目の下を朱色に染めて、自身の膝を抱きかかえていた。


「なにか言いたいことでもあった?」

 子どもに語りかけるような口調に、慌てて目を逸らした。体が火照って熱っぽくなっていた。


「久しぶりに会えたので、なんか、感慨深くて」

「なにそれ。連絡してくれれば会いに行くのに。今年は就活もあるから忙しいけど、なるべく時間は作るよ」


 かがりさんが屈託なく笑った。こういった手管が人を惹き付けるのだろう。

 唯一無二の魅力を持つ彼女に、こんな風に笑いかけられたら、自分は特別なのではないかと勘違いしてしまう。頭ではあり得ないと分かっているのに縋ってしまいたくなる。


 私もその手管に絆されるのを感じながら、愛想笑いを作った。


「じゃあ今度一緒に学食いきましょうよ。野月先輩も誘って」

「それいいね。賛成。他にも何人か誘おうか」


 かがりさんは立ち上がるとスカートの皺を直した。そろそろ飲み会もお開きのようだ。幹事が会費を徴収しに回っている。私も鞄から財布を取り出し、立ち上がった。彼女と並ぶと、私の平均的なはずの身長が一気に低く感じられた。


「そういえば、世奈のことはさん付けで呼んであげないの? カナちゃん、世奈と話したことあったよね」

「ええ。でも、みんなそう呼んでますし、合わせた方が良いのかなって」


 自分だけ呼称を変えていたら周りにどんな目で見られるか分かったものじゃない。


「そっか。でもたまには世奈のこともさん付けで呼んであげてよ。世奈、あれで気にしいなところあるからさ」


 かがりさんは悪戯っぽい笑みを浮かべると、「じゃあ、またね」と手を振って、酔いで顔を赤くした野月先輩に駆け寄っていた。


 私はその背中に未練を覚えながら、幹事に金を渡すと足早に居酒屋を出た。

 どこにも寄らず、大学の最寄り駅で降りて、家に帰った。


 一人暮らしの部屋の壁には、何枚も写真が貼り付けてあった。その内の一枚、生前の木下沙枝を収めたものを枕の下に敷いてから、私は眠りについた。


 夢の中の私には男性器が生えていて、それを沙枝に突き立てていた。

 沙枝は甘い声で鳴いている。私も腰を揺すりながら泣いていた。

 二人きりでいられることが嬉しいはずなのに、なぜか悲しくて仕方なかった。




 二度目の再会はすぐ次の日だった。


 私の趣味は人間観察で、夜の街に繰り出すことが多かった。その日も同じように、飲み屋街を一人で歩いていた。ポケットに入れた沙枝の写真をときどき覗いては、人混みの多い道を選んでいく。


 飲み屋街が一旦オフィス街に変わり、さらにホテル街へ移ろったとき、見覚えのある長身が目に留まった。彼女は大胆に肩を露出させた服に身を包み、栗色のウェーブがかった髪を揺らしていた。声はかけなかった。


 彼女がスーツを着た男に腕を絡ませ、煌びやかな看板へ足を向けていたから。


 私はそのあとをついて行って、その様子をスマートフォンで撮影した。その写真を彼女に送信して、駅前のカフェに来るよう指示した。


 本当に運命的だ。

 カフェの角席で三十分ほど待っていると、彼女が入ってきた。私を見つけ、取り繕った笑顔で席に着く。


「思ったより早かったですね、かがりさん。もう少し掛かるかなと思ってたんですけど。あ、コーヒー飲みます?」

 私はあらかじめ頼んでおいた二つの内、砂糖もミルクも入れていない方を勧めた。彼女は浅く息を吐いた。


「……あなたはなにが目的なの?」

 左右対称の笑みはぎこちなく、普段より声も数段低かった。

「あんなもの送ってきておいて、まさかなにも要求しないわけないでしょ?」


「話が早くて助かります。でも、その前に一つ聞いても良いですか?」

「……なに」

「あの人との関係ですよ。あれは浮気ですか。それとも本命ですか?」


「あれはビジネスよ。あの人からはお金をもらっている。私はそれに見合った働きをする。そういうビジネス」

「つまり、援交ですか」


 はっきり言うと、かがりさんはわずかに眉をひそめた。

「かがりさん、お金に困っているようには見えないですけど」


 彼女の身につけるものはどれをとってもハイブランドだった。指輪、ネックレス、バッグ、ミュール、頭の上から爪先に至るまで、洗練されていた。それともそれらに散財しすぎたのだろうか。


