冬の熾火

 凍てつくような寒さを恐れていた。指が凍傷になり壊死してしまうこと、食料が尽きて獣もれなくなること、病に罹り手の施しようもなく死んでしまうこと。どれも、恐ろしかった。自分に忍び寄る死も、他人に襲いかかる死も。


 火があれば、と思う。


 この闇を払う火が、この寒さに寄り添う灯があれば、俺たちは、きっと——。




   1

 ローマ属州・ダキアでは、カルピ族による侵攻が激化している。山岳地帯に位置するローマ軍の要塞は、今まさに包囲されていた。何よりも苦しいのは、今が冬で、食糧をはじめとする物資が尽きつつあること。


 プリムスは医薬品の棚を思い出してため息をついた。軍医として、医薬品の管理には細心の注意を払っている。一日に使える包帯の数、消毒液の量——余分を多めに取ってはいたが、それでも底が見え始めていた。司令官はいったい何をしているのか——目の前の男を睨みつける。彼は素知らぬ顔で軍議に参加していた。


 カシウス・ウェルギリウス。騎兵隊長にして今回の軍事作戦の司令官。傭兵上がりとのことだが、出自や経歴には謎が多い。ただ、こと戦いに関しては他の追随を許さず、軍略・白兵戦の両方で成果を挙げ続けている。大勢を率いる度量もあるようで、夜ごと陣中を回り兵士と言葉を交わしているところが目撃されてもいた。プリムスはそれが気に食わなかった。この男の善戦にかかわらず戦況は悪化していくばかりである。彼一人が強くとも意味がないのだ。戦争とは、一人でするものではないのだから。


「撤退すべきです」プリムスは毅然とした態度で述べ、机を叩いた。「薬も食糧もない。貴方も分かっているでしょう、ウェルギリウス」


 カシウスは冷ややかな目でプリムスを見つめ、白い手袋に包まれた手で倒れた駒を起こした。軍議で使う、金属製の駒だ。


「貴方は確かに強い。貴方一人いればこの戦は勝てる。ですが、軍五百人を無傷で守りきるのは……貴方にも不可能だ。撤退しか、選択肢は残っていません」


「プリムス。我々が撤退すれば、カルピ族はダキアを攻め落とす。ダキアに住む民はどうなると思う?」


「……男たちだけでも、避難させれば」


「不可能だ。この都市に何人が住んでいるか、君ならわかるだろう。よって我々が採るべき選択は一つ——ここで、戦い続けることだ」


 その瞳は常人にはありえぬ黄金を纏っていて、彼を天空神ユーピテルの子だとする兵もいるほどである。物憂げな煌めきがいっそうの輝きを見せ、プリムスの猜疑心を揺らした。彼の目には魔力がある。ともすれば魔術師なのではないかと思うほどに——プリムスは本気で魔術を信じていなかったが、彼になら使えてもおかしくない、と思えるほどに。


「君の意見も正しい。だが……我らが先んじて市民や負傷兵を見捨てることなどできない。わかってくれ」


 カシウスは天板に手をついて立ち上がった。そしてプリムスを一瞥し、天幕を出ていった。もう夜も遅い。休むべきだと言われている気がして、プリムスも同じように本陣を後にした。


 自らの天幕に戻る途中、歩兵隊長のセルウィウスがこちらを窺っているのに気づき、プリムスはそちらへ向かう。彼はプリムスと同じく、司令官のカシウスに撤退を進言する一派の一人であった。


「どうだった」彼は声をひそめた。「ウェルギリウス隊長は、撤退を受け入れたか?」


「いや。彼は、市民と負傷兵を見殺しにするわけにはいかないと言っていた。強情な男だよ」


「全くだ。マルスの加護を受けているなら、本陣まで突撃して皆殺しにしちまえばいのに」


 セルウィウスはカシウスを軍神マルスの子だとする派閥の一人でもある。あの男は神の子として崇められやすい。どれもこれもカシウスの容姿や武功が優れているからであって、今の指揮と戦況が評価されているからではない。プリムスはそれも気に入らなかった。


