第8話 影

咲の視線は、廊下の奥で揺れる影に釘付けになった。最初はぼんやりとしていた輪郭が、少しずつ人間の形に近づいて見える——しかし、どこか歪んでおかしい。手や足の角度が不自然に曲がり、関節が異様に長く伸びている。顔の輪郭は暗くて見えないが、確かに人の目が光っているように感じた。


息を止め、身体を固める咲。心臓が耳元でドクン、ドクンと跳ねる。冷たい風が廊下の奥から吹き抜け、肌を這う。壁にかすかに反響する自分の呼吸が、普段よりも大きく恐ろしく感じられた。


「……誰……?」


咲はかすれた声で問いかけた。返事はない。ただ、影はゆらりと動き、咲の位置に応じてわずかに距離を詰める。足音も、風の音もない。ただ、影が近づくたびに床板の冷たさが指先まで伝わる。


(夢……じゃない……)


昨日の夜の声の感覚が、頭の奥で重く残っている。冷静になろうとしても、身体の奥底が熱くざわめき、まるで糸に操られているかのように足が前へ出る。


影がさらに近づく。咲は思わず後ずさるが、背後の壁に手をつき、逃げるスペースは限られていた。影の輪郭が一瞬、歪んで伸び、まるで咲の意識に直接触れようとするかのように形を変える。


「……咲……」


影の声が、耳元で囁く——それは低く、しかし耳に心地よく入り込み、まるで身体の奥にまで染み込むようだった。


手を伸ばして触れようとした瞬間、指先に冷たい、粘るような感触が走った。

刹那、ガシャン! と金属音が響き、刃物が落ちたような感触が指先に残る——まるで影が意思を持ち、触れたものを拒絶したかのようだった。


咲は壁にもたれ、震える手を握りしめる。目の前の影は消えたが、その存在感は確かにここにあった——そして、いつ再び現れるかわからない。


「……どういうこと……?」


咲は、足元の床板の冷たさを感じながら、ゆっくりと自分の手を見つめた。指先に残った金属の感触は、現実のものだった。夢ではない。屋敷には、確かに、常識を超えた何かが存在している——そう確信させるに十分な体験だった。

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