PUPA side A
なすみ
第1話
呉羽は、警察官であることを今だけはとても不便に感じた。
制限速度をぴったりと守る癖は、普段から乗り慣れているパトカーで養われたものだった。しかし、追い抜き車線を平気な顔をして走り去る車を見て、自分もあんな風にアクセルを踏み込めたら。そんな気持ちに駆られる。
自分の勘違いだったなら、どれほど良いか。それなら、紛らわしい電話をするなと彼女に恨み言を言って、食事でも奢ってもらうだけの事。
しかし、自分の中の警察としての直感が、一抹の影を落とす。
電話で言っていた、教師を辞める事になったという話。
唐突に始まった、日頃の感謝。
こちらの話はどこか上の空で、いつもと違う声音。
それらが全て、取り調べや通報対応で何度も感じたあの”嫌な予感”と重なった。
何かがおかしい。
もしかしたら、危ないかもしれない。
長い信号が青になった瞬間、彼女は左右を手早く確認してから、ゆっくりとブレーキに乗せていた足を離した。
以前、家に招かれた時に使ったコインパーキングに車を停めると、急いで外に飛び出す。財布と携帯、それから警察手帳をポケットに詰め込むと、彼女の家への道を走り出した。
すれ違う人が何人か、自分の事を異様な目で見てくるのに気付く。だが、それを気に掛けている暇はなかった。今はとにかく、彼女に会うのが先決だった。
エレベーターの前に到着すると、ボタンを押す。すぐに今、留まっている階が表示された。彼女の部屋は6階。しかし、点灯したランプが8の数字を照らした瞬間、迷わずにその場を離れた。
すぐそばにある階段。その踊り場へ飛び込むと、大股で駆け上がっていく。普段の訓練などでは、これ位の運動量など大したことではない筈だったが、今はどうにも息が切れる。
そうしてドアの前まで駆けつけると、飛びつくようにインターホンを押した。
急いでいるからか、間延びしたチャイムの音にすら、苛立ちが募る。心の中で一言、彼女へ謝罪してから、ドアノブを掴んだ。
鍵は、掛かっていなかった。
迷わず開けて、中に入る——事は、友人の家だからこそ、出来なかった。
これが現着した警察官としてなら、躊躇なく突入する。だが友人の家で、鍵が閉まっている訳でも無いのに、飛び込めない自分がいた。
しかし、何もしない訳には行かない。
逡巡して、今度こそドアを開け放った。
「秋月!」
その声は、自分でも驚く程の悲痛さを持って叫ばれていた。
素早く目だけを動かして、部屋の中を見渡す。昼間だというのに薄暗い廊下。半開きになった、廊下の突き当りにあるドア。すりガラスの向こうは伺う事が出来ない。そして何より、玄関先へ粗雑に並べられた、大量のごみ袋。どう考えても1週間やその程度で溜まった量ではない。
鼻の奥で、微かに据えた匂いを捉える。それがこの捨てられていないごみの山から来ているのか、もしくは——。
嫌な予感が脳裏を過った瞬間、その奥にある扉が開く。呉羽は思わず、第三の可能性を考えた。そして、自分の過ちに気付いた。
もしも、不審者がこの家に入っていたら。
今の自分は、警察手帳を携帯しているだけの一般市民。そういって差し支えない程、装備の一つも持っていない。
身に着けた体術はあれど、もしも相手が何か武器を携行していたら。
咄嗟に半歩後ろへ引き、身構えた。立ち向かえるように、ではない。いつでもこの場から、外の廊下に逃げられるように。
果たして、その扉が更に開かれた時、姿を現したのは。
「……ああ、何だ、びっくりした……」
秋月葵、呉羽に電話を掛けた張本人だった。
彼女は眠たそうな目をゆっくりと瞬かせながら、ドアに手をかけてこちらを見ている。
すっかり警戒していた呉羽は、そんな悠長な彼女の姿を目にして、一拍遅れて肩を落とした。
「……心配かけさせやがって。全く、しょうがな——」
目を閉じ、溜息を吐く。全てが杞憂に終わった。
不審者も居なければ、既に手遅れだったわけでもない。呉羽は心臓を握り締められていたかのような緊張から、ようやく解放された。
後ろ手に握っていたドアノブから手を離し、再び彼女の姿を視界に収め。
その異常さに、思わず目を見開いた。
