第2話


 夏侯惇かこうとんの姿が見えると、離宮の入り口を守っていた衛兵はビシリと敬礼をした。


「入るぞ」


 頷く仕草だけで門を通り、屋敷内に入る。

 中に入って行くと幾つかあるうちの一つの客間で、床に転がってる姿を見つけ夏侯惇は呆れた。

 酒瓶が転がっているし、書物だの、筆だの、楽器だの、女衣の帯だのが落ちていて、ひどい散らかりようだ。

 ここは場末の酒場か。


「おい、孟徳もうとく! 起きろ」


 魏の王と魏軍最高位の軍師が床に転がって寝ていた。

 友の顔を覗き込んで声をかけたが、全然起きない。

 夏侯惇は魏の王の体を足でぐりぐりと揺すった。


「孟徳!」


 ようやく曹操そうそうが起きる。

「なんだ……お前か」

 面倒くさそうな顔をしてまた寝ようとするので、夏侯惇は今度は曹操の首根っこを掴み上げて無理に起き上がらせた。

「なんだお前かではない。なんだこの散らかりようは! この小僧にもしや飲ませたのではないだろうな!」

 曹操は卓に肘をつくと、またそこに寄りかかって寝ようとした。

「そんなに飲ませてない。見たら分かるだろ……」

 部屋を見回すと、かなりの酒瓶が転がっていた。

 確かに夏侯惇も若いころは酒豪だったが、最近は量というよりは質になって来て、量はそんなには飲まなくなっている。曹操も同じような感じだったが久しぶりにこんな酒瓶を見た。


「ちっとも分からん。随分空瓶があるではないか」


「衛兵とか、呼んだ楽師の女とかにふるまっただけだ。

 もう子供ではないんだから奉孝ほうこうも重傷を負ってる時の身の慎み方くらい自分で承知してる……お前ちょっと過保護だぞ……」


 側に転がった郭嘉かくかを見ると酒瓶を文字通り愛しの女のように抱えて気持ちよさそうにすやすやと眠っている。

 夏侯惇は半眼になった。


「説得力が全然無いなおまえら……」


 曹操と郭嘉が揃うと昔からこうなのだ。

 郭嘉は子供のころから曹操の側に張り付いていたが、子供のくせに酒宴にも混じって、知らぬうちに酒も覚えていた。

 戦の話もするが、この二人が揃うと女の話や楽器や食うものの話などにもなるので、興味がない話で盛り上がってる時に夏侯惇が放っておくと、必ず最後はこういう光景を見せられた。

 荀彧じゅんいくがいるとここまでは酷くならないのだが、二人だけだと全く変わらない景色である。


「孟徳。いい加減郭嘉にお前からいい女でもあてがえよ……。確かにこいつは女には事欠かんだろうが、一人にするとすぐこれだ。こいつがどこで転がってても迎えを寄越してくれるような出来た女を嫁にするくらい、簡単だろ。

 俺にも同じ理由でさっさと所帯を持てとお前女を紹介したではないか。

 こいつは放っておくといつまで経っても絶対結婚しないでフラフラしとるぞ」


 卓の上で余っていた酒を注いで、夏侯惇はため息をついた。


「しばらく重病でそれどころではなかったからほっといたが。

 お前ならこいつの女関係全て知ってるだろ。これという女はいないのか」


「全て知ってるだろって知ってるわけないだろうが。こいつと関わっている女がこの世に何人いると思ってる。隠遁してもそこまでさすがに俺も暇ではないわ」


 曹操は眠そうに欠伸をしながら答えて来る。

 

「なにもその日会って遊んだ女まで知ってるだろとは言わん。しかしこいつが特に気に入ってる女とか。そんなだ。

 俺もそんなにお前以外には過保護じゃないんだが、どうもこいつは病のことがあってから、気になってしょうがない。涼州遠征にも飛び跳ねて行ったかと思ったらこうして腹に風穴など開けて暗殺者どもを殺してやったなどと言って帰って来るし……」


