P.26 MISSION 26:砕かれた鏡

March 6th, 2021

19:00 Local Time

曇り

Bagram Airfield, Afghanistan

秘密作戦前哨基地



 「導師」排除作戦から二十四時間が経過した。だが、バグラムの前哨基地に漂う空気は、時間の経過と共に、より一層重く、澱んでいた。「完璧な成功」という評価とは裏腹に、俺たちの魂は、見えない鉛を飲み込んだかのように、静かに沈黙していた。


 ブラッドが試みた祝杯は、クリスの一言で立ち消えになり、それ以来、分隊のメンバーは互いに距離を置くように、それぞれの時間を過ごしていた。特に、俺たち新人三人の間に生まれた亀裂は、誰の目にも明らかだった。


 ブラッドは、あれ以来、誰とも口を利かず、ひたすら武器の手入れとトレーニングに没頭していた。その背中は、「お前たちとは違う」と雄弁に語っているようだった。彼にとって、俺とクリスの態度は、戦士にあるまじき「弱さ」と映ったのかもしれない。


 クリスは、相変わらず黙って本を読んでいた。だが、そのページは、俺が昨日見た時から、一枚もめくられてはいない。彼の静寂は、もはや彼の内面を守るための盾ではなく、誰にも触れさせないための、分厚い壁と化していた。


 そして俺は、スケッチブックを開いては、何も描けずに閉じる、という行為を繰り返していた。ペンを握る指が、重い。脳裏に浮かぶのは、バルコニーから崩れ落ちた、あの老人の最期。そして、その引き金を引かせた、自分自身の声だった。


 夕食の配給を受け取り、一人で格納庫の隅に座っていると、ストーンが音もなく隣に腰を下ろした。彼は、俺と同じ、味気ないレーションを黙々と口に運びながら、ポツリと言った。


 「……眠れているか」


 「……悪夢は見ます」俺は、正直に答えた。


 「そうだろうな」ストーンは、遠い目をして続けた。「最初の獲物の顔は、誰にとっても忘れられん。俺の最初の獲物は、ソマリアの民兵だった。まだ、十代の少年兵だったよ。ガリガリに痩せて、AK-47に振り回されているような、そんな子供だ。だが、その子供が、俺の仲間に向けて発砲した。俺は、撃った。今でも、夢に見る」


 生ける伝説の、初めて聞く告白だった。


 「いいか、ハヤト。俺たちがやっていることは、正義の戦争じゃない。ただの、任務だ。そこに、善も悪もない。あるのは、生きるか、死ぬか。仲間を生かすか、殺されるか。それだけだ。お前が感じている痛みは、正常な人間の証拠だ。だが、その痛みに、決して支配されるな。その痛みは、お前が人間であり続けるための、最後の楔だ。だが、戦場では、その楔が、お前の首を絞める鎖にもなる」


 ストーンは、レーションを食べ終えると、俺の肩を一度、強く叩いて立ち上がった。


 「クリスと、ブラッドとも、話してやれ。お前たちは、三人で一つのチームだ。一人で背負うな」


 その夜。俺は、眠れずに格納庫の外に出た。アフガニスタンの夜空は、どこまでも澄み渡り、無数の星が、冷たい光を放っている。


 そこには、先客がいた。クリスだった。彼は、ただ黙って、星空を見上げていた。


 「……眠れないのか」


 「……ああ」


 短い会話。だが、その沈黙は、心地よかった。


 「俺は……」俺は、言葉を探しながら、ゆっくりと話し始めた。「俺は、自分が正しい判断をしたと、今でも思っている。あの状況で、突入を選択するのは、あまりにもリスクが高すぎた。だが……頭では分かっていても、心が、追いつかない。俺は、引き金を引いていない。だが、あの男を殺したのは、俺だ」


 「違う」クリスは、静かに首を振った。「あの男を殺したのは、俺だ。お前じゃない。お前は、最も生存確率の高い選択肢を提示した。俺は、その選択肢を実行した。それだけだ。責任の所在を、曖昧にするな。それは、死者への冒涜だ」


