天気予報

 天気予報では、明日は午後から雨らしい。


 六月に入って、湿っぽい空気が部屋の中を回っていた。

 エアコンの風は嫌に冷たくて、辞めていた紙煙草を吸いに出た夜のベランダの方が、嫌に過ごしやすいように思えた。


 窓を閉めてベランダでスリッパを鳴らす。

 曇り空、見上げた空に月は見えない。


 予報通り雨なんだろう。

 そんな風にこれから起こることの全部、私に教えてくれたらどんなに楽だろうか。

 スマホに最初からインストールされてる天気予報のアプリを見ながら、他人事のように思った。


 何が起こるか分からないから楽しくない?


 そう言ってた笑った彼は、いつも雨に濡れて帰ってきていた。

 コンビニで雨宿りがてらビニール傘を買えばいいのにとか、会社を出る前なら持ち主不明の傘を拝借すればいいのにって、私は何度言ったのか分からない。


 吐き出した紫煙は、夜の闇に消える。


 予報は、予報だろ。

 何事もその瞬間にならないとわからないでしょ。


 そんなのは詭弁だ。

 自分の準備不足を棚に上げ、準備を怠る事を正当化しているに過ぎない。

 でも、その理論はとても美しい気がして、でも美しいだけでは突然の雨に濡れてしまう。

 だから私は傘を用意したいし、用意していた時に自己満足することができる。

 きっとこんな小さな幸せとか、ありふれた価値観みたいなものに自分という枠組みが収まった時に、この上ない快楽を感じることができるんだろう。

 少なくとも私はそうだった。


 頬を通り抜けた風が、髪先を揺らす。

 リンスの甘い香りが鼻腔を抜けた。


 でも、降らなかった時はどうするの?


 荷物が増えるね。

 私の答えに彼は呆れたような笑みを浮かべた。

 それこそ無駄であり、人生を生きていく上では身軽なほうが何かと便利だと彼は言った。

 確かに、人生という細い線の上を歩く上では身軽なほうがいいんだろう。

 無数に枝分かれしていく中で、隣の線に移る時に荷物が多ければ飛び乗る事を躊躇してしまう。

 平均台の上では、体操選手ですらその身一つで演技をする。

 私みたいな運動音痴であれば、尚更何も持たないほうが危うげないのかもしれない。


 でも、それはどうなんだろう。


 自問して、答えがない問いかけだと理解した。

 哲学の話は好きじゃないし、それに浸る自分はもっと好きじゃない。

 予報は欲しがるくせに、予見とか指針を必要としないのはコンパスだけで航海することを良しとする前時代的な考えなように思えた。

 そういう見方をすれば、私は随分と傲慢な人間に思えた。


 灰皿に灰を落とす。

 この時期の煙草は湿度が高い影響で、妙に甘ったるい。

 喉を刺激する心地の良い不快感が無いから、ただ惰性で煙を吸っては吐くだけ。

 この惰性のまま進み続けたらどうなるのだろう。


 答えは決まっている――おそらくは無重力空間みたいに、慣性の法則に従ってただ真っ直ぐ、何事も無く、それが普通の事のように時間が流れていくのだ。


 そう考えると、等速直線運動ほど綺麗な物理の原理は無いのかもしれない。

 ただただ進み続ける。

 指針も無く、宛も無く、何かになりたいという野望も無い。

 そんな人生も悪くないように思えた。


 気が付けば、煙草はフィルター手前まで灰が迫っていた。


 きっと物事もこんな風に順列があって、それに規則性を見出して予測なり予報をしているのだろう。

 それで言えば彼の言う通り、予報はあくまで予報でしかない。

 煙草の灰一つとっても、風に流されて消える事もあれば、今みたいに手元にまで迫って主人の肌を焼こうとしてくることもある。


 大枠の中に収まる事が人生なら、その枠から外れるのは死を意味するのだろうか。

 それは暴論の様にも思えたし、世の中に漠然と広がる心理のようにも思えた。

 でも、成功者は決まってブルーオーシャンだの、人と違う事をしろだの、枠に収まるなだのと言っているから分からなくなる。


 結局分からない。

 この思考だって意味はないが、意味のない事を考える事もまた人生なんだろう。


 こんなつまらない私だから、彼はどこかへ消えてしまったのだろうか。


 揺蕩う紫煙は、湿度の混じった風に揺れる。

 不意に吹いた風が、火種を消す前に煙草の灰を乱暴に宙へと回せた。


 あ――そう思って、きっとこれが答え何だろうと気が付いてしまった。

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