彼女は壁に手を付きながら、よろめく足で必死にこちらへと歩みを進めようとしている。その姿はしかし、どう見ても以前あったときの姿とは、似ても似つかなかった。
そもそも、こんな風に何週間もごみを家に溜め込むような性格ではない。
髪は伸び放題で、脂が着いている。姿勢も妙に悪く、まるで借り物の足で歩いているようにぎこちない。来ているシャツも皺が寄って、所々に汚れが認められる。
そして何より、その表情が一番の違和感を憶えさせた。
「どうしたの、いきなり……? さっき話したばっかりでしょ……」
まるでこちらを揶揄う様に、笑顔を浮かべようとするその頬は痩せ、強張って歪んでいる。細められた目も、笑顔とはそういう物だからと、無理に細めただけの様な印象で、僅かに呂律も回っていない。
そんな状態で、まるで自分は平常だと言いたげに、こちらへ近付いてくる。何度も壁から手を離しては、すぐにまた、壁を探して支え直す。その様子が、どうにも痛ましかった。
「いや……どうしたも何も……」
わたしはあんたが死ぬんじゃないかと思って。
そんな風に、普段の秋月相手なら、呉羽も遠慮せずに言えただろう。しかし、今の状態の彼女に対して、そんな軽口は間違っても言えなかった。
まるで、今にも壊れそうなガラス細工を手に取っている様で、彼女は思わず生唾を飲む。
「何、急に会いたくなったの……?」
そういって、可笑しそうに笑う。その姿はいつもの彼女と何ら変わらなかったが、笑い声だけが妙に上擦っていた。
まるで、出来の悪い真似事を見せられているような気持ちに、思わず目を背けてしまう。
「ま、まあ、とと、とりあえずさ、入りなよ」
舌がもつれそうになりながら、目の前に立った秋月はそう言った。壁から手を離し、足を肩幅に広げて立位を取ってはいるが、どうにも不安定で。バランスを取ろうと、僅かに前後左右へ揺れていた。
「あ、ああ……そうさせてもらうよ」
呉羽は、むしろ帰る訳には行かない。そう決意し、息を呑んで靴を脱ぐ。
踵を返した秋月は、またしても壁に手を付いては離し、それを繰り返しながら今来た廊下を戻っていく。その歩みの遅さと不安定さに、呉羽は思わず口を開いた。
「あの、さ。体調悪いんなら、わたしが支えようか……?」
これ以上、こんな状態の秋月を見ていなくない。せめて何か出来る事はないか。そう思っての申し出だった。
しかし。
「……何、わたしが一人で歩けないと、思ってるの?」
背中越しに聞こえてきたその声は、隠そうともしない怒りを湛えていた。
「いや、そんな訳じゃ……」
呉羽は慌てて訂正する。しかし、その頃にはもう遅かった。
「じゃ、じゃあどういう訳なの!」
よろめきながら振り返った顔は、これまで見たことが無いような、歪を湛えていた。それは怒りとも、悲しみとも取れる様な表情で。
「何、瑞月まであたしの事を、そ、そんな風に疑うの?!」
「お、落ち着けよ……」
「みんなして、わたしのこと、い、異常者扱いして! こんな風に見られるくらいなら、死んだほうがマシっ!」
声のボリュームは、決して大きくない。しかし、その声音は正にそのまま自死を選んでしまいそうな気迫を持っていた。
呉羽は、返す言葉が無かった。どうすれば彼女を落ち着けられるのか、どうすれば助ける事が出来るのか。今の自分は、ただ黙ってその言葉を受け止める他、無かった。
彼女はしかし、そんな自分の戸惑いを見て、しまった。と思ったのだろうか。すぐに目を逸らし、誤魔化す様にまた、歪な笑顔を浮かべた。
「っ、ご、ごめんごめん、急に大きな声出しちゃって……。その……」
その後に続く言葉は、お互いに見つからなかった。
無言のまま、案内されたリビングに入る。淀んだ空気が変わることはなく、温く湿ったような部屋は、以前呉羽が来た時とは似ても似つかない変わりようだった。
机の上には、いつ食べたのか分からないコンビニ弁当。残された白米は黄色く色が変わり、乾ききっている。それがいくつも積み重ねられ、そのままにされていた。
隣には飲み終わった缶コーヒーがいくつも散乱し、その一つが横に倒れている。零れたコーヒーすら拭き取られないままで、既に乾いて、机と床に染みを作っていた。