「いま撤退しなければ死傷者は増えていく一方だ……何を考えているんだ、ウェルギリウスは」


 はあ、とため息を吐けば、近くの天幕から一人の男が出てくる。プリムスはそちらを一瞥し、慌てて目を逸らした。補給隊長のティトゥスだった。彼は軍医であるプリムスと対立している男だ。カシウスに対する評価に始まり、補給物資をどう使うかという軍略や、果ては医師としてのプリムスの戦い方に至るまで——この戦の悉くで意見が違っている。特に、カシウスを信奉するティトゥスの主張は、プリムスにとって目の上の瘤のようなものであった。


 ティトゥスの後からカシウスが出てきて、なおさらプリムスは目を逸らさざるを得なかった。こんな夜中、それもティトゥスの天幕で——何をしていた?


 プリムスの脳裏には常に最悪の想定がある。この場合だと、二人が結託して邪魔者であるプリムスを暗殺しようとしており、そのことについて話し合っていた、とか。カシウスが自分を疎んでいると思ったからこそ、プリムスはその想定の現実性に唾を飲んだ。ありえない話ではない。


 セルウィウスが無警戒にカシウスたちの方向を見る。プリムスは彼を諌めるように唇に指を当て、黙れ、と無言で指示を出した。カシウスと対立する二人が共にいることが露見しては、面倒なことになってしまう。


 プリムスとセルウィウスは目配せをし、息を殺してカシウスがいなくなるのを待った。彼はティトゥスと天幕の前で一言二言交わして、踵を返した。一瞬だけその黄金の瞳がこちらを向いた気がしたが、あの距離では夜闇に紛れて見えやしないだろう。こちらが彼を視認できたのは、天幕の前が篝火で照らされているからだ。こちら側は火の下を歩いてはいない。


 邪魔な騎兵隊長がいなくなったのを確認し、プリムスは歩き始めた。射貫くような金が、目蓋を閉じても焼きついている。



   2

 運び込まれてきた少年は、少しでも動かすと苦痛に呻くほどの傷だった。鏃に毒が塗られていたと思しい。


 プリムスは軍医として少年——アウルスを救うため手を尽くした。まずは毒を排出することが最優先だ。プリムスの学んできたガレノスのギリシア医学では、止血帯の代わりに瀉血を用いるべきである。


「痛い! やだ……っ」


 アウルスは聞き分けのよい子どもであったから暴れることはなかったが、そのぶん痛いと泣きわめいた。天幕の外にまで聞こえるのではないかというほどの声量だったからか、カシウスが姿を見せたのは、アウルスの処置を始めてすぐのことだった。


「アウルス」


 カシウスは一言、名前だけを呼んだ。兵士一人一人の名前を覚えているとでも言うのか。プリムスは清浄で神聖な医療室に医学の心得もないような男が入ってくることに苛立ちを覚えたが、彼の隣にティトゥスが控えていたので、表に出すことはやめておいた。ティトゥスはカシウスの盲信者だ。嫌味を言いでもすれば、掴みかかってくるに違いない。


「ウェ、ル、ギリウス、隊長……?」


 歩兵、それも成人したばかりの新兵にとって、カシウスは天上の人も同様で、滅多に顔を見られるものではない。アウルスは傷を受けた腹部に障らないようにしつつも、カシウスの尊顔を拝謁するために上半身を起こしていた。


「おれ、おれのために来てくれたんですか……」

「そうだ。寝ていなさい。傷に障る」


 カシウスは入口に姿を見せるに飽き足らず、無遠慮にも中に入ってきて診察台の横に立った。

「ウェルギリウス隊長。ここがどこかお分かりですか。すぐに出ていってください」


 プリムスは看過できずわずかに声を荒らげ、カシウスを睨みつける。彼はプリムスを見下ろし、ふい、と視線を逸らした。寝台に横たえられたアウルスの体に向き直っている。言い負かしたのではなく、無視されたのだ。それはどうしようもなくプリムスの自尊心を傷つけた。プリムスの助手として近くにいたセルウィウスも、屈辱感で顔を歪めている。


