P.6 MISSION 6:海の洗礼

 秋が深まり、アナポリスの木々が深紅と黄金に染まる頃、俺たちの生活は、終わりの見えない灰色の日々へと変わっていた。上級生からの絶え間ない叱責、山のような課題、そして、ほとんど許されない睡眠。プレブ・サマーの激しい嵐が過ぎ去った後には、精神をじわじわと削る、冷たい長雨が続いていた。


 俺の成績は、依然として低空飛行を続けていた。図書館に籠城し、睡眠時間を削って勉強に打ち込む日々。その甲斐あってか、赤点を取ることは免れていたが、ミラーのような上位層には到底及ばない。だが、不思議と焦りはなかった。この場所で生き残るために必要なのは、必ずしも優等生であることではない。それを、俺は肌で感じ始めていた。


 そんなある日、俺たち第四学年に、初めての実践的な海上訓練が言い渡された。ヤード・パトロール・クラフト(YP)と呼ばれる小型訓練艇に乗り込み、チェサピーク湾を航行するというものだ。上級生と教官の監督下で、航海術、操舵、機関制御など、船を動かすための全てを自分たちの手で行う。


 俺とジャック、そしてミラーは、またしても同じ当直チームに配属された。ミラーが、その豊富な知識を買われてブリッジの航海士役に任命され、ジャックが操舵手、俺は監視員と補助的な役割を担うことになった。


 訓練当日。空はどこまでも青く澄み渡り、チェサピーク湾は穏やかな表情で俺たちを迎えた。YP艇は、軽快に波を切りながらアナポリス港を出ていく。ブリッジに立つミラーは、海図を片手に、まるで熟練の航海士のように上級生に指示を報告していた。その姿は、自信に満ち溢れていた。


 「コース、0-9-0を維持。次の変針ポイントまで、あと15分」


 ミラーの声が、ブリッジに響く。ジャックが、巨大な操舵輪を握りしめ、寸分の狂いもなく船を操る。俺は双眼鏡を手に、水平線に異常がないか、目を凝らしていた。全てが、教科書通りに進んでいるように思えた。


 異変は、突然訪れた。


 湾の中ほどに差し掛かった時、それまで穏やかだった空が、みるみるうちに鉛色の雲に覆われ始めたのだ。風が唸りを上げ、穏やかだった水面が、牙を剥いたように荒れ狂う。YP艇は、木の葉のように揺さぶられた。


 「スコールだ! 総員、衝撃に備えろ!」


 監督教官の鋭い声が飛ぶ。その直後、ブリッジの計器類が、ぷつりと音を立ててブラックアウトした。


 「GPS、レーダー、全てダウン! 戦闘による損傷と仮定する! 候補生ミラー、現在位置を割り出し、安全な航路を確保せよ!」


 教官による、抜き打ちのテストだった。ミラーの顔から、血の気が引くのが分かった。頼りの電子機器を失い、彼に残されたのは、揺れる船内で広げた海図と、コンパス、そして己の頭脳だけだ。


 「……風と潮流を計算し、デッドレコニング(推測航法)で現在位置を算出します!」


 ミラーは声を振り絞るが、その額には脂汗が滲んでいた。激しい揺れの中、海図上で正確な計算を行うのは至難の業だ。彼の指先が、わずかに震えている。


 俺は、双眼鏡を構え直し、叩きつける雨と波飛沫の向こう側を凝視していた。視界は最悪だったが、全身の感覚が、危険を告げていた。風の向き、波のうねり、船体に伝わる振動。その全てが、教科書には載っていない情報を、俺に伝えてくる。


 (まずい……流されている)


 ミラーの計算よりも速く、俺たちは南へ、浅瀬の多い海域へと押し流されていた。


 「ミラー! 針路を北に30度取れ! このままだと浅瀬に乗り上げるぞ!」


 俺は、ほとんど叫ぶように言った。ミラーが、侮蔑に満ちた目で俺を睨みつける。


 「黙れ、カミヤ! 俺の計算では、このコースが最短で安全だ! 貴様は監視員の仕事だけしていろ!」


 プライドが、彼の判断を曇らせている。だが、一刻の猶予もなかった。


 「ジャック! 聞こえたな! 取り舵、30度だ!」


 「……了解(Aye, aye)!」


 ジャックは、一瞬だけミラーと俺の顔を見比べたが、すぐに力強く頷くと、巨大な操舵輪を回した。プレブ・サマーの「るつぼ」で生まれた、俺たちの間の信頼関係が、ミラーの階級を超えた。


 その直後だった。船底から、ガリガリ、という鈍い音が響いた。船体が、大きく傾ぐ。


 「座礁だ! いや、違う! 船底を掠めただけだ!」


 上級生が叫ぶ。もしジャックの操舵が数秒遅れていたら、俺たちの船は完全に浅瀬に乗り上げていただろう。


 スコールは、やってきた時と同じように、あっけなく過ぎ去っていった。雲の切れ間から太陽の光が差し込み、荒れていた海は、再び穏やかさを取り戻し始めた。教官が、何事もなかったかのように計器の電源を入れると、GPSが示した現在位置は、俺が直感で感じ取った場所と、ほぼ一致していた。


 アナポリスに帰港した後、俺たちは教官室に呼び出された。ミラーは、うなだれたまま、唇を固く結んでいる。


 教官は、まずジャックの判断力と操舵技術を賞賛した。そして次に、俺に向き直った。


 「候補生カミヤ。貴様の判断は、多くの計器よりも正確だった。その『海の勘』は、知識だけでは得られない、貴重な才能だ」


 そして最後に、ミラーに向かって、静かに、だが厳しい口調で言った。


 「候補生ミラー。貴様の知識は素晴らしい。だが、それに溺れ、仲間の声に耳を貸さなかった。良い士官とは、あらゆる情報を活用できる者のことだ。それには、部下の直感も含まれる。そのことを、肝に銘じておけ」


 その日、ミラーは一言も口を利かなかった。部屋に戻る途中、俺は彼に声をかけた。


 「……悪かったな、命令を無視するような真似をして」


 ミラーは立ち止まり、俺の方を振り向いた。その碧眼には、もはや侮蔑の色はなかった。悔しさと、そして、これまで俺に対しては決して見せなかった、複雑な感情が渦巻いていた。


 「……借りが、できたな」


 それだけを呟くと、彼は足早に去っていった。


 その夜、俺はまた一人、埠頭に立っていた。チェサピーク湾の夜の海は、静寂に包まれている。今日の出来事は、俺に一つの確信を与えてくれた。俺は、俺のやり方で、この場所で戦っていける。


 鉄の階級が全てを支配するこのヤードで、俺は、自分だけの羅針盤を手に入れたのかもしれない。


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