「そんなに言うならお前が選んでやったらどうだ」


 曹操はゆっくりと立ち上がり、顔を洗うために部屋を出た。

 夏侯惇が付いて来る。

 まったく、大きな犬のような奴である。


「俺はダメだ。女を見る目がお前より無い。

 荀彧に頼むか。いやいっそ荀家の女なんかどうだ。そうしたら文若に『お前郭嘉の親戚だろ』って全部郭嘉の世話押し付けられるぞ」


 名案を思いついたかのように言い始めた夏侯惇に、曹操は呆れた。


「最終的に全部文若ぶんじゃくに押し付けるな」


「じゃー全部荀攸じゅんゆうに押し付ける」

 名案を注意されて夏侯惇は投げやりに言った。

「荀攸に頼んだら一体どういう女を郭嘉にあてがうんだろうな?」

 一瞬拗ねたのかと思ったが、不意に気になったらしくそんな風に言って首を傾げた夏侯惇に、曹操は吹き出した。

「全く分からん」

「俺もだ」

 無遠慮に夏侯惇が笑っている。

「だが荀攸の所は夫婦仲はいい。案外女を見る目はあるのかも」


「あいつは人の見方と女の見方が一緒だ。夫婦仲がいいのは自分のことはよく分かるから。あてがう相手が分かっていれば、相応しい女も見繕えるだろうよ。だがあいつにとって郭嘉は難解だろうから、嫁を用意してやってくれなどと頼んでも固辞されるだろうな」


「お前と郭嘉は似てるがこういう所は違うよな。お前も女遊びは相当だったが、結局妻はすんと選んだもんな」


「あれは選んだというより押し掛けられたと言った方が正しい」


「お前絶対それは奥方に言うなよ。押し掛けようが押し掛けなかろうがお前の為に死ぬほど苦労して来た女なんだからな。さすがにこの歳で怒り狂った奥方に帯で絞め殺されるお前は見たくない」


「あいつなら帯じゃなく弦を使う」


 別の客間に用意してあった水盤の水に手を浸して、曹操は笑いながら顔を洗った。

 冬の水が冷たい。

 夏侯惇が布を投げてよこす。


「郭嘉は移り気な男だから、そら妻は苦労するだろうがな。

 しかし必ず曹丕そうひの時代でも奴の側で重用されるはずだ。

 地位と名誉に満足する女もいる。

 要するに、あいつの女関係はちょっとくらい目を瞑ってくれて、俗世の富で満足してくれるような奴だ。いるだろそれくらい。

 このまま女のことで足元を掬われたりしたら敵わん」


「お前は郭嘉の母親か」


 顔を洗って、すっきりした曹操はそこにあった横椅子にゆっくりと腰かけた。


 ここは寝所にもなっていて本来は昨夜、曹操の為に用意された寝所だった。

 しかし寝台も全く使った形跡がないので、本当に夜じゅうずっとあそこで転がって郭嘉と話していたのだろう。

 この二人が話すととにかく長いのだ。

 そう考えて昔は、郭嘉は子供だったので夜中じゅう曹操と語らっているようなことはなかったなと思い出す。

 いつしか知識が増え、知恵が増えて行き、対等に曹操とも話せると本人が思うようになってから、そうなっていったのだと今更ながら気づく。


 郭嘉は無遠慮な子供だったが細心な所も持っていて、そういう所が子供でも異質だった。

 

 夏侯惇は曹操の側でずっと郭奉孝かくほうこうという男を子供のころから青年になるまで見て来たが、郭嘉が曹操の側で子供らしい、知恵のない馬鹿なことを話してるのを見た記憶が一度もない。

 

 知識の無さを露呈するような場面であれば、郭嘉は口を噤んで話さなかった。

 本当の意味で雄弁になったのは大人になってからだ。


「しかし俺もお前もこれからは郭嘉の側にいてやれん。

 かといって曹丕と司馬懿しばいとは、和気藹々とやって行くという雰囲気ではないだろうし。 場合によっては、司馬懿とは立場上微妙な対立に置かれるかもしれんだろ。

 郭嘉は大きな後見人がいない。そんなもの苦ともしない奴なのは知ってるが、それにしたって面倒見のいい女ぐらい生活の側にはいた方がいい。本当にお前でも心当たりないのか」


「……。まあ臨水りんすいのあたりにな」


 途方に暮れていた夏侯惇は、顔をそむけるように隻眼を友に向けた。


「臨水? なんだそれは」

「俺がかつて邸宅をやった女がな」

「臨水にか?」

「都じゃない。凪山なぎさんの麓だ」


 腕を組み、頭の中で夏侯惇は地図を思い描いたようだ。


「あー……。あの……郭嘉が子供のころに懐いてた女か。確かお前の父の妾で、そのあとしょう氏の妻になった」


「うん。まあ夫は早死にして未亡人になったが」


「思い出した。あの女か。郭嘉に聞いても絶対居場所と詳細話さなかった。お前もだが」

「奉孝に口止めされてた。お前が芙綺ふきを訪ねて行って知り合って、あの女がお前の妾にでもなったらお前を殺したくなるかもしれないから絶対教えるなとな」


 隻眼を丸くしてから、声を出して夏侯惇かこうとんは大笑いした。

 