「所見は?」

「は?」プリムスは間抜けた声を上げた。

「アウルスは治りそうか?」

「は……」


 正直なところ、全身に毒が回っているらしいアウルスを助けることは、プリムスにはできなかった。既にそう確信があり、故に、隊長であるカシウスにここを訪れてほしくなかった——自らの失態を目の前で見せつけたくはなかったからだ。


「…………」


 だが、救えないと言うこともまた、プリムスの自尊心を脅かす。どちらにせよ失態で、どちらにせよ瑕疵であった。だがプリムスは口にできなかった。そしておそらくは、セルウィウスも同じだった。


「わかった」


 カシウスは沈黙だけで悟ったらしく、簡潔に答える。傍らで、アウルスの顔が青ざめていくのがわかった。沈黙は時に雄弁となる。もう助からないのだと言外に示された少年は、怯えを隠そうともしなかった。


「アウルス。少し目を閉じていなさい——大丈夫だ、君を救う。殺さないし、死なせない」


「は、はい……」少年はきつく目蓋を閉じる。


「——〈私は貴方の祈りを聞き、貴方の涙を見た〉」


 白い手袋の嵌まった手が、アウルスの腹部のすぐ上に翳された。やにわに彼の手のひらが淡く輝き出し、わずかな風が彼の前髪を浮き上がらせる。


「〈見よ〉……〈私は、貴方を癒す〉」


 それがなんの文言なのか、プリムスは知っていた。『列王記下』二十章五節。預言者イザヤがユダ王国の王ヒゼキヤに伝えた、主の言葉である。

 カシウスは何かを腹から引きずり出すように、手のひらを窄めた。そうして、握りつぶす。


 光と風が収まると、死人のようだったアウルスの顔色はだいぶん生者のものに戻っていて、その代わりに、カシウスの額がわずかに汗ばんでいた。


 聖句を唱え、毒を癒す——すなわち、奇跡である。カシウスの出自は謎に包まれているが、傭兵として戦場に立つ前は司祭として暮らしていたのかもしれない。奇跡を施せるのは聖人だけだ。サマリアの魔術師たるシモンでさえ、傷や病を癒すことはできなかった。


 ならば、カシウス・ウェルギリウスは聖人なのか?


 プリムスは浮かんだ疑念を払いのけるように、頭を振った。そんなはずはない。カシウスが、聖人であるはずがない。悪なる術を使う魔術師にすぎないはずだ。


 カシウスは軍医用の布で額の汗を軽く拭って、ふう、と息を吐いた。「もう大丈夫だ」


「あ……痛く、ない」


 アウルスは恐る恐る目蓋を持ち上げ、救い主を見るかのような崇敬に満ちた眼差しで、カシウスを見た。


「ウェルギリウス隊長——おれ……」


 少年が腹部の傷に手をやったが、そこには傷を受けたことを示す痕跡の一つたりとも残っていない。


「君の体から毒を取り除いた。傷も……処置はした。完全に治ったわけではないから、数日間は安静にしているように」


 セルウィウスは舌打ちをし、アウルスの腹を見て、彼の奇跡に瑕がないかを探している。カシウスがその行動に気づいていないはずがなかったけれども、彼は何も言わずアウルスの手を握っていた。


「死なせない。言っただろう」


「あんたは——」プリムスは思わずそう口にしていた。考えるより先に、舌が動いていた。「そんな力があるなら、なんで全員を助けてやらなかった! 奇跡でも魔術でもなんでもいい、助けられたのに、なんで——あんたは……!」


 また、考えるよりも先に身体が動いた。プリムスは気づけば、彼の胸ぐらを掴んで罵っていた。


 今回の撃退戦で、死者は多く出ている。戦場で傷を受けてその場で死んだ者もいれば、アウルスのように病院に運び込まれて助からなかった者もいる。


 カシウスが赴任してきたのは、戦いが始まって少し経ってからだった。故に、それより以前の死者に関してプリムスが憤ることはない。


 しかし——しかし。彼が司令官の座に就いてから、死んでいった人間は。カシウスが患部に手を翳せば、生きながらえることができたのではないのか。


「アウルスを助けた。それはいい。正しい。救えるのなら救うべきだ。だが、あんたは他の誰のことも助けなかった! 司令官様は命を選別するほど偉いのか?」


「プリムス……」


「なんだ。言い訳があるのか? 言ってみろよ」


 カシウスは鎧を着ておらず、トゥニカの襟をつかむことは簡単だった。彼の眉尻は下がり、瞳には物悲しい雰囲気が漂っている。だが、プリムスはそれだけで絆されたりはしない。


