P.12 MISSION 12:ヘルウィーク
BUD/Sの第一段階(ファースト・フェイズ)が、第四週目を迎えた。百五十名以上いたはずの候補生は、すでに半数近くにまで減っていた。毎日のように鳴り響く真鍮の鐘の音が、脱落者の数を物語っている。俺たちは、身体中に刻まれた無数の擦り傷と、常に全身を覆う砂の感触、そして、骨の髄まで染み込んだ寒さの中で、ただひたすら歯を食いしばり続けていた。
そして、運命の日曜日の夜がやってきた。
その日の日曜日、俺たちはつかの間の休息を与えられていた。だが、誰もが知っていた。これが、嵐の前の静けさであることを。宿舎の空気は、張り詰めた弦のように緊張していた。クリスは黙々とライフルの手入れをし、ブラッドはテキサスにいる恋人からの手紙を、何度も読み返していた。俺は、目を閉じて瞑想し、精神を研ぎ澄ませていた。
午後十時。突然、宿舎のドアが蹴破られ、凄まじい発砲音と閃光、そして怒声が嵐のように吹き荒れた。
「起きろ、蛆虫ども! パーティーの時間だ! ヘルウィークへようこそ!」
教官たちが、M60機関銃を空に向けて乱射しながら、次々と宿舎になだれ込んでくる。催涙ガスが充満し、視界と呼吸が奪われる。俺たちは叩き起こされ、混乱の中、装備を身につけ、外へと引きずり出された。
地獄週間(ヘルウィーク)。それは、日曜の夜から金曜の朝まで、五日間半(百三十時間)にわたって不眠不休で続く、BUD/Sの象徴とも言える訓練だ。この期間中、候補生は合計で四時間ほどの睡眠しか許されず、肉体と精神の限界を遥かに超えた、極限状態へと追い込まれる。
「ボートを担げ! 行くぞ!」
俺たちの地獄は、IBSを担いで夜の砂浜を延々と走り続けることから始まった。教官たちは、容赦なく俺たちの頭上めがけて発砲し、罵声を浴びせ続ける。眠気と疲労で、意識が何度も途切れそうになる。
「カミヤ、死ぬなよ!」
隣を走るクリスが、俺の肩を強く叩いた。彼のその一撃で、俺はかろうじて意識を繋ぎ止める。
夜が明けても、地獄は終わらない。凍てつく太平洋での長距離水泳、泥の中を匍匐前進で進み続ける「マッド・フラッツ」、そして、悪名高きログPT。全ての訓練が、休みなく、延々と繰り返される。
火曜日の夜。俺たちは、全員が限界を超えていた。睡眠不足による幻覚が、あちこちで始まっていた。ある者は、目の前の丸太を巨大な蛇だと叫び、ある者は、亡くなった祖母と会話を始めていた。
俺の目にも、アナポリスの美しい夜景や、アトリエの雑踏がちらついていた。
(美香……)
彼女の顔が、波間に浮かんで消えた。俺は、なぜここにいる? 何のために、この苦しみに耐えている? 自問自答が、朦朧とした意識の中をぐるぐると回る。
その時だった。ログPTの最中、ブラッドの足がもつれ、彼が担いでいた丸太の端が地面に落ちた。連帯責任。マクブライド教官が、悪魔のような笑みを浮かべて近づいてくる。
「オコナー。貴様が愛してやまない、この丸太を担いで、一人でサーフゾーンを往復してこい。他の蛆虫どもは、その間、腕立て伏せだ」
それは、死刑宣告に等しかった。すでに体力を使い果たしているブラッドに、たった一人で二百キロの丸太を運ぶことなど、不可能だ。
ブラッドは、唇を噛み締め、屈辱に顔を歪ませながら、丸太を担ごうとした。だが、彼の膝は笑い、身体は言うことを聞かない。
「……クソッ……!」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちたのを、俺は見逃さなかった。あの自信に満ち溢れたオールアメリカンが、初めて見せた弱さだった。彼のプライドが、完全に打ち砕かれた瞬間だった。
ブラッドが、力なく立ち上がり、あの鐘の方へと歩き出そうとした。誰もが、息を飲んだ。
「待て」
静かな、だが、芯の通った声が響いた。クリスだった。彼は、ゆっくりと立ち上がると、ブラッドの前に立った。
「俺たちが、お前の腕と足だ」
そして、クリスは黙って丸太の端を担いだ。それに続くように、俺も、そしてクルーの他のメンバーも、次々と立ち上がり、丸太を肩に乗せていく。俺たちは、教官の命令に、公然と背いたのだ。
マクブライドの目が、カッと見開かれた。俺たちは、彼が何を叫ぶよりも早く、七人で丸太を担ぎ上げると、ブラッドを真ん中に挟み、黙々とサーフゾーンへと向かって走り出した。
「……てめぇら……」
ブラッドの、かすれた声が聞こえた。
俺たちは、何も答えなかった。ただ、互いの体温と、肩にのしかかる重さと、仲間たちの荒い息遣いだけを感じていた。
これが、俺たちが見つけた答えだった。砕かれたプライドの破片の中から拾い上げた、本物の何か。それは、教科書には載っていない、地獄の底でしか学べない、戦友という名の絆だった。
ヘルウィークの夜は、まだ長い。
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