その場に崩れ落ちる様にして、秋月はリビングのカーペットへ腰を下ろす。辺りには破られた書類や、丸められたティッシュ、脱ぎ棄てられた服などが無造作に置かれ、円を成している。きっと、普段はそこに座って一日を過ごすのだろう。
そして、先程からより強く鼻を突く、据えた匂い。それがきっと、生ごみの腐敗した匂いと、既に何日も風呂に入れていない彼女から漂ってくるものと気付かされた。
「ごめん、ね。散らかってて」
こちらを力なく見上げて、恥ずかしそうに微笑む。きっと、この部屋の惨状に慣れてしまって、それが異常とも思わないのだろうか。そんなことを考えながら、呉羽も真似をするように、傍へ腰を下ろした。
一瞬、片付けをしようかと申し出そうになって、すぐに口を噤む。もし、また同じように彼女を刺激してしまったら。そう思うと、何も手を加えないことを望んでいるのかもしれない。
永遠にも思える沈黙の中、先に口を開いたのは秋月だった。
「煙草……吸っていい?」
「え? あ、ああ」
以前なら、嫌煙家である自分は断っていただろう。換気扇の下で吸ってくれと、折衷案を出していたかもしれない。しかし、今の彼女にはそれすらも難しそうだった。きっと、玄関先で呼びかけてから出てくるまでの間も、彼女にとっては精いっぱいに急いだ結果なのだろう。
「ごめんね、煙たいと思うけど……」
そう言って、彼女は震える手を動かし、破られた書類の山をかき分ける。程なくして灰皿、そしていつも吸っている煙草を見つけ出し、緩慢な動きでそれを摘まみ上げる。
唇に咥えると、その震えが煙草の先端を通じて余計に目立った。寒い訳でも無いのに、上下へ動いている。
ずっと昔から使っているライターを手に取り、火が灯ると、それでもいくらか慣れた手つきで火を写し、部屋に煙が立ち上り始める。
その間、呉羽はただ、黙って見守るしかなかった。
ゆっくりと息を吸い込み、震える喉から吐き出す。煙が少し目と喉に染みたが、それを悟られないように我慢する。
やがて、秋月は再び口を開く。
「……電話でも、話したと思うんだけどさ」
「……うん」
「わたし、先生辞めたんだ」
言った後で、視線を床に落とす。後を追う様にその方向を見ると、破られた書類の中に、退職届という文字がバラバラに見えた。
「頑張ったんだけどね。……そう、頑張ったんだ、わたし。……でも、駄目だったんだよ。わたし、教師には向いてなかったみたい」
掠れた声でそう呟き、灰を落とす。そのやせ細った手は、病的な程に青白く、血管が浮き出ていた。思わず自分と見比べてしまうが、それは20台のそれではなかった。
「頑張った、つもりだったんだけどね……」
繰り返す様にそう言って、こちらに目を向ける。しかし、その焦点は自分では無く、どこか遠くを見つめていた。
「生徒の顔を見るのもしんどくてさ。みんな、色んな悩みがあって、それを助けてあげるのが先生って、思ってたんだけど、駄目だった……。毎日、毎日、今考えても驚くほど、自分の時間を削ったんだけどね……色々やったんだけど……それでも、駄目だった」
呂律の回らない舌で、言葉が矢継ぎ早に出る。耳が痛くなるような静寂の中、秋月は堰を切った様に続ける。
「生きるのが辛いって、子がいてさ。わ、たし、ずっと助けようとしたんだ。ちょっとでも、その子が楽になればいいと思って。ずーっと頑張った。……でも駄目だった。何一つ変わらなかった。……ねえ聞いてよ」
そこで、ふっと自然な笑みが、彼女の顔に宿った。しかしそれは、自嘲的な笑顔で。
「この間、その子が、瑞月みたいに来てくれたんだ。わたしのこと、心配してくれたのかなあ。そうだったらいいんだけど……でもわたし、その子に、凄く酷いこと言っちゃった。……あの子の所為じゃないのになあ」
声は段々と、震えを増していく。しかし、その目に涙は浮かばない。ただ、苦痛に歪んだ声だけが絞り出される。
「わたし、もう生きる資格が無いからさ」
まだ一口しか吸っていない煙草を、そのまま灰皿に押し付けてもみ消す。火種が潰れる音までもが、嫌に大きく聞こえた。
呉羽は、息をすることにすら、音を立てないようにして、ただそれを聞くしかなかった。
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