第13話 子が産まれた

春の終わり、まだ風に冷たさが残る頃。ひと組の夫婦が、村の人々に見送られながら聖樹を目指して旅立った。

 夫は痩せた肩に荷を背負い、妻は小さな布袋を抱えて歩いていた。二人とも粗末な衣に身を包み、旅支度といっても中古の雨除けのマントを買った程度。路銀は長い間、日雇いや畑仕事で少しずつ蓄えてきたものだった。


 道すがら、彼らは昼に小さなパンを二つに分けて口にした。その姿を見かけた旅人が「これを食べなさい」とパンを渡してくれた。

 夫婦は深々と頭を下げ、顔を見合わせて「ありがたいね」と笑い合った。その笑みは、空腹や疲れを和らげる薬のように温かかった。


 やがて山道へさしかかると、妻の足取りは重くなった。岩だらけの急坂に、息を切らした。夫は言葉もなく、背をかがめて妻を背負った。

 そうしてようやく辿り着いたのが、光をまとう大樹――聖樹である。


 夫婦は根元に膝をつき、震える手を合わせた。祈りの言葉は拙く、声もかすれていたが、その必死さは枝葉を揺らす風に乗り、確かに空へ届いたように見えた。

 帰り際、妻が落ちていた葉を一枚拾い上げた。薄く透けるような緑の葉。夫婦はそれを宝物のように包み、胸に抱いた。


 村に戻った二人は疲労で倒れ込んだが、互いに支え合って起き上がり、また日々の仕事に戻った。

 ――あと二度、あの山へ行こう。そうすれば神の御心にかなうだろう。二人はそう誓っていた。


 しかし、次の旅を前にして妻の体調が崩れた。めまいや吐き気に襲われ、畑に出ることすら難しくなった。夫は「疲れが出たのだろう」と言い、妻も「そうだね」と笑おうとしたが、笑みは長く続かなかった。

 そんな折、隣家の年配の女が彼らを訪ね、「もしかしたら……だから産婆に見てもらいな」と勧めた。半信半疑のまま呼ばれた産婆は、しわがれ声で告げた。


「子がおる」


 ただそれだけ。祝いの言葉もなく、むしろ険しい表情をしていた。


 夫婦は顔を見合わせ、「でも、まだ一度しか聖樹に行ってないからね」と互いを慰め合った。それでも、家の棚に置かれた聖樹の葉を見るたびに、心の奥に小さな希望が灯った。

 村人たちもまた、はらはらしながら二人を見守った。子が生まれること自体が、この国ではあり得ないことになっていたからだ。祈っても願っても子は産まれない。

 二人の姿は誰にとっても祈りと希望の象徴のように思われた。


 やがて季節は巡り、妻の腹はふくらんでいった。歩くのも難しくなり、夫がいつも手を貸した。村の女たちは洗濯や炊事を手伝い、男たちは畑を代わりに耕した。

 そしてある夜、長い陣痛の末に響いたのは、力強い産声だった。


 その瞬間、家の外に集まっていた村人たちから歓声があがった。「おお……!」「生まれた!」

 夫婦は汗と涙に濡れながら互いの手を握りしめ、「ありがたい……よかった、よかった」と繰り返した。

 小さな命は、燈火のように部屋を明るく照らしていた。


 噂はすぐに村から村へと広がった。やがて王都にまで届き、「平民に子が生まれた」と人々の驚きと喜びを呼んだ。

 それを皮切りに、ちらほらとだが他の平民の家にも子が産まれるようになった。祈りの声は再び力を持ち、人々は神託を信じて聖樹に詣でるようになった。


 村人たちは口々に言った。

「やはり聖樹は生きておられる」

「神様は見捨ててはおられぬ」

「ありがたいことだ」


 夫婦はただ静かに子を抱き、村の片隅で笑っていた。彼らの笑みは、国中に広がる希望の兆しとなった。


 神殿が告げた言葉【神殿と聖樹を三往復して祈れば子を期待できる】は、この頃すでに人々の心に根を下ろしていた。だが、人々が本当に信じ、勇気を得たのは――この無名の夫婦と、その小さな命の存在だった。


 子が産まれたことを聞いたある者が、聖女ユラリの像を聖樹のそばに建てようとした。

彼は祈りを捧げるユラリをかたどった彫像を作った。

 有志が担いで運んで行った。うやうやしく運ばれていくユラリの像。人々はそれを拝んで見送った。またある者は担いだ。担ぐと感謝されると噂になるのはすぐだった。担ぎたいと駆けつける人々。担ぐ力はなくとも、担ぎ手に食事をや飲み物を差し出す者も多かった。


 やがて聖樹のそばに置かれた彫像は人々の祈りを集めた。


 また別の有志が町の辻に聖女の像を建てた。

 やがて町の辻に建てられた聖女の像の前にも、人々は立ち止まり、手を合わせるようになった。

 遠く聖樹まで足を運べぬ者も、その像に祈りを託した。

 誰もが心の奥で信じていたのだ――

 「聖女ユラリ様は、この国を見捨ててはおられない」 と。

 その思いは国中に広がり、やがて絶えることのない祈りとなって空へと昇っていった。

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