 彼の言葉は、どこまでも冷徹で、そして、どこまでも誠実だった。


 「……俺はな、ハヤト」クリスは、星空を見上げたまま、続けた。「ペンシルベニアの、炭鉱町の生まれだ。親父も、じいさんも、みんな炭鉱夫だった。だが、時代と共に炭鉱は閉鎖され、街は死んだ。親父は、酒に溺れ、俺と母さんに暴力を振るうようになった。俺は、そんなクソみたいな現実から逃げ出すために、軍隊に入った。……俺が初めて人を殺したのは、そんな親父と同じくらいの歳の、ただの羊飼いの男だった。彼は、IEDを仕掛けているところを、俺に見つかった。ただ、それだけだ」


 クリスの、初めて聞く身の上話だった。


 「俺たちがやっていることは、結局、そういうことなんだ。誰かの父親を、誰かの息子を、奪い続ける。その事実に、慣れることはない。だが、受け入れるしかないんだ。俺たちが、守るべきもののために」


 その時だった。格納庫の中から、ジェスターの切迫した声が響いた。


 「ストーン! 緊急連絡だ!」


 俺とクリスが格納庫に戻ると、そこには、ただならぬ緊張感が漂っていた。メインスクリーンに、CIA連絡官の、険しい表情が映し出されている。


 「――事態が変わった。『導師』の死は、テロリストたちを沈黙させなかった。むしろ、逆だ。彼の死を『殉教』と受け取った複数の過激派組織が、報復のために、急速に連携を始めている。我々の情報網が、大規模なテロ計画を察知した。標的は……」


 連絡官は、一度言葉を区切ると、信じられない言葉を続けた。


 「……カブール国際空港だ」


 その言葉に、格納庫の空気が凍りついた。空港。それは、軍人だけではない。アメリカへ、ヨーロッパへ、故郷へと帰る、多くの民間人が行き交う場所だ。女も、子供も、老人もいる。


 スクリーンに、空港の見取り図と、夥しい数の民間人の姿を捉えた監視カメラの映像が映し出される。


 「彼らの目的は、最大限の流血だ。アメリカが支援する、アフガニスタンからの『平和的撤退』という幻想を、世界中の目の前で、血の海に沈めること。我々の作戦が、その引き金を引いてしまった」


 連絡官の最後の言葉が、俺の胸に突き刺さった。砕かれた鏡。俺たちの「完璧な成功」という鏡は、粉々に砕け散り、その破片は、俺たちが生み出してしまった、より醜悪な現実を映し出していた。


 ブラッドが、壁を殴りつけた。


 「……クソが!」


 ストーンが、静かに一歩前に出た。


 「我々の任務は」


 彼の声は、この混沌とした状況の中で、唯一、揺らぐことのないコンクリートの柱のようだった。


 「空港を防衛し、テロを未然に阻止する。一人でも多くの、罪のない命を、守ることだ。準備しろ。これより、作戦ブリーフィングを開始する」


 俺は、自分の拳を強く握りしめた。罪悪感に浸っている時間はない。俺たちが蒔いた種ならば、俺たちが刈り取るしかない。


 守るべきもの。クリスの言葉が、頭の中で力強く反響する。そうだ。今こそ、その意味が、本当の意味で問われる時なのだ。俺たちの犯した過ちが、何百、何千という罪のない人々の命を危険に晒している。ならば、俺たちが、この身を盾にしてでも、それを守り抜く。


 砕かれた鏡の破片は、もう元には戻らない。だが、その破片の一つ一つを拾い集め、武器に変えることはできる。俺は、ブラッドと、クリスを見た。彼らの瞳にもまた、同じ、揺るぎない決意の光が宿っていた。俺たちの間にあった亀裂は、この新たな、そしてあまりにも巨大な脅威を前にして、静かに埋まり始めていた。

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