 郭嘉はそもそも夏侯惇の武骨な性格を知っているので、女のことは大抵自分の方が勝ると思っていて、全く恐れていない。

 十二、三の一番生意気だった頃は、自分の手で昂らせた女を夏侯惇が抱いても平気な顔をして笑っていたほどだ。

 郭嘉が「取られると嫌だから教えたくない」などと夏侯惇に対して言うのは、初めてのことだった。少年時代でもそういうことを聞いたことはない。


「そうだったのか。別にそう言えば、会いに行ったりはせんかったのに。隠すから気になるのではないか。あいつでもそういうことをすることがあるんだな」


 笑っていた夏侯惇も窓辺の椅子に腰かける。

 少しだけ彼は隻眼に優しい表情を浮かべた。


「そうか……そんなに好きな女だったのか。

 ……しかしかなり大昔のことだろ。今も息災なのか?」


「父が芙綺を妾にしたのは十二の時だぞ。

 郭嘉が荀攸じゅんゆうのことで臨水に出入りしていたのは七歳の頃だ。

 当時芙騎ふきはまだ二十を過ぎたほどだった」


「なんだ荀攸を匿っていたのはあの女の所だったのか」

「言ってなかったか」

「聞いてない。安全な所にいるとだけ聞いてたが」

「そうだ。公達こうたつのことは当時郭嘉に任せたからな。安全に身を隠せるところを頼むと言ったら芙綺のところに預けて来た」


「へぇ……」


「息災ではあるようだぞ。玲愢れいしの所に年賀の祝いが届いてるようだし」

「なんで玲愢れいしの所に届く?」

「俺に届けると角が立つからだろ。玲愢に届ければ、他の俺の妾が正妻に敬意を払うことと同じだ」

「だがお前の妾じゃないだろう」

「ああ。しかしそんな細かいことどうでもいいんだろうよ。俺もそう思う」

「玲愢はその女のことを知ってるのか?」

「まあ把握はしてるだろうな。俺の妾じゃないことも、しかし父に関りがあり、俺が特別気にかけていたことは知ってるはずだ。あの女のことだから」

「目を瞑っているのか?」


「俺が芙綺ふきに会ってもないし文も書いてないからな。そして芙綺も俺の縁薄い妾として表面上玲愢に接しているから、詮索はやめたんだろう」


 曹操の顔を見る。

「珍しいではないか」

 夏侯惇の指摘には、少し苦笑したようだった。

「まあ、元をただせば父の女だから」

 曹操はそう言ったが、友が、欲しいと思えば誰の女だろうと構わない性格をしてることを夏侯惇はよく知っていた。

「……。」

「一つ目でジッと見て来るな」

「いや。そういうわけではないが」

 曹操は何か思い当たったように、顔を上げた。

「余計なことを考えるなよ。元譲」

「別に何にも考えていない。」

「嘘をつけ。お前は考えてることがすぐ顔に出る。

 芙綺ふきに関しては郭嘉の好きにさせてやれ」

「どういうことだ?」

 曹操は側に飾られた冬の花を一輪抜き取った。


「郭嘉も芙綺には会っていない。元々個人的に会う間柄ではなかった。

 俺が父の元妾として暮らし向きのことを見ていたから、時々狩りなどで近くを通りかかった時に見舞ったりしていただけだ。

 郭嘉も、芙綺が父の愛妾だったことは知っている。慕っても情を通じたことはない。

 俺は未亡人でも全く構わん性格をしているが」


「そうだよな?」

 指を差して来た夏侯惇に向かって苦笑いをしつつ、花を投げた。

 花は夏侯惇の胸に当たって、座っていた膝の上に落ちる。


「郭嘉は女の方が誘って来ない限り、死しても人の世の縁はかなり守る方だ。女に関してだけはな」


 夏侯惇は、郭嘉の女性関係は小さい頃から放って来たので、曹操同様無節操だと思ってきた。  

 実際、郭嘉は下女から街に住まう素朴な娘や、宮廷の侍女、身分の高い未亡人までありとあらゆる女と関係しているという話は彼の耳にも届いていた。

 夏侯惇が少年時代の郭嘉を女のことで説教しなかったのは、曹操ともども自分にもいろいろと心当たりがあるからだ。


 だから彼は女のことは荀彧に説教させろといつも言うのである。


 しかし荀彧も郭嘉の噂は聞いているだろうに、夏侯惇がそう言うと「もし女性が、郭嘉殿の為に苦しんでおられるというのなら善処しましょう」と言うだけでこちらも放任だった。