「君の主張は間違っていない。私は命を選別している、と……そう捉えられても仕方のないことだ。だが君も『五百人を無傷で守りきるのは不可能だ』と言った。理解してくれると、思っていたが」


 プリムスはカッとなってカシウスを思いきり殴りつけた。彼は床に倒れ込む。彼の部下であるティトゥスが後ろから羽交い締めにしてきたが、構わず二発目を叩き込もうとして、馬乗りになって拳を振りかぶった。肘のあたりを掴まれて身動きが取れなくなる。殴りつけた拳の関節のあたりが、ひりひりと痛んだ。


「クソッ……クソ、てめえ……!」


「落ち着け!」ティトゥスが遠くで叫んでいる。


 プリムスは思いつく限りの言葉を並べ、カシウスを罵った。確かに以前そう言ったことがあるし、自分も、今でもそう思っている。だからこそ反論できなかった。


 五百人を無傷で守りきるのは不可能だ。戦場で死ぬ兵士を一人で助けることなどできない。彼の体は一つしかないし、カシウスは司令官である前に騎兵隊長である。騎兵隊を率いる立場だ。前線に立つ彼が戦場や野戦病院を縫って奇跡を起こし続けるなど、できるはずがない。プリムスはそれを理解していたからこそ、理想と現実の隔たりが許せなかった——みなを救えない自分が、許せなかった。


 いっそ、カシウスが無能であったらよかったのに。あるいは、自分がもっと無才であればよかった。


 そうであったなら、これほど悔やむことも、理想に向かって手を伸ばすことも、なかったのだろうか。


「君の気が晴れるならいくらでも殴ってくれ。私は、……わたしは、それだけの罪を犯している」


 諦めたような顔で言うものだから余計に腹が立って、プリムスは深呼吸をし、彼の上からどいた。


「これ以上……これ以上軍規を破るわけにはいかない。ウェルギリウス……貴方の言い分は理解できる。私も頭に血がのぼりすぎたようです。どうとでも処罰してください。追放でも、死刑でも」


 荒い息を整えようと努める。カシウスは体を起こし、立ち上がった。口の端が切れており、わずかに血が滲んでいる。傍らでは、アウルスが怯えた目でこちらを見つめていた。


「申し訳ない、アウルス。あんたを怖がらせるつもりじゃなかった」


「だ、大丈夫です。おれ、貴方がいつも戦場を歩いて回って、まだ生きてる人を捜してるの、知ってます。隊長も……」


 アウルスがカシウスを見やる。彼は力なく首を横に振り、数人しか助けられなかった、と言った。


「…………っ」


 自分の浅はかさに嫌気がさし、プリムスは長く深いため息をついた。カシウスも力を尽くしていたのだ。ならば、非があるのは自分のほうだ。

 プリムスはかたく目を瞑り、息を詰まらせた。




   3

 噂はあっという間に軍全体にまで広がった。ただしプリムスが上官を殴ったという噂の広まりは微々たるもので、代わりに軍を席巻していたのは、カシウスが平野部に偽の布陣を張って、山あいに本命の兵を配置し、最小の犠牲でカルピ族軍を撃退したという武功と——軍内部で流行りつつあった疫病を、水源の管理や治療、空間を広く空けるなどのよくわからない対策で根絶したという実績だった。


