第6話 公爵
侍従の後をゆっくりと歩く。
娘の様子を見に来た帰り道、
「殿下がお呼びです」と告げられた時から、胸の奥にざらつく予感が居座っている。
娘、バーバラのいじらしい恋心をかなえたいと異例の速さで第二妃として嫁がせた。
貴族も神殿も反対したが最後は王子殿下の一言ですべてが決定した。
バーバラはすぐに懐妊したが、その子は生まれてこなかった。だが、王子の愛情は細やかですぐに次の子が出来た。子は順調に育っている。娘の散歩に殿下も付き添っておられる。すべてがうまくいっているのに、なぜか侍従の言葉で背中がざわっと冷えた。
扉が開くと、王子殿下は窓辺に立っておられた。背筋は凛と伸びているが、なぜか疲れて見えた。
「お呼びにより参上いたしました」
わたしは膝を折り、深く頭を垂れた。王子はなにも言わない。常であれば
「義父上、お堅いですよ」とおっしゃるのに・・・
「楽に」の言葉でわたしはもう一度、殿下を見た。
「公爵」
殿下の声は低く、石壁に染みるようであった。
「ユラリは、子を成せぬ」
わたしはそれを知っている。そう仕向けた。だが、殿下の口から聞く事実ではない。
胸が強く跳ねた。
すらすらと言葉が出てきた。
「それは確証がございますか?別の医師に見せられるのはどうでしょうか?よければ我が公爵家の医師を派遣いたしますが」
「そちは、そう言うのか?」
「はい、正妃殿下の出産は娘、バーバラより大事でございます」
「口は便利だな」
「曲げておとりになるのは!そのようなつもりはございません。臣下として正妃様のことを」
「もう、よい」
しばしの沈黙。だが、ここは年長者として
「それは残念にございます。しかし殿下、どうぞご安心を。まもなく我が娘バーバラが出産いたします。王室の未来は盤石。殿下の御代は安泰でございます」
父としての誇りを込めて言葉を返した。
だが殿下の目に浮かんだのは、笑みとも怒りともつかぬ色だった。
「盤石?か。ユラリは言った。われらが結託して、薬を飲ませたと」
冷や汗が背を伝う。確かに、聖女がそう思っても仕方のないことをしたが・・・
私は娘が可愛かったのだ。それだけだ。野心ではない。
バーバラは幼い頃から王子殿下を慕っていた。わたしについて王城へ遊びに来て殿下を見たその日からずっと。
祭りで舞を披露し、殿下が見ていると知った途端に頬を紅潮させ、ぎこちなくなった日。
ふさわしくあろうと、子供のころから努力した。
わたしは父として、その一途さを知っていた。政略ではなく、打算でもなく、ただ心から殿下を思っていたのだ。
だからわたしは願った。
せめて、聖女より先に娘に子を。
そうすれば、娘は報われる。誰もが『殿下の子を最初に抱いたのは、幼き頃から慕い続けた娘だ』と認めるだろう。
それだけでよかった。ただ、それだけだったのだ。
父としての願いは単純で、切実で、愚かしいほど真っ直ぐなものだった。
殿下の声が、そんなわたしを切り裂いた。
「真実がどうであれ、もはやどうでもよい。ユラリはそう信じた。そして、覚えておけ、公爵。バーバラの子は、生まれぬ」
世界が音を立てて崩れ落ちた。
「何を仰せに!殿下! バーバラは、ただ殿下を愛しただけにございます!」
叫びは哀願に変わる。
だが殿下の声は冷ややかだった。
「愛か。それが何というのだ。罪だ。これが罰だ。ユラリは女神に願った。『この国に子が生まれぬように』とな」
鼓動が耳を打つ。視界が揺らぎ白く変わる。
思い返す。確かに流産や死産の報せが続いていた。侯爵家の夫人、バーバラの従姉、執事の孫。
それらは偶然ではないのか? だが殿下は断じる。これは聖女の復讐、女神の裁きなのだと。
「殿下、それでは、この国は……」
「滅びる」
一刀のような答えが返った。
その響きに、我が身の血が凍った。
滅び。王国の千年の歴史が潰え、産声が絶える未来。
だが殿下の顔には恐れも迷いもなかった。ただ諦観と、冷徹な決意だけがあった。
わたしは震える声を絞り出した。
「娘は幼き頃より一途に殿下を慕ってまいりました。その気持ちをどうか」
「わかっている」殿下は遮った。
「だからこそ、残酷なのだ。愛を理由に他人の幸せを奪ってはならない」
胸の奥で何かが砕けた。父としての願いも、臣としての誇りも、粉々に。
わたしはただ、頭を垂れるしかなかった。
蝋燭の炎が揺れ、影が伸びる。やがて国を呑み尽くす闇の中で、娘の笑顔だけが幻のように浮かぶ。
わたしを見ていた王子がこう言った。
「ユラリは子を生んで、その子を残して自分の世界に帰るつもりだったそうだ。だが、この世界に残した子は大事にされないと思ったそうだ」
「そんな滅相もない。正妃殿下の生んだお子を」
「そうだな。だが、彼女はそうは思わなかったようだ。そう思わせてしまった。結婚後、半年でバーバラを娶り、薬を盛った。信用など出来ぬよな」
「申しわけございません・・・」
「謝る相手はわたしではない」
殿下の声は深い石壁に吸い込まれていった。
蝋燭の炎が揺れ、影が伸びる。
わたしはただ、頭を垂れるしかなかった。
殿下の瞳には、もはや迷いはなかった。
国の滅びすらも受け入れ、冷徹に未来を見据えている。
だが、わたしの胸には瓦礫しか残らなかった。
娘の笑顔も、幼き日の夢も、父として守りたかったすべてが粉々に砕け散った。
――国を導く者と、ただ娘を愛した父。
その差が、これほどまでに残酷であるとは知らなかった。
それでも、父は娘を愛した。
それだけが、変わらぬ真実であった。
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