 だが、彼女がそんなに愚かとも思えなかった。そうなると金欠の原因は限られてくる。

 かがりさんは自身の身を抱くように腕を組んだ。


「別にカナちゃんには関係ないことよ」

 冷たい声だった。


「それより目的はなに。どうしたいの? 先に言っておくけど、脅しはきかないからね。世奈にバラしたいならバラせばいいし、学校に報告したいならそうすればいい。私がここにきたのは、それをはっきりさせるためよ」


 少しも怯んだ様子はない。大学側はこの報告を受けてもなにもしないし、野月先輩も怒りはするだろうが、かがりさんの手を離すことはないだろう。それをかがりさんはよく心得ていた。


 だが私は、彼女の気持ちを揺らがせる方法を一つだけ知っていた。手元のスマートフォンを操作して先ほどの写真を見せる。


「条件を呑んでくれれば、この写真はすぐに消します。でも呑んでくれないのなら、この写真をかがりさんの後輩全員にばら撒きます」


 私の言葉にかがりさんの頬が一瞬強張った。やはり彼女の弱みはそこか。かがりさんに反論される前に私は続けた。


「もちろん、こんな写真では誰もかがりさんへの印象は変えないでしょう。むしろ必死に庇おうとする人が多いはず。だから、私はこれを見せた上でこういうつもりです」


 私は机に身を乗り出すと顔を寄せた。


「かがりさんがこういうことをしているのは、あなたたちのプレゼントのせいだよ」

 ようやくかがりさんの表情が崩れた。苦しげな顔で、机の上で組んだ指を震わせている。私はさらに続けた。


「かがりさん、先日誕生日でしたよね。いま身につけているものは全部、そのときに後輩からもらったものです。そして、お返しするためにお金が必要で援交をしている。違いますか?」


「なんで……」


「分かりますよ。こんなブランド品、かがりさんが自主的に買うとは思えない。でも断ればよかったのに……」

「プレゼントを贈るって勇気のいることよ。そんなことしたら、傷つけるでしょう」

「そんなに後輩が大事なんですか」


「当たり前じゃない。私のことを好いてくれる人はみんな大切。もちろん写真を使って脅してくる後輩は除いてね」


 かがりさんは私を睨みつけた。


「それで、私は後輩達を罪悪感から守るためになにをすればいいかな。そんなに大それたことはできないよ。私にも優先順位がある」


「そんなに難しいことを頼むつもりはないですよ」

 背もたれに体を預け、

「さっきの男性とはいくらでやり取りをしているんですか?」


「……三万五千円」


「安売りもいいところですね。かがりさんならもっと取れると思いますけど……」

 なにせかがりさんなのだ。こんなひと、唯一無二で替えが利かないだろう。

「余計なお世話――」


「私は十万円出します」


 被せるように言うと、煩わしそうな顔をしていたかがりさんの目が見開かれた。


「え……?」

「十万円払うので、私ともしてくれませんか。そうすれば写真は消します。他言もしません。悪くないと思うんですが……」


 かがりさんは考え込むような顔になったが、すでに答えは決まっていたのだろう。小さな溜め息とともに頷いた。


「分かった。その条件を飲むわ」

 私はほっと息をついた。

「交渉成立ですね。よろしくお願いします。……それと、もう一ついいですか?」


「なに?」

 かがりさんは不審そうな目を向けてきた。


「その援交は誰から紹介されたんですか? こういうのって仲介役がいますよね」

「なんでそんなこと聞きたがるの?」

「ただの好奇心ですよ。言いたくないなら別に聞きませんが」


 かがりさんはわずかに躊躇ってから、囁くような声でその名前を口にした。

「できればこれも他言無用で」


「心配しなくても言いませんよ。意外ですね、そんなことする人には見えないのに。婚約者がいると聞いていましたが……」


「私も、まさかカナちゃんに脅されるとは思ってなかったわよ」

 嫌みたっぷりに言って、かがりさんは席を立った。

「日程は決まったら連絡してきて。ただし必要のない連絡は控えること。それから学校で会ってもお互い挨拶以上はしないこと」


「分かってますよ。学食でご飯食べるのもなしってことで」

「当たり前よ」

 かがりさんはコーヒー一杯分の代金を過不足なく机において店を出ていった。


 その後ろ姿が見えなくなってから、ようやく体から力が抜けた。心臓がうるさい。体が火照って仕方がなかった。

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