 実際、郭嘉はそれだけの女たちと戯れても、驚くほど女で揉めたことがない。

 曹操や夏侯惇が若い時はよくよく女に怒鳴られたり、泣かれたり、引っかかれたり、裸で馬乗りになられて首を絞められたりしたものだが、郭嘉は何故かそういうことがない。

 女はそうそう本質の変わらない生き物だから、やはり郭嘉が異質なのだろうと思う。 


 あの男は女を自分の所有物として見ていないからかもしれない。


 夏侯惇は郭嘉の女性関係に今まで興味が無かったので考えたことが無かったが、今初めて何故そうなのかと思い巡らせてみるとそんな気がする。

 恐らく郭嘉にも馴染みの女はいるのだろうが、昼間に訪ねて行って遊んだりしているのと、夜寝床を求めて彷徨って行き着くのとはまた違うようなのだ。

 

 それでいて一度でも寝た女には、その後も殊更親切にするものだから一度だけ寝ても縁の薄いものにならないし、幾度も寝ないから縁の濃いものにもならなく、ただ友好的な関係だけがそこにある。


「前から薄々思ってたんだが、あいつ見た目ほど馴染みの女がいないんじゃないか?」


 曹操は頷いた。

「今頃気づいたのか。相変わらず大将軍夏侯元譲かこうげんじょうは女のことには疎いな」

「今頃気づいたってお前はいつから気づいてたんだよ」

「そんなもの郭嘉が病に倒れる前からだ。あいつは俺に女の話は包み隠さず話す。話を聞いていて、いつも会ってる女が違うことがすぐに分かった。だがそこがあいつの非凡な所だな。普通女と関係を持てば相性が良ければのめり込む。郭嘉はのめり込まない」


「お前は駄目だと分かっててものめり込んで死にかけたこともあるからな」

「うん」

 うんじゃないだろう……と半眼で友を見る。


荀攸じゅんゆうは約一年ほど芙綺ふきの所に匿われてた。その間、面倒を見に郭嘉も臨水りんすいに通い続けていたが、元々は俺が使者として遣わさない限りあの屋敷には行ったことがない。河北のことだったので官渡かんとの戦いを勝利した後、袁紹は死んだので安堵するようにと芙綺に使者を送ったがその時に郭嘉を遣わそうとしたが、代理を立てて郭嘉は会いに行かなかった。遼東りょうとう遠征前のことだ。忙しいからと言ってな」


「じゃあ荀攸がこっちに戻ってから、郭嘉もその女には会ってないのか?」


 曹操が頷く。

 郭嘉の理論から言うと気に入った女ならば、会いに行ってるはずだ。

 

「お前が会うのを禁じていたのか?」

「禁じたことはない。だが言葉に出して許可もしなかった。

 郭嘉は禁じたのだと受け取ったのやもしれんな」


 夏侯惇は少し息を飲んだ。


「……郭嘉の病が癒えたことは、その女は知ってるのか」


 曹操の父の、正妻は厳しい気性の女だったので妾を嫌っていた。

 特に思い付きで手が付いたような妾は殊更憎んでいて、場合によっては人を差し向けて遠くの地に連れて行かせることさえあった。


 普通男は妾が出来た時、自分の母に同情するものだが、曹操の場合自分の母親の気性がきつすぎて、排撃される妾の方に同情していたこともあった。


 曹操の父が若い美しい女を好んでいたので、実のところ同じ女と父子で関わっていたこともあるのだ。夏侯惇は知っていたが、彼は父親の女などに絶対手を出したいなどと思わなかったので、友のこの言動に関してはあまり快く思っていなかった。


 甄宓しんふつ曹丕そうひの妻になった時も、気に食わなかったのは明らかに曹操が甄宓を気に入っているのが分かったからだ。

 

 確かに年の頃で言えば、老年の曹操の父親よりも余程曹操の方に似合ってるような女とはいえ、父親の愛人と寝ることに特別な価値を見出していた若い頃の曹操の性癖を甄宓は悪い形で引きずりだしそうで、疎ましかったのだ。

 

 特にぎょうにやって来たばかりのころの甄宓はいつも萎れていて俯きがちで、いかにも男が放っておけないような儚い雰囲気をしていて、まるでさっきまで泣いていたように目許をいつも花色に色づかせていたので、曹操が宴席に呼ぶたびに、夏侯惇かこうとんは何となく嫌な気持ちになったものだ。

 

 そういえば荀文若じゅんぶんじゃくも甄宓が曹丕の正妻になることは、最初はあまり賛同していないような空気を出していた。

 勿論あの男のことなので女の問題というよりは、政治的に見て、長子として次に家督を継ぐであろう曹丕の妻が、袁家の男に元々嫁いでいたという背景が良くないと見てのことだろうが。