「プリムス。君に処罰を伝える」


 みなで火を囲んでいるところで、カシウスが現れてそう口にした。酒盛りに興じていた兵士たちはしんと静まり返り、司令官の次の言葉を待っている。


「お前が隊長を殴ったって噂、本当なのか?」


 隣にいた兵がプリムスを小突く。うるさいと返し、プリムスもまた、彼の台詞の続きを待った。


「無罪では示しがつかないとティトゥスに言われてな。よって、三日間の謹慎処分とする。謹慎期間中、病院と自分の天幕以外を出歩くことは許されない」


 カシウスの口調は冷たかったが、瞳はいつも通りで、物憂げな煌めきをたたえているだけ。


 そんなもの、無罪と同じではないか。


 プリムスは殴ったところで殴り返されもしない己に、思わず失望した。彼にとって自分は、叩き落とす価値すら無い羽虫なのだ。相手にすら、してもらえない。対等ではない。軍医と司令官には確かに、それなりの差がある。しかし、認めてもらえないほどではない。そのはずだ。プリムスは再び燃えかかる怒りを鎮め、なんとか答えを絞り出した。「わかりました」


「貴方にとって、私はその程度の存在なのですね」


「君の言いたいことはよくわからないが……これは、君の能力を鑑みての措置だ。私情は挟んでいない」


 その返答にさえ腹が立つ。殴られたくせに、自分の医師としての能力を買っているから寛大な心で許してやる——これに苛立たないでいられる人間がいるだろうか? 今のプリムスにとっては、カシウスの一挙手一投足が癇に障る行為だったし、どんな意味の言葉であっても、逆鱗に触れるほどのものだった。あの日の怒りが一瞬で燃え盛る。プリムスは自分の気質が嫌になった。己の浅はかさを、思い知ったはずなのに。


 つまるところ、カシウスが本当に言いたいことは、こうだ——戦場を歩き回って自分の身を危険に晒し、生存者を探すよりも、病院に引っ込んで運び込まれた負傷者の相手だけをしていろ。


 これは正しい。この軍に医師はプリムスしかいない。プリムスが死ねば本当にカシウスの奇跡に頼りきりにならざるを得なくなるし、捕虜にでもされてしまえば、どんな犠牲を払っても取り戻さなくてはならなくなる。どちらにせよ、戦場で生存者を捜すことは、いい判断とは言えない。少なくとも、軍神の子と評されているカシウスのほうが向いている。


「話はそれだけだ。諸君も早く休みたまえ」


 カシウスはそう言って踵を返し、夜闇に紛れていく。残された兵士たちは顔を見合わせ、彼に従って休むかどうかを視線だけで相談しあっていた。


「今、隊長の顔見て思い出したんだけどよ」兵士の一人が声をひそめる。「ティトゥスが、元老院に手紙を送ったって」


「元老院に?」


「ウェルギリウスを皇帝に推挙するつもりなのか?」


 プリムスは鋭く問うた。なじるような口調になってしまったので、話を切り出した兵士はばつが悪そうに目を逸らした。


「まだマクシミヌス帝がご存命なのにか?」


 代わりにセルウィウスが尋ねると、兵士は無愛想に答える。「そうらしい。俺は賛成だぜ」


「俺も賛成だ。あの方は俺の病を治してくださった」


「俺もだ! 目の前で、矢を叩き落としてくれた」


 プリムスはセルウィウスと目配せをし、互いに肩を落としてため息をついた。これだけカシウスを慕っている兵士が多いなら、元老院に送る手紙に署名をした人間は相当な数にのぼるだろう。


 夜も更け、それぞれあてがわれた天幕に戻っていく。歩兵隊長であるセルウィウスはプリムスのそばに来ると、囁き程度の声量で言った。


「任せてくれ」




   4

 軍内は混乱のただなかにあった。


 カシウス・ウェルギリウス司令官が、何者かの手によって殺害されたのだ。


 死因は毒。プリムスの検死では植物系の毒で、植物根を用いた生薬——強心剤として使われるもの——が盛られたのだろう、という見立てに落ち着いた。


 副司令官は補給隊長のティトゥスこそが犯人であるとしたが、彼はカシウスを皇帝に推挙する文書を元老院へ送ったばかりで、動機がない。そこで副司令官はカシウスが皇帝となることを認めない一派による犯行であると結論づけ、早々に犯人探しをやめにした。


