どん底だった私が“追い出し部屋”を卒業するまで

ブロッコリー展

第1話

【ある調査によると】 2024年の早期退職者は前年から急増し、およそ3年ぶりに1万人を超えた。なお、足もとでは、さらにその数は加速している模様だ。



 ──真実は細部に宿るという。ならばこの数字のなかには本当の細部はない。私という細部が。  

 大企業という巨大帝国の小さな歯車の一つにすぎない私が。  





 九月のある朝。その日は私にとって特別な日にならないはずだった。  

 40代も半ばになると目覚めのいい朝なんてない。選挙もないのにいちいち顔を出さなければならない太陽に深く同情する。

「あなたー」と呼ぶ声がして、一階に下りると、朝食の準備がすでにできていた。  

 先に座っていた小4の息子が「パパおはよう」と振り向く。息子については中学受験のことをいろいろ考えているところだ。

「おはよう。早いな」と頭をなでてから私も座った。

「パパが遅いんだよ。このごろずっとね」息子は “ねえ”と妻とうなずき合っている。  

 そして、妻がよそったみそ汁を私の前に置いてくれながら言った。

「あなた、今日から新しい部署なのよね?」  不意だった。自分のことではあるのだが……。  

 横の息子がお米つぶをつけた口で「えっそうなの?」と興味を示す。  

 ──だが心当たりがない。

「そうだったかな」  

 イスをひき直した。うちの床はもっとすべりやすかった気がする。  

 妻もテーブルの向かいに座った。

「あなたがこの前言ったんじゃない。“辞令が出た”って」  

 ──私が!? 言った!?  季節は秋だ。さびしい季節ではあるが、しかし決算後の異動シーズンというわけでもないこの時期に……。  

 どうかしたのかという感じでのぞき込む妻。みそ汁の湯気がうわっと上がってきた。

「ああ、そうだった。ちょっと日付を勘違いしててね。うっかりしてたよ」  

 本当はさっぱり思い出せていない。そんな大事なことなのに。まさか若年性の認知症とかだろうか。このごろは多いと聞く。ただ、一生懸命思い出そうとすると、何かが記憶の奥にひっかかっているように感じる。

「きっと疲れているのよ、あなた」と、妻は自分でお茶を入れて両手をそえて飲みながら言った。

 私はまた箸をしっかり持って、ごはん茶碗に手をつけた。

「で、どこの部署なの?」  

 ドキリとした。妻とは社内結婚だった。だから会社のことはよく知っている。おかげで愚痴もこぼしやすいのだけど……。

「それも言ってなかったのか……」

「パパ大丈夫?」  

 息子はごちそうさまの手でこちらを見ていた。





 朝食後。  

 二階にて、鏡の前でネクタイ選び。  

 ネクタイを選んでいるときの顔はこんなにも老け込んでもいいものなのだろうか。それとも朝陽の入り込み方の加減なのだろうか。

 ところが、ここでも──真実は細部に宿る。  

 どんな柄のものをあてがってもしっくりとこないのだ。  

 ふと、私は何の会社に勤めていたのかが急に自信が持てなくなってきて、名刺入れをカバンからひっぱり出してみる。まだ住宅ローンだってたっぷりと残っている。子供の頃にあつめたビックリマンシールのようにキラキラとケースが反射する。その名刺に刷られた文字を見てようやく心当たる。私の勤め先に、だ。肩書は『事業部長』とある。  

 ──そして、最後にあてがった一本を首に結ぶ。私は鏡に対してのみ私なのだ。  

 少し長くなったが、実はここまでの二階での狂想曲は毎朝くり返している。いずれこの意味についてはわかってもらえると思う。  

 上着を着込む。ダークスーツ。シャドーストライプ。

「それじゃあ、行ってきます」私が靴べらを入れていると、妻が玄関へ来た。

「あなた、またそのネクタイ?」

「え!?」

 朝だけで何回驚けばいいのか。

「いいかげん変えたら?」

「そうするよ」

 私がほどいていると、息子がくつ下ですべり込んできた。

「パパ、ボクが今ちがうのを持ってきてあげるよ」  

 元気よく階段をのぼっていった。

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