「ああ。俺が文を出して報せた。その後、芙綺からも快癒を祝う文と品が俺に届いたから、郭嘉の許に送っておいた」


 話を聞く限り、この芙綺という女は自分が曹操の父の妾であったという自覚を強く持っているようだ。そしてその男が亡くなった今は、息子の曹操の温情でのみ、自分が生活に困らないようにしてもらっていることをよく理解している。

 だから人とのやり取りは全て曹操を通していた。そのことで曹操が、正妻から疑われないように曹操の正妻にすら礼儀を通しているのだろう。

 曹操の側には数多の女がいるので、夏侯惇は今の今まで、そんな女がいたことすら知らなかった。


 郭嘉はその女のことを今、どう思っているのか。

 

 初めてそんなことが気になった。

「なぁ……」

 口を開こうとすると、曹操が手でそれを制した。


「俺は郭嘉のことは、何も禁じない」

 曹操が静かに言った。


「昔からそうだったが、あいつは非凡だから、俺さえ想像出来ないようなことをすることがあった。今回の涼州遠征での一件もそうだがな……。

 だからこそ、俺は郭嘉の行動に制限を設けたり禁じたりしたくないのだ。

 あいつは俺には従順な所があるから、俺が軽い気持ちで何かを制限することで、本来もっとあいつは広く描けるべきであったものを、知らぬところで狭める恐れがある。

 例えそれが下らない些細な、日常や、女のようなことでもだ。

 あいつの場合戦場で、日常の何が影響を及ぼして来るか分からん」


 夏侯惇は椅子の背もたれに肘をついて頭を預ける。


 ……確かにそうだ。


 今回の涼州遠征で、暗殺者を返り討ちにした時に、郭嘉は曹操から贈られた短剣で必ず殺してやろうと考えていたなどと言っていた。

 あれは本当に他意のない思い付きだったのだ。曹操は遠征中、笛をやればよかったなあ、などとぼやいていたのだから。全く短剣を贈ったことに大きな意味などなかったのに、殺意を強く持っていた郭嘉はその贈物を気に入って、短剣を使うことに執着した。


 それで腹に穴が開いたのだ。


 確かに郭嘉は日常の他愛ないことが、戦場でも閃きの中に影響を及ぼす所がある。

 そして曹操のことを好んでいるので、曹操の言動は尚更意味のあるものになるだろう。


「だから芙綺ふきのことも、何も言わん。

 別に会って情を通じても構わんのだ。郭嘉も理解していると思う。

 だが病が癒えても会いに行ってない。

 苦しみから解放されて、過去のしがらみなどどうでも良くなったのかもしれんが。

 分からんな。

 郭嘉が少年時代一番懐いていた女だから、普通なら快癒したと顔を見せに行くくらいするような気はするが」


 夏侯惇はしばらく何かを考えていたが、口を開いた。


「その、女の方はどうなんだ」

「うん?」

「郭嘉を好いているのか?」


「好いてはいるだろうが、会いたいなどと催促されたことはない。元々正妻の悋気りんきで追い出されて、その息子の庇護で生きて来た。そういう運命をとっくの昔に受け入れているのだろう。あの女は何かを望んだことが一度もない。

 郭嘉はこれからの曹魏の中枢にも関わって行くだろうし、宮廷のことが関わる。穏やかに今まで暮らしていた女からすれば案外、情の世話など煩わしい余計なことなのかもしれんな」


「……。」

「なんだ?」


「まあ……俺自身はさほど人生において女との結婚が大事とも思っていないんだが。

 気づけば何となく、俺たちはそれぞれ相応しい女を娶ってただろ。お前なんか俺たちの中では、放っとけば一番ロクでもない女と結婚しそうだったが。玲愢が押し掛けて勝手に正妻に収まったから、少なくとも側室問題では揉めなかったしな」


「まあ女同士ではやりあってたが」


「俺は女が見る目がないが、お前の選んだ女と結婚して間違いはなかったし。妙才みょうさいの嫁も明るくていい女だしな。荀彧の心配は全くしてないが、荀攸も家の事情は様々でも夫婦仲はいい。

 会った時はあいつらみんな独り身だったのに、いつの間にあんなそれぞれに似合った女をどこから見つけ出したのかと思うんだが、よく分からん」


 今更そんなことを不思議がっている夏侯惇に、曹操は声を出して笑った。


 いつの間に、か。


 確かにいつの間にか、人生はこんな所まで来ている。



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