 プリムスが感じたところでは、副司令官も関与しているはずだ。セルウィウスが昨夜口にした「任せてくれ」という言葉とあわせれば——犯人は彼ら以外にはいない。もちろん、プリムスはなんら関わっていないからである。セルウィウスがたとえプリムスのためにカシウスを毒殺したのであっても、プリムスはそんなこと、一度も頼んでいない。


 司令官を失ったローマ軍は彼の遺体を本陣に安置し、誰も入れないようと通達した。遺体が衆目を集めたり、不必要な辱めを受けることがないようにである。


 それから、カルピ族の司令官に停戦を申し入れた。葬儀のためだ。あちらの長はカシウスに兵士が助けられた恩があると明かし、停戦を受け入れるどころか、手向けとして酒と花を贈ってさえきた。


 プリムスは戦場を回り生存者を捜していたという話を想起し、彼の言う生存者には敵も味方もなかったのだ、と思い知った。軍人としては、自分のほうが正しい。プリムスはそう強く信じているが、彼の痛いほどにまっすぐな在り方を見ていると、自分のただしさがわからなくなった。敵は滅ぼすべきだ。ローマの地を侵し、奪う外敵は、悉く打ち倒すべきだ。——だが、彼らも人間だ。親がいて、愛するものがある。


 ふー、と細く息を吐いた。


 カシウスの葬儀に際して、遺体をダキア周辺の墓地まで運び出すことになっている。本来であれば遺体はいつも火を焚いている広場まで運ばれ、カシウスに対する追悼演説が行われる。しかし今はカルピとの戦の最中であり、猶予を与えてくれているとはいえ、彼のためにきちんとした葬儀を行えるだけの時間はない。


 プリムスはあの晩以降、セルウィウスとつるむことを控えていた。自分までもがカシウス殺しの噂に含まれてしまっては困る。代わりに、ティトゥスと行動を共にするようになった。司令官が死んでから、この男は憔悴してしまっていた。


「泣くな。それでも男か」


「……今朝、隊長らしき人影を見たのだ。森の奥に」


 ティトゥスは乱暴に目元を拭った。


「幻覚ならあとで薬を出してやるから、最後の別れを告げてやるといい。俺はもう済ませてある」


 そう言って、プリムスは天幕の垂れ幕を上げる。


 ——そこに、カシウスの遺体はなかった。


「な————」


 遺体を寝かせていた椅子から、忽然と、彼の遺体が消え失せている。あの黒檀の髪も、褐色の肌も、どこにも見当たらない。プリムスは全身から血の気が引いていくのがわかった。カルピ族に奪われたのか?


「見張りは何も言っていなかったぞ……!」


「待て、ティトゥス。何かある」


 椅子の上に、陶器の欠片が置かれていた。


「ウェルギリウスの署名があるな……偽装工作か?」


 プリムスは訝しみながらも、陶片オストラコンに書かれた文章を読み上げる。


「『私を皇帝に押し上げようとする派閥がいることは以前から気づいていたが、軍の内部分裂を招くことになるとは、思ってもみなかった。よって、私は私への罰として、この死を受け入れ』……」


 遺書、ということだろうか。毒を盛られてから死ぬまでのあいだにこれを書いて、どこかに隠し持っていた? カルピ族に遺体を奪われるとき、服のなかから転がり落ちたのだろうか?


「……『私は生まれ変わり、また旅に出る』?」


 意味のわからない陶片だ。だが、酒と花を贈ってきたうえにカシウスに恩義のあるカルピ族が彼の遺体を奪ったのだとするには、いささか証拠に乏しい。


「ティトゥス。ウェルギリウスの遺体は敵軍に略奪されたことにしよう。これは……俺たちの常識の埒外だ」


 プリムスは顔を歪め、自らの脳裏に浮かぶおろかな妄想を、目蓋を閉じて遮断した。ティトゥスが見たという人影が幻覚ではなかった可能性と——カシウスが死から復活したことが、三日目に甦られた救い主と、重なってしまうという事実を。


 そして、彼が灯した火は、ティトゥスを初めとする兵たちによって、間違いなく続いていくということも。

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